武蔵野音楽大学オペラ公演「フィガロの結婚」

今日はお日柄もよく、GWの幕開けにぴったりの日曜日でしたね。さて、今日はわが街にある武蔵野音楽大学のオペラ公演に行ってきました。この音大は、結構オペラに力を入れていて、学部内でもオペラコースと言う課外授業があり、オーディションで選ばれた学部の3年生から大学院までの学生が1年に一本オペラを勉強して試演会をやっています。私も二回ほどそのコースを受け持ったことがあり、非常に良い勉強になった1年間を覚えています。
オペラ公演は確か2年か、3年に一度、学校を挙げての公演で、卒業生やオーディションで選ばれた学生たちを中心に、ドイツからシャール・シュミットさんという演出家を招いて行っています。今年公演したフィガロは、何年か前に日本語で公演したものを原語で再演すると言うもので、2ヶ月以上の時間を掛けて毎日のように稽古をしての公演でした。
さて、今日の公演は学生公演で、卒業生と大学院生でキャストが構成されています。私は、チケットを2500円で買い、久しぶりにお客さんとして客席に座りました。こうなると、聴く態度が違います。何せ、お金を払っていますから、私の価値観を満足させてくれなければ、拍手もしたくありません。おりしも、朝から出かけており、足がちょっと痛い。ベートベーンホールと言う、武蔵野音大のホールはちょっと古くて客席も狭いので、中々つらい。そこで始まった公演は、案の定、う~ん、とうならざる終えないものではありました。
まず、学生公演と言うことで、やはり歌唱に満足は出来ません。一生懸命頑張っているのはわかりますが、単純に言葉の問題、発声の問題、楽譜の解釈等、舞台を支えているものが少なすぎます。加えて、指揮者の音楽が、非常に老けており、せっかくの彼らの若さが半減されています。1幕からいきなり、つらい~ってことになってしまいました。
読んでらっしゃる方は、学生なんだからとお思いでしょうが、オペラに関しては、残念ながら、その感覚は私にありません。自分で研究生の修了公演などを演出していてもそうです。学生だからごめんなさい、はお金を出してもらう以上ありえません。暖かく見守ることなど出来ないのです。加えて、オーディションを受けて、この役をもらったのなら、学生公演であっても、将来オペラ歌手を目指しているでしょう。その複線として、初めて立つ舞台であっても、精一杯の仕事をしなければいけないと、私は思っています。
逆に、その思いを伝えにくいのも、わかって、これを書いています。つまり、学生たちや、その先生たちには「勉強」と言う名目があるからです。しかし、勉強に、どうして私たちが2500円を払うのか・・・・。こういうことを、ちゃんと伝えながら育ていくことが必要です。
さて、演出はオーソドックスと言いたいところですが、確かに形はそうでした。しかし、この舞台で演出家はこの「フィガロの結婚」の何を伝えたかったのか。そう思ったくらい、何も動きのない舞台でした。稽古中も、動きを極力制限して、言葉のニュアンスとそれについてくる表情だけで芝居を作っていた、と言うのは聴いていましたが、では、なぜ、こんなにも言葉が語られてこないのか。本人たちの力量もありますが、それ以上に、演出家の言葉に対するサディスションはどこまであったのか、今回は疑問が残りました。ドイツ人である演出家が、どこまでイタリア語としてこのリブレットを扱ったのか。また、学生である彼らに、どれだけの言葉のニュアンスを解釈して伝えたのか。動きを抑えて、言葉を扱うと言うことを要求するなら、それ以上の演出意図がそこに見えてくるのが然るべきなような気がします。
力量はともかく、キャストたちは頑張っていましたが、この中にあっても、もちろんダイヤモンドは転がっています。まず、フィガロを歌ったバリトンの西村朝夫君。
彼とは去年横浜シティの「ジャンニ・スキッキ」でご一緒してから、最近の若い歌い手さんの中では一押し。今回は卒業生として参加。それにしても、バリトンでありながらバスの役を持ち味である張りがある綺麗な響きの声で朗々と歌唱。加えて、彼の言葉の感覚、空間を捉える感覚は相変わらず良く、この演出の中になっても、自分の流れを一本ちゃんと作って要になっていました。特に4幕のアリアは秀逸。この若さで、色んな言葉を駆使して、しかもきちんと歌唱できる。このアリアは私は大好きですが、結構いろんな要素が必要で難しく、中々満足いく歌唱に出会えないのですが、久方に堪能しました。もちろん、今の彼の若さだから驚くことでもありますが、これからを本当に期待させる歌い手さんです。しかし、惜しむらくは、自分以外の相手、あるいは音楽との関わりが薄いこと。まだ、自分の中で世界を作ることの方が安心な年代です。これが、もっと外側に意識が行くようになれば、なお更器が広がって、大きな歌い手になれると思うのですが。こればかりは、この先の彼の経験にかかっています。頑張って欲しいですね。
それからアントニオを歌った上田誠司君。彼は去年違うオペラ公演で聴いているのですが、その時も思いましたけれど、非常に発語が綺麗。と、言うことは、よい息が使えると言うことです。アントニオと言う役柄、音楽観を聴ける場面は少なかったのですが、一番音楽が聞こえてきて、言葉がわかった。それに伴う芝居は、邪魔なものではなく、キャラクター物ではあっても、きちんと歌唱していました。まだ大学院在学中だそうですが、このまま良い方向に進んでいって欲しいです。
女声陣は初めてオペラを経験した人ばかりのようでしたが、やはり、総じてセッコが全滅。何を言っているかわからないのです。もちろん、音楽スタッフも実績のある人たちが(私も良く知っている)関与なさっていましたが、もともとの発声や、普段のレッスンの音楽の作り方なのだと思います。これも、永遠の課題ですよね。
この公演は3日までやっているようです。あまり高くないですし、もう一組は二期会や藤原歌劇団で歌っている第一線の人たちも出演する模様。興味のある方は足を運んでみていかがでしょうか。それにしても、久しぶりにまじめに4時間近く聴いちゃいました。どうやって聴いても、美しいのはモーツァルトだからですね。改めて彼の音楽に感心しました。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-30 23:54 | 観劇日誌 | Comments(4)

