勉強会公演というもの

本日はご招待いただいて、あるオペラ団体の勉強会公演というものに行ってきました。こう言う公演に行くといろいろ考えさせられてしまって、内容を見るよりも、己に置き換えて、観ながら真剣に考え込んでしまいます。もちろん、招待いただいた歌い手さんの歌は全部聴いていましたが・・・・、さすがに勉強会公演だけあって、歌い手さんのレベルが高いわけではありませんので、つい、集中力がかけてしまうのです。ごめんなさい・・・(^^;)
今回はチケット代は前売り3000円、当日3500円です。会場は200席も無いくらいのコンサートホールのような感じ。響きは悪くありませんが、いわゆる演劇をするためにあるホールではありません。ですから、袖幕も無く、照明も、剥き出しのまま。その舞台の上に、平台がある形を持って置かれています。そして、ピアノが上手に一台。指揮者は客席で振ります。歌い手達の衣装も、女の子達はおそらく自前のドレス。男性は少し衣装が出ていましたが、飾るものは、何もありませんでした。小道具も最小限にして、家具も置かない。勉強会ですから、出演する歌い手さんたちにしてみれば、発表会です。一生懸命準備したり、お稽古したりしたことでしょう。
しかし、ならば、何故3500円もチケットを取るのでしょう。舞台上に、何も無いのはしょうがないとしても、平台に「けこみ」もつけないで、金を取るなんて・・・・。ご存知無い方のほうが多いでしょうから、ちょっと説明しますと、「けこみ」と言うのは、例えば、階段を舞台上においたとします。すると、階段の踊り場よりも、側面の方が客席に向きますよね。そこに木目が剥き出しにならないように、ベニヤの板などを階段の色と同じにしてはったりするのですが、その物を「けこみ」というのです。私たち舞台の人間からすると、この「けこみ」がないのは、裸で舞台に乗っているようなもので、非常に恥ずかしいものなのです。ですから、この状態で舞台セットとして使うと言うことを、「勉強会だからすみません、予算が無いんです」と言うことで、良しとする神経が素人で嫌です。しかも、「演出家」とプロフィールにちゃんと書いてたりする。恥ずかしいことです。
もちろん、予算が無いことは譲歩できます。勉強会に参加する人たちの、負担も相当なものでしょう。でも、客に対して、それを強要してはいけません。それでは、ご祝儀のために、チケットを買っているようなものです。ですから、せめても、チケット代をもっと安くするべきです。つまり、この舞台に見合うチケット代。舞台は粗末でも、衣装は自前でも、内容はクオリティが高いので、金を払っても損はさせません、と言うのは、うがった考え方です。
私はいつも、自分で事を起こすのに、考えるのはこういうことです。私は、少なくとも、最低限、お客に何を提供しなくては、金を取れないかを知っています。しかし、レチターレのように、レッスン生を教育的見地で舞台に乗せるときに、やはり、心のどこかで「予算無いんだから、許して欲しい」と思うこともしばしばです。しかし、それではチケットを売る子達も、どこか、後ろめたい思いをしながら、売ることになる。「舞台は何にも無いんだけどさ~」とか「音楽的には頑張るからさ~」などなど。あるいは、チケットを売らないで、自腹で招待する。それでは、何の意味もありません。「私の歌を聴いて欲しいから、舞台を観て欲しいから、チケットを買って」と、胸を張って自分を売ると言うことをさせたいのです。ですから、昨年は私が演出家として、なんとか恥ずかしくないくらいの金額でチケットはだしました。その代わりそのチケット代に見合うように、あるいは、それ以上にお客が満足するように、舞台を飾り、内容を創りました。チケット代はそれでも1000円でした。
今年も、レチターレを開催しますが、考え方は変わりませんお客は正直です。高くても、安くても価値観一つで、見向きもされません。そうやって、双方向の公演にするのが、私の目的です。
それにしても、招待してくださった歌い手君が(バリトンなのですが)、今までよりも、二周りくらい成長しているのを頼もしく思いました。彼らのためにも、今日のような公演は必要です。先の見えない世界ですが、なんとか道を繋げていきたいです。この後に続く人たちのためにも。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-30 23:55 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

