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発語すること

歌には普通歌詞がついています。オペラの場合は台本。リブレットといいますが、これを声にしてお客様に伝えるのが、歌い手の仕事です。もう一つ、歌い手の仕事は、それを演じて見せること。この二つがあいまって観て楽しむ、聴いて楽しむという舞台が出来るのですが、この二つのことが、実は一緒だと、感じている歌い手さんは、案外少ないです。もしかしたら、指揮者や、演出家にも、これを別だと感じている人が居るかもしれません。いや、居ます(笑)。どうしてこういうことを書いているかというと、今、私の関わっている研究生期間で、最終学年が修了公演に向けて、頑張っている最中です。その稽古の中で、歌うことと、芝居をすることが一緒にならずに、困った状況が起こっているからです。
通常、音楽稽古を終えて、立ち稽古に入ると、当然演出家は、段取りといって、動きの導線を伝えます。外側からコンセプトを説明していくのですね。それが大まかについてしまうと、内容を詰めることに入るわけですが、この時、芝居と歌を別に考えていると、オペラは成立しません。どういう事かといいますと、オペラはまず歌って言葉を伝えることが第一条件です。その言葉が伝わらないことには、作曲家の音楽も伝わりません。作曲家はこの場面のこのキャラクターに使いたい音のために、言葉を選ぶからです。例えば、「椿姫」の2幕でヴィオレッタが家財を売るという書類をジェルモンに渡します。その時、ジェルモンが驚いて「Ciel!」といいますが、驚いた時に発する言葉は、イタリア語にも一杯あるわけで、「Deh!」でも単純に「Ah!」でも「Che!」でも何でもいいわけです。しかし、ヴェルディは「Ciel」と言う音が欲しかったのだと思います。これが、歌い手が発語する意味です。ですから、内容を伝えることと同時に、やはり作曲家の音楽を伝えることになるわけです。そのための楽器として「声」が欲しかった。
ところが、大抵の演出家や、歌い手、もしかしたら、指揮者も、これを単なる台詞と解釈してしまいがちです。これが困ります。ですから、まず言葉を喋る位置が非常に自分に近いです。音として感じられないので、口の奥で発音してしまうのです。これでは、劇場に居るお客には届きません。それで動きや、表情を作れといわれる。とんでもありません。まず、ちゃんとした発語をしなければ、芝居など出来るわけがありません。「その言葉を、こういう感情で伝えたい」からブレスをして、歌う。その時、発語される言葉の位置は、自分より少なくとも、3メートルくらい舞台前です。そこに届く、息をして、歌わないと、言葉にエネルギーが無くなりますから、結局顔芝居になりますし、体も使われませんから、結局ふにゃふにゃの、意味のない身体で芝居をすることになります。いつも、私のレッスンで私が最初にしなければいけないことは、発語する息を作ることです。本当に、どうしてこんなことになるのでしょうか。この一週間、研究生の授業でも、言っていることは同じです。そして、何人かレッスン室に引っ張っていって、どれだけ体を使わずに喋っているか、実体験させると、あっという間に良い声と綺麗な息で歌う様になります。そして、キャラクターと芝居が出来てくる。これは、私に才能があるのではありません、歌い手が忘れていたり、気づかないだけです。
こういうことも、やはり劇場経験が少ない研究生や、若い歌い手には難しいかもしれません。しかし歌わなければ。それが歌手の仕事ですもの。とにかく、これを読んでいる歌い手さん!歌うことは発語することです。良い声を出すためにレッスンがあるのではありません。良い発語をするためにテクニックを磨くのです。これを、どうぞ忘れないで、あるいは思い出してください。わかんない人は、私に電話してくださ~い!(笑)
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by kuniko_maekawa | 2006-02-26 19:54 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

