L'OPERA PICCOLA公演「結婚手形」

本日は久しぶりに若者のオペラ公演に行きました。L'OPERA PICCOLA(オペラ・ピッコラ)公演の「結婚手形」と言うロッシーニ作曲のオペラファルサです。来年やる「魔笛」に演出助手で入ってくれている山田力君が友人二人と立ち上げたオペラ団体で、なんと、製作スタッフから舞台監督にいたるまで、すべて仲間たちでやっていると言う、ちょっとオペラでは珍しい形態の団体です。通常、こう言う風に団体を立ち上げても、歌い手や指揮者、演出家までは仲間内で揃いますが、舞台スタッフまで揃うと言うことはあまり無いことだと思います。総勢20人あまり。それぞれの役割分担が良く出来ており、きちんとした舞台構成でした。
さて、この団体の主旨はプログラムによりますと、「気軽に足を運んでいただけるオペラ公演を提供する」と言うことだそうです。その、コンセプトの通り、小さな規模でわかりやすい内容。好感を持ちました。
「結婚手形」はロッシーニが19歳で書いた初めてのオペラで、通常オペラ・ファルサと言うジャンルに分類されます。「ファルサ」と言うのは「笑劇、茶番劇」などと訳され、元々は宗教劇の幕間に上演されたらしく、小1時間くらいの喜歌劇です。
ある日、トビーア・ミルと言う貿易商のところにアメリカの資産家ズルックから、書類が届きます。内容は、借金の肩代わりをする代わりに、条件にあった嫁を探してくれと言うもの。もし首尾よく見つけ出された時には巨額の手形を切るというので、トビーアは自分の娘を差し出すことにします。しかし、その娘ファニーには恋人がおり、密かに密会を重ねている。なんとかして二人を助けようと召使達も頑張りますが、トビーアは聞き入れない。そこにアメリカからズルックが到着し・・・・。と言うような話しで、なんとチマローザの「秘密の結婚」、ロッシーニ自身の「絹の階段」とまったく同じ内容。ご存知の方はそちらを思い浮かべてくだされば早いです。
結果的にはズルックと恋人達二人が和解し、ズルックの助けを経て二人は晴れて結ばれるのですが、初めて書かれたオペラにして、この完成度、そして、いい加減度(笑)。いかにもロッシーニと言う感じです。音楽は非常に軽妙で、幼さも感じますが楽しく綺麗です。彼の真骨頂であるフィナーレも音楽のテンションが高く、ここから先の作品を予感させます。しかし、リブレットは案外ご都合主義で(笑)。例えば、ズルックとエドアルドというファニーの恋人は親戚関係らしきことをにおわす台詞があるのですが、それに関しては一切触れられずに大大円を迎えます。しかし、恋人達が思い余って、ズルックを殺そうと脅すところなど、その先には無い、荒唐無稽さもあり、尚且つ稚拙さもあいまって逆に楽しかったりします。ズルックの描き方にもよるでしょうが、二幕になって和解をする時に「どういう方法で私を殺したいのかな?」などと聞いたりする辺り、案外、嫁探しに困窮しているズルックが見えたりして、なんか笑えます。
まあでも、それもこれも、今日の公演を観た上で改めて感じたことです。そう言うことをちゃんと考えられるくらい、今日の公演はきちんと創られていました。演出は、先の山田君で時代を1910年にして、現代に持ってきていますが、基本的にはリブレットと楽譜に忠実で、誠実に舞台を創っていました。結婚手形と言う、特殊な書類をテーマにして楽曲が始まる前に召し使い役の歌い手が大まかなあらすじを芝居しながら話していくことで、それがわかります。小道具の扱い方などもうまく、すべての場面に自然な流れがあって心地よく物語りに集中できました。ただ、時々詰めが甘いと感じるところが何箇所か。丁寧に創ってるだけに、もったいなかったです。
指揮は粂原裕介君。ピアノ二台をピアニスト4人で弾いていました。彼の音楽は丁寧で、舞台とのかかわりをきちんと持った音楽の創り方で良かったと思います。こう言うセッコ(詠唱とか重唱の間をつなぐ台詞の部分に音がついた物)で物語が語られるものは、音楽観として全体を繋げていくにはやはり楽曲を構築することが大切だし、どうセッコから楽曲に繋げていくかにセンスが問われると思うのですが、そこを上手に舞台と歌い手と会話してしたように感じます。ただ、時々丁寧すぎて場面と場面の間がちょっと止まってしまう感じがしたのが残念。きっと、これからもっと彼自身の音楽観が広がっていけば、彼の中のヴィジョンが見えてくるのではないでしょうか。ピアニスト達は良く弾いていましたが、全体的にもう少し積極性があっても良かったような気がします。実際のオーケストラスコアを見ていませんからわかりませんが、せっかく4人居たのですから、オーケストレーションをもっと色々使えたかもしれません。メロディを補足して大きくしているという感じに聴こえました。でも、セッコの音の入れ方や、オーケストレーションを構築して行くのはそれぞれの感覚と遊び心みたいなところもあります。これから、きっと、そう言うところも磨かれていくでしょうね。
歌い手達はよく歌っていました。特筆すべきはトビーアを歌った吉武大地君とズルックを歌った上田誠司君。吉武君は非常に良い声の持ち主で、驚きました。バリトンとしてはテノールのような明るさを持った響きですが、低い音域から高い音域まで、その響きが変わりません。元々チェンジがはっきりしてないのかもしれませんが、基本的にどの音を歌っても綺麗な響きで声が前に飛んできて不安定さが無く、加えてお芝居の感や、動きなども悪くないので、これからきっと伸びていく人だと思います。しかし、惜しむらくは常に声を出しすぎていて、色が変わりません。つまり、息の流れが変わらないので、どの場面を歌っても、顔を見れば表情はわかりますが、歌を聴いてると表情が無いということがままありました。それからイタリア語の扱いがあまりよくありません。子音が立ちすぎていて母音がつぶれる時があるので、何を言っているかわからない。これは、きっとこれからの課題でしょうが、きっとクリアにできるのではないでしょうか。またどこかで聴けると良いと思う歌い手さんです。
上田君は非常に芸達者で、細かい表情や指先や、何から何まで彼特有のセンスがあります。それもちょっと品がある。こう言ったセンスはやはり創られるものではないので、本人の感性が良いのでしょう。出てきた瞬間から場を持って行ってました。特に貴族や金持ちなどをやる時に、日本人にかけている上品さ、慇懃無礼さ、こう言ったスタイルがあるのにはびっくり。ギャグセンスも悪くなく、楽しみました。しかし、彼も惜しむらくは音楽が弱い。声も良い声だと思います。もう少し音楽を自分で創るということが出来るようになると、今の持っている感性とあいまって素晴らしいオペラ歌手になるのではないでしょうか?つまりキャラクターを立てるのをリブレットからではなく、音楽からできるようになるとすごいと思うのですが。今のままでも勝負できる場所はあるでしょうが、もっとレベルを上げるために、まだ使ってないところに早く気づいてそこを使えるようにすることです。アジリタ(早い音形のフレーズです)もよく回ってましたし、声の色も好きですし是非頑張って音楽もセンスもある歌い手になっていただきたい。その可能性を十分に持っている人だと思いました。
それにしても、彼らのほとんどがまだ学生です。これからこの人達がオペラ界にデビューして、新風を巻き起こして行くのはそう遠くないことかもしれません。こう言う公演を観るたびに、今、中堅どころにある私達の役割を、改めて考えさせられます。いずれにしても、この人達が歩く道を繋げていくことが私達の仕事であることは、確かです。少なくとも、追い抜かれないように頑張らないとね・・・(^^;)色んな刺激を受けて楽しめた公演でした。
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by kuniko_maekawa | 2005-07-29 20:59 | 観劇日誌 | Comments(0)