「Le nuove musiche新しい音楽」柴山晴美ソプラノリサイタル

日付は変わりましたが、今日(4月27日)珍しいイタリア初期バロックの曲ばかりを集めた演奏会に行ってきました。これは、リュートとソプラノのデュオコンサートのような形式で、三鷹市芸術文化センター、風のホールというところで、ありました。
ソプラノの柴山晴美さんは、ご主人が大学の同級生ということもあり、昔からよく存じ上げている方ですが、明るく朗らかで、いつも人を楽しませてくれるところがあり、誰からも好かれている人です。頑張り屋さんで、こつこつと自分で勉強を続けていて、私もご主人共々、一度オペラを演出させていただいたことがあります。バロックの楽曲がことのほか好きな私は、楽しみに会場に向かいましたが、その期待を裏切らない、本当に素晴らしい演奏会でした。
舞台上には椅子が一つだけ。古楽器の伴奏を担当してらっしゃったのは、「つのだ たかし」さんとおっしゃって、リュート奏者としては第一人者でらっしゃる方です。私は、お名前だけは存じ上げていて、実際に演奏を聴くのは今日がはじめて。舞台に、二人が現れると、ちょっと寂しい感じもしましたが、そんなことは演奏会が始まれば、全然問題ありません。
まず、晴美さんの歌唱が素晴らしい。1600年代くらいの楽曲は、ほとんど小節線などもない世界で、演奏者の力量が大切な時代でありました。表現として、同じ音を短くタンギングのように歌う、カデンツァ(といっていいのかどうかわかりませんが)のようなものもあり、唱法も独特です。声自体も、カストラートの時代といえばお分かりでしょうか?女性が歌ってなかったわけではありませんが、もっとビブラートのない歌唱であったかもしれません。晴美さんの声は、もともとの音色が非常に豊かで、軽い細めの声であるにもかかわらず、朗々と会場に放たれてきます。これは、ひとえに、彼女の息の使い方がよいのだと思いますが、どの音も一貫した豊かな流れがある声で、本当に心地よい。そして、綺麗に言葉を発語出来るので、何を伝えたいかがはっきりわかります。ですから、彼女の特色である、明るさやかわいらしさ、そして清潔さなどが、余すことなく、伝わってきて、彼女とつのださんと二人の舞台とは、とても思えません。色んな楽曲の雰囲気や言葉が、世界観をきちんと作っていく。なおかつ、二人の演奏者の息もぴったりで、お互いの空気がお互いを刺激して、まさに「自由」を感じました。もともと牧歌的な感じの楽曲が多い古典の音楽に、自然なおおらかさを一杯感じ、いくつもの色が見えました。私は、とにかく、楽しくて、ずっと音楽と一緒に体が動いていました。
そうはいっても、オペラの楽曲みたいに、ピアノが何かを語ってくれるわけでもありませんし、むしろ、演奏者の人間性とか、感性がむき出しになるような音楽です。音が単純で、伴奏も何かを語るわけではありません。本当に支えているだけ。だからこそ、難しいこの時代の音楽を、彼女が一人で歌いきったのも、大変なことだったと思います。本当に、いつも、こつこつと、自分で出来るだけのことを頑張るこの人が、実は真に、素晴らしい音楽家だということも、今日、はっきりと証明された演奏会だったと思います。今の彼女の歌が聴けたことに、神様に感謝!
それにしても、どうしてこうも、演奏会というのは、良い悪いがはっきりするのでしょうね。もちろん、相性もあるでしょうが、私は、基本的に、こういった掛け値のない、音楽を造る人が好きです。そこには、欲も無く、けれども甘えも無く、ただ、ひたすらお客様のために、良い作品を出そうと、媒体になっている。そう言う潔さを彼女にも感じました。また、是非、聴きに行きたいシリーズになりました。幸せな時間・・・。今日はよい夢が見れそうです(^^)!
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by kuniko_maekawa | 2006-04-28 00:49 | 観劇日誌 | Comments(0)

