「マタイ受難曲」と向き合うの巻き

今日はまた暖かいを通り越して、少々暑いような陽気ですね~(@@)

胃炎を起こして敢え無くプー太郎に戻ってから一週間。

ようやく胃痛も収まり、また新たな仕事探しにいそしむ毎日。

え~、結局新しい派遣の仕事は就業時間が変わってしまい、私の予定に合わず。

あんなに日曜日、意気揚々と教会のみんなに報告してたのにさ~(^^;)

まあ、神様がまた何かお仕事を用意されているのでしょう。焦らず探します。

とはいえ、ただ今はその神様からお仕事を頂いて、「マタイ受難曲」の39番をヴィオラの方とトレーナーレッスンをしています。

元々はオペラ歌手の方を対象にやろうと思っていたトレーナー作業でしたが、ここに至って、分野以外の方から声をかけていただくことの方が割合としては多くなってきたかも。

もちろん、回数あるわけでは無いので、比較にはなりませんけど、これはこれで面白いことが経験できています。

さて、何故に「マタイ」かというと、今教会暦では「キリストの受難週」なるものに入っています。

イエス・キリストが捕らえられ、ゴルゴダの丘で十字架刑に処せられ私達の罪を贖ってくださったことを祈る週でありますが、「マタイ受難曲」と言うのは、調度その間のことを聖書に伴ってバッハが作曲したものです。

作曲の経緯は長くなるのでここではパス(笑)。
しかし、毎年受難週になると、教会のあらゆる賛美でマタイが演奏される機会に恵まれます。

私の所属する教会には、聖歌隊とオーケストラが小編成ながらありまして、24日の礼拝がパームサンデーと呼ばれる受難日礼拝で、その時イエス様の受難を聖歌隊とオケで綴る音楽礼拝が行われます。

私も一昨年前は聖歌隊の指揮をしましたから、この音楽礼拝に参加して、改めて主イエスの受難を心に刻んだ思い出があります。

このオケの責任者が今回のクライアントさん。

そして若きバイオリニストのKさんとM君が参加して39番を演奏します。

本来ならば「マタイ受難曲」を一曲演奏したい所ですが、今回は賛美歌や聖句を混ぜて20分ほどの礼拝にしますので、その中の一曲として39番があります。

御存知の方も居るかもしれませんが、この39番はペテロと言う12使徒の一人が、最期の晩餐の時にイエス・キリストが「みな私から離れる」と予言したことに対して「絶対に私は離れません」と反論し、イエス様が「お前は鶏が鳴く前に私のことを知らないと三度言うであろう」と言う予言が成就した後の激しい嘆きの歌です。

有名な箇所なので、御存知の方もいらっしゃるかも。

本来はアルトソロで歌われる、ゆっくりとした切ない音楽です。

・・・・・・が、これが楽譜を見てみると、決してそうでない気付きがありました。

問題は歌詞。

これにはドイツ語の歌詞が付いており、概要はこんな感じ。

Erbarne dich, mein Gott
哀れんでください 私の主よ

um meiner Za"hren willen
私の涙の故に

Schaue hier, Herz und Auge weint vor dir bitterdich
私をご覧下さい 心も目もあなたの御前に激しく泣いています

この歌詞だけ読んで、バッハの「嘆きの音形(半音階で下っていくメロディーです。ロ短調ミサなど有名)」を聴いていると、ペテロの涙が悲劇に思えてくる。

でもですね、これは多分日本人的な涙と言う物に対するイメージの問題で、やはりここはヨーロッパ人(笑)。これはペテロが怒りを伴って嘆いている激しい歌詞では無いかと私は思っています。

因みに私の解釈は、まず辞書。

そこで拾えるあらゆる意味を拾って、そこから時代性、状況、作曲家がその曲を作曲した時の状態などを鑑みて、これかな~と言う言葉を探っていきます。

まず最初の「Erbarne」と言う言葉。

これは「哀れむ」と言う意味ですが、辞書的には「同情の気持ちを起こさせる」「気の毒に思う」などの意味がありました。

そうすると、主に向かって「私を気の毒に思ってください」とはっきり言っているペテロが思い浮かんできました。

そしてそれは「meiner Za"ren(ウムラートが表示できませ~ん^^;)willen」→「私の涙のために」 私を気の毒に思って欲しいと続きます。

つまり、泣いている自分を主が見ていることが前提で、ここからは私の解釈ですが、全知全能の神が自分の状態を知らないわけがないと考えました。

今泣いている自分も、理由も主が御存知でないわけがない。

つまり、イエス様を裏切る自分の行為は神様の大きな力で成されたことで、群集に捉えられたイエス様の仲間だと詰め寄られ、「知らない」と三度言って、その直後に鶏が鳴いたとき(夜明けを知らせるためです)、これが神様の御計画であったことを、ペテロは気付いた上での言葉であると思うわけです。

