演出って・・・・

明日から、久しぶりに演出家の仕事にはいります。藤原歌劇団オペラ歌手育成部の前期アンサンブル試験と言うのを演出するのですが、私が担当するクラスはマスタークラスといって、この研究生機関の最終学年です。もう一つ下の学年の時は前期に演奏会形式のアンサンブル試験。後期に「フィガロの結婚」のハイライトを演技つきでやっています。そこで、一度上の学年に上がれるかどうかと言うふるいに掛けられ、そして、マスタークラスに上がってきます。ここでの前期アンサンブル試験は、前学年の後期と同様、演出家が入り、演技つきの試験をしますが、このマスタークラスの前期アンサンブル試験は、唯一、それぞれの研究生が、声にあった作品を勉強できる機会でもあります。つまり、今までやった、「フィガロ」のアンサンブルなどは、役の限定がありますから、軽ければ、スザンナ、バルバリーナ、メゾはケルビーノかマルチェッリーナ。ちょっと重ければ伯爵夫人という風に、出来るだけ個人的な声を考慮されても、枠が限定されます。しかし、このマスタークラスのの前期は、それぞれの声にあった、オペラの作品の一場面をやりますから、ある意味、研究生たちにとっては、一番大切な試験と言えます。その後の修了公演は、やはり一本をやると言うことで、役は限られますから。
反対に、私たち演出家にとっては、この試験が一番大変です。なぜなら、演目が様々に10演目は出てくるからです。これは、本当にエネルギーと時間を要します。何せ、各場面は短くても、その場面を勉強するのに、当然オペラを一本勉強しなければ、場面は構築されません。いくつかは同じオペラ作品が重なったにしても、5本はオペラを一本勉強すると言う形です。おいおい~(^^;)
研究生たちは、前にいる演出家や指揮者には完璧を要求しますから、質問してわからないとか、演出がつかないとか、指揮者が振り間違えるとか、夢にも思っていません。それどころか、何かを教えてもらうつもりでいますから、口をあけたままのひな鳥と同じ。いくら入れても、腹が空いたままです。ああ・・・。私の食べたものは吐き出しても吐き出しても足らない。
しかし、私もこの研究生をやり始めて、そろそろ10年選手を超えました。演出家としても関わるのは4回目。そろそろノウハウみたいなものも、自分の中で出来始め、そんなにおたおたしなくなりましたが、4回目ともなると、こちらも成長しているわけで、4年前とは楽譜の読み方が違っています。研究生の演目自体は、大抵同じで、新しいものはそんなにお目にかかりません。それで、一度作ると、しばらくその形でずっと進めてしまいます。しかし、そろそろお古も着古したと言う感じがしてきたので、このところ、楽譜を見直しながら、改めて発見したものなどを付け加えて演出プランを考えています。試験とはいえ、基本的にオペラ歌手育成部。私たち演出家も、学生相手ではなく、一人の歌い手と接するつもりで稽古場を成立させようと思っていますから、手を抜くつもりは毛頭ありません。むしろ、私の演出作品として、審査員と言う客の前に出すつもりでします。当たり前ですよね。
さて、私は演出をするにおいて、得て不得手がものすごくはっきりしている演出家です。単純には絵が見えるかどうかと言うことだけですが、どうやっても絵が見えないものが作品の中にあるのです。主にブッファ系。ロッシーニ、ドニゼッティ。鬼門の曲が沢山あります。理由はただ一つ。音楽が楽しいからです。つまり、これだけ音楽で耳が満足させられるのに、それ以上、目が何を語るのかと思ってしまって、一向にプランが浮かばないのです。毎回、挑戦して、毎回玉砕しているのですが、いつまでもそんなことをしていられません。昨日からまたその鬼門の楽譜を見直していて、ため息をついています・・・。ああ、才能が・・・(;;)
しかし、一つだけ、試みてみようと思っていることがあります。「基本に立ち戻ること」。つまり、何もしないってことです(笑)。例えば、ドニゼッティのドン・パスクワーレの3幕のノリーナとのデュエットや、ヴェルディの「ファルスタッフ」など、あの楽しい音楽に、つけて行くのには、それ以上に楽しいことをしなければいけないと思ってました。でも、無理(笑)。っ言うか、多分、意味が無いのです。オペラですもんね。音楽が良くて当たり前なのです。と、言うことで、リブレットから見える絵を、まったくオーソドックスにすることを決めています。リブレットの背景から自然に作れるものを作る。それ以外は音楽に任せる。これで、案外うまくいくような予感もしています。
それにしても、毎回、演出の持っている必要悪性を感じないでいられません。それでも、外側を作ると言う作業が非常に大切な要素を持っているとわかっているのですが。さ~て!頑張るぞ~!!
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by kuniko_maekawa | 2006-05-31 14:57 | 演出家のつぶやき | Comments(4)

