ライモンディ賛歌

私はバリトンのルッジェーロ・ライモンディが大好きです。最近はめっきり年を取り、それなりにかっこいいおじいさんになりつつありますし、日本にもあまり来なくなりましたから、生で見る機会もなくなりました。残念ですね。
私は彼とは二回ほど一緒に仕事をしたことがあります。一回目は藤原歌劇団の「ファウスト」。二回目は新国立劇場の「ドン・キショット」。どちらも演出助手でいましたから、間近で彼と接する機会がありました。いや~、とにかくかっこいい人です。超ハンサムと言う面立ちでもないのですが、なんと言うのですかね、とにかく彼には「品格」があるのです。背が高く、常に優雅にゆっくりと歩き、周りにあまり左右されない感じがあります。しかし、全然気にしていないのではなく、一緒に仕事をする人間達、すべてに気を配っています。スターなんですよね。決しても声を荒げずに、演出家の言うことや、スタッフの言うことを黙って聞いて、納得すれば、何も言わずに完璧にこなしますし、納得いかなければ、正論をきちんとはなすことが出来る。頭の非常に良い人です。ですから、世界中の演出家に愛されていますよね。「ドン・キショット」を演出したファッジョーニも、恐ろしくわがままで才能のある人ですが、ライモンディが来たとたん、わがままが無くなり、彼と役を作ることに没頭してました。彼としかこの作品を創りたくないと言う話も聞きました。さもありなんです。前の記事で書いた「トスカ」でも、やはり彼の中で創られたスカルピアがかなり堪能できました。正直言って、声は好きではありません。元々持っている声がそんなに良い感じがしないのです。私自身も、艶のある声が好きですから、彼の声はちょっと響きがこもる感じがする。しかし、それを補う語感と芝居の感覚の良さがあります。それが群を抜いていると思うのです。しかも、スタンドプレイじゃない。そこにはちゃんと演出家や指揮者が介在している。つまり、自分の作ったものをベースに、演出家のコンセプトや指揮者のコンセプトをちゃんと加味して「役」を演じることが出来る。特筆です。自分勝手に役を作ってそれをただ歌う人は一杯いますが、彼にはそのプロダクションのコンセプトがある。それをこなすのが自分の役目だとわかっているみたいです。まさに職人ですね。ここも大好きなところです。「トスカ」の有名なアリアで、彼が見せた表情などまさにそう。カヴァラドッシの浮気を疑ったトスカが、本当はアンジェロッティをかくまっている別荘に乗り込んでいくのを部下に付けさせます。彼女が走れば走るほど、自分の手の中に入ってくると歌うのですが、このとき、同時に教会内でミサが始まります。そのお祈りの声を聴きながら、彼と彼の周りがぐるぐると回り始め、その中でずっとコーラスの聖句が聴こえてきて、スカルピアがめまいを覚えているのがわかります。それが止まったとき、「トスカ、お前は神を忘れさせる」と彼は歌い上げるのですが、ここには二つのスカルピアが介在していました。一つは映画監督の望む好色で残忍なスカルピア。しかし、ただカメラをぐるぐる回してもスカルピアの人となりは表せませんし、絵としてはそうそう面白いものでもありません。そこにライモンディの作ったスカルピアがあるから、この初老の警視総監が残忍さや情欲の内に、まるで初恋に胸を焦がすような胸の震えを感じさせます。本当に「最後の夢」と言う感じなのです。ぞくっとしました。
そうは言っても、本当は監督がこうしろと言ったかもしれません。しかし、彼と一緒に仕事をしたときに、同じことを感じましたから、多分すべてを要素として取り込んで彼が表現しているのだと思います。なぜなら、この映画はレコーディング風景とスライドするように作ってあって、その役が登場するとき、レコーディングをしている歌い手の姿が映るのです。スカルピアが登場するときも、まさに立ち上がって歌おうとするライモンディの表情が映りました。ぞくっとしましたよ。そこにスカルピアに変わる瞬間が映っていましたから。やはり、こういう風にして自分を作品の中に存在させることが出来るのが、彼の頭のよさだと思っています。ドン・ジョヴァンニやフィガロの伯爵なども気品があって、スノッブでちょっとエッチで本当に美しいです~(惚)
ご本人も、気さくでエレガントで素敵な人でした。なんど、その眼差しと優しい言葉に殺されたか・・・(笑)。もう一度、是非お仕事したい夢の歌い手さんです。
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by kuniko_maekawa | 2005-11-28 11:54 | 歌手 | Comments(10)