歌うこと

いや~、久しぶりに、研究生の授業に行ってきました。なんと、二週間ぶり。後、一週間もすれば、修了公演本番だって言うのに、この体たらくはどうでしょう?ま、元々こういうスケジュールであったと言うことを盾にして、授業に出ましたならば、中々面白いことが起こりました。
その前に、行きの電車の中で、ある歌い手さんと、メールのやり取りをしていました。若い歌い手さんで、今はテクニックもついてきて、段々欲も出てきています。ですから、自分のクオリティを上げるために、何が必要かを、必死で探している最中。先だってご一緒したときにも、歌唱がどうであったかを聴きながら、色々試しているようでした。私は、そういった状態も必要なことだと思いますし、その歌い手さんが、高みを目指すことによって、足らないものを一杯見つけて、埋めようと努力するエネルギーにも、感心していますが、本当は、もっと単純なことがその人にあっても、良いのにと思い始めていました。随分前から知っている人ですが、ちょっと、先を急ぎすぎる感じがする。答えを知りたがると言うか・・・・。そこで、その人に「歌うことの本当の意味がわかるといいね」と言うようなメールをしました。その人は、「歌うことの意味は、お客様にある」と返信。それも言い得ています。でも、私は、歌うことの本当の意味は、歌い手さんの中にある、と思っています。彼らの中にある、「何か」。その何かを背中から、ぽんと、押される瞬間がある。そうお返事しましたら、「その何かって、なんでしょう?」。私は、ちょっと答えあぐねて、そのままにしていました。
すると、今日の授業中に、その「何か」に背中を押された瞬間を観ることが出来ました。研究生の一人が、歌い出した瞬間から、体ががちがちになって、ちっとも声が出ていない。本来、その子は、歌唱力を持っていて、頭も良いし、ある程度はいつも歌えて、誉められるようなレベルの子です。今日も、もちろん、そうでした。いつものように、そつない歌を歌おうとしていました。しかし、私の目と耳には、その子の体がちっとも息をしてなくて、言葉が聴こえないことばかりが、気になります。それで、なんだか苛々してきて、「ちゃんと発語しろ」としつこく、言い放っていますと、本人も、何が悪いのか、わからなくなってきて、一瞬パニックしたのですね、考えることを止めて、体の力を抜きました。その瞬間、ただ、体のポンプから、息だけが送られて、見事な音楽が、声となって出てきました。つまり、それが彼女の「歌」です。何が起こったのかわからなくて、彼女は泣いていましたが、その瞬間の身体を、きっともう、覚えてないだろうと思います。授業が終わって、私の傍に来たときも、あっと、言う間に頭でっかちに戻っていました(^^;)
本当に歌うこと。多分、それは「自由になること」なんだと、私は思います。歌い手を職業とした日から、彼らの中では、クオリティと評価と言うものとの戦いが待っています。しかし、歌手になろうと思った動機は、ただ「歌いたい」と言うことだったかもしれません。「歌うこと」が足枷にならない様に、自由に歌って欲しいと思います。先の、メール交換した歌い手さんにも、きっと、こういう瞬間が来ると思います。実は、私はその歌い手さんにも、その瞬間を感じたことがあるのですけどね。
さてさて、次回は、どんな歌が聴けるのか、楽しみな若い人たちです。
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by kuniko_maekawa | 2006-02-21 22:38 | トレーナーのつぶやき | Comments(2)