抽象的ということ

昨日、たまたまBSを観ていましたら、チャイコフスキーの「スペードの女王」をやっていました。最近は、ロシアのマイリンスキー劇場などがヒューチャーされてきましたから、ご存知の方もいらっしゃるかも。私は、ものすごく前、20年位かな民音で確かやったと思うのですが、それを観た覚えがあります。演出は今は亡き、粟国さんだったと思います。
しかし、たまたま観ていたので、どこの劇場で、誰の演出でとかのリサーチは無く、ぼけっと観始めたのですが、これが、結構気に入ってしまいました。それでも、曲に飽きて、2幕の最初くらいまでで、やめちゃったのですが・・・(^^;)。
何が気に入ったかと言うとですね、演出です。このオペラは、19世紀くらいの貴族階級ではやっていたカード遊びを元に、それの伝説の呪いにのっとって、殺人を犯してしまう、男の話でありますが、ぱっとTVをつけたら、画面いっぱいに、緑の壁。二段になっており、その緑の壁の上が歩けるようになっており、そこに、男性が3人出て最初の伝説の話を歌っている場面でした。この緑の壁は、どうやら病室の壁のよう。舞台上には病院のベッドが一つ。明らかに精神を病んでいるような男が彼らの歌に翻弄され、そこに、伝説に登場する公爵夫人が時代のドレスを着て、入ってくる。私は、一瞬それをみて「まただよ・・・(--#)」とチャンネルを変えそうになりました。明らかに、精神病院の設定で、この男の幻影で物事が進んでいくのがわかったからです。こういうパターンで、いけるわけが無い、などと思いつつ、なんとなく、カメラのトリミングがちょっと良くて、まあ、いいかとおもって観続けていたのですね。ところが・・・、これが観始めたら、結構好きな感じがするのです。その後の場面でも、その病室の上の段に、精神病患者たちがうようよ出てきて、その次の場面の、本来なら、女性主人公のお友達とか言う役柄を、狂ったようにやっています。でも、成立してるように感じる。へ~。なんでだろう?????
しばらく観続けていて、あることに気づきました。それで、納得。どういうことかといいますと、この舞台は二重構造になっていて、演技エリアは病室である下の段。それを囲むように上段があって精神病患者や、狂言回しのような役の人たちは、下にはきません。つまり、下の主な演技エリアでは、形は違えど、Scenaがオーソドックスに作られて行くのです。しかも、その主人公はパジャマを着ていますが、そこに現れる、彼の恋人や、そのおば、友人などは、通常の時代衣装で出てきます。つまり、それだけで、ちゃんと場面が想像できるほど、普通に作っているのです。もちろん、ただの病室の中でベッド一つでやるのですから、密会の場面など、それだけでは語れないものもあるのですが、この二つの空間を使い分けること。決して、混じらせないことが、まずうまいやり方だと思いました。そして、もう一つは、オペラ自体は、オーソドックスな形で進んでいると言うこと。これが私が受け入れられた大きな要因だったと思います。そうは言っても、1時間も見たら、これに飽きてしまって、やっぱりチャンネルは変えましたが(笑)。それにしても、珍しく、センスの良い演出を観たと思いました。
よく「抽象的」と言う言葉を、好んで使う演出家がいます。ちょっと「抽象的だけどさ」とか、そう言う舞台にしたとか。私は、何をして抽象的という言葉を定義するのか、時々そいつにぶつけたくなるのですが(笑)。広辞苑で引くと、「抽象的」というのは「事物を現実から離れて、具体性を欠いている様」とかいてあります。しかし、この「具体性」を良く理解してないと、ただのブランドになるのが、「抽象」だと思います。つまり、「具体性」自体が人間の想像力とか、視覚とか、知識から生まれているものだからです。わかります?私たちはりんごの形をしっていますよね。だから、りんごが四角だったらおかしいと思うわけですよ。それと一緒で、抽象的にすると言うことは、私たちの想像の中、あるいは、知識、視覚、経験以外のものだと言うことです。裏を返せば、具体性が根本にあるということ。だから、抽象的といって、小道具も、道具も置かない、演出を私は嫌うのです。それって、お客の想像力のおかげじゃんって。もちろん、センスの問題もあります。本当の意味で抽象的と言うことがわかっている演出家は、具体性を壊していきますから、これは面白いです。ピーターブルックや、グリナーウェイ、ダンスや芝居の世界なら、もっとはっきりしてきますね。絵画もそうです。キュイズムの画家たち。ピカソ、マグリット、モディリアーニ、もろもろ。しかし、これらの才人は、オーソドックスなもの、具体性のあるものを作る才能が、断然あるからこそ、抽象的なことが成立出来るのです。しかもオペラは何度も言いますが、作曲家がいる。彼らの書いている楽譜と言う、ものすごく具体性のあるものをきちんと解釈し、演奏できないで、なんで抽象的な舞台なんか、作れるんでしょうね?????
いずれにしてもお客にお任せ!で、結構ですが、もう少し己を鍛錬させてから、抽象的なことに望みたいものです。そう言う意味では、昨日の「スペード」の演出家は、その抽象的という意味合いはわかっているようでした。そして、オペラだと言うことも。だからこそ、こういった、センスの良い二層式舞台が出来たのでしょうね。
チャイコフスキーは「オネーギン」と言い、結構好きではありますが、なんだか、話が重いのか、途中で飽きちゃうんですよね。綺麗な旋律なのですが。そういえば、私が小さい頃、黄色いバイエルと赤いバイエルと言うピアノの教則本があって、それの黄色い方に、チャイコフスキーの「私の人形」だったかな?とか言う小品がありました。これがとても良い曲なんです。みんなに言ってるんですけど、あんまり良い反応が無いのですよね。ご存知の方いません?ああ、これってチャイコフスキーだよねって、言う音楽で、私はものすごく好きだったのですが・・・・。
ま、何にせよ、まず大切なのは、基本!なんでも形を崩せば面白くなるかと言うことは、ありません。センスと知識。私も喉から手が出るほど欲しいものですね。
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by kuniko_maekawa | 2006-05-28 15:01 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