オペラレッスン・朗読編

本日も暑い中、一人レッスンを受けに来てくれました。それにしても練馬はどうやら東京で一番暑い地域らしく、今日も33度を越えているはず。
さて、その暑い中来てくれたレッスン生は、今年からうちに来始めた人で毎週通ってきます。私のところに来る人たちが色んなパターンを持っているのはお話しましたが、大きく分けて彼女のように毎週か隔週で通ってくる人と、オペラ公演やオーディションの時に準備のために来る人。この二つです。後者の人達は目的がはっきりしてますから、特に準を追って何かをすると言うことをしませんが、前者の人達は、長期的に勉強して行くプロセスを考えます。ですから、内容が全然違います。何をしているかと言うと、自分のやりたい、あるいは今現在やったほうが良いと思われるオペラ作品を決めて、その中のやりたい役を勉強していきます。それと同時に、芝居の台本を読むと言うことを必ずやります。いわゆる「朗読」。
これを言うと、大抵皆さんは、お芝居の勉強のためにそうすると思われるのですが、それとは少し違います。私がやりたいことは、まず、日本語を正しく発語すること。それから、日本語の知識を得ること、最後に日本語での想像力を豊かにしていくこと。この三つ。もちろん、付属物として台詞の捕らえ方だの、感性を磨くだのと着いてきますが、それはまた別のことです。
私達は日本人ですから、母国語で物事を考えます。長く海外経験があり、その国の言葉がネイティブに使えるようになれば、夢もその言葉で見ると言いますから、そうなれば違うでしょうが、どんなにイタリア語が出来ても、英語が出来ても、多分頭で考えるのは日本語だと思います。
ましてや、一々辞書のお世話になっている我々ですよ、絶対に思考回路は日本語です。だとしたら、日本語の想像力ってものすごく大切なんじゃないでしょうか?つまり、対訳でリブレットを読むにしても、訳詩で歌うにしても、単語を調べてその意味を解釈するにしても、日本語のボキャブラリーと想像力が無ければ、それ以上膨らますことが出来ず、ただの文章で終わってしまうのです。
加えて日本語は目で想像出来る象形文字です。見ただけでその漢字の意図するものがわかりますよね。「結婚」婚姻を結ぶ。「血族」血の一族、「愛撫」愛情をもって撫でる。どれも口で説明しなくても、目で理解できるものです。それゆえに私達は何も考えずに日本語を扱いすぎです。
と、言うことで私のところでは必ず芝居の台本を読むことにしています。しかも、勉強してくることは自由ですが、敢えて読み込ませると言うことをしません。私の前で初めて台本を開いて、いきなり読み始めます。そうすることによって、どれだけ言葉を目で追えているのかわかりますし、何より、語感が鋭いか、そうでないか、読み手としての欲求があるかないか、そう言った事がはっきりとわかります。だいたい、みんな一通り読んでは行きますが、大抵は棒読みです。抑揚が無い。もちろん、内容も詰めてませんから、そこのある文章は「本の内容」で終わってしまいます。しかし、時には語感が良く、読むのも好きだという子がいて、そう言う子はいきなり台詞として扱えることが出来ます。うまい、へたと言う前に、言葉にリズムがついてくる。これを私は「音」と捉えています。例え、日常喋っている言葉でも、口から発される限り、それは「音」を伴って出てきます。その「音」を探すのが、朗読をしている場合、非常に難しいらしいのです。
私達のやっていることは、体の機能をいかにして使っていくかです。何故、喋っている時はちゃんと抑揚がつくのに、読むとなるとまったくの棒読みになるんでしょうか?きっと、まだ使っていない、或いは気づいていない能力が一杯あるはず。加えて、想像力が無いから、それと伝えると言う欲求がない。そして、目で見つけた漢字の情報に乏しい。う~ん・・・・(^^;)
年に一回秋口に「朗読会」と言うものを催します。昨年もやりましたが、この時はシェークスピアの「十二夜」と言う作品を読みました。私と一緒に、言葉の「音」を探して行った結果、実際のお客様にそれがどれだけ伝わるかと言うことを試すためです。ですから、台詞も持ったまま、方向性だけつけて、動きません。ほんとに読むだけです。
今年も11月下旬には行おうと思います。お題はシェークスピアの「リア王」。ご興味がおありの方、是非、いらしてください。それとも、参加なさいます?
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by kuniko_maekawa | 2005-07-28 15:26 | オペラ・レッスン | Comments(1)