自分で読む

昨年から、私は自分の誕生日に自分で朗読をする会を行っています。題して「お誕生日朗読会」まだ二回目ですが、一年経つのはあっという間。今年もその季節がやってきました。昨年は、「ラブレターズ」と言う作品を、歌い手の友人に手伝ってもらって読みました。これはある幼馴染が50年間交わした書簡を読んでいくもので、私はもちろん、女性の方を読んだのですが、年齢や、体験してきた時代が一緒で共感を覚えながら入っていくことが新鮮でした。
今年は女の子に手伝ってもらって、ダーチャ・マライーニというイタリアの作家の作品を読みます。「メアリー・ステゥアート」と言う戯曲で、エリザベス一世とその従妹でスコットランド女王であるメアリー・ステゥアートを軸に、彼女達のそれぞれの侍女達を絡ませ、メアリーが亡命して幽閉され、処刑されるまでをドラマとして展開させています。登場人物は四人ですが、私が観た舞台では女優さんが二人で4役を入れ替わりながら演じていました。非常に面白い作品です。残念ながら、台本は絶版されていますが、図書館などでも置いてあるところはあるので、興味がある方は探してみてください。
さて、私が朗読をやる理由はまず「刺激を受けること」。普段は演出家ですから、誰かを間に挟んで私のやりたいことをやってもらいます。ですから、自分で表現をするということをやったことがありませんでした。しかし、元々は私の中にある、あるいは生まれてくるものを、表現したくてこの仕事を選んでいるはず。だとしたら、私の身体からも発散されるものがある。それを、ダイレクトに人にぶつけてみたくて、始めたわけです。ですから、非常に下手です。どんな風に読めているのかも、見当もつかない。でも、良いのです。そのとき、私の体の中に何が生まれるかが大切なことなのですから。
昨年始めて読んだ時は、本当に面白かったです。言葉に刺激されて、私の感情や、息が動き、それを聞いている人たちに伝えたいと言う欲求が、どんどん産まれてくる。もちろん、読んでいる最中に、です。こんなにも、自分の中には何かを伝えたいと言う激しい欲求があるんだと、後でびっくりしました。それに、こうやって、人前に自分の身体をさらけ出すのも、声楽を辞めてからはまったくありませんでしたから、体が緊張しまくっています。これも新鮮だった。何より、朗読会の後から、私のレッスンの仕方がまったく変わったのも、メリットでした。実体験した感覚があるので、表現する引出しが、それはそれで増えているのです。予期せぬことでした。
今日は初めての読み合わせをやりました。相手の方と、何の打ち合わせもせずに、いきなり読み合わせてみます。面白い作業です。私の中でも、まだ何も動かない。お稽古は後3回ありますが、その間にどれだけ言葉からの刺激が私動かしてくれるのか・・・・・。う~、楽しみです~!
今回はプライベートな会ですし、ただの稽古場で読むので告知はしていませんが、興味ある方はコメントを残してください。インフォメーション致します。しかし、あくまで誕生日の記念に、勝手に楽しむだけですから、案外つまんないかもしれませんよ。ご了承くださいね。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-28 18:27 | トレーナーのつぶやき | Comments(2)