映画「トスカ」

先日BS放送でやっていたのをVDに取っておき、ようやっと見ることが出来ました。これはゲオルギューと言うソプラノとアラーニャと言うテノール夫婦による映画で、当然主役の歌姫トスカをゲオルギューが、その恋人カヴァラドッシをアラーニャが、そして宿敵警視総監スカルピアを、私の心の恋人ルッジェーロ・ライモンディ様が演じておられました。ライモンディ様だけでも観る価値はありますが、やはり話題になったのは夫婦共演と、これがただのオペラ映画と言うジャンルには収まらない手法もとっていたからです。4年程前に単館ロードショーしていましたから、観られた方もいらっしゃったでしょう。私はそのとき見逃しているのです。偶然、レッスンでも、「トスカ」を全曲みたいと言う方がいらっしゃって、先月からずっと勉強していたので、興味深く観ました。
物語は1800年6月17日、政治犯であるアンジェロッティの逃亡から始まります。この頃、イタリアはまだ統一されておらず、オーストリアに支配されていました。おりしもそこへ、フランス革命の流れを受けてナポレオンのイタリア遠征が始まります。オーストリアの支配を受けて、独立と統一の得ようと起き上がったイタリアの新しい思想が、フランス革命の勝利に影響されて、公爵領に対して叛乱が起き、これに乗じてナポレオンが北イタリアからオーストリア制圧に乗り出した結果でした。アンジェロッティは以前、共和制が樹立された時のローマの領事でした。しかしオーストリア教皇派によって、その職を追われ、政治犯として入獄されていたのです。彼が逃げ込んできたのは教会。そこに彼の生家であるアッタヴァンティ家の礼拝堂があり彼の妹が逃亡に必要な衣服を隠しておくと、手引きをしました。そこで、偶然、旧友である画家のカヴァラドッシに会います。彼がアンジェロッティをかくまい逃がしたことから、カヴァラドッシは窮地に追い込まれることになり、アンジェロッティを追っていた警視総監スカルピアの魔の手が、カヴァラドッシの恋人であるトスカに忍び寄ります。カヴァラドッシがアンジェロッティを隠した場所を知っていたからです。元々横恋慕していたスカルピアは、カヴァラドッシを助ける代わりに、身体を代償として要求し、トスカはそれに一度は応じたものもも、結局はナイフでスカルピアを刺し殺してしまいます。
ざっと、こんな感じの世話物的な話ですが、プッチーニの音楽は最高に素晴らしく、私も、大好きなオペラの一つです。最初に演出したのも、この作品でした。
映画は良く出来ていました。全編実際の教会や、古いparazzoの部屋の中で黒を貴重に綺麗な映像でした。逆に隠れ家や、井戸などはコラージュっぽい写し方であまり語らずに、ヌーベルバーグ映画のような感じ。物語性も余りありませんでしたから、音楽をちゃんと聴くことが出来て新鮮。今までの、オペラをスタジオでやりましたと言う感じも無く良かったです。レコーディング風景とスライドしながら、物語に入っていく手法は新しいことではありませんが、観ている方を最初から「オペラ映画を観ているのですから」と言う、冷静さに持っていってくれることと、歌いだす瞬間にふっと「役の顔」になる歌い手の表情などに、一瞬引き込まれて私は好きでした。ま・・・、ライモンディ様がかっこいいということですが・・・v(^^)v。
何より面白かったのはゲオルギューとアラーニャのべたべたぶりです。つまり、トスカとカヴァラドッシのアツアツぶりが現実的だったということです。もちろん映画ですから、ほとんど動かないでも、良いと言うメリットもありました。舞台上ではどんなに顔をくっつけて歌っていたくても、そんな歌い方をしていたら声が客席まで届きません。それで、前を向いて身体を開放してうたうわけですが、映画の場合は後で吹き込むでしょうから、よりリアルに会話が出来ます。その上で、の二人が演技をしてるのかしていないのか、ちょっと不思議な感じを覚えました。夫婦だから当たり前と言われれば、それまでですが、やはりトスカとカヴァラドッシには「心と体」の魅力に捕らわれていただろうと素直に感じられるのです。1幕は特に。有名な「二人の愛の巣」と言うデュエットも、ただ一緒にいたいというかわいらしいものではなく、「誰も居ない緑に覆われた隠れ家で月の光の下で、あなたと一緒に燃えたい!」と言う、はっきりいってH無しにはいられないって歌です。
誤解の無いよう言っておきますが、これは私が勝手に言っているのではなく、楽譜上、音楽やリブレットを読むと自然にかかれてあることです。本当です!オペラを鑑賞する上で、誤解してはいけないのは、かならずしもオペラは高尚なものではないと言うことです。題材に選ばれているもののほとんどは、こういった、ただの三面記事的なことなのですよ。ふーんっだ!
しかし、その性的な魅力に捕らわれている恋人達という姿が、こんなにも具体的で自然なのも目を引きます。もはや演技ではないですもんね。トム・クルーズとニコール・キッドマンの「アイズワイド・シャッフル」を見たときは嘘っぽい感じでしたけど、きっとはっきりとしたセックスシーンでは、逆に現実的過ぎてこちらがうんざりしちゃうのかもしれません。
と、いうわけで、DVDなどでているでしょうから、一度興味のある方はご覧なってください。やっぱり愛してるって手の先からでも言えるんだなと、感心することが出来ますよ。後は、ライ様の上品な美しさと、ちょっと無理してる悪役が観れます(^^;)。なにやっても、許せるんです~!
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by kuniko_maekawa | 2005-11-27 13:08 | 観劇日誌 | Comments(0)