演出家2

先の記事では演出家たる仕事の話を書きましたが、演出プランって、どう考えていくものなのでしょうか?こう言うのも、ちょっと面白いでしょ?
とは言うものの、これこそ千差万別、十人十色。それぞれ演出家によって、全然違うと思います。作品のことをしらみつぶしに調べ上げ、知識から理論的に構築する人、まったく何も考えずに稽古場に来てからいきなり作り出す人。プランナーとの付き合い方も、面白いくらいに違います。私は、努力半分勢い半分、みたいな人です。ま、言ってしまえばいい加減って感じですが(笑)。元々勉強するのが好きでないので、若いときは感性があれば良いやと高をくくっていました。それで「写真館」にもアップしてある「蝶々夫人」のころなどは、音を聴いて、思い浮かべた絵を作ったりしてました。なので、その頃はヴィジュアルの方が重視され、映像的感覚が強かったですよね。ところが、その後運命的にわが師匠と出会って、その稽古を見てから、目から鱗。今までの私はアホだった。ということに気づいちゃいました。まあ、何に気づいたかと言う事は、書き出すと長くなるので、次回にしますが、とにかく、感性一発では勝負が出来ない。楽譜を読む力が無ければオペラは演出できないと言うことに気づいたのです。
それがわかってから、私の演出プランの考え方は、大きく変わりました。もっとも、うちの師匠は「しらみつぶし派」ですし、あの頭の良さには勝てませんから、同じことは出来ません。加えてリベラル派でもあり、キャッチボールが最高に上手です。
私は、語学力に自信がないこともあり、まず作品をいただいたら、素直に楽譜を調べることからやります。つまり対訳を書き入れ、辞書を調べる。しかし、この辞書引きにこだわりがあります。
普通対訳を書き入れている時も大抵はイメージが膨らんできますので、思いついたことを楽譜に書き入れていきますが、辞書を引くと、単語のイメージが一気に倍以上ふくらみ、もっと具体的な絵が見えてきて来ます。ですから必ず一つの単語ではおさめません。最低でも10個。再起動詞や、他動詞、比喩、古語、詩的な使い方、単語のイメージだけで演出プランを立ててると言っても過言ではありません。その時点で楽譜は真っ黒(笑)。それから、音を流して楽譜を読みまくります。これは、一番インスピレーションを感じる瞬間で、作曲家の意図を解釈すると言うよりも、共同作業しているような感じがあります。それをやりながら、さらに絵を描いていってから、音を離れて具体的な演出プランを作っていきます。そのときは、逆に音を聴かずに楽譜を読みます。それこそ音楽記号や表記やすべて私にとってはト書きですから、その理由からたちを考えていくのです。そしてさらに音楽を聴いていく。
。こんなことをやってると、なんでも出来そうですが、苦手な作品はあります。特にブッファ系。ロッシーニ、ドニゼッティ、本当に苦手です。だって、音楽があんなに楽しいんですよ、演出が何をするですか、本末転倒。それに、私は外側の勉強が苦手です。歴史的背景、衣装、小道具、そう言う具体的なもののことになると、知らないことが多いですから、図書館などに走るわけですが、必要な資料はあまり多く読みません。私の単純な頭はそうすると想像力をなくしてしまい、薀蓄大魔王のような稽古に成ってしまうので、知識は少しで良いです。せめてプランナー達と話し合うときくらい。後は、ちょっと目の端に止めた写真や絵のイメージを膨らませていきます。なんだか思考がイメージ一辺倒なのです。こう言う理由で、私のヴィジュアルが弱いんじゃないかと言う不安が出てくるわけです。勉強しなくてはいけないと言うのではなく、タイプ的に感性でしか物が考えられないのに、センスがないって言う(笑)。
それはともかく、そんな風にして演出プランは立てますが、コンセプトの要となるのはやはり人間関係。私はわりと、「一番良い人と悪い人」「親子と恋人たち」と言う風に、グループ分けをして、線を引きます。どことどこが同じグループで、どことどこが反目してて、みたいな。そうすると、案外面白ラインが見えてきて、方向性ができるときもあります。メッセージ性はあまり好みませんので、大きなテーマは考えません。枠が決まるのは、どうも苦手で・・・・。
こうして立てたプランは稽古場でもどんどん変わっていきます。もちろん、相手が人間ですから、出来ることと出来ないこともあるし、何より彼らからの投げかけが私の持っているものより面白いこともしばしば。しかし、それをもらわない手はありません。そうやって新しいものが生み出されると、より良い作品が出来上がります。
確かに、こうやって作品を解釈し、作り上げていくことは本当に楽しいです。しかし、それはあくまで作曲家の意図に基づいて、尚且つ自分の色を無くさずにお客様を楽しませる。並みの感性ではやってはいけない気もしてるのです。私の友人曰く「演出家も歌い手も周りが育てるものだ」そうで、こちらがその気は無くても、周りがそうだと思えば、そうならざる終えないのですって。そうかもしれません。と、言うわけで最近は抗うのはやめて、演出家を名乗っているのです。
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by kuniko_maekawa | 2005-07-25 13:25 | オペラなお仕事 | Comments(0)

演出家

本日は(7月24日)演出家「前川クニコ」のお話し。
って言っても、たいしたことはありませんが、来年の1月22日に千葉の旭市で「魔笛」を演出します。東総文化会館というホールが主催で行う自主事業ですが、地元の文化活性をオペラでと言うことで、地元の方々100人集まって、合唱団を結成。キャストもオーディションで選ばれ、今日はその結団式と言うものに指揮の佐藤宏氏とともに参加しました。
結団式と言うのは、最近良く地方オペラでやりますが、顔合わせですよね。キャストと合唱団、制作、それぞれが顔を合わせてご挨拶をし、その後練習をしたり、食事会になったり色々です。私も佐藤氏もご挨拶をし、その後、スケジュールのこと等こまごましたものを話し合い、3時間くらいで東総を後にしました。
さて演出家がどんな仕事をしているのか、皆さんご存知でしょうか?主な仕事は作品のコンセプト(全体の構成や、方向性)を決め、それを形にして行くことですが、実際には、どうやってそのコンセプトを舞台上で形にして行くのでしょうか。
まず依頼が来ましたら、プランナーを選出します。舞台美術、衣装、照明、必要なら振付家。それからキャストをオーディションで決める場合は、そのオーディションにもちろん参加します。
コンセプト、キャスト、具体的な各プランが出たら、何より重要なお仕事である稽古が始まります。この「稽古場」をいかにうまく回していくかが、演出家のもっとも重要な仕事です。ここには、もちろん演出助手もいますが、彼らの仕事はもっと具体的なことです。稽古場の時間と流れを管理していますから。演出家は管理はしません。そう言う意味ではなく、心理的にどう稽古場を作るかと言うことです。歌い手や稽古場をどう扱って、自分の持っていきたい方向に引っ張っていくか。これが出来ないと演出家としては、まず8割がた成立してません。後の3割りは現場での人間関係をどれだけ円滑にできるかです。演出家は内容だけが良くても、認められません。何故なら、彼らの持っているコンセプトは、自分だけでは形に出来ず、必ず人を介してでないと表現されないものです。ですから、どれだけその人達を自分の方向にもっていくかが重要です。スタッフ、制作、歌い手、あらゆる人や、出来事に気を使い、現場をまわしていきます。そうしていながら、すべてのことに対して責任を持たなければならない。ここが大変な仕事だと、いつも思います。なにせ、お弁当がいるかいらないかに始まって、舞台上の大きな構成まで、聞かれることと言ったら千差万別。それにすべて答える忍耐と度量がいります。そして、出来上がったものは良くても悪くても自分の責任。カーテンコールが嫌いになるわけです(笑)。
もちろん団体の大きさによって、やる仕事は減ったり増えたりしますが、決断を常に下すのは同じこと。そうやって人を使っていく能力があれば、結局は、自分の創りたいものを叶えてくれると私は思っています。と、言うわけで今日も一杯答えを出してきました。それもこれも自分のやりよいように、加えて団体にも心地よく、多分、この感じで頑張れば公演も大成功!を想定して(笑)。
私は、中々演出家だと自分の口から言えない時期がありました。作品の内容を解釈することは好きだし、自分でもある程度の自信は持っているのですが、舞台を魅せる能力が欠けているような気がしているのです。つまり、センスが無い。どうしても、そこに自信がもてない。今回は、そう言う意味でも、久しぶりに各プランナーがそろった公演でもあります。この公演をやりこなしたら、少しは演出家としての自信やプライドも育ってくれるだろうと期待して、これからコンセプトを考えていきます。また、途中経過を記事にしますね。ドキュメント「演出家はこうやって創られる」ははは・・・・・(;;)
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by kuniko_maekawa | 2005-07-25 01:44 | オペラなお仕事 | Comments(0)

