ヴィジョン

昨日久しぶりに稽古場に戻りました。3日ほど休みがありましたから、その間は朗読会の準備などしており、頭から稽古のことは消え去っていたのですが、時間を置いて、稽古場に戻ってくると、また色んなものが見えてくるもんですね。
何日か前の記事に稽古場のマナーの事や、居方のことを書きましたが、昨日もそこのことをちょっと考えていました。悪いことばかりでなく、むしろそれは少数的なことで、だいたいは良い居方をする人達で、稽古は進められています。その中でも、経験や個人の能力差で出来る出来ないと言うのは見えてきますが、もう一つヴィジョンを持っているかどうかも大切なことだと気付きました。
どこの稽古場に行っても、「できる人」と言うのは必ずいます。元々そう言う人達が望まれて公演に乗りますから、当たり前の事ですが、その人達と「できない」といわれる人達の何がちがうのか。その前に、「出来る人」と言う人達は、何が出来るのでしょう。歌を歌うことは当たり前ですね。声がいいのも当たり前、それに加えて、「動ける」。これはどうやらみんなの憧れらしいです(笑)。芝居の感が良いといえばそれまでですが、私が見るに、決して役者さんやダンサーみたいに、動くことが出来てるわけではありません。それでも、動ける。
これはひとえにヴィジョンがあるからだと、私は思っています。つまり、自分を客観的に想像できてる。「自分はこうしたい」と言うことの上に「自分の役はこうしたいはず」と言う理想を持って稽古をしている。単純に行ってしまえば、役になってるということですが、そのためには、音楽を作り、台本を読み、そこで作った自分の役を、演出家のコンセプトに乗っ取って、さらに想像していく。うーん、文章にしていくと判りづらいですね(笑)。自分を演出できることだと思います。その場面の中で自分の役がどう動いていくか、どう相手と関わっていくか。言われたことをこなしていくこととは少し段階が違うのです。「こなす」と言うことは、与えられたものを自分のものにしていくことで、「出来る人」たちは、その上に「想像する」ことで役を膨らませることが出来るのです。ですから彼らの動きは、結果的に彼ら自身が作った動きですから、当然、自然に動けるわけなんです。人の動きをこなしているわけではありませんから。
逆に「動けない人」「不器用な人」と言うのは、自分の出来る範囲で勝負しようとしています。最初から「動けない」と言うことを看板にして、それ以上無様な自分を見せないようにする。それでも音楽が成立していれば、オペラの場合OKです。むしろ余計な動きが無くて、いいかもしれません。しかし、残念ながら、音楽をきちんと成立させられる人は数少ないですから、結局ただ歌っているだけになりがちです。これは、実は女性の方に数多く見られます。原因の一つは、経験が無いということでしょう。場が少ないために、突付かれなくて終わっているのです。もちろん、天性の才能がある人はいますから、何もしなくてもヴィジョンをもって稽古場に立てる人もいますが、多くは気をつけていないと「素」で舞台上にいることになります。
こう言った意識改革は気付かないと無理です。そして、何より、そこまで自分を高めると言う意識も必要。しかし日本ではその意識が無くても公演には乗れます。そこが私達を苛々させるところでもありますけどね。これからの若い歌い手さんには、是非、この必要性を判っていて欲しいです。身体能力の器用、不器用ではなく、あくまで客観的に自分をどう見せることが出来るか、そこにつきるのですが・・・・。そう言う歌い手さんと、楽しい舞台を納得いくまで創ってみたいものです。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-28 12:53 | 歌手 | Comments(0)