「トゥーランドット」サンフランシスコ歌劇場編

4月にサントリーホールで「トゥーランドット」が上演されますね。合唱が藤原歌劇団合唱部です。教え子やレッスンに来てくださっている方などが乗っているので、色々話などを聞き、どんなんだったかしらん?と、久しぶりにVDを観てみました。上演回数は割と多いオペラだと思うのですが、そういえば、舞台でじっくり見たことがありません。そんなことを思いながら、スイッチ・オン。
物語は中国の美貌の姫であるトゥーランドットが、異国の王子に傷つけられて死んだご先祖様のリン姫を慰めるべく、求婚してくる男達に、三つの謎を解かせ、それが一つでも解けなければ、首を落とすと言う残虐行為を行っています。そこへカラフという異国の若者がやってくる。彼は今は滅ぼされてしまったある国の王子。今、まさに処刑行われる広間で、偶然めしいになった、父王と女奴隷のリューに出会います。喜んだのも、つかの間、王子はちらと見えた、姫の美しさに心を奪われ、謎解きに挑戦し、見事、謎を解いてしまいます。求婚を拒む姫。カラフは姫に更なる愛情を求め、自分の名前を夜明けに姫が言い当てたら、命を捧げると伝えます。
私の持っていたVDは93年のサンフランシスコ歌劇場のものです。衛星放送でやったのを撮っておいたのですが、真面目に最後まで観ていませんでした。ところが、観てびっくり!かなり、素晴らしいのです!トゥーランドット姫はエヴァ・マルトン。この時期ご活躍で、「エレクトラ」など濃いオペラをやっていましたが、巨体であるにもかかわらず、美しい。声は私の好みではないのですが、それでも、彼女の芝居の感覚が好きです。このVDでも、質問のくだりから最後のデュエットに至るまで、姫の内面が、彼女の感覚で表現されていたように思います。そして、ルチア・マッツァリーナのリュー。この人は音楽の創り方が良い。口を縦に大きく開く発語の仕方なのに、言葉が鈍く感じないのは、ブレスがうまいのかもしれません。リューのアリアなど泣けてしまった。そして、ちょっと感激したのはティムールです。カラフのお父さん。リューとともに、流浪の旅に出て、やっと息子と会えたと思ったのに、トゥーランドットに心を奪われた息子は、自分の名前を姫が解き明かせば、命を捨てると言う。そのために、泡や拷問にも掛けられそうになると言う、非業の人。結局は自分しかカラフの名前は知らないとリューが言って、難を逃れますが、そのリューは愛するカラフのために、自害。しかし、このオペラの見せ場は、ひょっとして、ここなんじゃないの?って言うくらい、リューが死んでからのティムールの嘆きの音楽が素晴らしい・・・・。このVDでティムールをやったケビン・ランガンが良い芝居とよい声を持っていました。思わず号泣。おいおい、映画以外で泣いたのは久しぶり(^^;)。ちょっと、このプロダクションって相当良いのじゃないの?いや、素晴らしかったです。なんで、もっと早くに観ておかないのか(笑)
歌い手もさることながら、私にしては珍しく、演出も大納得でした。基本的にオーソドックスの中に、ピン・ポン・パン達の場面などになると、アクションがデラルテのようで、これはやっている歌い手さん達の身体能力も、相当高いのでしょうが、演出家のセンスですよね。そして、舞台と衣装、照明。どれをとっても、好み。舞台美術と衣装はデーヴィット・ホイックニーと言う人で、私は舞台美術展が東京であった時に、確か観に行きました。それで、パンフレットが残っており、自分で舞台を創る時に、よく観ていたのですが、VDを持っていたとは露知らず、観てびっくり(こればっかりでした)。おお!なんと、キッチュで美しい舞台じゃ~!こればっかりは、実際に見ていただかないと説明できないのですが、中国のイメージである赤が非常に綺麗に使われていて、しかし、写実的ではなく、どこかポップアートのようで、しかもバランスが崩れてない。それが舞台をちゃんと支えている。そこに、入ってくる青と紫、それから衣装の中国カラー。いや、VDの画面でこれだけ綺麗なのだから、本当の舞台はもっと綺麗だったでしょうね。ああ、観たかった(;;)
作品はプッチーニの遺作になり、確か3幕の後半は代筆で書き上げられたものだったと思います。そのせいか、ちょっと尻つぼみ。やはりデュエットが始まる前くらいまでが、感動的です。荒唐無稽な話で、音楽も、ちょっと大げさに感じるところもあるのですが、舞台で観たくなりました。それにしても、サンフランシスコは面白い劇場です。さすがに、TVでしか観れませんが、上演されるプロダクションは私が知る限りでは、良い歌い手、良いスタッフが集まって、丁寧に作っているように感じます。一度は直接行ってみたいです。さて、サントリーはどうなっているのことでしょう?興味のある方は、足を運んでみてください。別に、スポークスマンではありませんが(笑)
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by kuniko_maekawa | 2006-03-24 12:56 | 観劇日誌 | Comments(3)