ドリーム・チーム

新着情報でもお知らせしているように、来年千葉で「魔笛」を演出します。私にとっては、久しぶりに大きな規模の公演です。と言っても新国立劇場や東京文化会館などでやるような規模ではありませんが、ある程度のホールの大きさがあり、ピアノ版ですが指揮者が居て、舞台監督初め、衣装、舞台美術、照明、演出助手まで入ったいわゆるフルサイズの公演です。今、その準備が始まって、それぞれのプランナーと打ち合わせが始まりました。今回は私にとってもリハビリと勉強を兼ねた場にしようと、胸を借りた人たちは、皆、私より若く、才能をもっており、これからオペラをやっていきたいと情熱を持っている人たちです。そして、ちゃんとした目と絵を持っている人たち。
私が演出家になりたいと言うことを、どこか自信を持って言葉に出来ないのは、ヴィジュアルに対する自信の無さです。オペラは音楽的要素の他に、舞台美術、衣装、照明と言う視覚的要素が必要です。つまり、目で見えるもの。一番大切なこものは耳に入ってくるもの。やはり無意識に感性を刺激するものに、お客の心は動かされます。音楽、言葉、気持ち。五感で感じることが出来るものは、それだけで楽曲を伝える力を持ちます。しかし、それだけではオペラ公演と言うのは成り立ちません。なぜなら、オペラはあらかじめ舞台で観せることが条件としてあるからです。つまり、聴いてよし、観てよしがオペラの基本です。それで演出家と言う職業があるのです。ところが、私はその「観せる」と言うのが、よくわかりません。もちろん、絵が無いわけではありません。まがりなりにも演出家として仕事はしていますから、何かしらの絵は出せます。しかし、こと色や形に関して、これというはっきりしたものがいつもありません。しかし、好き嫌いははっきりしていますから、センスと言うより、タダの好みですよね。そして、そのセンスまがいのもので出てくる舞台上のものが良いか悪いか判断がつかない。一点の衣装とか、小物一つとかとかは決められても、舞台上の絵というのがどうなのか・・・・。他の演出家の打ち合わせを聞いてても、各プランナーとちゃんと渡り合って、自分の欲しい形や絵を時代考証も含めてきちんと言える。当たり前だけど、素晴らしいですよね。そこで、なんだか自分に疑問を抱いて、演出家になると言うことに積極性がなくなってしまいました。しかし、ある日師匠にちらとそのことをもらしたところ、「プランナーを選べば良いんだ」って、言われたことがあります。自分にない目をもっているプランナーを選べばいい。つまり、足らないところを補ってくれるような人と仕事をすればいいってこと。これは、目からうろこでした。演出家と言うのは、すべてに権限がある代わりに、すべてに責任を取らなければいけないと思っていましたから、それをするのに実力不足だと考えていたわけですから。しかし、それから、ある勇気があれば、私も演出家になれるんだと考え直しました。それは「任せる」ということ。自分に自信が無いのなら、それを補ってくれる人をプランナーとして選べばいい。その代わり、任せる。これを心に決めて今回の人たちにお願いしました。
舞台美術の二村周作君、衣装の前岡直子さん、照明の稲葉直人君。みんな30代の前半で、今プランナーとしてもどんどん活躍の場を広げています。柔軟な頭を持って、快活で穏やか、何より人間として信頼しています。二村君と前岡さんは打ち合わせを始めましたが、私のつたないイメージを聞いて、面白い絵出してきてくれています。これに対して「好きだと思う」くらいしか言えない私が申し訳ないですが、とにかく胸を借りて、今回は演出家でいることを経験させてもらおうと思っています。私がちゃんとした演出家として一人前になることが、彼らに対しての義務だと思うからです。そうなったら、もっと大きな舞台で、多い予算で彼らの好きなことをさせてあげられますから。だからといって、今回何もしないと言うわけではありません。色んなことを考えながら、一緒に成長させていただこうと思っています。その代わりに任せます。彼らが私の目であり感性ですから。さて、どうなるかは実際に舞台観てのお楽しみ。興味のある方は、是非会場へ!
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by kuniko_maekawa | 2005-11-25 17:47 | オペラなお仕事 | Comments(0)