「おぺらえひめ」第二回定期演奏会

昨日松山市にて、無事に公演が終わりました。以前も、一度記事にさせていただきましたが、この団体は、ソリスト、合唱団、オーケストラ、裏方までが会費を納めている会員さんで構成されている団体です。この形は、日本では珍しいと思うのですが、それが良い効果を生んでいると感じた公演でした。私は、今回、指揮の須藤桂司さんからの依頼で、構成を少しお手伝いさせていただきました。
第一部はヴェルディとプッチーニを中心とした、ハイライト。まず、オーケストラによる「運命の力」の序曲。それから「仮面舞踏会」からデュエットとアリア。それから「蝶々夫人」からアリアと、「花の二重唱」。これらの楽曲を、ナレーターさんに紹介してもらいながら、ガラコンサートという感じで進めました。第二部はシュトラウスのオペレッタ「こうもり」のニ幕を全幕。
最初に曲目だけを聞いたときは、どうやって構成するもんかと頭を抱えましたが、須藤氏いわく、来年、この団体は「こうもり」を全曲公演するのですが、その前に、メンバーの方々に、一度場面を作るということを経験してもらいたいということ。楽曲自体は、団体の方からのリクエストであったみたいですが、そういうことなら・・・・・、と言うことで、つたない言葉で台本を書きまして、なんとか形を作らせてもらいました。
公演は大成功。あまり、馴染みの無いオペラのハイライトを心から楽しんでいただき、手拍子や拍手もどんどんしてくださいました。暖かくて、良いお客様だったと思います。来年の公演にも繋がるのではないでしょうか。
しかし、ここまでの成功の功労者は、やはり会員の皆さん、一人一人の努力の結果です。今回、私は、スケジュールが混んでいて、あまりお稽古に参加できませんでした。それで、やむなく簡単な動きをつけて、そのままほったらかしの状態でした。しかし、ソリスト、合唱団の皆さんは、それぞれに、渡されたものを膨らませて、きちんと形にして、舞台に出してくださいました。ですから、今回は、皆さんが、ご自分達で創った舞台です。だからこそ、心から楽しめただろうし、それがお客様に伝わった。そうでなければ、あんな、暖かい拍手はいただけません。本当に、楽しい公演でした。そして、須藤氏と、会員の方々との信頼関係。アマチュアの方々は、それぞれにお仕事を持っていらっしゃって、稽古に通ってくるのも大変だと思います。けれど、それでも稽古場に向かう理由の一つには、須藤氏のような、情熱を持って音楽家達を育てたいと願っている人がいないと、無理かもしれません。もちろん、音楽的にも素晴らしい才能を持った人ですが、演奏家として、指導者としてのある種のカリスマがあり、モチベーションを持っています。彼を中心に、オーケストラの皆さんの音楽感がどんどん膨らんでいました。「こうもり」など実に楽しいオケでした。
それにしても、この団体は本当に色んな方がかかわっていて、感心しました。例えば、本番の会場である愛媛県民文化会館の技術の方たち。基本的には助成として会館の設備などは使えるのですが、会館の方々も、団体との信頼関係があり、一生懸命照明を作ったり、相談を受けてくれたり、尽力を尽くしてくださいました。そして、こう言った信頼関係を作るべく、奔走している事務局の皆さん。色んな方の力が結集して出来上がった、公演だったと思います。
もちろん、課題も一杯あるでしょう。でも、地方だから出来ること、しなければいけないこと、あると思います。是非、頑張って息の長い、団体になって欲しいと思います。それがオペラを根付かせる大切な第一歩ですもの。その第一歩にかかわれて、良かったと思います。良い経験をしました。きっと、ブログを読んでくださると思って書いてますよ、合唱団の皆さん!(笑)
本当に、お疲れ様でした。これからも、楽しい舞台を一杯創ってください!私も元気をもらって、明日から、また頑張ります!
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by kuniko_maekawa | 2006-02-20 20:04 | オペラなお仕事 | Comments(5)

新国立劇場「愛怨」

やっと初日が開けました。今回は、稽古インから本番まで一ヶ月無いという、新作物にはありえないスケジュールでしたが、キャスト、スタッフ一丸となってという、表現が本当にぴったりなくらい、みなで頑張って、創りあがった舞台だった様に思います。
さて、鳴り物入りの新作は、台本が瀬戸内寂聴さん。作曲が三木稔さん。ずいぶん前から、話題性だけはありました。時代は、日本の奈良時代。楽士である大野浄人が、妻、桜子を日本において、遣唐船で唐にわたります。聖明女帝から、秘曲「愛怨」を唐の光貴妃より賜って来いというもの。ところが、浄人の乗った船が嵐にあい沈没。桜子はそれを聞かされて、夫が死んだと気が触れて、池に飛び込み自殺をします。しかし、浄人はなんとか唐にたどり着いていた。そこで、偶然阿倍奈香麻呂(阿倍仲麻呂)に助けられ、光貴妃の下に。そこには桜子にそっくりの柳玲という、琵琶の弾き手がいた。ここから、この二人の恋愛物語になっていきます。
物語は、大恋愛大河ロマン。そこに、三木さんの歴史的観念なども入り、ほんとに大河ドラマを見ているよう。音楽も雄大で、オーケストラもワーグナー的に厚いです。ソリストは大変でした。
演出は恵川智美さん。国を行き来し、歴史的背景や、その中でのフィクションの部分も、丁寧に、尚且つわかりやすく、本当に素晴らしい演出でした。舞台美術家の荒田良さん、衣装家合田瀧秀さん、各プランナーの才能が、作品を創るために従事しているという、まさに職人的な作品創りだったと思います。お三方とも、大先輩ですが、今回も色んな経験と、勉強をさせていただきました。
今日は初日組みで、ソリストも本当に素晴らしく、特に、浄人の経種康彦さん、柳玲の釜洞さん、お二人は日本語の歌唱も綺麗で、発語がわかりやすいし、やはり、歌い手さんとしての身体能力や、和物の所作など、本当に勉強なさっているのだと、感心しました。もちろん、内容に関しても、言葉のイメージや、音楽の感じ方など、それぞれに才能を持ってらっしゃいます。脇を固める、黒田博さん、峰茂樹さん、柴山昌宣さんなど、きちんと場面での居方が出来る人たちで、全部で14景のこの作品の、どの場面も見ごたえのあるものでした。私の一押しは、阿倍仲麻呂こと朝慶を歌った田中誠さん。お仕事するのは久しぶりでしたが、綺麗な息の歌い手さんで、身体も大きく、存在感があるのですが、決して舞台で邪魔な居方はせず、まさに圧巻。阿倍仲麻呂という人は、18歳で唐に渡って、皇帝に気に入られ、結局日本に戻れなかった人です。百人一首にある、「あまのはら、ふりさけみれば、春日なる、三笠の山にいでし月かも」この句をご存知でしょうか?これを詠んだのが阿倍仲麻呂。今回の作品でも重要な役どころにいます。
そして、楽しかったのが、合唱団恵川さんの演出の特色でもあるのですが、合唱団一人一人に、細かい設定があり、それをメンバーの方々が、それぞれ膨らませてくださって、面白い舞台が出来ました。本番は19日まで。皆様一度、覗いてみてください。日本のオペラ界も、まだまだ元気だと、嬉しくなりますから(^^)v
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by kuniko_maekawa | 2006-02-18 01:38 | 観劇日誌 | Comments(4)