トレーナーの意味

昨日今日と二日間の休日でした。朝も目覚ましをかけずに、身体に任せて睡眠をむさぼり、お腹が減れば飯を食い、台本を書く。まったく人間的な生活です。台風も去り、東京は秋晴れ、気持ちの良いものですね。
さて、忙しくてもレッスンは出来るだけ入れています。こちらが本業だと思っているので、休みたくないのです、それに稽古とは違って右脳フル回転ですから、楽しいこと然り。そう言えば、一昨日レッスンに来てくれたクライアントさんが、ちょこっと嬉しいことを言ってくれました。
彼女は二月くらい前から来てくれてる人で、元々はミュージカルをやりたくて大阪から上京。しかし、業界の切磋琢磨に耐え切れずにリタイア。身体を壊したようですが、そのまま東京に残って、バイトとブライダルなどをしながら、自分を捜しています。私の教え子の友人で、その教え子に紹介されて足を運んでくださいました。最初にお話した時も、まず「歌いたい」と思ってレッスンに来てくださったのですが、私は歌わせるのが商売ではありません。しかし、何か自分の中にあるものを見つけて、本当にやりたいことを捜したいと言う彼女の欲求みたいなものも感じ、とりあえず、始めて見ましょうか、と。途中で嫌になればいつでもやめていいんだし。彼女もそれで納得し、レッスンに来るようになりました。
今やっていることは、芝居の台本を読むことと、一応音大を出てらっしゃるので、イタリア語も勉強してますから、入門編として「フィガロの結婚」のスザンナを一本読んでいます。まったくオペラが初めてですから、彼女が納得行くまで時間をかけて、内容や、読み方も丁寧にやっています。彼女も久しぶりに辞書引きをし、尚且つイタリア語になれていませんから、頭を使いながら、内容を判っていき、言葉を台詞のように喋るということに、必死でした。そして、二月経ったところで、一昨日「どうですか?」とお聞きしてみたところ、「オペラはこう言う勉強をしたことが無かったので、これはやったほうが良いと思う。台本を読むことはすごく楽しい。」と言う答えでした。うーん、道理。そしてちょっと嬉しい。
昨年私のところに始めてきてくれた人達は、歌劇団の研究生機関におり、オペラ歌手になりたいと言う希望もはっきりしていました。しかし、修了してから先は、中々場があるもんじゃありませんから、何かしていないとオペラ歌手になりたいと言う気力が萎える。そのために、私が必要でした。ですから、その後オーディションなどに受かり、場が出来始めると、自然にこちらは必要ではなくなりました。しかし、先の彼女は、元々が目的を失っている状態でしたから、何をやっても、「~になるため」の看板にはなりません。だからこそ、すべてが素直に刺激として彼女の身体や心を動かしているようです。だからと言って、すぐさま何かになれるとか、ミュージカルの世界に戻る、ということにはならないでしょう。一度は怖さを経験していますから。しかし、少しずつでも、自分の中の可能性や、才能に彼女が気付き始めるようになれば、それこそトレーナーとしては、本望です。こう言う状態があると言うことも、嬉しいですね。
段々にこう言う人達との関わりが増えていくのも良いと思っています。オペラに限らず、舞台に乗る人達の目と耳と頭であること。それが私の望みですから。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-26 13:07 | オペラ・レッスン | Comments(0)