モチベーション

前回の記事でも書いた「Dunque」の演奏会で、一番辛かったのは女声の声量の無さでした。会場は客席100席くらいの小さなコンサートホールだったにもかかわらず、物理的に声が聴こえてきませんでした。そうなると当然、言葉も聴こえてきませんから、聴きづらいし、それに集中して疲れてしまうと言うわけです。
さて、こう言った現象の場合、皆さんは何が原因だと考えますか?単純に、その歌い手のもともとの声量が小さいとか、緊張しているのかとか、そういった本人にもどうにもならない状況を想像するかもしれませんね。確かにそれも要因としてはあるでしょう。しかし、これはテクニックと感情的なことだと、私的には思います。
私も音大の声楽科を出ていますから、歌い手になろうと思ったときに、何を考えるか、何を望んでいるかくらいは想像がつきます。しかし「何が足らなくて、何が必要か」は余り考えなかった気がします。レッスンでは「駄目」と言うことはよく言われていました。それは出来ないことだとインプットされてしまい、「足らないから得たい」と言う発想にならなったのですね。例えば、「あなたは持ち声はきれいなんだけど・・・・」とか「声は大きいんだけど・・・」とか言うこと。これが声楽をやっていたときの看板でした。私の歌の先生はラッキーなことに、その先の音楽的な要素も「感覚」として目覚めさせてくれた人でしたから、「歌うってことは気持ちを伝えること」くらいは、学部の間になんとなく身についていました。しかし、それを具体的にお客様に伝えるということは、実は裏方の世界に行くまで良くわかりませんでした。こちらの世界に来て初めて、歌い手も含め私たちは「芸術伝達人」なんだと気づきました。つまり、自分を良くすることに一生懸命で、人の前に出る職業だとわからなかったのです。
先の女声陣たちは、多分これと同じ轍を踏んでます。自分だけに意識が行っていて、客と言うものを意識できてないのです。客はわかります。目の前に座っていますから、その人たちがお金を払って席を買っていると意識できてないわけです。多分、あまり売ってないのかもしれません。「私の歌なんて、下手だからタダで良い」って、チケットをあげているかもしれません。それくらい、客に興味がなさそうでした。ですから、伝えると言うエネルギーが恐ろしく足りません。身体も全然使われていないし、息を吸っていないみたいです。しかし、出てくる声は小さく何を言っているかもわかりません。これでは聴きようがありません。もちろん、将来性を感じる人も居ました。しかし、それは声のよさとその人が自然に身につけた感性です。モチベーションが低いのです。
それでは、どうすればこう言った人たちのモチベーションがあがるのでしょうか。これは個人的な問題ですから、「やる気を起こせ」と言うしかないのですが、その理由ですよね。少なくとも、「自分のため」に歌を歌っているのでは、駄目です。歌い手は芸人です。芸を売らなければいけません。自分の磨いている声や、テクニックがどれだけ人を楽しませるか、常にそう考えていられなければ、やめるべきです。自分が歌いたいだけなら、金を取ってはいけません。金を出して歌うべきです。客にお菓子や、飲み物を配って、自分の声を聴いてもらわなければいけません。だって、声では金が取れないんですもんね。
オペラやクラシックを高尚なものだとやってる方が感じているのは、論外です。自分の声は自分のためにあらず。そうやって、日々自分を高めていく。良い声を持って生まれたのなら、それはもう「使命」です。私には宝物のように感じます。それはひとえに、お客様のためなのです。
テクニックに関しては、諸説色々でしょうが、うまくなるのも、お客のため。よりクオリティの高い歌を聴かせるため。そのための努力と投資をどれだけ出来るでしょうか。その意識をもってこそ、プロです。歌がうまいからプロだと思ったら大間違いです。
そうは言っても、その意識をもてない人が大半です。私のところで勉強している人たちは、その意識だけは持てるように、何をやってもエネルギーだけは無くさないように、日々訓練されています(笑)。志を高く持つ。現実とのギャップと戦うのは大変だけど、そうあってほしいと切に望んでいます。
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by kuniko_maekawa | 2005-11-23 14:25 | 歌手 | Comments(0)