「舞台のゲーム」

昨日、友人の友人である役者さんからご招待いただいて、面白い公演を観に行ってきました。会場は両国にある、シアターX(カイと読みます)。150席くらいの小劇場で、色んな演劇の試みを行っている劇場です。HPなど観ると、若手演出家や俳優と、劇場空間をつかって、ワークショップを数多くやっているみたいです。それも、内容は様々で、身体的なことや、言語表現のことや、演出家を交えて、公開練習みたいなことや。でも、ほとんどが無料か、低価格ですから、若い役者さんにはありがたいことですよね。
さて、昨日はそのシアターXが「ITI世界の秀作短編研究シリーズ」と題して行ったワークショップの最終公演でした。これは、翻訳劇の短編作の上演が日本で少ないことと、翻訳される国の言語や音声、環境によって、原作がどう変わっていくかなどを研究していく?(パンフレットを読むと、そう解釈してしまうので)試みのようです。
短編集は10篇。これを11人の役者さん達が入れ替わり演じていきます。舞台は彼らが座る椅子と、大きなオブジェが一つ。芝居の舞台美術を観ていつも思うのは、本当に、人間の身体さえあれば、飾るものはあまり要らないということ。もちろん、新劇や時代物となれば、そうもいかないでしょうが、それでも、ダンスと同じで、人が立って喋っていれば、その人の体から起こる物語がある。オペラの場合は、それが歌うことですが、少なくともオケと指揮者がいるですね(^^;)
上演された「舞台のゲーム」と言うのはフランスの作家、ジャン・ポール・アレーグルと言う人の作品。私は初めてですが、ほとんどが、いわゆる「不条理劇」と言う感じで、話の辻褄はあいません。オチはあるのですが、そこに至るプロセスは台詞の中では感じられません。例えば、二人の男と女がいて、いきなり「はっきりしない!」とか、叫んだりして、それに対して「ここ、海?」とか言って、芝居は進行していきます。例えば、「ゴドーを待ちながら」など、有名ですよね。
しかし、これに作者の意図が無いわけではありませんから、下手な俳優だと、かなり辛いことになります。昨日観た公演でも、実は、ほとんどが辛いものでした。一つの理由は、役者さん達の、体が使えてないこと。コメディと銘打っているものですから、笑って欲しい。笑わせようとして、彼らは頑張る。しかし、それは「・・・ようとして・・・・」と言うことをやっているだけで、自分達の台詞に、自分達のイメージを持って、しゃべっていない感じがする。その証拠に、体が死んでる。これは、私が普段歌い手さんたちと向きあうときに、常に感じて、意識しているところだからかもしれません。歌うか歌わないかと言うだけで、発語しているエネルギーが、体を作らないのは、おかしいと思うのですが・・・・・。その証拠に、お二人だけすごく上手だと思う方がいましたが、そのお二人は、無駄な動きはまったくなく、声に色があり、間も絶妙、何より、舞台の身体で立っている。特に、酒井麻吏さんと言う方は素晴らしかったです。ひょっとしたら、50代くらいかもしれないのですが、ご自身は朗読研究会みたいな劇団を主催なさっているようですが、まず、言葉がすべてはっきりわかる。どんなに早口でも。そして、言葉に色がある。何よりイメージが膨らんでいて、それが身体に信号を送っている感じ。まったく当たり前のことですが、台本が解釈されているのです。ですから、常に体から息遣いが聴こえてきて、舞台の空間を包んでいきます。この方の朗読など、きっと見事でしょうね。それを受けいている猿山のぼるさんと言う、女性の方も、同じように、舞台の空間で立てる人。酒井さんに煽られて、その空間がもっと広がっていました。彼女達は、それぞれ他の役者さんとも、作品をやったのですが、どの作品も、彼女たちとやることによって、相手の役者さんが、他の役者さんとやる時よりも、全然舞台人になっていました。すごいことです。
きっと、私の知らない、こう言った「うまい」俳優さんたちは一杯いるのでしょうね。でも、やはり、「言葉」ありき。その言葉をどう客に伝えたいかが、私たち舞台人の理由であることは、オペラも、芝居も変わりません。楽しい時間を過ごしました(^^)。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-22 11:45 | 観劇日誌 | Comments(1)