字幕のあり方

最近は、オペラの原語上演の際、必ず字幕がつくようになりました。私が若いころ、つまり20年以上前ですが(・・・・う~ん、そんなに前か~)字幕はほとんどなく、私は開演前に買ったプログラムのあらすじを、慌てて読んでから、舞台に没頭していました。しかし、わからない言葉、長い時間。綺麗な音楽だと思っても、そのころ高校生くらいの私には、やはり、オペラと言う代物にはなじめませんでしたね~。何せ、本当にオペラを聞き出したのは音大に入ってからかもしれません。しかし、そのころになると、段々に字幕が付いて来るようになりました。それで、ずいぶんオペラファンを増やしたのは、否めないでしょう。やっぱり内容がわからないと、つまらないですもん。新国立劇場など、和物にも字幕をつけます。これはどうかと思いつつも、確かに、読めばニュアンスのわかる漢字文化も、聴くには聴きづらいものもありますし、ましてや、歌っていたり、長いフレーズで言葉が分かれたりすると、やはり意味不明になりますもんね。
さて、字幕を製作する際に、いつも問題になることがあります。それは、演出との解釈の違い。これは、字幕と言うものの位置づけをどう捉えるかということなのですが、多分、最初に字幕が製作され始めたころ、やはりまず、リブレットを訳して伝えるということが、大きな意味合いだったのではないかと想像できます。と、言うのは、私はその頃、オペラの現場に居なかったので、そういったものの、細かい発展経路がわからないのです。しかし、そう、想像するのは、今でもリブレットだけを訳している字幕が多いからです。私たちが、いつも問題にするのは、そのことです。確かに、リブレットの内容が伝えられることは重要ですし、それによって、お客様の理解度は深まるであろうことはわかります。しかし、演出サイドでは、そのリブレットを更に解釈して、舞台を創り上げているわけですから、場面的に変えていたり、ニュアンスが違っていたりすることがあるのです。そこは、字幕を演出家がチェックすればいいかということかもしれませんが、私は、ここまでは字幕製作者の仕事だと思うのです。例えば、黒といって、字幕を出さない部分も作りたい場合、それが何秒くらいかとか、効果的に使う場合もありますから、どういう効果を演出家が望んでいるのかとか・・・。これは、実際に稽古を観て見ないとわかりません。
しかし、実際に、ここまで付き合ってくれて字幕を製作してくれる人は、ごくわずかです。私の知っている字幕製作者は、字幕を作成しながら、何度か稽古場に足を運び、チェックをして、わからなければ演出家と相談し、少なくとも、通し稽古、舞台稽古、GPと足を運びます。そうして、自分でも納得のいく字幕を仕上げている。一つの作品としてお客に提示しているのです。そう言う人の意識は、作品に向いています。つまり、自分もこのプロダクションの一部であり、演出家と一緒に、作品をお客様に理解してもらうセクションを担っていると理解できている。素晴らしいことですね。そう言う意味では、演出家が字幕を製作するのが一番良いのですが、しかし、セクションで考えれば、それは別の仕事です。そのセクションでのプロがいるべきなのです。
先日、ある演出家がかかわっている現場で、歌い手が字幕をチェックして、「自分の芝居と違うから変えてくれ」と言ってきたそうです。ほお~。歌い手さんの中にも、こういうことを言い始める人が出てきたか、とちょっと安心。まあ、下手な芝居を打ってたら笑っちゃいますが、それでも、字幕の役割がわかっている人ではありますね。こういうことが、一番わからないのが、製作サイド。意味がわかれば成り立つと思っている人たちも、まだまだ多いのです。どのセクションであっても、同じ作品作りをしているのには、変わりはないのですけどね。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-26 12:55 | オペラなお仕事 | Comments(0)