音楽用語

近々オーディションがあるために、今週はレッスンウィークでした。ありがたいことです。通常、レッスンは5段階くらいに分けますが、オーディションみたいに、はっきりした範囲と、その仕様がわかっている場合、必要に応じて2回くらいでオーディションのための準備をします。
今回は演技つきだということで、楽譜を一通り読んだ後に、実際にピアニストをお願いしてレッスンをしました。しかし、演技付きと言っても、相手がいるわけでもなく、特別な役以外は任意のアリアを歌うことになっており、みな、一生懸命考えてきていたのですが、どうにも形になりません。それもそのはず。まず、音楽の構築がなされていないからです。つまり、歌い手の中で、テンポであったり、感じ方であったり、いわゆる音楽観がないと、どんなに形をつくっても、あて振りのようになってしまいます。理由が無いからです。
では、どうすればいいのか。そこを助けてくれるのが、音楽表記記号です。音楽をあまり知らない人でも、ピアノやフォルテはわかりますよね。少しピアノとか習っている方は、アッレグロやアンダンテなど、お聞きになったこともあるかもしれません。これらがイタリア語だってことはご存知でしたか?と、言う事は、この表記もただの記号ではありません。ちゃんとしたイタリア語の意味を持っています。
例えば、アンダンテ(andante)。音楽用語では「歩く速さで」とか「適度にゆるやかに」などといわれていますが、イタリア語の辞書を引きますと、「平凡な、並みの、やや劣った、出来の悪い」などの意味が乗っています。レント(lento)は?音楽用語としては「遅く、ゆっくりと」ではイタリア語では?「遅い、ゆっくりした、のろい、かんまんな、ゆるんだ、しまりのない」こんなに色んな意味があります。どういうことを言っているかといいますと、これも、れっきとした作曲家の言葉だという事です。しかも、これらは当然オーケストラの部分にも、歌の部分にも書いてあり、その音や、リブレットにこう言った表記を加えて、そのときのシチュエーションや感情を作っているわけです。皆、これを随分見落としているのです。
こう言った作曲家のサインは、楽譜の中の随所に散らばっています。例えば、プッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」に「私の愛しいお父さん」と言う有名なアリアがあります。恋人との中を裂かれそうな娘が父親を説得する歌ですが、この曲の最後の方で「もし、彼を愛することが無駄だと言うなら、ヴェッキオ橋から身を投げる、この悲しみに苦しめられるくらいなら神様、死を望みます」と言う歌詞があります。楽譜ではその「o Dio!vorrei morir!(神様、死を望みます)」を歌い終わったらオーケストラにメロディが渡されるのですが、そこにリンフォルツァンド(rinforzand)と言う表記がされています。これはリンフォルツァーレと言う単語の現在進行形で、「補足するとか、建物を強固にする、元気にする」と言う意味があります。つまり、その娘(ラウレッタといいますが、)の気持ちをさらにオーケストラが「強固」にしていくのですね。そう言う風に、解釈していきます。プッチーニなどは、本当に、良く、記号を書いていますから、これを見落とすと案外、気持ちだけで作ってしまって、結局テンポが崩れたり、うまく構築できなかったりするのです。
今日、レッスンをした人達も動くことではなく、音楽を創る事から、方向性を決めていきました。実際に楽譜の中にあるサインを見つけて、それを具体化させていきながら、歌っていくと、何もしなくても、場面が成立されていきます。後は、歌っていけばいいんです。
感情的なことを作るのは大切。でも、何よりも作曲家の言葉は、神様の啓示。それを使いこなせることが、どれだけ自分を助けるか。少しずつでもいいから、楽譜の中の情報を読み取っていけるといいのですが。
今日レッスンした人達は、みな、ある程度の声を持っています。それを膨らませて行くのはどれだけ、音楽を作れるようになるかということにかかっています。頑張って欲しいです。皆、良いオペラ歌手になる資質を持っていますから。
そうだ、もし、これを読んでいる歌い手の方がいらっしゃったら、クレッシェンド、ディクレッシェンドを上手に扱えるようにしてください。クレッシェンドはただ声を大きくすることではなく、音楽を拡げることだと思います。ですから、一番大きいところが問題ではなくて、そこに行くまでの息の流れが大切ですよ。ディクレッシェンドも同じ。ただ小さくして行くのではなく、やはり息の流れを小さくして行く。そう思ってください。そうすれば、音楽観が、ぐんと広がりを持ちます。お試しあれ!
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by kuniko_maekawa | 2005-07-23 01:28 | オペラ・レッスン | Comments(0)