行き着く先

昨日我が家に遊びに来てくれた歌い手君と話をしている時に、今の自分の道をどこまで追いかければいいものなのか、という議論になりました。
提示したのは私。年齢のことを言っても仕方ありませんが、いまやっとキャリアが付いてきて、トレーナーと言う道を選び始めた私にとって、残された時間と言うのは、常に頭の上に乗っかっているやっかいなものです。今私は42歳。ある計画を5年越しで叶えたいと思っています。それをかなえたあかつきには47歳。しかも、それは第一段階で、その先を形にして行くのに、5年。さらに5年。なんて考えて行った日にゃ、現世では最後まで到達できないかもしれません。いったいいつまで自分の欲求に従っていけばいいのか・・・、あるいは従うことが出来るのか。大きな問題ですし、恐怖でもあります。よっぽどの障害がない限り、追い続けるであろうという事が、わかっているからです。
その話を彼にしていたら、彼は面白いことを言いました。「自分に課していることは結果を想像しないこと。結果を見たら、怖くなる。」。はてさて、どういうこっちゃ?彼は歌い手ですから、日々自分自身のみと戦い、上手くなるための努力をしています。当然、理想も夢もあるわけでしょうが、結果と言うものは、今の自分に繋がっていきますよね。最終的に自分は世界の劇場で歌っている人間になるだろうかとか、想像すると、「それは無理だろう」と、どこかで正直な声がするらしい。そうすると、その道をあるいても無駄じゃないかと、心が認識するのが怖いのだと、私は解釈してます。ですから、彼は結果を想像せずに日々勉強しているのだそうです。さもありなん。彼はすでに大きな舞台でデビューしていますし、年間忙しく歌い手として仕事をしています。同じ年代の同じ声種の歌い手の中では群を抜いているのは現状です。その自分に期待をすることもあるでしょう。今抱えている自分のマイナス面もクリアにしている努力はものすごくしています。だからこそ、先の言葉になるのだと思いますが、近いものを感じて唸ってしまいました。
それにしても、この悩み自体も世界観が違うと感心することしかり。器が広いのです。もっと、若い子や実力の無い子は、端からこのレベルの怖さはありませんから、問題が解決しない現実感は無い様に思います。努力を続けていれば、発声もよくなるかもしれないし、勉強も続けていけば、内面が磨かれてくる。それをやって、先の彼と初めて同等に並ぶ。それが「夢」と言うくらいの頑張りようで、自分を鼓舞できる。もしかしたら越えられるかもしれないハードルですもんね。
しかし、彼のレベルはそこから先の話です。日本ではある程度のレベルに到達できるかもしれない。しかし、世界では?歌い手としての自分の価値は?ですから自分よりはるかにレベルの高い人をライバルだといい、自分の中に危機感を感じています。ダイアモンドを掲げていながら、常に怪盗ルパンに怯えている感じ(笑)。しかもそのダイアの価値は計り知れませんし、自分でもその価値がわかっていて、隠す気もない。挑戦状は常に叩きつけているわけです。
私はいつも、具体的にならない自分の望みに答えを望んでいます。死ぬまで結果はわからないと知っていますが、期待をもたずにいられない。それなのに、どこかで自分の幅を小さくすることで、「ここまでなら大丈夫」と言う線を引いてしまいます。なんとか足跡を残したいからです。所詮は井の中の蛙。偉そうに未知の仕事を宣言したのなら、行けるところまで前だけ見て行って見る勇気をもたないといけないのでしょう。
この歌い手君は、私をいつもこう言う気持ちにさせてくれる貴重な戦友です。決して親友ではないのですが、ことあるごとにこうやって話をして、気持ちを高めていくことができる人です。来月から1年イタリア留学に出かけてきますが、なお更大きくなって戻ってくることでしょう。心を許して言葉を飾らずに何時間でも話し続けられる時間は1年お預けですが、楽しみに待っていることにします。それにしても、そろそろ私も井を抜け出して、外の世界を見るときが来てるのかもしれません。不惑の年なんて嘘っぱちの40代ですが、惑うより道を行け、時間がない!と言うことなのかも。心して頑張ります!
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by kuniko_maekawa | 2005-09-23 11:57 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

「カルメン・ガラコンサート」

「うさぎ屋日記」にも書きましたが、松本から帰った途端に、パソコンが非常に調子が悪くなり、昨日はあえなくノックアウト。今日、色々手を尽くした結果、復活してやっと記事が書けるようになった次第です。しかし、明日急に入ったレッスンの為に、パソコンが復帰してからは勉強したり、稽古に行ったりして、今の時間です。
昨日は無事に松本での仕事が終了しました。これはSK合唱団とSK合奏団と言う二つの団体が母体になって、行った公演でした。一部が地元の歌い手さんのガラコンサート、二部が「カルメン」のハイライト。私は、この「カルメン」の方にアシスタントとして参加していました。お客さんも満杯で、合唱団、合奏団の皆さん、非常に頑張って、良い公演になったようです。今日も私のブログを見つけてくださった、合唱団の方がコメントを残してくださいました。嬉しい訪問です。さて、この公演にはもちろんソリストも参加していますが、カルメンと、エスカミーリョだけ東京からのゲストでした。カルメンは二期会の加納悦子さん。エスカミーリョも二期会の太田直樹さん。お二人とも、少ない稽古でしたが、さすがプロですね、きちんと役を創り上げて、素晴らしかったです。加納さんは、私より一つ上の40代。ドイツでずっと勉強なさっていて、最近は新国立劇場小劇場「ザザ」や新国立劇場の「ホフマン物語」など、ご活躍なさっています。小柄の方ですが、音楽観が広いのと、彼女特有の情熱みたいなものを感じて、彼女のカルメンは好きでした。それに、40代という年齢も、彼女にとっては武器になると感じます。
私の友人達も、40代に入ってきて、やはり豊かな音楽性を感じるようになりました。特に女性にそう感じるのですね。加納さんにも、同じ豊かさを感じます。年齢を重ねていくのは、女性の方が難しいと思っていましたが、決してそんなことはなく、むしろ男性よりも、世界観が広がる感じがします。母性が強くなると言うのか、ちょっと性別を超越するような大きさを感じるのですね。男性も、幅が出て、人間的にも成長すると言うのは見えるのですが、「豊か」と言うと、少し違うような感じがします。いずれにしても、これからが加納さんの力量発揮と、期待ができます。素晴らしい歌い手さんでした。
今回の公演は稽古回数が少ない上に、演助稽古がほとんどでしたので、どうなることかと思っていましたが、色んな意味で、身になる仕事だったと思っています。良い経験を積めることでも、人間は満足するのですね。皆様、お疲れ様でした!
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by kuniko_maekawa | 2005-09-20 23:57 | オペラなお仕事 | Comments(1)