「Dunque」第一回公演イタリア語によるオペラアンサンブル

先日、お仕事をごしっしょした若い歌い手さんから、チケットを買って、久しぶりに演奏会に行ってきました。「Dunque」とはイタリア語の接続詞で「だから」とか「それで」とか、文章の切り替えや、始まりに使う言葉ですが、その名の通り、初めの1歩という感じの演奏会でした。
歌い手さんたちは、今年武蔵の音楽大学の大学院を修了した人たちが中心で、ピアニストが二人で演奏をします。7演目くらいのオペラのシーンを選んで、それぞれが少し演技も付けて、演奏していましたが、こう言った公演にありがちな良いところも、悪いこところも、はっきりと現れた演奏会でした。
まず、面白かったのはこの団体の代表者が歌わなかったことです。元々、制作を希望しているのかもしれませんが、プロデューサー的な人がいると言うことは、この団体の将来性をちょっと期待させます。良く、学生や、若い方たちがグループを作るとき、大体が自分達が歌いたいために、作るのですから、制作も自分達でやり、そうなると、結構自己満足な発表会で終わりがちで、その後のヴィジョンがたたずに続かないことが多いです。あるいは、企画性が無く、ただ、歌って終わると言う、演奏会を毎年続けることになります。しかし、誰か外側の人が、こう言った目的をもった、団体を作ろうと思い、制作をすると、客観性が生まれて、より発展しやすくなります。冷静に見れますから。それで、好感を持ちました。演目も、どう選んだかわかりませんが、割と歌う人に合った、面白いラインナップは並んでいました。オペラが好きなのがわかります。
しかし、その制作者のヴィジョンと参加した歌い手達のモチベーションが比例しているかどうかは、ちょっとわかりませんでした。これは、若い歌い手さんばかりでやる場合の弊害ですが、ほとんどの歌い手さんが、「勉強するため」と看板を首から下げているような演奏をします。「すみません、まだ勉強中で、それでも歌いたいし、経験も積みたいので、付き合ってください」などと、言われているような音楽の作り方です。つまり、2、000円と言うチケットを売っているにもかかわらず、それを返す努力をまったくしてないように見えます。もちろん、本人達は一生懸命でしょう。頑張ってお客様に楽しんでもらおうと必死でしょう。しかし、足らないものが一杯です。少なくとも、絶対にお客を眠らせない、というエネルギーくらい持つべきですが、多分、本人達にはわからないでしょうね。ですから、製作者は考えなければいけません。なぜ、こうなるのか。
音楽をまとめる人がいないからですよね。自分達で創りながらというのが、これくらいの人たちには、一番難しいし、だらけるし、甘える要因でしょう。本番はいなくても、指揮者稽古を入れるべきでしたよね。と、言うか、それくらいのクオリティを創る努力をしなくてはいけません。「勉強」に付き合って、2千円払う馬鹿はいませんから。どこでお客を満足させるかが、団体を作るものの責任です。
そういう意味では歌い手にも差はありました。私にチケットを売ってくれたバリトン君は非常に良いモチベーションで舞台に立っていました。演奏も良かったですし、何より将来性を十分感じさせる音楽を聴かせてくれました。それから、ピアノを弾いていた男の子も、素晴らしく音楽を聴かせてくれて、堪能しましたが、その他の出演者は正直聴いているのはちょっと辛かったですね。特に女性の中には、あきらかに「勉強中」と言う看板に顔が隠れているような方も。これは個人的な問題です。この演奏会を10年後の自分のために利用しようと言うくらいのヴィジョンがあるかないか。いずれにしても、今だけを見ているのでは、人間は伸びませんから。
まあでも、色んな意味で行ってよかったです。収穫もありました。たまにはお金を出していくのも良いもんですね。たっぷり文句も言えますもんね(^^)。
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by kuniko_maekawa | 2005-11-22 00:28 | 観劇日誌 | Comments(0)