メンタル・ケア

オペラレッスンをする際に一番重要なのは、実は精神面でのサポートです。いわゆるカウンセリング。特別に、時間をつくってやるわけではありませんが、なるべく話を聞く時間を多く取っています。
人間は何時の時代も悩みを持っています。それは、若くても、私の年になっても同じで、不安がいつも付きまとい、クリアできたと思っても、また新たな不安が出てくる。きっと一生こう言うことを繰り返していくんだと思いますが、芸術と言うものは、基本的に心が「豊か」であることが絶対条件です。綺麗な絵も、美しい音楽も、バレエも、己の精神が豊かでなければ良いものが出来ません。どこか心がすさんでいたら、そう言う音楽や絵になってしまいます。しかし、所詮は人間。そうありたいと願っても、無理と言うもの。それで、できるだけその不安を吐き出せるようにしているのです。
だからと言って、「話せ、話せ」と言っているわけではなく、レッスンの始まりにその日の調子や、演奏会の感想などからはじめて、終わったらまた話していく。たまには食事をしたりすることもありますが、私のところには、色んなタイプの人とレベルの人がくるので、その人の様子を見て、どう対処するかを決めていきます。でも、解決はさせません。つまり、答えは出さないのです。話を聞くだけ。
例えば、若い子達は大抵、今の自分が、どんなに駄目かを語っていきます。反省大大会(笑)。いつもいつも、わからないことだらけで、答えも出なくて、でも、結果が欲しくて苛々します。周りが自分を認めてくれてない感じもしてる。それは、すべて、「自分が出来ないからだ」ってことで話は終わります。これだけ読んでると、ただの愚痴みたいに思えるでしょうが、この大反省は彼らにとっては非常に必要なことです。彼らは「駄目だ」ということで、安心しているのだと私は思っています。多分、本当はもっと駄目じゃない自分をわかっているのではないかしら?だけど、思ったように出来ない。先生の言うようにはならない。だったら、変な自信を持つより、駄目だと言っていた方が楽ですよね。「なんで、出来ないの?」「あたし、駄目なんです」みたいな・・・(笑)。だから、答えを出さずに、ただ聞いているだけで良いんです。そのうち「駄目だ」と言い続けて満足したら、「でも・・・・」って。「でも、考えてもしょうがないんですよね、出来ないから勉強するんですもんね」って、今の自分で大丈夫だったと、気づいていきます。そして「やっぱりオペラを続けたい!歌うのが楽しい!10年頑張ります!」と意気揚揚と帰って行く(笑)。
どんな世界でもそうでしょうが、極めようと思ったら、強くあらねばなりません。それも、ものすごく。そうでなければ、何十年も死ぬまで自分を高めようなんて思い続けられません。しかも、何度もお伝えしているように、すぐに結果が出る世界ではない。生涯、認められないかもしれない。自分の志のために、一生、勉強して行くこの世界で、不安をもたないはずがありません。
この自分と戦って「豊かさ」を保つために、精神的なケアは絶対に必要となってきます。私の友人の中には、そこまでするのは甘いと言う人もいるのですが、私は、甘えるのも豊かさの一つだと思っています。人に対して心を開くことができるなら、そこから感情は広がっていくはずだと思っているからです。それに、本当に「甘える」ことと、「心を開く」ことは全然違います。いわゆる「甘い奴ら」はまず、オペラレッスンなんか受けずに、もっと近道していきますよ。にこにこと甘えながら・・・。
そう言う意味で、私は「甘やかす」のは嫌いですが、「甘えられるの」は好きです。その時、私を信用して、心が全開になるからです。そして、こちらの言うことを素直に受け取っていき、元気になっていくのが嬉しいです。私のレッスンの時間が終われば、彼らはまた一人でこの不安に立ち向かっていく。でも、ここにくれば、少なくとも片意地は張らなくてもいいし、心を開いた状態で、オペラと向き合える。そのことが大切です。
私のところに最初に来た時に、今までの経緯を聴くのですが、良く厳しい歌の先生の話を聞きます。口の中に手を突っ込まれて血が出たとか、喉が切れたとか、怒鳴られるとか、叩かれるとか。でも、音楽を勉強するのに、どうしてそんなことをしなければいけないのでしょうか?私には理解できません。叩いて出来る様になるなら、みんな歌い手になってる(笑)。怖がって歌ってて、いい歌が歌えるとは思えません。
基本的にトレーナーは、依頼者と常に向きあうことが大切です。依頼者の精神状態に沿って、良い状態を作り出してあげて、役を創る作業に集中させてあげる。こちらも、相当人間の器を大きくしてないといけないですね。もちろんそうできるように、私も日々、己を豊かにするために引き出しを一杯溜め込んでいます。何にせよ、楽しいのが一番ですからね!
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by kuniko_maekawa | 2005-07-21 18:32 | オペラ・レッスン | Comments(0)

助演と言うお仕事

「稽古場」に参加してくれた押川君と、稽古中に色々話していたときに、助演と言う立場になると、積極性が出ない、と言うことを言っていました。「助演」と言うのは、研究生機関や大学院などで、声部が足らないときに、外部や卒業生にお願いして、足らない声部の役をやってもらう人のことをいいます。大抵は男声です。これはバレエなんかもそうですが、音楽人口の中で声楽における男声の数は、女声に比べると圧倒的に少ないです。3倍くらい違う。それで、だいたい研究生などのクラスを見ると、男がいないか、居ても一人とか、後は実力が無いとか、そんな感じです。それに比べて女性は倍近くもクラスに居るわけですから、少数でまかなえるわけも無く、そこに登場してくるのが「助演」です。演奏を助ける人達。
さて、この「助演」探しは中々難しいです。声部は単純に、足らないところを探せばいいのですが、誰でもいいわけじゃない。まず、きちんと歌えることが大切です。研究生のサポートに回るのですから、研究生以下の実力では話になりません。それなりの声と、経験が要ります。それから、人間的なことも大きな条件の一つ。出番があってもなくても、授業にいるのが必須ですから、出席ができる人でないといけません。相手が何も知らない研究生達ですから、その子たちを受け入れる器も必要。いちいち苛々してたら話になりませんから、我関せずでいて、尚且つ自主稽古等、研究生達の悩みや演技指導も時には必要。なるほど、こんな状態では消極的にならざる終えませんよね。しかも、助演は出来て当たり前、講師陣はほとんど研究生しか見ていませんから、ある程度、音楽や役も自分で作ってこなければ仕事になりません。それについては誰も手を貸さない代わりに、ちょっとでも出来てないと、白い目で見られる・・・・感じがする(笑)。
最近は色んな都合上、研究生を修了して、すぐに下の学年の助演に入るというパターンがほとんどです。ですから、今まで受ける側だったのがいきなり与える側になり、彼らはストレスの塊になります(笑)。気持ちはわかりますねえ・・・。大変だろうと思います。演目も多く持たされるし。
他の講師の方々がどうかはわかりませんが、私は、助演と稽古をすることを信条にしています。何故なら、助演は「安心材料」であるべきだからです。
どう言うことかといいますと、もちろん研究生より実力が上と言う事は絶対条件としても、だからと言って、教えることなんて、この世界ではありません。経験上、知ってることが多くあるだけで、それは個人的な知識だからです。それに、助演自身もこれから世に出る若い歌い手がほとんどです。研究生達と経験やレベルにそんなに差があると言うわけでもありません。でも、彼らがやらなければいけないのは、「稽古が出来る」と言うことを研究生に感じさせることです。
何故、彼は演出家の要求をこなせるのか、指揮者の音楽を理解できるのか、何より、楽譜が良くわかっているのか。助演だから、当たり前と思っているようでは、そのクラスに発展性はありません。講師陣と対等に稽古をして、稽古場を成立させられることが、なぜ、自分達には出来ないのか、何が彼らと違って、足らないのか、それに気づかなければ、研究生たちは育ちません。そう言う意味で、私は助演と一生懸命稽古をします。そして、ある期間内で確実に変わっていく助演たちを研究生に見せたいといつも思っています。
中々これをわかってもらえるのには難儀します。先の押川君のように、助演さん達は研究生の学費を無駄にしちゃいけないと、授業の邪魔にならないようにしようとしてくれるからです。でも、本当に大切なのは、助演が稽古場に自分をさらけ出して、「煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」とまな板の上の鯉になってくれることなのです。
と、言うことで、世の助演さんたち、これをお読みになられましたら、次回の授業から、暴れてください(笑)。もっとも、やりすぎたときの責任は一切負いません。こんなこと言ってるから嫌われちゃうんですよね~・・・・。
でも、そうやって経験値を上げていくのが助演をやっているメリットです。そうは言っても、望んでもこう言う機会を与えられない人がほとんどなんですから、是非、良い稽古をして欲しいと思います。
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by kuniko_maekawa | 2005-07-21 00:34 | 歌手 | Comments(0)