歌い手の口元

オペラを観ている時や、演奏会を聴いているとき、気が付くと歌っている人の口元を見ています。もちろん、耳が一番敏感にはなっているのですが、オペラの公演の時でも、動いている歌い手の口元に、よく目が行きます。これはですね、無意識ではありますが、声の発される場所を見ているのが好きだからです。
息を使うことが上手な歌い手さんは、口の開け方が綺麗です。つまり、表情があまり崩れない。もちろん、鼻空や口蓋を使っていますから、普通に台詞を喋っているような、自然な顔にはなりません。皆さんだって、カラオケで歌っている時は、声を出そうとして、案外変な顔ですよね(笑)。ただ、マイクを使って歌う場合は、響きも、大きさも機械が作ってくれますから、体を使うと言うことは少ないです。もち声と、感性で勝負できる。もちろん、これも素晴らしいことですよ。昨日もTVでR&Bのコンサートをやっていて、思わず酔いしれました。しかし、声楽の場合は、まず、マイクを使わずに劇場空間という広い場所で、しかもオーケストラを越えて客席に聴こえなければいけません。最近は、音響設備も整っているし、劇場自体も響きの良いところは増えてきましたが、それでも、所詮は小さな人間。これを助けるのが息ですよね。
私が、理想としている「歌い手が歌っている体」と言うのは、お腹から管が喉を通って口元まで来ていて、そこに声とともに、息を送るポンプが横隔膜で、それ以外はがらんどう(支えはもちろんありとして)。何も無い洞窟みたいなもの。送られた息と声は、口角によって形を変えるだけで、常に、出っ放しと言う感じです。もちろん、響きが綺麗でないといけませんから、声自体は響きを作る顔のどこかに(笑)、(多分鼻の上あたりか、額の上あたりかでしょうが)、当たってから出てくる。文章にするとちんけなものですが、こう言うことのバランスが良い人は、大抵、私の好きな歌い手さんです。つまり、耳に届く歌声が、心地よく、伸びやかであり、大きい。そして、これに発語をするという、イメージと言葉の解釈、音楽の解釈、などがセンスとして盛り込まれていきます。
口元を見ていると、まず、ポンプがうまく使えている人は、開けたら開けっ放しの感じがします。上唇と、下唇が自然な形で開いている。その開けた空洞から声が広がっている感じ。ほら、あれです、空海が口から7人(?)僧を吐き出している像。みたことあります?あんな感じです。この口元を見ると言うことを、やるようになってから、TVで歌っている人を観ても、なんとなく声の出方を感じるようになりました。TVは音声が調整されていますから、もちろん、本当の実力などわかりませんが、口の開け方が好きだと、大抵言葉の扱いが好きだったりして、楽しめます。皆さんも、ちょっとチェックしてみてはいかがでしょうか?結構、面白いと思いますよ。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-17 13:10 | トレーナーのつぶやき | Comments(4)

レッスン・カルテ

別に逐一細かく作っている訳ではありませんが、こういうことを始めて、早や2年が経とうとしています。トレーナーと言う看板を掲げて始めたのは一昨年でしたから、おお!もう、そんなに経ったか・・・、今日、たまたま初めていらした方のレッスンをしていて、そういう話になり、年数を数えてみたって訳です。しかし、去年は半分は現場でしたから、トレーナーだけで食べていたわけではありません。が、ありがたいことに、細々とレッスンは繋がっています。今年は、またトレーナーに専念できると良いのですが・・・・。やはり、この仕事が自分には一番あっているし、好きですもの。さて、色々やってきた結果、私の中にも何パターンか、法則のようなものも出来てきましたので、時々例をあげて詳しく経過を記事にしようかと思い始めました。しかし、これには結構難しい問題もあります。例えば、実際に事例を挙げていくと、名前を出さなくても、わかる人にはわかる。良いことも、悪いことも、思ったことを書きますから、案外否定してしまうこともあるかもしれない。Web公開ですから、誰が見るかもわからない。誹謗中傷のたぐいを受けたことはありませんが、ネット上の問題はいろいろありますよね。そこで、とりあえず、その例になった人に了承を取ると言うことをやろうと思っています。果たして何人の方が了承してくださるか。
こちらにも、条件はあります。研究生や、若い歌い手さんでも良いのですが、出来れば、ある程度現場のキャリアがある人。何回かのプロセスが踏めた人。例えば、最初に舞台を見たときにどう感じて、レッスンをしたら、どう変わっていったかなど、こちらも、その人の稽古や、本番が観れる状態にある人。つまり、カルテとしては変化していくことを知りたいわけです。しかも、私は歌の先生ではありませんから、役を創るプロセスも一緒に出来る人が良い。なので、本当は、レッスンを始めたら、稽古場などにも参加し、駄目だしや話し合いをしながら、そのプロダクションの中での役つくりと結果までを、一緒に作ってくれる人がいれば一番いいです。どなたか、そういうトレーナーを望んでいる方いらっしゃいません?私は、結構よい、張り付きの仕方をすると思うんですけど・・・・(笑)。追々、こういう形でトレーナー作業が出来るように頑張ろうと思っています。少しずつ、カルテにしていきますので、お楽しみに。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-14 15:03 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