「リア王」朗読会

日付はとっくに変わってますが、本日(11月16日)は朗読会の本番でした。場所はアミューたちかわの展示室。この場所は展示のための、大きな柱が二本あって、後はだだっ広い感じですが、その柱があるおかげで、面白い空間の切れ方になっていて、去年も、ここを使いました。今年は読み手と客席と向かい合うように椅子を設置して、読み進めました。
お客様は20人くらい集まってくださり、読み手との距離も、人数も、ちょうど良い感じ。空間としては良かったと思います。しかし、如何せん長かった(^^;)これは、明らかに私の脚色ミスなんですが、それでもぎりぎりで4ページ分くらいカットして、結局2時間半かかりました。しかも、集中力が切れるのが嫌で、休憩も入れませんでしたから、お客様は本当に大変だったと思います。来てくださった方、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。
読み手たちは本番一番良かったです。午後に軽くリハーサルをやったのですが、その時、まだ空間を感じることが難しかったみたいなのですが、さすがにお客様が入ると、ちゃんと語り聞かせると言うことを意識してくれるのですね。この本番になって初めて、それが出来た子もいました。良かったです。これらのことが、彼らには経験となって残ってくれますから。
打ち上げのときにも話したのですが、こういうことは、どういう経験になったか、はっきりと形になるものではありません。なんだって、そうです。多分、次に何かを歌うとき、あるいは同じように、喋るとき、ふと気づくものです。それが明日か、10日後か、一週間後かわかりません。でも、それでいいのだと思っています。私自身も、今ではなく、5年先をみてこう言ったことを始めています。今回読んでくれた人たちも、きっとどこかで、今日のことが経験となったことを知るでしょう。とにかく、また色んなことを考えた本日の本番でした。惜しむらくは去年読んでくれた人たちが、一人も出られなかったこと。続けていければ一番いいのですが。来年、今年読んでくれた人たちが、また出られることを祈っています。
さて、今度は来年の試演会に向けて準備を始めます。今度は彼らの本職、歌うことです。そのときに、今日のことが良い経験になっていくといいと思います。とにかく、読み手の皆さん、聴きに来てくださった方々、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました!
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by kuniko_maekawa | 2005-11-17 02:25 | 稽古場 | Comments(0)

レパートリーにする

本日はレッスン日。二本やりました。一本は今年から来始めた人で、まだ2ヶ月くらいでしょうか。割と定期的に作品を持ってきて、リブレットを読んでいます。もう一人は2年目にはいるところです。私がレッスンを始めたときに、最初に来てくれた人で、6月のレチターレ以降、しばらく音沙汰無かったのですが、10月から復帰してきました。一緒に始めた人たちが、レチターレ以降、誰も戻ってこなくなったので、ちょっと意気消沈していたところに復帰してくれたので、なんかとても嬉しいのですが、もう一つ意外な効果が。
彼女は昨年うちにきたときに、何かの役を勉強すると言う目的は余り持っていませんでした。声楽的なことの問題がやっと解決し始めた頃でしたから、これから方向を決めていく最中でした。それでリブレットを読むときに、「先生だったら私に何の役をさせたいですか?」と言われ、何の気なしに渡したのが「コジ ファン トゥッテ」のデスピーナと言う役でした。理由は簡単です。今まで、彼女が研究生期間で「フィガロの結婚」のケルビーノのような少年役、いわゆるズボン役しかやったことが無かったこと、彼女自身が、私のところに来る理由として、色んな方向から自分を変えていきたいといったこと。デスピーナと言う役は主人公の姉妹が住む屋敷の女中ですが、好き勝手に物をいい、欲を持ち、ちょっと色っぽく、浅はかです。彼女はとても真面目で、自分の生き方にしても、しっかりした考え方を持っていますが、ちょっと考えすぎるのがたまにきず。今の彼女を変えていくのには、良いかと思ったのです。そこでリブレットを読み始めました。しかし、しばらく勉強を続けていたとき、ある団体のオーディションを受けて、オペラのハイライトに出ることになりました。それがなんと「コジ ファン トゥッテ」しかし、役が違います。姉妹のうち、姉のフィオルディリージ。それで、急遽その役で勉強を切り替えました。ちょうどレチターレの前で、それにもコジを乗せるつもりでしたから、半年くらいは勉強したわけです。そこまでで、いったん勉強は切れてしまいました。
先月復帰してきたときに、やはり何を勉強するかと言うことになり、中途半端だったコジの勉強を再開しました。しかし、一度は公演をやり、役としては勉強しているNoも再びみていくということにして、一冊勉強すると言うことに切り替えました。そうすると、メリットが一杯あるのです。一度は勉強している作品ですから、単語や、意味なども調べて、台詞として読むこともしていますが、それを踏まえて改めて読んでいくことで、今度は役を深めていくことが出来るのです。つまり、ひとつの単語や、シチュエーションに対して、彼女の方の理解度が深い。知らないことを知っていくより、引出しが増える感じです。これは、私も気づかない無いメリットでした。一度読んだくらいでは、見落としていることが一杯あるのですね。
楽譜を一冊全部読んだら、実際に音楽にして、立ち稽古までを予定しています。ちゃんとレパートリーにするということを、時間をかけてやろうと話しています。今度は彼女もやり通すと思います。今、楽譜を読みながら、彼女がちょっと大人になった感じがしてますから。成長はあるのですね。嬉しく思っています。こういうレッスンを望む人がもっと来てくれれば良いと思います。それにはこう言った努力を、ずっと続けていくべきなんでしょうね。もちろんそれを必要としてくれている歌い手さんと一緒に。
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by kuniko_maekawa | 2005-11-14 19:45 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