舞台稽古

日付は変わりましたが、本日は松本市民オペラ「カルメン」の舞台稽古でした。さて、本番があり、その本番のためのリハーサルをGPといいます。昔は、本番前のお稽古と言えば、GPしかありませんでしたが、最近はもう一日時間を取って、HP(ハープトプローベ」と言うものをやります。
GPは、舞台上も衣装も本番と同じ形でやりますが、HPは例えば、照明が無かったり、衣装を着てなかったり、オーケストラではなく、ピアノだったり、完全ではない形で、細かいことや、場当たり的なことをやって、確認作業をしていく稽古です。これは、普段稽古場で実際の段組などをするわけではない、日本のオペラ界に準じて出来上がった物だと思いますが、主な目的は、舞台の上での位置的なことや、時間的なことを具体的にしていくことです。稽古場では、ビニールテープで色分けされるだけの階段や、パネルの位置などが、立体的になっていますから、そこに人を乗せた場合に、タイミングや、居方などが演出家の意図どおりになっているか、そういったことを調整していくことがあります。
この舞台稽古の進行は実際には演出助手に任されます。これも色々やり方がありますが、私の場合は、舞台監督さんと話しをして、舞台上の転換や、大道具的に音楽と一緒に動かなければならない箇所や衣装の早替えなどを確認して、尚且つ演出上、どうしてもやっておかなければいけない場面などを加味したら、後は、時間をもらって、完全に任せてもらいます。つまり、主導権をもらうわけです。その代わり、舞台稽古は私の采配で進んでいきますから、一つ間違えば、稽古全体を止めかねません。しかし、任せてもらわなければ、逆に時間の配分がうまくはかれません。と、言うのも、私の場合は、非常に感覚的にこう言った舞台稽古や、場当たりをすすめるからです。もちろん、考えているのは左脳です。しかし、こと舞台稽古の進行に関しては、右脳も働くのです。そこは、舞台の絵を見ているようなのですね。つまり、絵を描きながら、電卓を叩いているという感じ。口では上手く説明できません。自分としてはスイッチが入った途端、なんか違う人間になっているので。もっとも、人の出ハケや、場所、音楽との絡みも、一番良くわかっているのは演出助手ですから、任さざる終えないでしょうが。
今日は、いわゆる場当たり稽古。「カルメン」をハイライトにして、1時間半くらいのものにしていますから、その倍の3時間をもらっていると言うことは、そんなに時間が足らないと言うわけではありません。しかし、転換稽古など、やらなければいけないことは多くありましたので、シュミレーションを何度も頭で繰り返しながら、やるべき場所と方法を紙に書き出して、各スタッフに配布し、稽古をやりました。おかげさまで、問題なく修了。後は、明日本番の前に最終通しであるGPをやったらば、お客様の前に出します。チケットも、ほぼ満杯だそうで、合唱団の皆さんも、本当に楽しそうだし、明日の本番が楽しみです。それにしても、先月から、松本にきていながら、一回も温泉や観光にいきませんでした。明日は、最終で東京にもどります。なんだかんだと言いながら、もう9月も終わりです。松本はすっかり秋モードですよ。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-19 00:54 | オペラなお仕事 | Comments(2)