稽古場最終日

本日(7月19日)は「稽古場Vol3。Don・Giovanni」の最終稽古日でした。前回の、党主税、押川浩士両氏に加え、エルヴィラに関口晶子さんが参加。彼女は今年日本オペラ振興会の研究生を出たばかりの歌い手さんで、藤原歌劇団の準団員です。実は、今回、エルヴィラは参加予定者が急遽降板し、まあ、男二人でも相当やるところがあるので、稽古をしないつもりだったのですが、ちょうど彼女が他の日の「稽古場」を見学に来ており、やりたそうだったので、「やる?」と振ってみたら、「やる!」と。それで、今日に至ると言う感じになりました。今年の「稽古場」は、こう言うことも違います。よっぽど、私の頭が柔らかくなってるのか、今までは、こう言った棚からぼた餅的なことは絶対にせず、「稽古場に乗る条件は、ある程度のレベルと、すごくいい状態であること」と言うことをものすごく押していました。例えば、この「稽古場」は仕事ではありませんから、参加者は他に仕事をやっています。「稽古場」をやることによって、本来の仕事に支障がきたすことは言うも及ばす、「稽古場」自体でも、集中力の無い稽古は絶対に嫌で、それが出来ないなら、乗らないで欲しいと思っていましたし、事実、そう言うことが原因で起こした「稽古場」をキャンセルしたこともありました。せっかくお金を出すのだから、クオリティを下げたくないって思っていましたから。今年は、いろんなことが真逆です。
私自身も歌い手達もピアニストもとにかく忙しく、たった4日間しか稽古日が取れなかったし、稽古の前後でみんな他の稽古をやって、稽古場に参加してたし、関口さんみたいに、ふっと冗談からコマみたいにして、歌い手に参加を募ったりと・・・、今までの2回では考えられませんでした。私自身も、今回の稽古に関して、すごく力が抜けており、良い意味でいい加減(笑)。今までは参加してくれた人達に対して何かを返さなきゃいけないとか、自分にとっても何かを得なきゃと、一生懸命でしたが、3年目の今年は、また新しい方向性が見えたような気もします。
稽古自体は、前回と変わらず、面白い稽古でした。関口さんも、初めてこう言う稽古に参加すると言うプレッシャーを持ちながら、頑張って何かを生み出す努力をしてくれたし、何より、男声二人が、良い。今日の場面は読み方によっては如何様にもなる、という部分が多く、何かに引っかかると、ちゃんと立ち止まって場面を構築し、また方向性を膨らませていく。16日にやって、お互いの息がわかってきたのか、刺激の受け方が全然違って面白かった。さすがに、こう言う作品になると、時として私の頭も真っ白になるので、そこを逆に彼らによって心地よくつつかれました。そして、何より良かったのは、この3人のレベルが各々違っていたと言うこと。そう言う意味では、関口さんとの稽古は、まだ彼女が党君や押川君に比べれば、経験値が少なく、未完成な部分が多いので、観た感じでは明らかに、レベルの差はあります。党君と、押川君の間にも、経験値の差は歴然とある。それでも、なんだかこの3人は苛々することも無く稽古してるのですね。私自身は、正直苛々してました(笑)。やはり、こう言う稽古をしているとキャッチボールができるが出来ないかが非常に大きいので、こちらの投げたことで空間が動かないと、なすすべがありません。本人は一生懸命でも、受ける器が無ければ、どんなに投げても帰ってくることがありませんから。でも、稽古は続いていく。後で、党君にその話をちょこっとしたら、彼は稽古場代を出した分だけ、自分が得たいものが得れれば良いんだと言ってくれました。つまり、彼はDon・Giovanniと対話できれば良いんですって。多分みんなそうなんでしょうね。だから、どんなレベルの人が相手でも、それで、稽古のクオリティが下がると言うわけではないと。うーん、納得。私は私で、こう言う稽古をどう回せるかを見極める目と耳と判断力を養うべきだと思いました。
こうやって、また新しく「稽古場」も発展していきます。出来ればもっと回数を増やして、場を増やして、色んな歌い手さんと、ピアニストと稽古をしたいと切に思います。今年もまた、色々考えさせられる「稽古場」となりました。見学に来てくれた人達も、何を感じて行ったのか・・・・。少しでも、今の自分と照らし合わせて、どこかが刺激されてればいいなと思います。参加してくださった皆さん、ありがとうございました。
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by kuniko_maekawa | 2005-07-20 01:58 | 稽古場 | Comments(0)