男声歌手が育つと言うこと

珍しく、「オペラのブログ」を続けて更新。やはり、時間があると言うことは良いですね。つっーか、久しぶりにオペラ公演を観ましたので、なんか考えてしまうと言う、トレーナーの性です。
さて、良い男声歌手が育つのに時間がかかるのは、一つは絶対数が少ないからです。もちろん、それだからこそ、ふるいに掛けやすく、良い人材しか残らないと言うこともありますが、今の少子化世界のこと、男声であるならば、少々歌えなくても、多分ボーダーラインが低いと思われます。事実、研究生のクラスでも、芸大です、国立です、と大学の名前や、大学院に行ってから、編入してくると言ったいわゆるブランド経歴の人たちの声や、感性や勉強している度合いを見ますと、今までの男声に比べると、明らかにレベルが落ちています。しかし、誤解の無いように言っておきますが、もちろん、その中にも原石がいるわけで、磨かれていない、と言うことに関して、無防備すぎると言っているだけです。だいたいが、そこまでの大学の機関は何をやっていたのやら。
今までは、国立の大学院など出て、研究生に入ってくると、もう、ある程度出来上がっていて、後は知識と経験と肩書き(団体の会員とか)そう言う物を得るために、研究生に籍を置くといった、オペラ歌手予備軍が必ず居ました。これは、女声でもそうです。しかし、今は、そういった現象は、あまりありません。どんなに一番の子であっても、まだまだ勉強することは山積み。それは、声を作るということからして、そうなのです。
しかし、男声は、研究生や、大学院を出ますと、比較的早めに仕事が入ってきます。まず、合唱団。人のつながりに恵まれていれば、小さいソリストの役。そして、オーディションなどに受かって、あっという間に、忙しい毎日。少しでも、才能があると思われて、人好きがすれば、この道は続きます。しかし、ここからどう、自分と向き合っていくかが、男声歌手のその後を決めます。自分の声を、資質を、どこまで客観視し、育てていくことが出来るか。
私の周りにいる若い男声歌手たちは、往々にして、大真面目です。研究生を出てから、ずっとレッスンに通い、上記のような忙しい状態になっても、常に自分と向き合って、あるいは、演奏会や、公演に聴いて欲しい人を招待して、感想を言ってもらい、それをまたこなしていく。数は少ないですが、そうして頑張っている人たちは、必ずやいつも、彼らの出来る限りの良いレベルで舞台に立っています。それを、当たり前だと思っていましたけど、昨日の公演の男声歌手たちを聴いていて、この中の人たちのどれくらいの人たちが、どれくらいの割合で、レッスンや、指揮者との勉強や、仕事でない舞台に、経験のために立っているだろうか、と、思いました。今、持っている自分の声だけで、勝負しているような、そんな甘えが見えるのです。
そう考えると、本当に私は恵まれた環境にいるんだと、改めて認識しました。私と一緒にやってくれる人たちは、みんな一生懸命に、うまくなろうとしている。別に、昨日の方々を個人的に知っているわけではありませんから、皆さん、頑張っていらっしゃるのかもしれません。でも、もっと勉強して、声を創らないといけない人たちです。もちろん、その一環として、昨日の公演があるのでしょうが・・・。
女声は需要がない分、選ばれると言う資質が本当に必要ですから、みんな頑張っています。昨日の公演の女声陣も、良く歌っていましたし、内容に関しても頑張っていました。この場があるだけ、幸せかもしれません。それくらい、公演に乗る機会の無い人が多いのです。しかし、彼女たちは毎週でもレッスンに行き、自分を高めることを絶対に忘れない。私のところにも、2時間掛けて通ってくる人がいます。ただ、このままでは、終わりたくないと言うだけで、です。
状況が良いだけに、男声は甘えがちです。忙しくなれば、レッスンにも行かなくなる。合唱団で食っていけばいいという現実もある。しかし、もし、ソリストでやって行きたいならば、少しでも、自分を磨く時間を取ることです。それでこそ、数少ない男声の価値があがると言うことを、もっと知るべきだと思います。宝石は磨かれなければ、ただの石なんですから。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-24 12:42 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