稽古場のマナー

まあ、トレーナーのつぶやきと言うより、演助のつぶやきと言う感じですが、ここ最近持っている稽古場の一つが非常にマナーの悪い人達が揃っています。これは、最近のオペラ団体にしては珍しい現象で、久しぶりに仕事を始めた頃に戻った感じがして、呆れています。
私が若い頃、まあ、ほんの20年くらい前ですが(笑)、その頃はオペラがやっとメジャーになってきたときで、団体によっては、原語で歌わないと言うところがあったり、歌い手さんたちの意識も、少し低く、本番に間にあうように覚えればいいといって、楽譜を持ったままたち稽古をするとか、そう言う隙間だらけの時代でした。稽古場における演出家や演助の位置も、そんなに重要視されておらず、歌い手さんが強かった時代です。今では考えられませんね。ところが、そのマナーの悪い稽古場では、20年前の隙間だらけの状態が歴然としてあります。暗譜が出来ておらず、音楽が作れていない、稽古中集中力が無く、演出家の話を聞いておらずにキャスト同士で話をしている。音が出ても、喋っているか、何か違う音を立てる。お読みになってる皆さんは、研究生か学生の稽古場だと思ってらっしゃるかもしれませんが、れっきとしたプロのオペラ団体の、プロの歌い手達でなされていることです。この稽古場にはほとほと呆れます。
こう言ったマナーは、自然に伝え聞かされていくもので、学校や研究生機関できちんとした講師がいる場合は歌うことだけでなく、そこもちゃんと仕込まれてプロの稽古場に上がってきます。しかし、中にはそこまで細かく教育しないところもあり、後は人格形成と一緒で、育ってきた環境、出会った人達、それと、その歌い手自身の人格です。例えば、自分の出番が終わって、次に流れている曲が静かな曲であるにも関わらず、大きな音を立てたり、足音を立てて歩いたり、喋ったりする。しかし、自分に置き換えてみれば、わかることです。静かな曲の中でその感情を作って、歌いだそうとしている、まさにそのときに、どたどたと歩かれたり、誰かが笑い声をたてたりして、集中できますか?こう言ったことがわからない歌い手は、まず音楽家ではありません。私達スタッフがこれをやったらぶっ殺されますよ。昔は実際に怒鳴り飛ばされてました。
そう言う意味では、最近歌い手を教育する人もいなくなりました。私自身は、昔口うるさく言われたからこそ、今があると知っているので、研究生機関でも、稽古場でも口をすっぱくして言うことにしています。しかし、プロの団体で、プロだと思って対応している歌い手に、マナーが悪いことを注意することはしません。あまりにも、こちらが悲しくなるからです。そこまでもきちんとわかった上でのプロですもんね。
言っておきますが、こう言った稽古場の方が最近は珍しいです。いまやオペラの現場もかなりグローバル化されましたし、立ち稽古までに音楽を作り、役を作って来るのが歌い手の仕事だということも、常識になっています。ですから、私のような仕事も成り立っているわけですが、だからこそ、このマナーの悪い稽古場にすごく腹を立てています。結局はその団体の稽古場が歌い手に舐められているからです。しかしですね、簡単に捨てるわけには行かない理由もあります。そう言う稽古場でも、必ず真摯に作品に向き合っている歌い手さんがいるからです。黙々と自分のやるべきことをやって、集中しない歌い手をよそに、本番までの調整に入っています。私はいつも、心で拍手を送っています。そして、その歌い手さんの為には、何をおいてもサポートしようと決めているのです。わかります?どの稽古場であろうと、歌い手さんを一番見ているのは、私達スタッフです。そして、私達はその一回の印象をとにかく良く覚えていて、大切にしています。だって、その人が本当に上手くなりたいとか、役を創り上げたいとか、そう言う熱意がわかりますもん。私達が創った稽古場で頑張っている人がいる。どんなにマナーが悪い稽古場でも、こう言う人が一人でもいれば、救われます。そして、次の現場で会った時に、またその人に一生懸命サポートをするようになっていき、なじみの関係になるのです。
それにしても、この稽古場をそのままにしていては、あまりに演出家が可愛そうです。そろそろ、おばさんパワーを全開させるべきかもしれません。ふ~・・・(TT)
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by kuniko_maekawa | 2005-09-17 00:59 | オペラなお仕事 | Comments(2)

稽古場での居方(いかた)