そして、その大きな力で御計画が進められた時、自分はこんなに苦しまなければならない事を、神様に向かって訴えている。

「Schauen」と言う単語は「意図的に目を向ける」と言う意味があります。

「Sehen」と言う、ただ「見る」と言う言葉ではなく、「Scauen」を使ったことにも大きな意味がありますよね。

主に向かってペテロが「私を見ろ!」と訴えている。

その言葉は最期の「bitterdich」、「激怒している」と言う言葉に繋がります。

激怒している。

どうしても逆らえなかった大きな力に向かって、ペテロが激怒して「私を見ろ!あなたの御計画の中に無力である私を見ろ!」と叫んでいるような絵が浮かんでくるのです。

このことを考えながらこの曲を聴くと、とても叙情的な嘆きには感じない。

事実、余りない音楽表記の中の「f」と言うダイナミックスだけははっきりと書かれています。

特筆なのは、バッハの対位法と言う物が初めて楽曲の時計軸や空間を創っている瞬間を感じています。聴いている方に、勝手に一つ一つのパーツに役割を感じることが出来る。あくまで「勝手に」ですが(笑)

今回は歌は入れずに、ヴァイオリン二つとオルガンがオケの部分を、ヴィオラが歌のパーツを弾きますが、言葉の意味を説明して、実際に音を合わせてみると、ちゃんとペテロの激しい嘆きが聴こえてきます。いや、素晴らしい。

そして、この対位法と言う、一つの和音を一辺に違うパターンで弾くという奏法によって、客観性というのもがちゃんと生まれていて、そこにこの福音書を書いた「マタイ」と言う使徒のもう一つの目を感じる。

エヴァンゲリスト(福音家)が存在していることを常に感じることが出来るというわけです。

「福音」と言うのは「良い知らせ」と言う意味です。

これはマタイと言う12使徒のうちの一人が、自分が見てきたことを書いたもの。

それをまたバッハが伝えるために音楽をつけ、福音の連鎖が生まれています。

そういう意味では、福音があり、聖書が書かれ、曲が書かれ、演奏され、聴衆の耳に福音が伝わるという、何重にも重なった客観性が感じられる。

演奏した場所も時代も今とは違う、なのに、伝わる福音は変わることがない客観性。いやいや、これぞ神の業でなくて、なんであろうか・・・(@@)

だって、今またこれに参加する4人の人たちと私で、新たな福音が語られているわけです。
それを考えると、私たちに神様が少なからず与えてくださっている「才能」というものの使い道は、「福音を伝えること」に終始すると思える。

私は、こうやって頂いた賜物を、神様のためにずっと使っていただきたい。

別に数ある「福音書」を解き明かすことだけが「福音を伝える」と言う事では無いと思います。

私という人間を使って、御言葉やイエス様のことや、それ以外の言葉であっても、何かが成し遂げられた時、それは神様の御計画が成就することになり、福音となると、心から思っています。

私の与えられた目と耳と心。

これをもっともっと沢山使っていただきたいと心から願っています。

さて、今日はこれからまた仕事探し。

でも、きっと神様が本当に私にやらせたいと思われる仕事が待っていると、思います。
楽しみですね~(^^)

以前はレッスンをすることが自分のステイタスでした。
自分を望んでいる人がいると言うことは、自分の功績だと思ってた。

でも、今は神様が私を使われることの方が大切なので、誰が私を望まれるか、お金が稼げるか、どこの場所なのか等々、まったく関係ありません。

ただ、「行け」と言われるところに言って、楽譜を読み、その時のクライアントさんと一緒にステップを上がる。う~!なんて楽しいんだろう~!(><=)

ってことで、その方とのレッスンはまだまだ続きます。
慣れないオケ譜にちょっと必死ですが、これを踏まえてまた神様が私をどこかでお使いになるでしょうから、そのことを楽しみに。

段々気温差が激しくなってきましたね~。

今日も一日頑張りましょう!
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by kuniko_maekawa | 2013-03-19 12:50 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

オペラ・レッスンのこと、演出のこと、舞台や絵画や色んなことを書きまくっています。


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