東京オペラ実験劇場第一回オープニング公演「椿姫」

本日は、招待状をいただきまして、表題の公演に行ってきました。最初に、ご案内を受けたときは、内容を良くわからずに、二つ返事をしましたので、チラシとチケットが送られてきて、う~ん・・・。つまり、この団体の名前です。「東京オペラ実験劇場」。正直、うんざりしました。
私は、「実験」と名の着くことが、あまり好きではありません。ことに、オペラに関しては。もちろん、「実験劇場」など、その名前のとおり、面白い、実験的な作品を世に送り出している団体もあります。しかし、往々にして「実験的」という名前が付いている団体や、作品で、うなるほど面白い作品に出会ったことは、あまりありません。まあ、私の観ている範囲ですから、あまり多くないかもしれませんが。しかし、この「実験的」と言う言い方は、非常に便利な看板です。つまり、面白くても、面白くなくても、これが「実験」ですから、「試しているんですから」と、言い訳に出来るのです。あほか!実験は、試験を実施することですよ。客に試験官を強要しているわけです。そして、そのジャッジをしてもらう。これに曖昧な意味合いなどありません。実験が失敗すれば、その製品は使い物にならないのです。
さて、とりあえず観にいってみたところ、やはり「実験劇場」は態のよい看板でした。「椿姫」は有名な作品ですから、あらすじはちょっと飛ばさせてもらって、演出は取り合えずオーソドックスな衣装とセットで行われていました。しかし、「オーソドックス」のどこが、「実験的」なのでしょう?団体の主旨を読みますと、「既存の舞台とは異なり、芝居(エンターティメント)に特化したオペラ公演を提案します。各作品が持つ生の息吹きをダイレクトにお客様にお伝えする団体として、精進してまいります」これは、賛助会員を求める記事ですが、呆れます。なぜ、オペラで芝居に特化しなければいけないんでしょうか?オペラはオペラです。元々歌うことで十分芝居もエンターティメントもなされているものを、芝居に特化すること事態馬鹿げています。歌は芝居と違うと思っている証拠ですから。それは、演出家、あるいは主催者が楽譜を読めてないだけです。事実、そう言う演出でした。結局は音楽の核を崩すことは出来ずに、舞台はただの「椿姫」です。ただ、この演出家はヴィジュアルのセンスは良いみたいなので、舞台は綺麗でした。しかし公演は赤羽会館講堂というところで、ただの公民館のようなところでした。ですから、音響はよくありませんし、せっかく綺麗に飾っていても、舞台の空間が狭く、飾りだけが浮いていて、現実を忘れさせてくれません。ここまで飾るなら、せめて、ちゃんとホールと呼べるところでお客を迎えるべきではないでしょうか?オケも小編成。指揮者は私も一度一緒に仕事をしたことがありますが、相変わらずの淡白さで、メインの楽器がエレクトーンだったこともあり、ミュージカルの音楽を聴いているようでした。これも、夢の世界には行けません。つまり、舞台にお客が集中できるよう要因が無いのです。何より、本来一番醍醐味を感じさせるべき、歌い手たち、特に男声が非常に力量不足でした。全、キャストです。せめて、ジェルモンくらいは何とか良い歌い手を連れて来れなかったのでしょうか?オーディションを受けた人たちでやると言う名目ならば、5000円もチケットを取ってはいけません。そうです。すべてにおいて、「実験」と言う名の元に、何一つとして満足できるものがこの公演にはありませんでした。
いつものことですが、一言付け加えて起きますと、これは私の主観です。お客様の中には喜んでいらっしゃる方も、もちろんいらっしゃいました。これが一番大切です。ですから、公演としては成功だったかもしれません。しかし、あくびを連発していた人も多かったのも事実です。私には、ちょっとした拷問となりました。実は、「椿姫」と言うオペラ自体、あまり好きではないからです。それでも、招待してくださった歌い手さんや、ヴィオレッタを歌った方は、非常に良く頑張っており、この歌唱を聴けたことが、少しは私を椅子に座らせて居てくれた要因ではありますが、しかし、正直、つらい日曜日の午後となりました。
どうせ、わからないなら「実験」などと名前を盾にして、「ちょっと変わったことやるかもしれないから、許してね」的な舞台を客に5000円で売るなんてやらずに、堂々オペラ演出に挑戦すべきです。そして、この経験や力量のない歌い手たちを成長させる舞台を作れなければ、オペラの場合、指揮者も、演出家も意味ないような気がしました。
それにしても、今日のように、あまりにも男声がひどかった公演も初めてです。これが、男声需要の弊害かもしれません。勉強や経験をつむ前に、どんどん声がかかって、これくらいでいいと思ってしまうのか、実際に良い歌い手がどんどん少なくなっていっているのか、わかりませんが。とかく、優遇される男だからこそ、人数が足らず、少々下手でもいいや、って使われてしまっているような感じです。女声が、いかにして、自分と向き合い、こつこつと勉強していて、役にも貪欲か判るような気がしました。これから、もっとこういう現象も出てくるかもしれませんね。そう言う意味では、行って良かったかも知れません。今の現状を見ているようでした。それにしても・・・・。もっと、真摯でただオペラを公演したいと言う団体は無いもんでしょうか?もう、飾り立てる時代は終わってると思うんですけどね~・・・・・。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-23 20:42 | 観劇日誌 | Comments(2)

ジャズシンガー「Toku」

珍しく、ジャズのことなど・・・・。このところ、音のことや声のことを書いていたので、なんとなく、色んな声を意識して聴くようになっちゃって・・・・。
さて、基本的に、私は「歌う」ことが出来るならば、楽器であろうが、人の声であろうが、区別無く好きです。それでも、人の声が一番好きなので、それに近い響きを奏でるものに興味を惹かれます。例えば、木管楽器。直接吹くんですもんね。しかし、これは音がちょっと・・・。好みとしては、オーボエやサキソフォンなど。声の好みと同じで、あまり高い音色は歌っていても、耳がなじみません。どうも、低音フェチ(笑)。そして、弦楽器。これは大好きです。低音フェチではありますが、バイオリンの音色が一番好きです。その次がチェロ。もちろん、なんでも、弾く人の息と、音楽がそれにかみ合ってこないと、「歌う」と言う、感覚はもてません。ピアノでも、すごく歌ってくれる人が弾くと、楽器であるのに、人の声みたいに聴こえます。素晴らしい!
さて、話を戻しますと、この「Toku」さんと言うジャズシンガーの声が、私は、非常に好きです。クラシックの声は艶のある、ちょっと癖のある声が好みですが、他のジャンルの歌声に関しましては、ハスキーボイスが大好き。普段、クリアなものばかり聞いているからでしょうか?何か、声がかすれるという危うさが、ぞくっとしたりするのです。
ジャズの場合、音の醍醐味は、半音とかフラットな音です。つまり、純正律じゃない。その曖昧な音の流れに、本当にぴったりです。この場合、音程のことなど言っても意味がありません。
そして、英語の曖昧な音。これがクラシックだと、もちろん、クリアな発音がやはり求められるでしょうが、ジャズを聴いていると、この英語のジャンクな感じの発音こそ、ハスキーボイスと一緒に、耳を刺激される要因なのだ、と言うことは、このTokuのCDを聴いて気づきました。
彼は、ちょっと鼻にかかったような、ハスキーボイスですが、英語の発音が綺麗。何を言っているか、大抵聴き取れます。、まあ、私の英語力は別として、特に、好きな音色が「A」の音。例えば、「you say goodbay」と歌ったときの「bay」の「A」。文章では、うまく表現できませんが、ぽっかり、穴が開いたみたいな感じ。その空洞を鼻にかかった声がぼわ~ん、と、まっすぐに伸ばされてくる。これが、すっごく良い音色。なんというか、五感を刺激されちゃうのですね~。それに付随して「R」の発音と響きが好きです。「party」なんて、しゃべっても歌っても、曖昧な色気がある。それに、半音やフラットな感覚がすごく良い。彼の音の転がし方なんて、どきどきしちゃいます。元々、ハスキーでなければ、良い色の声音を持ってらっしゃるような気がします。それが彼の言葉の感性と、発音のよさで、なお更特別な声にしている感じ。私の好みにぴったり!この方はフリューゲルホルンという、サキソフォンの小型版みたいな楽器も演奏されるのですが、こちらも歌が聴こえてきて好きです。音も低くて心地よく、このところ、ちょっと彼にはまっているのです。
オペラ歌手の身体を使っての声も、本当に素晴らしく、この世界に居ると、やはり至上の喜びも感じるのですが、違うジャンルの歌手も、伝えるものが「想い」であり「言葉」であることには、かわりがありません。彼らは、訓練して声を作ることをしないかもしれませんが、「心」を作ることをいつもしているように感じます。そして、それをストレートにお客様に伝えたいと願い、世界中に出て行く。オペラ歌手は「声」第一主義に陥っている間に、もっと単純な「心を作ること」を楽しんでも良いのではないかと思います。聴いてくれなければ、私たちの存在なんて無いも同然。どんな形でも、心を動かす「声」を持っている歌手は、それだけで私には尊敬する人たちなのです。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-21 19:58 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