職業柄、色んな団体とお仕事をし、色んな歌い手さんとお仕事をしますが、最近気付いてきたことに、「居方のちがい」と言うものがあります。これは、稽古場でまず目に付くことですが、一つの舞台のお稽古をしていますと、それに乗っている歌い手さんも様々で、年齢の差もそうですが、経験の差も如実に出てきます。それから、元々器用な人、不器用な人。これは男性女性関係無く、その人そのものから出てくるものです。こう言った人達が集まって稽古に立っていますと、当然、目に見えて差が現れてきます。よく言う「動ける人、動けない人」と言う、分類。しかし、それは、経験値の差ではなく、本人達の稽古場における「居方」の差だと言うことに、最近気付きました。
これは、歌い手さんご自身が、どういう志を持って、稽古場に立っているかということに大いに起因します。もちろん、皆さん経験を詰まれるために、この舞台に乗ってきたのでしょうが、その中でも、自然に目立って動きが良いとか、オーラみたいなものを感じる人達は、最初から「舞台で歌う」と言うことを意識してます。ということは、お客の目を意識していると言うことです。つまり、たとえ稽古場であっても、演技空間に入ってくると、その方ご自身に「歌い手」と言うフィルターがちゃんとかかるのです。稽古場空間が特別なものになっているのですね。ですから、そう言う方々は、自然に立ち方が綺麗だし、周りの空気や、リアクションを感じているし、もちろん指揮、演出、そして自分の感性、そういったもので役を作るという作業をちゃんとやっています。稽古場があくまで舞台に乗る前に色々試せる場所だとわかっているのですね。そう言う居方が出来る人と言うのは、もちろん勉強してきますし、稽古をやっている間に、どんどん変わっていきます。本番に一番良い状態で、完璧に役を歌いきれるように調整していき、役になっていくからです。何より大きく違うのは、こう言う人達が、根底で「歌い手である」プライドをちゃんと持っているということ。これは本当に大切なことです。ですから稽古場でお客の目や耳を想定した、舞台のシュミレーションがちゃんとできるのですね。
反対に、一向に役を作れない、いつまで経っても、歌い手さんの本名が見えるような立ち方をする人も居ます。若い人に多いですが、まず、こう言った居方をする代表選手は「勉強のため」にこの舞台に参加している人。これは、とても正当な理由に聞こえますが、はっきりいって隠れ蓑にもなりえる言葉です。だって、「まだ勉強中で、未熟ですが、経験は積まなきゃいけないので、やらせてもらっています。ですから、当然上手く出来るはずがありません」ってことですもんね。もちろん、どなたも勉強だと思って乗っているでしょう。しかし、それは経験値の問題であって、自分が勉強中だと看板を立てて、お客さんにお金を払ってもらうためにはいきません。ですが、そう言う人達は、先の人達とはちがって「歌い手である」プライドはまったくありません。もしかして持っているかもしれませんが、それは、「歌い手」としてのではなく「声」としてのプライドだと、私は思っています。「いい声してるんだから」と言うやつですね。
こう言う居方の人達は、ひとえに頑固です。「声」のプライドは持っているくせに、それを崩すのを嫌って、同じ立ち方、同じ歌い方、同じリアクションの仕方しか出来ません。明らかにお客を無視しているか、最初からシュミレーション出来ないかのどちらかです。ですから、正直、お金を払って、お勉強会を見てもらうという感じが否めません。
さて、そうは言っても稽古場は同じですから、こう言った人達で一本の作品を作っていくと、本当にバランスが悪くて大変です。これは、残念ながら、地方オペラに多い形ではあります。この団体しか「場」を持っていないという人も多いからですね。こうなると、稽古をするほうとしては、「居方の良い人達」をメインにして、舞台を作っていくのが常套手段です。その影響で、「お勉強」していた人達が、変わることもありますし、第一、「歌い手」である人達と話をした方が早いですもん。
こう言った状況があるのは、日本のオペラ界、声楽業界をよく表しているように思います。私も行きましたが、音楽大学というところは、まずその特殊能力を伸ばすだけで、その先を見通して音楽家を育てていません。少なくとも声楽科はそうだと感じます。どれくらいの大学が、将来卒業生をこう言うオペラ歌手にしたいとか言うヴィジョンをもって学生を入学させているでしょうか?しかし、その4年間や6年間で、「声」のプライドだけは大いに育てられるわけです。ところが、大学や研究生機関を出てしまったら、何のフォローも無く、勝手に勉強しなさいと、ほっぽり出してしまいます。さらに受け手であるオペラ団体でも、歌える人は数えるほど。ほとんどが「場」をもてずに、歌とは別の仕事や、学校の先生などを余儀なくされる。やっぱりこれで、「歌い手」でいろ、というのは難しいのかもしれません。しかし、それでも舞台に乗りたいと、オーディションを受けたり、依頼を引き受けたりするのなら、やはりお客にとってはエンターテナーです。決して「勉強」だけで稽古場にいてはいけません。それが、これからのオペラ歌手には、本当に必要なことのように思います。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-15 00:40 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