トレーナーとしての役割

光陰矢のごとし。修了公演が終わって、早や一週間。先週の今ごろは、まだ熱い舞台が繰り広げられていましたが、今は静寂のみ。季節も着実に春になってきつつあり、穏やかに毎日を過ごしています。ところで、その修了公演の稽古中に、面白いことを経験しました。
私は今回、演出助手と言う立場でいました。しかし、研究生機関の場合、勉強と経験のために、裏方も研究生がやりますから、講師という契約上、演出家にはアシスタント、学生には演出講師と言う、面倒くさい居方をするしかありませんでした。今回かかわったクラスは、二演目ありましたから、演出家がメインで見ていた演目以外の演目を、私が観ると言うようにして、ぎりぎりまで、演出家と一緒の稽古場にはいませんでした。これは、この藤原歌劇団オペラ歌手育成部の特色で、必ず教室が二つ用意され、一つで立ち稽古をしていると、もう一つで音楽稽古をしたりして、20人くらいの研究生が歌わないことがなるべくない様に、それと、無駄な時間がないようにさせてくれます。それに、講師はほとんど現役現場スタッフですから、とにかく効率よく仕上げていくことを考えます。ですから、例え演出助手と言えど、演出家のスクリプトなどしている場合ではなく、きちんと別稽古が成立させられなければ、いる意味はありません。ここでの10年近い仕事が、今の私を鍛え上げてくれているのですが(笑)、今回も、毎回と同じように、私は思ったことを勝手にやっていました。すなわち、歌わせること。
立ちがつけば(演技がつくことをこう言います)、歌い手はあっと言う間に芝居に気を取られて歌わなくなります。歌うことまで神経が行かないのです。それで、一生懸命、表情や、気持ちを入れようとして余計歌わなくなります。しかし、本来歌ってこそ成り立つのがオペラです。蚊の鳴くような声で歌われても、言葉にエネルギーがない分、伝わってきません。そこで、とにかく、発語を舞台前でするイメージを持たせ、息で声を送ると言うことを何人かにさせていました。そうすると、当然変わります。まず、声が前に出てくる。言葉が意味を持って来る。歌い手さんは、よほど舞台経験がないと、空間の響きで歌うと言うことが出来ませんから、研究生たちに、それをわからせるのには、本当に苦労するのですが、とにかく、それをやっていました。
そうしましたら、演出家が「何故か前川の部屋に行くと研究生が変わる」(これは嘘ではありません。実際変わるのです。今まで歌ってないだけですから)と言うことに、興味を持ったらしく、段々駄目だしのときに、「アリアをこうしたいんだけど」とか「あの子はいつも、こういう表情しか出ないんだけど」とか、そう言った事を私に言うようになりました。そして、ある日、彼が作りたいアリアを歌う研究生を、私と稽古したいとおっしゃり、そこで、私は二人ともをレッスンして、それを演出家がじっと見ていると言う、変な稽古が成立しました(笑)。
私のやったことは、終始変わりません。発語を前に出させ、息が回るように歌わせ、尚且つ楽譜上の絵を音楽に変えていく。それをやって見せたのですが、この演出家は、そうやって彼女達の中が音楽を作る状態になり、楽譜が演出家自信の目に立体化されたと思った時、自分の演出プランに沿って、改めて、アリアを作り直したのです。
へ~!頭いい!私は、感心していました。そして、本来トレーナーと言うのは、こういう作業もあるべきなんだと、認識したのです。私のやったことは、まったくオーソドックスに楽譜を作らせたことですが、そのベースがあって、音楽感が歌い手にあり、尚且つ言葉を放つ力量があってこそ、演出家のやりたいことは出来る。これは、私が10年以上前からこの仕事をやりたいと思い始めた、根本の理由です。この演出家は、逆に私にとっては稀有な存在になりました。初めて、トレーナとして共同作業してくれた人になったわけです。彼は私の仕事に共感してくれ、是非、プロジェクトを成功させて欲しいと言ってくれましたが、本当に、こういう現場がもてれば幸せですね・・・。
実は、この時期、もう一人、歌い手さんを追っかけていたのですが、彼は(バリトンです)一度声を聴いて、作品の内容と一緒に、演出家的見地も含めて、言葉の扱いや息の扱いを直していきました。稽古場等を見にいける環境だったので、何回か歌っているところをチェックし、本番までのプロセスをみさせていただきました。結果、本番は私の思った通りの歌唱で、声自体はまだ作る必要がありますが、息の扱いがうまくいったために、言葉も全部聴こえて、本当に素晴らしかったです。このプロセスは、また後ほど詳しく記事にしますね。本人の了承が出たら(笑)。
あの日、演出家と一緒に、稽古をした研究生は二人とも、本当に素晴らしい歌を本番で歌いました。しかし、一人はまだ自分の歌唱を思い切って変えるメンタリティが弱く、最後までふらふらと揺れていました。もう一人は、思った以上の成果が出ていました。これも、彼女達のこれからの課題として、ずっとあることです。是非、頑張って、良い歌い手になって欲しいです。
さて、私は何とか音だしの出来る部屋に引っ越して、この発語と息を極めたいと思っています。そして、いずれ、現場で今回のような立場でいられるように、精進していかねば・・・・!
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by kuniko_maekawa | 2006-03-12 14:01 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