「リア王」通し稽古

本日は朗読会の最後の稽古でした。初めて全員揃って読みあわせをしました。それにしても、長い・・・・・。自分で台本を脚色しておいて、うーん、飽きる・・・・。まあ、しょうがありません。芝居にしないで、ただ台詞を聴いているだけです。休憩など入れたら、あっという間に聴いてる方は集中力がなくなるでしょうから、休憩は入れないでおこうと思っています。
それにしても、こうやって色んな声の作る音を聞いていると、本当に、台詞の自由さを確信します。読み手はそれぞれの椅子を持っており、台詞を読むときは立って読む、それくらいしか、動きは与えていませんから、後はそれぞれの裁量なのですが、これもほんとうに様様ですね。大体は、私の方向に創っていっているのですが、それでも、ふと、その人の持つ感覚によって、全然違う音が聴こえてくる。音・・・。私の耳には、台詞もサウンドの一つです。なので、9人いれば、9人の音で耳を刺激されています。そして、その声を聴きながら、私の想像力が刺激され、私の中の役を作っていく。今回も、そうやって一本作らせてもらいました。もちろん、芝居をつけているわけではないのですが、台詞を読むのを聴いているとき、声とともに、台本の言葉が立体化してきて、いつのまにか、読み手が衣装を付けて、舞台が現れると言う、ずいぶん楽しい想像力の中に、私はいることが出来るのです。きっと私が一番楽しんでいるのでしょうね。
惜しむらくは、もうちょっと時間を取ることをやった方が良かったかということ。これは、私の忙しさもありましたが、やはり突貫工事ではなく、ゆっくりと時間をかけるべきだったかもと、ちょっと反省しています。読み手が役者ではありませんから、こなす時間が思ったよりかかった子もいましたし、風邪を引いたり、オーディションと重なったり、そういったことで、休みが多くなったことと、それをフォローするには稽古期間が短かったので、こなしきれなかったことなどがあります。まあ、しかし、そうはいっても、本番は来ます。反省はそこまでで、後は楽しんでくれればいいな、という感じです。こう言った会を起こすのは、結構大変なことなのですが、発見や、刺激の方が多くて、またやりたくなります。やっぱり、一番楽しんでいるのは、私ですね(^^:)
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by kuniko_maekawa | 2005-11-13 23:45 | 稽古場 | Comments(0)

悲劇なのか、喜劇なのか?

