「伝える」と言う「使命」を持つこと

先日、とあるコンサートに行きました。

出演者も演奏者も30代~40代のそろそろ中堅どころの音楽家たち。

日本歌曲からオペラアンサンブルまで、色々と趣向をこらしたメニューで楽しみました(^^)

暇になると、色々お誘いいただいてオペラよりはむしろ、コンサートに良く足を運びますが、声楽家が主体のものがほとんど。

そうすると、必然的に、プログラム内容は、軽めの歌曲から始まって、後半にオペラのアリアが組まれてきます。

今まであんまり意識せずにこういうコンサートも楽しんでいましたが、最近、どの大きさのコンサートに行っても、気になるのは空間。

つまり「音楽空間」です。

説明するのに良い言葉がないので、勝手に使っていますが、単純に「音楽が作る空間」と言う意味。

オペラやミュージカルは一番分かりやすいと思いますが、作曲家たちがそれぞれ場面に応じて、それを想像させるような音楽を作曲しており、音楽によって物語が進んでいく。

舞台上にかかわらず、人や物が立っている限り、そこにはやはり「空間」と言うものが存在しているわけで、それは無色透明の音楽であっても、聴いている方の耳から起こる「想像力」が紡ぎだす「空間」がやはり存在しています。

そのことを「音楽空間」と呼んでいるわけです。

多分、音楽にかかわらず、絵であっても、本であっても、何かしらの想像力が働けば、そこにはもう「空間」が存在していると思いますが、音楽において難しいのは、演奏者が音を出しているということに現実感がありすぎること・・・・かなと思います。

例えば、先日のコンサートなども、ご本人たちの歌や演奏は素晴らしく、お客様も喜んでいらっしゃったのですが、歌っている方も、聴いている方も、ダイレクトに相手を感じすぎていて、なんというか、距離が生まれない。

歌曲であっても、オペラのアリアであっても同じことが感じられました。

一つの原因は、演奏者たちの体内時計が速すぎたこと。

これが先ほど書いた、本人たちが音を出していることの弊害の一つです。

つまり、歌っていることや弾いていることが、演奏者自身から離れていかない。
自分たちが感じて、それを表現する確信が、杭に綱で自分の体を結んでいる安心感があるように感じる。

そして自分たちの中で起こってくる「良い声を聴かせたい」と言う誘惑や、特別感が快感となり、結局、作曲家たちの音楽を伝えていると言うことに集中せずに、「やりました!」と言う充実感で、客席を沸かせることに夢中になって演奏は終わる・・・・。

これ、随分なことを書いているようですが、才能や力量がなければ、こういう「個人の才能」で客席を沸かせることなど出来ないわけですから、皆さん、素晴らしい方々ばかりです。

ただ、本来の役割を忘れているような気がする。
これがもう一つの大きな理由。

知り合いのイタリア人ソプラノ歌手が、ある時若い人たちに、「私たちは作曲家たちの通訳だから」と言ってたことがりあました(もちろん、イタリア語で^^;)

interpritazione(今、辞書が手元にないので、合ってるかどうか不安ですが・・・・)
と言う単語は、通訳をするという意味ですけれど、これは私にも、音楽家を表現するうえで、一番納得出来る単語となっています。

彼女は歌手ですが、当然、どの分野にも当てはまるわけで、この仕事を理解してないと、ただ自己満足で終わることしばし・・・演出家であろうが、役者であろうが、音楽家であろうが、「作家」と言う存在を無視できないジャンルにかかわっている人たちには、一番大切な言葉だと思います。

しかも、「通訳」するには、相手がいる。

それが客席に座っている人たちです。

このことを、どれくらい「仕事」(お金になってもならなくてもです)、あるいは「使命」だと思って舞台に立っている音楽家が日本にはいるだろうか・・・・。

日本と限定するのは、私も経験ありますが、芸術大学において、このことを心底学生たちに指導すると言う現場を感じたことがないからです。

それと、「役割」と言う意味合いが、日本と海外では違う。

特にキリスト教を宗教に持っている人たちとは。

神から与えられた「仕事」「指名」と考えることが自然な彼らは、バッハであっても、リストであっても、モーツアルトであっても、最初から自分の名誉のために作曲などしない(宮廷作曲家を目指したことに関しては、人間の世情ですから、あしからず)。

別に私がクリスチャンだからではありません。
「伝える」と言うことを「使命」だと思えなければ、伝達芸能家は存在なしえないと思っているからです。

このことを、本当に心に銘じて、音楽家たちは存在するべきだと思っています。

さて、話は戻りますが、ではそれは音を出している瞬間だけ、楽譜の中身を演奏している瞬間だけ起こっているものなのか、というと決してそうではなく、音が止まっている瞬間にもその仕事は起こっています。

「余韻」というもの。

それは、作曲家たちが、楽曲を演奏する教会や劇場を知り尽くし、そこに残る残響をさえ、音楽だと捉えていると感じるから。

時代を遡れば遡るほど、そこは教会だったり、石の劇場だったりして、残響の役割も、長さも違う。

しかし、実質音が出ていた空間に存在して、固唾をのんで見守っていた舞台で音がふっと途切れて残響だけが残った時、人間の想像力はMAXになるのではないでしょうか?


話が偉く壮大になってしまいましたが(力はいっちゃった~^^;)
この「余韻」をこそ、演奏者が客席に与える快感として多く感じるべきだと思います。

まあ、平たく言えば、お客をもっと楽しませるには、「この次、どうなると思います~」みたいな瞬間がないと、ず~っと「正解」ばっかり提供されても、醍醐味が感じられないってことです(笑)

ば~んと演奏しておいて、ふっと声が途切れて、指が鍵盤から離れて、残響だけがふわ~っと残った時、そこにはその客席に座っている人数分の妄想が広がっているってこと。

そこを我慢できずに、音が切れた瞬間に次の音を出しちゃうと、拍子抜けになる。

「次はど~なんの~????」ってお客がジリジリするくらい、無音をScenaとして提供できるようになると、大人の演奏になってきますよね~。

この間から、30代の人たちの音楽を良く聴いています。

皆さん、20代からやってきたことを、外に向けてやっと発信できるようになってきた世代。

やりたいことも、アピールも、人一倍のエネルギーを感じる。

だからこそ、「伝達芸能家」として、作曲家たちのために、あるいは台本作家のために、自分の力量を最大限使って演奏をすることを、是非お願いしたい!

このところ、良く日本歌曲なども聴きますが、日本語なのにわからない。
言葉が分からないのじゃなくて、「詩」として伝わらない。

もしかして、「詩」として朗読してから歌うとかやったことないの?と思ったくらい、シラブルを感じることが出来なかった。

これが外国語となると尚更です。
(留学してても、です)

少なくとも、自分は何のために音楽家をやっていて、そして、どんな目的を持っているのか、それくらいのヴィジョンは、演奏を聴いてわからせて欲しい。

海外に何年行って勉強しても、日本では芸術だけで食べてはいけません。

それでも、本当に自分がやりたい「音楽」はこれだ!と心に決めて、ずっと演奏活動している音楽家たちもちゃんと存在している。

世間的には知られてなくても、自分とちゃんと向き合って、「使命」を理解している人たち。

日本で芸術を育てるのは、本当に大変なことだけど、こういう人たちがいるから、私も頑張ろうと思える次第。

次世代へつなぐために、今の30代~40代は本物の芸術家に育ってほしい。

そんな風に最近、心から思うのですね~。


さて、GWも後半ですね(^^)
今日はなんとか雨もやみそう?

楽しい一日を!
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by kuniko_maekawa | 2012-05-04 12:06 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)