ニュー・フェース

さて、春になると新しいサイクルが始まりますね。私のところにも、2人ほど、新しくレッスンを受けにきてくださる方がいらっしゃいます。一人は、知り合いの歌い手さんからご紹介いただいたソプラノの方。もう一人はHP経由で声を掛けてくださった、ピアニストの方。それぞれに、少しお話しをさせていただいて、今月からレッスンを始めます。私が行うトレーナー作業は、クライアントの方々の必要なことを、一緒に成し遂げていくと行くのが基本的な仕事ですが、最近は、研究生を終えたばかりの人たち以外の人も、こうやって増えています。色んなニーズを考える、良い機会だと、私は思っています。
例えば、先のソプラノの方は、30代で、一度イタリアにもいかれていて、歌い手としての勉強をしている時間は長くなってきていますが、オペラを学ぶタイミングがあまり良くなく、最近やっと、舞台に乗り始めたという感じです。そこで、ご自分の足らないものを感じて、私のところにきてくださることになりました。彼女の場合、オペラの経験とは少なくても、歌い手としての自分を客観的に見ることは、出来るようです。年齢的にも、先のことをきちんと考えられる年齢。そこで、若い歌い手達とは、少し違うかかわり方を考えています。基本的に、リブレットを読んだり、朗読をしたりと、やり方は同じですが、彼女のヴィジョンを、主に大切にして、時間をうまくかけようと思っているのです。つまり、長々と一本を勉強するよりも、実践として彼女が必要としていることを、出来るだけ見つけていく。ですから、立ち稽古や、音楽を作ることもプロセスの中には組み込めたらと、私は考えています。
もう一人はピアニストです彼女も、30代。今までは器楽伴奏などをなさっていたようですが、やはりオペラ伴奏の経験が、あまりありません。そこで、seccoなどの音の入れ方や、場面のためのピアニストの役割など、悩んでおられるようでした。彼女の場合は、歌い手ではありません。ですから、歌を歌うわけではありませんが、オペラにおいてのピアニストは、オーケストラと同じ。やはり場面を作ることが必要となります。しかも、彼女も実践を必要としている人。これには、色々可能性もありますが、基本的には、リブレットを読みながら、実際に、音にしてみると言うのが良いかと思ってはいます。しかし、ピアニストとのトレーナー作業は、珍しいことなので、私も、勉強させていただくべく、可能性をひろげていこうと思います。
両人とも、ある程度人生経験も、知識としても、持っている上でのトレーナーの依頼です。さらにクオリティをあげるために、これから、私と何を学んで行ってくださるのか・・・・。本当に楽しみです。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-10 19:12 | オペラ・レッスン | Comments(0)

舞台人

先日、ある公演でご一緒した歌い手さんをレッスンしました。やはり若い歌い手さんで、実は元教え子。出会ったのは5年程前ですが、その頃から頑張って努力して、成長を重ねている人です。その時も、お稽古で役を作りあぐねて、歌も迷っているような感じでしたから、気になって気になって・・・・。元々、声を持っているわけではなく、声楽を志したのも遅かったので、研究生機関を終えてから、伸び始めた人です。もうすぐ30になりますが、まだ自分の響きを探している最中。本人も、それが良くわかっていて、ジレンマを抱えながらも、なんとか前に進もうと努力しています。性格も本当に良い人で、昔から私を見ると嬉しそうに、ニコニコよって来てくれて、いつも助けになってくれる人です。私にとってはまるで息子のよう(笑)。それで、つい、声を掛けてしまうのですが、最近、響きが段々出てきたので、レッスンをしながら、発語を少し気をつけて前で喋る様にして、息を流すことをしてみると、本当に柔らかい良い声が出てきます。しかも、もともと語感や、感性を持っているので、そういう風に歌い始めると言葉がきちんと語られて、キャラクターや、彼のやりたいことがちゃんと伝わってくる。私は、これが彼の素晴らしいところだと思って、いつも感心していました。ところが、何回目かの駄目だしの電話をしていた時に、ぽろっと彼が「所詮声ですよね」って言ったのです。・・・・・大ショック・・・・。そんな風に考えていたとは・・・・・。
歌い手は、確かに声です。ある程度、よい声を持っていなければ、やはりソリストとしては難しいです。しかし、だからと言って、舞台に立てないことはありません。良い声を持っていなくとも、その存在が得がたい歌い手は、一杯います。主役は歌えないかもしれません。しかし、主役じゃなくとも、重要な役はいくらでもあるのです。だからと言って、主役を狙うのを止めろ、と言っているのではありません。それで卑屈になるくらいなら、初めからオペラなんか止めればいい、と思っているだけです。
先の彼は舞台上にいても、決して空間を邪魔することもなく、場面の居方が出来る人です。他の同じくらいの年代で、そういうい方をする人は、そんなに多くありません(私の知る限り)。それは、他の連中が声を持っているがために、自分の居方に意識が行かないからです。しかし、私の教え子にはそれが出来る感性がある。言葉をもっている。尚且つ、優しい響きの息の長い歌が歌えるのです。
本番も、素晴らしく良く歌っていました。もちろん、今の彼に出来る最大限の声で、です。しかし、歌心が備わっている彼は、舞台人としても、十分に成り立っているのです。歌い終わって、私は握手をしてそのことを伝えましたが、どこまでわかってくれたかわかりません。でも、少なくとも、これからは「所詮、声なんですよね」って、言わなくなってくれると信じています。だって、オペラ歌手だって、役者だって、みんな舞台人なんですから。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-08 20:00 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