演出助手

私はトレーナーや演出家に至るまでに、「演出助手」と言うセクションでずっと仕事をしていました。今も、多くはありませんが、特定の演出家のお仕事だけはやっています。
簡単に言えば、映画における助監督のようなもので、演出家のアシスタント作業なのですが、こう言う仕事もあまりお聞き及びでないでしょうから、ちょこっと紹介。
公演団体から依頼がきて仕事が決まると、まず、やらなければいけないのは、出演者の出欠表を元にした、スケジュールつくりです。これによって、稽古内容が決まり、実際の稽古日も捻出できるのですが、これが手がかかる面倒くさい仕事です。なぜかというと、日本の歌い手さんは必ず他の仕事(歌以外です。学校の先生とか)を持っているか、公演を何個も重ねてお仕事してるので、全日出席なんてことは、ほぼ不可能です。これは女声も男声も、レベルの高い歌い手さんであればあるほど、そうなります。男声は100%そうだと言っても過言ではありません。絶対量が少ないので。それで、とにかくルービックキューブの色合わせのように、出欠席を照らし合わせて、日程を出していきます。
しかし、この状態は、あるい程度しようがありません。なぜかというと、日本ではオペラ公演だけやっていても、食べていけないと言う現状があるからです。今は新国立劇場などもあり、ある程度の場所と報酬を得ることはできるかもしれませんが、年間の公演数と出演者の数を考えると、すべての歌い手にいい条件ではありません。何らかの食べる方法をもっていなければ生活できませんから、そのことについてはこちらも譲歩しています。スタッフも同じですからね。しかし、引き受けているのですから、何とかしてもらわなければいけないし、こちらも稽古を組まなければいけません。それで、「交渉」と言うものが必要になります。「こう言う条件を出すので、譲歩して欲しい」と。例えば、「2回お休みを上げますので、是非、その後の3回をください」とか。
これも、若いときは大変でした。こちらも、駆け引きがわからないし、歌い手さんはみんな自分より年上で経験がありますから、まさに、海千山千。言い過ぎても生意気だと怒られますし、言わなきゃ稽古が出来ないし。良く悩んでましたね~。最近は、すっかり経験値だけは上がって、少々のことは怖くなくなりましたから、歌い手さんに苦手がられていますが(笑)。
さて、そんなことをやりながら、演出家と他のプランナーの打ち合わせが始まります。この打ち合わせの前に、しなければいけないこともあります。
まず香盤表。これは、演出家が出すことも多いですが、大抵は先のアシスタントの方で、楽譜に添ったものを出します。簡単に言えば、「出ハケ表」です。つまり、誰がその時舞台上に居るかと言うことを表にしていきます。オペラの場合は、裏歌と言って、舞台袖で声を出すと言うものや、コーラス、バレエと登場人物と場面も多いので、知らない作品だとやっぱりあたふたします。それを元に打ち合わせが進んじゃったりしますから、特に衣装関係などはそうです。ですから、稽古が進んでいくと、改めて「衣装香盤表」と言うものも作ったりします。打ち合わせ以外でも、資料を探す、衣装を観る、こう言うことをやりつつ、やっと本稽古に入ります。稽古における演助の仕事は多種多様。基本的に、演出家の言ったこと、動き、そういったことを記録していき、休んでいた歌い手さんとか、演出家が居ない時の稽古を代行したりします。それから、稽古の進行を見ながら、先のスケジュールを決めていき、またもや交渉。音楽スタッフとも、稽古をしながら、音楽が弱い人に関しての相談や、コーラスが居る場合は、合唱指揮者が居ますから、動きを見てコーラスの声や、位置に問題があった場合は、これまた交渉。それから、稽古には、舞台監督という人が全体の大道具的なことや、稽古場の仕切りをしてくれるのですが、彼らと、稽古の内容や、舞監助手達とのきっかけの合わせ等。とにかく、やることは一杯あります。しかも、文句は言われ放題(笑)。言ってしまえば、乳母やのようなものです。いつもにこにことして、物言いも穏やかで甘えやすく、けれどきちんと叱ってくれて、しかもお料理、お洗濯、お掃除、すべてが完璧。そんな乳母やにあったことありませんが、とにかく、そう言うセクションなのです。
私は演出助手をやり始めて、早17年目に突入。最初は、鼻っ柱だけで、何にも出来ませんでした。それでも、自分の目で見て判断すると言う能力と、変な度胸だけはあったらしく、わけがわからなくても、走り回っていました。ほとんどが勘で・・・。こう言った仕事は職人と一緒で、見て覚えていきます。ですから、良く失敗もしましたし、何が失敗かわからず、他のスタッフから全然口を利いてもらえなくなったり、歌い手を怒らせたり、色んなことをやりました。そうやって、自分の方法を覚えていきます。おかげで、今では、どんな大きさの公演でも、どういった形態でも、仕事をすることが出来るようになりました。
最近はスタッフを志望する若者も私の周りに出てきました。希望に燃えて、何でもやってみたくて、なんだか話を聞いてると、まぶしい感じもします。今は、まったく仕事として演助を捕らえることしか出来なくなっている私には、夢を持ってこの仕事をやり始めたことは遠い昔ですもんね。
もともと演出助手になる人は演出家希望で、ある程度の経験を積んだら、演出家として先を進んでいました。ですから、いわゆる書生さんのような立場で見られていたと思います。報酬も、修行中ということで、きちんとした額ではありませんでした。私が仕事を始めたときでも、「やらせてあげている」と言う風潮は十分残っていました。それを今のようにある程度の仕事にしてくださったのは、私達の先輩達です。そして、それを私達の代が、「演出家」になりたいから「演出助手」をやるのではなくて、「演出助手」を仕事にすると言って、そのまま続けていくようになり、セクションとして認められるようになりました。今では、どこの団体に行っても演出助手の報酬はある程度約束されています。ありがたいことです。
10年経ってやっと一人前になる世界。そこから、自分のやり方を見つけていかなければ成らない仕事です。どこも職人は同じで、今は後継者不足。私もそろそろ、歳だし(笑)、ホールを走り回れなくなる前に、早く若者が育って欲しいものです。
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by kuniko_maekawa | 2005-07-18 21:30 | オペラなお仕事 | Comments(0)

Don・Giovanni (ドン・ジョヴァンニ)