所属団体

日本には、大きなオペラ団体として、藤原歌劇団。二期会オペラ振興会。室内歌劇場。そして新国立劇場等があります。ほかにも、東京オペラプロデュース、横浜シティオペラなど、関東近郊を入れれば、本当に沢山の団体があるのですが、研究生機関を持っていて、本公演もやって、と言うのは、先にあげた団体です。各団体もちろん、色んな特色があるのですが、昨日、歌い手の友人と食事をしていて、彼が面白いことを言っていました。彼曰く「自分はオペラをやりたい。だから、欲しいのは表現できる場であって、団体はどこでも良い。いっそ、全部の団体が無くなって欲しい」って。へ~、ちょっと思いがけない言葉を聞きました。
もちろん、彼は所属団体があります。研究生から機関を経て、本公演にも乗っています。ある程度の実力があるのですね。しかし、団体の公演回数は年間決まっていますし、必ずしも自分が乗れると言うわけではない。まだまだ若いですから、今まで乗っていて実力派が主役級は取っていきます。それも、オーディションと言うわけではありませんから、結局、仕事はありません。ほかにもある団体で、彼のようなタイプの歌い手は、案外使われるかもしれないと言う、話を依然したことがあり、それを考えてもいるようでした。しかし、結果、所属団体を変わったからと言って、彼のような若い歌い手に場があるかどうかは別で、だからこそ、彼は自分で場を見つけて、色んな団体に参加しているわけですね。彼の所属団体はマネージメントも、あまり熱心ではありませんから。
しかし、私はこの「場が欲しいだけなんだ」と言う、彼の素直な願望を、ちょっと違うように捕らえました。つまり、芸能人がよく、独立プロを作りますが、それと同じような感覚で捕らえたのです。それで「じゃあ、○○音楽事務所とかに入れば?」って言ってみたところ、「錦織健みたいに?」って。これもどうかと思いますが、当たっています(笑)。つまり大衆歌手と言うわけです。でも、これは団体に所属して順番を待っているよりも、はるかに可能性があります。良く、TVに出ると、クオリティが下がると言われていますし、確かに下がっている人たちは多いのですが、それは個人的な問題で、1年くらい頑張って売れてきたら、やはり歌手のほうが仕事がなくなることを恐れずに、自分の声の調整のために、一月でも、二月でも仕事をキャンセルしてイタリアに言ってレッスンしてくるとか、身体を休めるとかのケアをするべきです。そうしなければ歌い手なんて、持ちません。自分の身体が楽器なのですから。こういうことを踏まえて、そして、声と感性のクオリティをあげる努力をしていれば、個人的な活動をしていくことは可能です。そうやって活動している人たちも実際いますから。
いずれにしても、日本ではオペラ歌手が歌っていくことだけで、生活を成り立たせるには、非常に難しい国です。と、言うより、直接お金に還元して考えることを、日本の習慣は嫌いますし、実際に、金額のつけられないものではあります。しかし、職人と言う考え方を歌手たちもしっかりと持って、自分の技と身体一本で、勝負すると言う、気概も必要なのも確かです。
こういった問題は常に付きまとっていて、相変わらず答えの無いものですが、先の彼のように、はっきりと、ああ言った信念を持っているなら、成し遂げるかもしれません。楽しみですね。この先、どれだけ、彼のような「職人歌手」が出てくるのか、その道をつけるのも、私たちの仕事かもしれません。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-18 14:46 | 歌手 | Comments(0)