朗読会の準備

11月にシェークスピアの朗読会をやることは、もう告知していますが、いくら本を読むだけとはいいながら、やらなければいけないことは結構あります。今は、それに追われて結構毎日大変。
まずは参加者を募る。基本的には継続的にレッスンに来ている人達がメインではありますが、シェークスピアの世界観はどの作品も広く、時として説明をするためであっても、キャストの数が結構多いです。メインキャストである人物だけでも10人近く。そこで、役を埋めるべく参加を募ります。この朗読会は、私が毎年やっている「稽古場」と同じシステムをとり、参加者が「場」を共有すると言うことで、かかった分だけを割っていきます。これを参加費とし、価値をもって稽古にきていただくことが条件です。しかし、声をかけるのはあくまで歌い手ですから、歌わないこう言ったイベントに参加するか否かはご本人たちの興味の範囲にあります。そして、ここでもまた、男性でこう言ったことに興味をもっていらっしゃる方が少なく、どうしても女性に声をかけざる終えません。興味があっても、男性の場合は秋口稼ぎ時ですから、ソリストであれ、合唱で乗っている人であれ、まずスケジュールが取れません。と、言うことで、女性でも男性の役を読むとこ言うことを余儀なくされます。これに関しては、私的には全然OK。役者を育てているわけではないし、問題は台詞と言うものをどう扱うかと言うことだけですから、それが男であろうが、女であろうが、「言葉」と言うことに代わりはありません。元々、上手く読むことを推奨しているわけではありませんから。しかし、これも、なんとか参加者を募ることが出来ました。後は、スケジュールアンケートを取って、稽古場所を決めて、稽古すればいいだけですが、問題は台本です。
皆さんは、シェークスピアの台詞に触れられたことがおありでしょうか?「ハムレット」の「尼寺へいけ!」や「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」。あるいは「ロミオとジュリエット」のジュリエットの台詞「ロミオ様、ロミオ様、なぜあなたはロミオなの?」こう言った、有名どころは少しはお耳にしたことがあるのではないでしょうか?私も、手をつけるまでは、こう言った外側の有名なところや、映画になったものしか観たことがありませんでしたから、台本を開けて初めて、あまりの台詞の多さにびっくりでした。先ほども少し書きましたが、説明的な台詞も多くあります。そこまで書かなくても?というような、しかし、多くはその役のキャラクターを表に出すためと、歌舞伎のような、型を連想させる台詞回しです。おそらく英文も、韻を多く含んでいるのだろうと思われますが、そういった、語り口の妙をあの時代の観客は楽しんだのだと、想像できます。まるで、歌を歌っているみたいな台詞の流れです。私が、シェークスピアを読もうと思うのも、この言葉の流れがあるからです。しかし、この台本は、あくまで芝居をするためにかかれています。つまり、人が動いて場面が動いて、状況がわかると言うことです。ですから、ただ読むだけではもちろんお客にはわかりにくこともあります。それと、長い台詞。よほど上手い役者が読んでも、中々伝えにくいと思うような長い台詞も多々あります。これを、このまま読んでは、役者でもない私達には到底太刀打ちできません。そこで、脚色をします。
これが、一番大変です。私は台本作家ではありませんし、本当ならこの台本をそのまま読んでいきたい魅力も感じています。しかし、読むほうも書くほうも所詮は素人。とりあえず、時間を短くするためと、必要ないと感じている役をカットするためにも、今、頑張って台本を書いています。どんなものになることやら、せめても、聴いてくださる方が飽きないように、頑張って面白いものを作るつもりです。ただの勉強会ではつまらないですもんね。
今年の朗読会には、去年参加していくれた人達は一人も参加しないことになりました。こう言った現象も面白いとは思いますが、出来れば、繋げていくということも目的の一つです。今年、参加してくれた人達が、来年も、再来年も参加できて、「読み手になる」と言うプロセスも踏んでいけるのを本当に望んでいるのですが・・・。まあ、こればっかりはしょうがありませんね。まだまだ暗中模索です。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-12 13:02 | 稽古場 | Comments(0)