藤原歌劇団オペラ歌手育成部修了公演

さて、今年も、昼、夜コース(この研究生期間は昼コースと夜コースがあります)合わせて、40人弱の歌い手が輩出されました。演目は、昼コースの方がプッチーニの「修道女アンジェリカ」とドニゼッティの「リタ」。夜コースはモンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」です。
彼らは2年間、あるいは編入をして1年間をオペラに歌手になるために色んな授業を受けて、その集大成として、この公演があります。
育成部はこの修了が25期。もう1000人以上の歌い手がここを卒業していきます。基本的に、講師も現役で、みな実際の現場にいますから、授業も、ただの授業ではなくて「稽古」をすることを目指しています。特に、修了公演は彼らが始めて売り公演として、お客様の前に立つ舞台ですから、まさに最初の1歩。ほぼ半年くらい前から、音楽稽古を始め、年明けからは毎日の様に学校に来て頑張りました。この育成部の特徴は、もう一つ。裏方も、研究生が手伝うことです。公演の舞台監督、照明、衣装のプランナーはプロが入りますが、実際に、大道具、小道具、衣装の製作、照明、字幕のQ出し等は、すべて研究生自身と、下の学年がやります。これには、色々意見もあるでしょうが、オペラの公演が、どういう風に作られていて、小道具、衣装がどんな風に、舞台で生きるのか。こういうことが分かっている歌い手さんは、まず、スタッフに関する対し方が違います。それと、物を扱う意味もわかっています。それを学んでもらうために、伝統的にやっています。
本番は両コースとも大成功でした。私は、昼コースの方に、アシスタントとして入っていましたが、普段、中々表に自分達のやりたいことを発揮できなかった子達も、お客様に助けられて、本当に良く歌っていました。夜コースの研究生たちも、難しい作品を頑張って解釈して、彼らの言葉で歌っていたと思います。そういう意味では、この修了公演は、私たちスタッフも一緒に育ててくれる貴重な公演です。研究生達はある意味、真っ白。何も考えてないのではなくて、知らないのですね。何せ、自分の可能性だって、わからないんですから。その何にも知らない人たちを、どうやって舞台に立たせていくか。これは、私たちのほうにこそ、力量がないと成しえないことなのです。研究生たちは、毎年、毎クラス、キャラクターも違えば、テンションも違います。最近は、中々自分の言葉を話すことも出来ない人も多いです。こう言った人たちを、どうやって目ざめさせていくのか。結局は色んなボールを投げていくしかないのです。帰ってくることはほとんどないのですが、それでも投げていくしかないのですね。ボールを創るのがどんなに大変でも(^^;)
今ごろは、皆、最後の片づけをして、やっとほっとしているでしょう。そして、その後、半年くらいは何をやって良いか分からず、ぼけーっとして、ようやく自分たちの出来ることを見つけようとし始めるのです。この修了公演は彼らにとっては「ゼロ」です。ここからが始まり。そして、長い道のりが待っています。大切なのは続けていくこと。是非、頑張ってよい歌い手になって欲しいです。
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by kuniko_maekawa | 2006-03-06 12:39 | オペラなお仕事 | Comments(2)