舞台時間

さて、本日は新国での仕事GPでした。今、「愛怨」と言う、新作物をやっています。後一回GPをすれば、あさって本番。今回は時間も少なく、しかも、新作物ということで、もちろん作曲家も詰めていますから、色々音が変わったり、サイズが変わったり、生ものを扱っている稽古でした。
さて、先の記事でも、場当たりのことを書きましたが、舞台で稽古するときに、一番気をつけているのは、時間です。もちろん、普段の生活の通りに、24時間時間は流れているのですが、劇場で流れている時間を読み間違えると、これが大変なことになるのです。私は、これを舞台時間と命名しています。どういうことかといいますと、劇場には時間制限があります。まあ、何をやってもそうでしょうが、新国の場合は、10時から22時まで。この時間帯で使用できる様になっていますが、この時間は、作業可能な時間帯。10時ジャストに入ってから、22時ジャストに劇場を出るということです。その中で、やらなければいけないことが、一杯あるわけですが、それを区切っていくのが、これまた時間です。当たり前だといわれそうですが、結構大変なんですよ。だって、その時間を使いたいセクションが、少なくとも、4つ以上はあるわけですから。
まず、演出家です。それから、照明家、音響、舞台美術家、そして指揮者。この人たちが、いっせいにやりたいことをやるには、どうしても時間を区切ります。これを仕切るのが舞台監督。
例えば、ある日のスケジュールは、ざっと、こんな感じ。
10時:明かりあわせ
12時:転換稽古
14時舞台稽古開始
18時修了1時間休憩
19時オーケストラ返し稽古
20時:明かりあわせ
21時:修了
てな具合、ですが、この間に駄目だしや、衣装の直しや、小道具の直し、いろんなことが劇場では起こっています。
私たち演出助手も、時間をうまく扱うことが出来る様になれば、1人前。私は20年近くこの仕事をやってる分だけ、だいたいはうまくいく様になってきました。例えば、舞台稽古など、今回は転換も合わせて、やっていきましたから、二日間かけて全幕稽古するつもりで、スケジュールを組みました。その時に必要な情報は、時間と質量。例えば、1景は何分かかって、転換がどれくらいの量で、人がかかわっているのかいないのかとか、そういうことです。それによって、この景は音をつけて、両組やるとか、この景は動きだけ確認するとか、それを判断していきます。それを尚且つ、大きな時間枠で仕上げていくのですから、2時間なら、2時間の時間の感覚もないといけません。つまり、細かい景を稽古する時間を頭の中で、足し算とか引き算とかしていきながら、大きな計算は2時間の中なのです。だから、まず2時間ってどれくらいかという、まったく感覚的な長さが想像できてないと、時間をうまく扱えません。これが、舞台時間。どのセクションも、そうやって動いています。衣装は、何景に誰が、何を着るから、この時間で楽屋に入ってとか、これだけ照明をやりたいから、30分くれとか、みんなその時間を出すとき、頭の中で質量と、細かい計算をしているのです。こればっかりは、ちょっと普通の人とは違う才能かも(笑)。
もともと、公演時間自体が長いものですから、何をやっても時間がかかります。海外の様に24時間劇場が使えるわけではありませんから、当然、限られた時間で仕上げるために、皆お尻に火がついた状態です。それでも、仕上がってくれば、自然と時間も余裕が出来てくる様になり、いつのまにか本番です。何度も経験していることですが、それでも狐につままれた気持ちになることしばし。舞台って、こんなところも面白いんです。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-02-16 00:16 | オペラなお仕事 | Comments(0)