またまた松本

今日も松本に行ってきました。9月に入ったと思ったら、あれよあれよというまにもう中旬。来週は本番です。それが合唱団の方々にも伝わってきたのか、今日は随分良い稽古でした。
アマチュアの合唱団の方々とお仕事をするときに、いつも思うのは、とにかく皆さんが舞台を楽しんでおり、そして、何より真剣に取り組んでいらっしゃると言うことです。これは、私達仲間の中でも意見が一致してまして、アマチュアだからと言って、子供に対するように、手取り足取りなんて対応していたら、皆さんお怒りです。やはり、きちっと音楽を志していらっしゃる方々として、私達も相手をするべきだと、皆思っています。そう言う意味では、今回のSK合唱団と言う団体も、非常に皆さんやる気があって、こちらの要求に一生懸命答えてくれようとなさっています。なんと180人からなる大合唱団ですが、さすがにまとまると迫力がありますね。
明日は、オーケストラと一緒に「通し稽古」というものをやります。最初から最後まで、止めないでやってみると言うものです。稽古場でやるリハーサルですね。今回はオーケストラも市民の方々で、作っている団体です。今日お聞きしたら、松本市と言うのは、スズキメソッドの発祥の地だったり、小沢征爾率いる、サイトウキネンオーケストラの本拠地であったり、クラシックのイメージが強いのですが、こう言った市民レベルでも、音楽が盛んで皆さんハイレベルだそうです。すごいですね。今回は、指導してらっしゃる方も、皆さん、熱い方ばかりで、その方々のエネルギーと力ももちろんあるでしょう。皆で創り上げる楽しさが、市民オペラにはあります。
明日の稽古がうまく行くように、怪我など無いように、私もまた気を引き締めて、明日も松本へGO!それにしても、今日の松本は素晴らしく良い天気でした。山並みが綺麗でした~。ああ言うところで育つ音楽と言うもの、本当に豊かでしょうね。一杯エネルギーをもらってこようと思います。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-10 23:08 | オペラなお仕事 | Comments(0)

南條年章門下オペラ研究発表会

本日は(またまた日付が変わっていますが)南條年章門下生によるオペラ研究発表会に行ってきました。南条先生はイタリアで研鑚を積まれており、藤原歌劇団団員で、もちろんオペラ公演にも出演なさっていましたが、現在は教えることに専念されています。私は藤原の研究生のクラスで先生がディクション(イタリア語の発音や歌唱表現などを教えること)の先生でいらした時から、ずっとご一緒させて頂いており、色々と勉強させていただきました。門下生も、二期会や藤原の本公演で歌っている歌い手さんも多く、勉強途中の歌い手さんでも、素晴らしく良く歌います。こう言った発表会とは別に、日本初演の作品や、企画公演なども年に2回くらいのペースで手がけてらっしゃって、それもすべてレベルの高い、素晴らしい公演です。毎回ご招待いただいて、必ず時間があるときには聴きに行かせて頂いています。
南條門下の素晴らしいところは、歌い手さんの声が、みんな違うところにあると思います。これは、耳がなんとか使い物になってきたので、最近きづいたのですが、それぞれの持ち声がどんどん出来上がっていく、ですから、どの歌い手さんも自分の声で、音楽を語っています。息が綺麗で、会場の空間をはるかに越えたところで聴こえてくる。つまり、ちゃんと客席分の距離を声が飛んでくるということですね。これは大切なことです。客席に聴こえてくる声は、大きな声ではなく、歌い手の身体からきちんと放たれた声なんです。そうしないと劇場の空間が死んでしまいます。本当に勉強になります。知識ではなく、耳が肥えると言うか・・・。そして、発表される曲目がまた、全然知らないものばかり、よくぞここまで出てくると言う感じです。それだけ、先生の研究の深さに本当に驚きます。
先生ご自身も、素晴らしく感性の鋭い、審美眼をお持ちの方で、これだけの歌い手達を、それぞれ育てていらっしゃることもそうですが、例えば、演出的なことや音楽的なこと、すべてに鋭い観点をお持ちです。先生のディクションの授業を聞いていると、本当に頷くことばかりでした。
それにしても、人を育てていくと言う事は、並大抵のことではありません。私も先生の足元にも及びませんが、少なからずそういった立場にあるものとして、やはり責任や、自分の感性や知識などに、いつも不安をもちながら、それを解消するために頑張って勉強しているのですが、絶対になくしてはいけないのは自信だと思っています。こうやって、ずっと前を歩いていらっしゃる方の後を追っていくことは、今の私にとっては重要なことです。いつも会場に足を運んで、演奏会を聴いて耳に残ったものを、自分の知識として、変換して行く。これがこう言った秀逸な発表会を聴いた後の、私の仕事です。ああ、もっと耳が良くなりたい!切なる願いです。
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by kuniko_maekawa | 2005-09-09 00:31 | 観劇日誌 | Comments(0)