本日は「稽古場Vol3 Don・Giovanni」の3回目の稽古でした。先の稽古場の紹介記事でかきましたが、これは、演目を選んで、スタッフ、歌い手関係無しに、心置きなく稽古をすると言うプロジェクトです。「場」を共有すると言うことで稽古場代だけ皆で割りますが、そのお金を払った分、何かを得ていって欲しいと、立ち上げたものですが、この稽古は本当に面白いです。毎年、何かを感じて、私自身の考え方や、経験値がぐんと上がるのですが、今年はひょっとして今までで一番面白いかもしれません。
もちろん、これまでの2回も相当面白かったのですが、今年は何かもっと余裕があるんですね。一つは、私の状態が今までで一番いいこと。もう一つは、作品が「Don・Giovanni」であること。これは相当大きいです。何せ、私の「心のオペラ」ですから。
作曲は天才モーツァルト先生。台本はダ・ポンテ。モーツアルト3部作の一つといわれています。部類の女好きである騎士ドン・ジョヴァンニが、さる邸に忍び込み、その邸の娘に狼藉を働こうとし、それを助けるために出てきた娘の父親を、思わず刺し殺してしまいます。そんな彼を追いかけてくる元妻や、結婚式をぶち壊して手に入れようとした農民の娘、色んな女を絡ませながら、最後には殺した男に地獄に連れて行かれるという、なんだか奇妙奇天烈。話だけを追いかけると、対して面白くもありませんが、これにモーツアルト先生の音楽がつくと、もう・・・もう・・・・最高です!ほんとうに素晴らしい!出来れば死ぬまでに全幕好きなように演出したい!
まあ、こう言うことは文章では中々お伝えできないので、興味のある方は、是非、CDなりVDなりごらん下さい。今年は国立音楽大学の大学院オペラでも取り上げてます。
今日の稽古は1幕のN03(エルヴィラのアリア)までをドン・ジョヴァンニと従者レポレッロの絡みだけをやりました。ジョヴァンニは党 主税(とう ちから)君。先の記事でも書きましたが、藤原歌劇団準団員のバリトンです。レポレッロは押川 浩士(おしかわ ひろし)君。彼も藤原歌劇団準団員のバリトンで先述した国音の大学院オペラでもレポレッロをやります。
この二人がね~・・・、良いんですよ~(笑)。非常に身体能力の高い人達で、それぞれ声もちゃんと持っているので、まず、音として心地よいのもそうですが、一番良いのは、稽古場に自分を投げ出してくれることです。これが出来そうで、中々出来ない。
「稽古場」での稽古は、まず心の扉を開け放ってくれないと、ついて来れないような稽古のしかたをしています。誰しも個人的なヴィジョン以外、何も作ってこずに、白紙のままで稽古をしてみて、そこで何が生まれるかを試しているのですが、そこには「知識」や「考えること」はむしろ関係なく、ただ「感じる」ことが必要なことです。身体中のアンテナを過敏すぎるくらい過敏にしてそれを受け取っていかないと、「生まれる」稽古は出来ません。しかし、どうしてもみんな言われたことをちゃんとこなすと言うことに捕らわれてしまい、ある一定のところから踏み出してきません。私の方は、私のやりたい欲求がどんどん出てくるのを抑える気はありませんから、結局は、稽古日数の半数はその扉を開けることに費やして、残り1日くらいで風通しがよくなり、やっと「生まれる」稽古が出来る。それでも、今までの2回とも、付き合ってくれた歌い手さんはほんとに才能があり、面白い稽古になったのですが、今回のこの二人は、それを完全に上回る風通しの良さを持っています。これは前半の稽古場に参加してくれた雄谷さんもそうで、稽古の最初は、緊張して頭で一生懸命考えてても、そうじゃないとわかった瞬間に、考えることを止めてくれる。
党君は、もともとオープンマインドな人で、考え方もおおらかだし、人間的に器が広いところがあります。彼はドン・ジョヴァンニをライフワークとしてるので、それを演じてるだけでもテンションが上がるのでしょうが、この人のすごいところは「考えること」も「感じること」も同レベルであるってことです。例えば、こちらの情報に対して、受け取っているのは頭です。私の「この言葉はこう言う意味だから、こう扱いたい」と言うことに関して、納得するのは頭です。でも、それを実際に動いてみると、返って来るものは感性です。変でしょう~(笑)。でもね、頭だけで考える人って、動き方に計算が見える。それも功を奏す時はありますが、大抵、計算以外の枠を出ません。彼の場合は、頭でキャッチしたものを、隅っこに置いたら、後は感性で勝負してくる。だから、やっている間にどんどん膨らみます。動きが特別綺麗とか、器用ではありません。でも、感覚がどんどん鋭くなるので、みるみる変わっていきます。それもベースに頭があるので、非常に理由が見える。「なんか、そう言う気持ちにならなかった」とか言いながら、十分考えてるみたいに見える(笑)。
押川君は、党君ほどオープンマインドではありませんが、非常に欲求が強いと言うことを、今日やってみて、初めて感じました。普段そんなことをあらわにすることは無いのでわからなかったのですが。
実は押川君は、今まで研究生の助演などでご一緒したことはあったのですが、こう言った稽古をするのは初めてです。今回、党君がドン・ジョヴァンニをやるに当たって、以前、他の団体で同じ役をやって、組が違ったために、押川君とやれなかったと言うことで、ラブコールをしたのですがこの組み合わせも正解でした。党君との息の掛け合いが、彼を刺激するのでしょうが、楽しくなってきた時の「もっと、やりたい、もっと動きたい」と言う欲求を、押川君も止めないし、党君も受け止めてる。「出来る。出来ない」と言うことは、その瞬間にゼロですね。そうなると、押川君は非常に体が軽くなる。正直言えば、発想の展開や、感覚などは、まだまだ磨かれて無い部分がほとんどです。でも、体が軽くなると言うのは、歌っている人間には、そうそう出来る事じゃないんです。そう言う意味でも、彼の身体能力は相当高いです。多分、気づいてない能力もあるだろうし、使ってないところもまだまだ一杯あると思います。これから、本当に楽しみな人です。
この二人を相手にしていて、楽しくないわけがありませんが、それに輪をかけて、ピアニストの藤原藍子ちゃんが、またいいんですよ~(笑)。私も含めてテンション上がりっぱなしの3人を、ずっと楽譜を観ながら、れいせ~いに投げかけをしてきます(笑)。そのポイントが、また案外面白いのです。そうするとそこからゼロにして、また新しく作ったり、膨らませたり。音楽が要のオペラには、必要不可欠です。
私は、毎回この「稽古場」から、かなりの経験と知識をもらっています。勉強になるなんて、生易しいものじゃないくらい。そして、おおいに楽しんでます。ここで得たものは、誰しもが色んな現場で試して来れば良い。そして、またこの「稽古場」に戻ってきて、己をさらけ出してみる。本当は、毎日でも、こうやって稽古していたいのですが、それは今のところ無理です。でも、いつかは、そう言う場をもっといっぱい作って、今日の二人のように、個人技をちゃんと持った歌い手が、そこから巣立っていくように、頑張りたいと思っています。
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by kuniko_maekawa | 2005-07-17 01:01 | 稽古場 | Comments(1)