場当たり

さて、新国の稽古が最終通しを終え、舞台に上がります。今日、明日と明かり合わせなどをやりつつ、外側を作っている最中ですが、アシスタントの大きな仕事の一つに、「場当たり」というものがあります。これは、稽古場では組めない実際の舞台を、衣装を着て歩く前に、段取りに基づいて、位置決めや、危ないところの確認作業などをする時間です。日本には劇場が無く、実際の舞台で稽古が出来ることはありませんから、必ず行われる、日本特有の作業ですが、これが、結構大変です。何が大変かというと、場当たりというのは、大体がGPや、舞台稽古の前に、1時間くらい時間をもらって、色んな確認をするものですから、とにかく時間がありません。ですから、いつも大騒ぎ。今は、こちらにもノウハウがありますが、経験が無いときは、ただ慌てまくって、良く要領をなさないものでした。しかし、最近は、外人演出家や、歌い手達のおかげで、この場当たりという作業も、あまり重要ではなくなりつつあります。劇場を持っていて、そこで歌うことが慣れている彼らは、日本人のやるような、細かい作業には、あまり興味もなさそう。藤原や、新国でやるときは、どうしても危ないときや、明かりのしるしだけ、確認してもらうという感じになってきてました。
しかし、今回の新国での公演は、和物で、日本人キャストだけ。舞台の機構をフルに使ってやりますから、迫(せり)だの、階段だの、と、結構大変です。しかも人を乗せたりおろしたりしながら、曲中で転換していく。今回は、ばっちり場当たりをすることになりました。
新国の場合、舞台に入って、一キャストに三回の舞台稽古があります。まずピアノを使っての、舞台稽古。その次がオーケストラとあわせる舞台稽古。そして、最後がいわゆるGPです。通常、どの舞台稽古も、衣装を付けてメイクをして、よっぽどのことが無ければ、止まらないというものですが、今回は、その最初のピアノ舞台稽古を場当たり稽古に使うことになりました。
さて、こうなると、大変なのは私たち演助です。この時間内で、効率よく、危ないところをクリアし、尚且つ、歌い手達を疲れさせないように、集中できる稽古を組む。もちろん、合唱団、助演も同じことです。このメニューを考えるにおいて、2,3日前から、稽古を観ながらシュミレーションをして、何回も表を書き出しています。いわゆる進行表ですね。このシュミレーションをやらないと、実際に人を動かすことが出来ません。何せ、巻き込む時間と人数が半端じゃないですから、プレッシャーが多大です。もちろん、それが絵に描いたようにうまくいけば、良いわけですが、そうとも限ません。舞台は生きていますから。私は決して、起用ではありませんから、こういった無駄な努力がものすごく大切です。以前、アシスタントを辞めたくなった最大の理由は、このプレッシャーでした。またもや・・・・・・。今日、明日、足のこともあり、テクニカルの部分をお休みさせていただいているのですが、その分、完璧な場当たりプランを作らなければ・・・・。すでに、頭が活火山のようです(^^;)
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by kuniko_maekawa | 2006-02-07 22:33 | オペラなお仕事 | Comments(0)