音の記憶

最近、思っていることですが、歌を歌うにしても、楽器を演奏するにしても、気になるのはまず「音程」ですよね。これが意外と、色んな弊害をもたらしたりします。
さて、「音程」と言うのは、どこで作られていくと思います?私は、「記憶」だと思っています。じゃあ、絶対音感は、とか、楽器は?とかおっしゃる方もいらっしゃるでしょうけれど、もともと、その楽器を作るのも、人間のやることですし、ヘルツと言って、音の振度数(音波みたいなものです)を測って基準を決めたのも、ヘルツさんという人ですし、広辞苑で「音」と引いてみれば、なおさらお分かりかと思いますが、「音波によっておこされた聴覚」とあり、「個人、年齢によっても差がある」などとも書いてあります。つまり、まったく個人でその感覚に差があると言うことですね。絶対音感はピアノのヘルツを基準に、音を記憶させていった結果、出来てきたその人の音のベースで、いずれにしても、「聴覚」なのですね。
なぜ、こんなことを書いているかと言いますと、歌い手さんの楽曲を歌って構成するレッスンをしているときに、発語が良くないことが多いのですが、その大きな理由の一つに、口の形で音程を作ると言うことをやっていることがあるのです。声は、お腹を支えに身体を通って、息と一緒に口から出てきます。そのときに、もちろん音程がついてくるのですが、その音程を正しくするために、自分で確かめてしまうのですね。文章にするのは難しいのですが、実際に歌ってみると、一番それを確かめやすい場所が口の中で響かすことなのです。声と言うのは、口の中で共鳴して耳に届きますから、それをやっていると言うわけですね。しかし、そうやって作っている音程も、結局は自分の記憶です。音の感覚。「音感」なのです。第一「音程」と言う言葉は「音の程度」ですよ。それくらい、あいまいなものなのです。しかも、自分で自分の本当の声を人間は聞くことが出来ません。それは全人類や生き物がそうだと思います。それを追ってしまうと、歌い手さんは自己満足しか得られないことになります。これが中々歌い手さんが自分から離れられない原因になっています。
私は絶対音感はありませんが、ある程度、正しく音程を「当てる」ことが出来ます。それはずっと前から気づいていたのですが、私の中に、CDやTVで聴く歌手や、楽器の音の記憶があるからです。その声や楽器の音が、ちゃんとフィットして思い出せる音程が、正しい音です。耳の記憶。映画音楽など良い例で、CMなどで、その音楽が流れると、場面ごと、絵として思いだします。これが、音の想像力を消してはいけないと言う、私のベースを作っています。
うそだと思ったら、ちょっと実験してみてください。自分の音の記憶を探ってみる。好きな歌手が歌っている曲の声を思い出して、それをピアノで拾ってみる。ちゃんとした耳さえ持っていれば、楽譜に近い音を拾えると思いますよ。あの・・・、「耳さえ良ければ・・・」なんですが・・・・。
と、言うことで、「音程」の呪縛から、逃れる歌い手さんがもっと多くなればいいと思っています。逆を言えば、世の中の「正しい」とされている、色んな定義も、ただの「感覚」かもしれないってことですが・・・・・。
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by kuniko_maekawa | 2006-04-15 12:57 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

「メアリー・ステュアート」

昨日、無事に「お誕生日朗読会」をやりました。これは、去年からはじめたことで、一年に一回、自分のお誕生日に懇意にしている人たちを呼んで、芝居の台本を読むと言う試みです。台本の詳細は、以前にも記事に書きましたので、そちらを読んでいただくとして(歳を一つ取ったとたんに、面倒臭さ倍増)、普段は、演出家としてあるいはトレーナーとして、歌い手さんを介して、お客様と対話している私でありますから、こうやって、ダイレクトに聞き手と向かい合うことが、まずものすごく新鮮です。雨の中、足を運んでくださったお客様は、7,8人くらい。まったく個人的なこういった試みに、付き合ってくださる心の広さに、感謝!しかし、ほとんどが私の教え子であったり、レッスン生であるので、彼らは非常に居住まいが悪いみたいですよ。逆に見られている感じがするのですって(笑)。場所はホールではなくて、ただの稽古場ですから、このお客さんたちと私たち読み手の距離は非常に近いです。これも、また醍醐味で、どうも私は、こういったごちゃごちゃとした距離感が好きなのですね。
さて、「メアリ・ステュアート」と言う戯曲は、エリザベス一世統治下のイギリスに亡命してきたスコットランド女王メアリー・ステュアートと、その彼女を宗教改革の元、幽閉しているエリザベス一世。それぞれの背負っている運命を、色んな形で傍白していく芝居です。登場人物は主役の二人、それから、彼女たちの侍女。この四役を4人で演じるか、二人で演じるか、どちらでも良い、と言う形式です。もちろん、二人で読みました。お相手をしてくれたのは藤原歌劇団準団員の松田麻美さん。彼女は、非常に敏感な感性の持ち主で、依然、「稽古場」でもご一緒してもらったのですが、ご自分の口から発される言葉や、音楽、それから相手からの息、色んなものが、彼女の感性を刺激して、それを素直に受け入れる潔さみたいなものがあります。ですから、一緒に読んでいると、私の言葉に刺激された彼女から、こちらが役を作ると言う、当たり前のようで中々得がたい、キャッチボールができます。ただし、二人ともプロの役者じゃありませんから、まあ、噛む噛む(^^;)。本番だと言うのに、私も彼女も、途中で噴出すのを歯を食いしばって我慢してました(笑)。
それにしても、楽しかったです。本当に。私は、もともとは声楽を勉強していましたし、その前は児童合唱に燃えていて、とにかく、人前で歌ったりしゃべったりすることが大好きでした。スタッフを始めてから、やはり「裏方の美学」と言うものに、こだわったこともあり、影の存在をほくそ笑んでいた時期もありましたが、ずーっとその裏には、何かを自分で表現してみたい、表現者になりたいと言う思いを捨てきれずにいました。もちろん、演出も歌い手さんを介して、やはり表現者であらねばならないのですが、それは具体的なものではないのです。はっきりと、自分の声や、身体でお客様の心を動かすことができる。それにあこがれていました。それで、このお誕生日朗読会をやる運びになったのですが、お客様の前に出て、台本を読んでいるとき、自分の身体の中から、いつもと違う、波みたいなものが、どんどん出てきます。そして、もっと読みたい、もっと楽しませたい、もっと見てほしい、もっと惹きつけたい、もっと、もっと・・・。と、欲求の塊みたいになってきます。そして、どんどん開放されていく。噛もうが噛まなかろうが、関係ありません。読んでいるときは最高に楽しいのです。例え一年に一回でも、こういった状況になることが、私にはすごく必要何だと言うことは、去年、経験済み。これをやった後のレッスンや、演出の仕方が俄然変わります。もっとお客様と言う存在が身近になり、表現の幅が広がる。もっとも、こういう効果があると言うのは、予期せぬことでしたが・・・。
いずれは、きちんと台詞を覚えて、芝居を打ってみたいと思っています。それに、歌も。来てくださった方が、どういう感想を持ったかと言うことは、さておき(?)、来年も、付き合っていただいて、お誕生日を盛り上げたいと思っています。こういう時間を持たせてくださった、お客様たち、ありがとうございました!
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by kuniko_maekawa | 2006-04-12 13:04 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