このところ、毎日朗読会の稽古で「リア王」の台本と向き合っています。この台本は、本当に良く書けていて、もちろん、それだからこそ名作として世に残っており、映画や演劇、さまざまな役者が挑戦しています。それもさもありなん。読めば読むほど、その面白さに舌を巻きます。
前回読んだ「十二夜」も面白い台本でした。しかし、こちらはコメディで、もっと台詞に軽さがあったような気がします。つまり、台詞自体はすごく面白かったのですが、案外場面としては額面どおりに受け止められて、単純に感じられました。その単純さも風通しが良く、楽しかったのですが・・・。今回の「リア王」は、それぞれの役が持っている欲や、境遇、運命などが、結構重く、台詞にもしっかりと反映されているので、ともすれば、読み手に重責を与えてしまう感じがします。と、言うか、読み手が、勝手に重責を感じてしまうと言うのが、正しいようです。つまり、悲劇性に捕らわれすぎる。
日本語は漢字文化ですから、漢字を見ているだけで、そのイメージが湧いてきますよね。ですから、読み手もすごく素直に、その世界に入っていきます。例えば、「不幸」「悲惨」「涙」みたいな言葉の羅列を読むときに、マイナスのイメージだけで読んでしまうということ。しかし、ここで大切なことが一つ。その言葉のもつイメージの度合いです。つまり、この場面のその役に関して、どれくらい「不幸」な「涙」を落としているのかと言うこと。ここが、悲劇を読むときの一番の落とし穴だと感じます。
私は自分で台本や楽譜のリブレットを読むときに、こう言った場面に関して、余りにも、単純に読みそうになったら、必ず別の方向からも見ることにしています。どういうことかというと、きっと、普通に受け取ったら、これくらい嘆くだろうな、という言葉があったとします。例えば、娘の死体を抱えたまま出てきたリア王の姿を見た周りの人間の反応として「ああ、これがこの世の終わりか!」と言うような台詞。こういうとき、実は(実際にそうだったのですが、)読み手はいきなり悲劇的にこの台詞を喋ります。リアが娘の死体を抱いてくると言うことに悲劇性を感じるからです。私も、最初はそう感じます。しかし、台詞を喋る人物が、もっともリアに愛情と己の命を掛けていたら、この姿を見たときに、どんなショックを感じるでしょう。感情を吐き出すことよりも、呆然となるかもしれません。そうして読んでみると、やはり、その方がより悲劇性を感じたりします。つまり、悲しいことを悲しいと嘆くだけでは、逆に信憑性が無いと言うことですね。そう思って、「リア」を読んでいると、まさに色んな場面が想像されて本当に面白いです。そして悲しい。
朗読会の本番まで、私に残された、稽古は後、一回。そこで始めて、読み手が全員揃います。どんなリアになるのか、その日にかかっています。楽しみですね。やっぱりシェークスピアは天才です!
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by kuniko_maekawa | 2005-11-12 00:24 | 稽古場 | Comments(0)

お客様と一緒

常々、舞台人であれば、お客様を意識するべきだということを言いつづけています。このブログでも、再三にわたって、そのことを言っていますが、じゃあ、どうすればお客様と仲良くできるのか。
正直、方法は私にもわかりません。一言で言えば、「経験」なのかなあ・・・。
一昨日より、朗読会の稽古に中村靖さんという、藤原歌劇団団員のバリトンの方が参加してくださっています。これには色々経緯がありまして・・・・。もともと、ご本人と私は藤原の本公演でご一緒させていただく機会が多く、それと研究生期間でも、毎年のように顔を合わさせていただいてますから、10年来のお知り合いです。昨年トレーナーを始めたときに、第一回目の朗読会を彼の生徒さんが観に来てくださったらしく、その話しを聞いて、中村さんの方から「参加したい」とおっしゃられて、今回の運びとなりました。話しをいただいた私のほうがびっくりでしたが、きちんと参加費を払ってくださり、真摯に稽古をしていただいています。
さて、元々こういったことがお好きですから、当然、台本をご自分でも読み下して、彼なりの「リア」像が出来上がった状態で、稽古場に来てくださっていますが、他の若い子達と徹底的に違うのが、彼の言葉が発する先に客席が感じられることです。うーん、さすが。台詞の構築や、人物像などはこの稽古の最中に、私と創っていきますから、これは他の子達と変わらない作業です。しかし、若い子達はそこから、空間を広げるのに苦労します。この前の記事にも書いたとおり、「読む」ということにとらわれて、自分の中から台詞が外に出て行かない。何回か、立ったり、相手と向き合ったり、そんなことをしながら、やっと「生きた台詞」になってくる。中村さんの場合、最初からお客が対象です。これは、やはり「経験」なのだと思いますね。舞台をこなしている回数が多ければ多いほど、常に、自分の周りに、自分を見ている、あるいは自分に期待したり、失望したりする他人の目を感じているでしょうから、自然に自分を投げ出して、客の感想に任せる、ということが身についているのです。冗談からコマみたいな(?)彼の参加でしたが、本当に良かったと思って、神様に感謝。一緒に読みながら、若い子達がどんどん良い影響を受けていきます。嬉しいですね。
それにしても、今年の朗読会は本当に突貫工事です。短い稽古期間に加え、今ごろになって、風邪引きや、体調不良で稽古を休む子も出てきて、なかなか思うようにいきません。入場は無料でも、客の前に出すのですから、なんとか2時間を満足して帰ってもらいたいです。私もそろそろ頭が「やすみたい~」と叫んでいますが、無視。とにかく、与えられた時間を楽しんで、頑張ります。
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by kuniko_maekawa | 2005-11-09 13:50 | 稽古場 | Comments(0)