判断力

演出家をやっている時(スタッフは往々にそうですが)、常に持っていなければいけないのは、「判断力」だと思っています。つまり、その時、その場、その瞬間に、何が大切かを瞬時に判断する能力。これに長けているかいないかで、現場の流れが変わります。そして、その判断の大きな査定は、「拾うか、捨てるか」。
例えば、本番までには3週間くらいの稽古をします。その中で、最初のコンセプトどおりに行かなくなることは大いにありますし、逆に必要でなくなることも多々あります。あるいは、歌い手に能力が無く、こちらのやりたいことが出来ない場合、予算的にヴィジュアルが作れない場合、とにかく、色んな判断をしなければいけません。この判断力が無い演出家やプランナーと仕事をする時は、本当に大変。時間ばかりを損して結局、本番まで上がらないということももちろんあります。
自分で、演出をする時、一番気をつけていることは、どこまでコンセプトを成立させるかということ。限られた時間の中で、あるいは予算の中で、こだわるところにはこだわり、そうでないときは捨てる。これをあやまると、結局スタッフと歌い手を巻き込んで、稽古はうまく行きません。先日も、とある現場で演出家が歌い手にこだわったために、休み返上の稽古になりました。歌い手もスタッフも、へとへとです。もちろん、タイプもあります。詰めて詰めてそのぎりぎりの中で、生み出すことに満足感を覚える。先の演出家はそのタイプなのですが、では、ここにいたる稽古で何を生んでいたのか。その期間の方が大切なのではなかったかと私は思います。この現場は稽古期間が短く、段取りを渡すだけでも大変だったと思いますが、だったら、その時おおまかなことを渡すだけではなくて、コンセプトも話しながら、きちんとわたすべきだったでしょう。逆に、ここまでの稽古の流れで、ちゃんと絵ができているのですから、どこかでこだわりを捨てて、大きな流れで作品を仕上げるという段階を踏むべきだった。そうすれば、皆を疲れさせることも無かったわけです。
こういうことが、演出家の判断能力です。結局は彼らが流れを作るわけですから、その意識がどこまであるか。
私は、自分で演出をするとき、ある程度まで稽古して限界が見えたら、さっさと手を引くタイプです。ですから、だいたい舞台稽古までに、やるべきことを終えており、それ以上の満足は得ません。これも良くないことだと思っていますが、その代わり、誰も疲れさせずに、期間の中で作品をあげることは出来ます。これは、私の中で、演出という作業が「夢」ではなく「仕事」だという、認識が強いからです。
どちらが良いとはいえません。しかし、その場の判断で影響を与える人たちが多いということだけは、いつも心においておかないといけない商売だと思っています。もっとも、こだわりが無いから、演出をやっちゃいけないかと思うことの方が然りですけどね(^^;)
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by kuniko_maekawa | 2006-02-05 13:19 | オペラなお仕事 | Comments(2)

想像力

私は、現在和物のオペラのアシスタントに着いています。日本オペラのことを「和物」と呼ぶのですが、このところ、稽古を観ていて、非常に感じることがあります。それが、お題の「想像力」。意味合いの範囲としては広いのですが、私が言いたいのは、言葉に対する想像力です。それとも、感性でしょうか、どういう呼び方をして良いかわかりませんが、今、稽古場で苦労していることの一つには、想像力が足らないと言うことがあると思うのです。
どういうことかといいますと、今扱っている作品は、「和物」と言うことは、当然日本語です。私たちが、日常使っている言葉で、生まれたときから親しんでいる響きですが、なぜか、イタリア語を扱うより、日本語を扱う方が、皆さん苦労なさっているようなのです。時代的には古い言葉が多く出てきますが、それも理解できないような難しさではありません。しかし、その単語にイメージが足らない。それから、歌っている言葉が、どういう意味合いを持っているのか、どういう方向性があるのか、それが膨らんでこない。解釈されてないのですね。
しかし、日本語だからこそ、われわれは想像力を豊かにして、言葉を扱わなければいけません。それは、無意識にわかると思ってしまうからです。日本語なんだから、お客様だって、わかる。そんなことありません。どんなにはっきり喋っても、歌っていると発語が乱れてしまいますから、すべてがはっきり聴こえるわけではありません。最近では、日本語のオペラにも字幕をつけることもあります。そのハードルを越えるには、歌い手さんの想像力如何によります。
これが外国語なら、端から言葉の意味がわかりませんから、辞書を引きますし、解釈をします。その同じ作業が、日本語にも必要なのです。
先月千葉でやった「魔笛」が成功だった理由の一つに、指揮の佐藤宏さんが、非常に、日本語の発語しやすいテンポを作ったことがあります。初めて聴くお客様に、日本語がちゃんとわかるように。結果、ちゃんと言葉が理解された上でのヴィジュアルがあったので、喜んでいただいたと言うわけです。
今の稽古場は、歌い手さん達の個々のレベルは高く、皆さん力量を持った方々ばかり、しかし、ご自分達の扱っている言葉に、イメージを持って、歌ってらっしゃる方は一握り。違いは息でわかります。一人、すごくそういうことに感性がある歌い手さんがいて、私は大好きなのですが、彼の言葉は一言一句、色があります。日本語だからこそ、感じる色なんです。それこそ、私も目指すことなんですが・・・・。言葉をつたえること。何語であろうと、それがまず、オペラの基本的なことだと、私は思っています。
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by kuniko_maekawa | 2006-02-03 23:53 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)