自分を開くこと

今年に入って、またレッスンを受けに来る方が、入れ替わったりしているので、なかなか継続してきている人が少なくなってしまったのですが、一人だけ、去年から続けてきている子が居ます。時々間は空きますが、そのときは本番だったり、そのためのお稽古が入っていたするみたいで、その後、また連絡をくれて少しずつ勉強しています。
さて、こういった継続の力というものもすごいのですが、その彼女は少し、硬い心が邪魔しています。いわゆる、頑固。本人は真面目な子で、将来の目標もしっかりと持っているし、オーディションなども受かるつもりで、受けると、ちゃんと言える子なのですが、なぜか、レッスンをしていて、積み重なるものが見えない。毎回、同じことを注意され、同じことが出来ずに怒られています(あ、別に、烈しく叱咤してるわけではありませんよ、あしからず)。
私のところで、彼女は、リブレットを読むことも、実際に歌ってみて、楽曲を構成するということも、やっています。ほとんどは、楽譜を読むことに費やしますが、イタリア語があまり得意でない彼女は、単語をうまく引けません。これは、能力がないというわけではなく、方法を見つけてないのですね。それで、うちに来てもやはり躓いて、もう一回引きなおす。大きな問題は、イタリア語の場合、人称や性別で単語が変化するのですが、その変化した単語から、原型が見つけられません。例えば、「guardi」と言う単語が「guardare」の二人称だということなどが、わからない。 逆を言えば、活用形がわかってないということですが、それも、うちに来出したときからそうなのです。でもさ~、1年もやってりゃ、なんかわかってくるだろう~!なんて思ってはいけません。人に何かを気づかせるのは、そうそうたやすいもんじゃない。彼女は真面目なのです。毎回、必ず一生懸命単語を調べて、勉強はしてくる。でも、「わかる範囲で」なのです。ここが問題。辞書を引いて、出てこない単語を一生懸命考える。探す。しかし、そこまでで終わってしまうのです。じゃあ、それが不真面目と言うことでしょうか?
もちろん、その先があるだろう!と言うことは、毎回言いますし、苛々もします。しかし、すべて彼女を止めているのは、「頑固」な気持ちがあるからです。「頑張ってるのに、出来ない。」「人に聞くのはいやだ」「自分のやり方が変えられない」などなど・・・・。
彼女は、歌の先生にも「頑固」だと言われて、相性が良くないなどと悩んでいます。見様によってはわがままであると言うことですが、私は、ただ、単に理想が高い利己主義だと思っています。私にも、その「頑固」さがあるので、よくわかるのです。
面倒くさいのは、彼女自身がそれに気づいてないことです。ですから、「性格」と言うのでしょうけど・・・。しかし、その「頑固」さがあるから、彼女は頑張ってレッスンを入れてくる。オーディションを受け続ける。私は、この彼女の「頑固」さを、なんとかして、もっと開かせたいのです。良い響きの声を持っています。心さえ、開けば、新しい風を受けることが出来、彼女は変わるはずです。まあ、こういった柔軟性もトレーナーに必要なことだと思っています。今日も、彼女のレッスンです。少しでも、扉が開くように、頑張んないと・・・!
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by kuniko_maekawa | 2006-04-09 13:09 | トレーナーのつぶやき | Comments(2)