発表会という舞台

日付は変わりましたが、今日(25日)、友人の門下生発表会に行ってきました。
毎年ご案内をいただいて、共通の教え子も多いので、出来るだけ足を運ぶようにしています。夕方18時前について、3時間くらいでした。この門下の特徴は、とにかくみんな綺麗な息を使うこと。勉強途中の人も、堂々歌える人も、すごく綺麗な息をしています。と、言うことは、楽曲もさぞや綺麗に聴こえてくるかというと、そうは問屋がおろしません(笑)。
発表会というのは、私も学生の時に覚えがありますが、多分、声楽を始めて、最初にお客様を意識する舞台ではないでしょうか?年に一回、必ず舞台をふみ、お客様の前で歌うわけですが、学生の時は、どうしてもただ、試験のように、自分の声を出すだけだったような気がします。今、舞台の世界に生きるようになってから、どの舞台もお客がいる限り同じだと思うようになりましたが、学んでいるという姿勢のまま、舞台に乗るのが許されているのが発表会という気もします。経験も、力量もさまざま。オーディションなどがあるわけではありませんから、お金さえ、出せば、誰でも乗れる舞台でもあります。しかし、だからこそ、色んな用途に使わなければ、もったいないと思います。今日も、結局最後の4人くらいしか、「演奏」と感じる歌い手さんはいませんでした。誤解のないように言っておきますが、門下生たちは、非常に頑張っていますし、昨年に比べれば、皆さん、少しずつ変わっていっていること自体は、素晴らしいことです。しかし、実践という感じがする人たちが、最後の何人かだったということです。もっとも、私が会場に入った時間からですから、聞かなかった人たちの中で、そう言う方もいたかもしれませんので、そこはご了承ください。
さて、実践をしていた人たちというのは、例えば、オーディションを控えている、イタリアに行く予定がある、新しいレパートリーを舞台に乗せてみる、理由はさまざまですが、この発表会の舞台がプロセスの一環だということを感じます。これが大きな違い。実践を感じない人たちは、舞台にのって歌っている姿から、先が感じられません。試している感じが無いのです。つまり、余裕が無いということでしょうかね。これは、音楽とか声だけでなく、立ち姿等を観ても、わかります。皆さん、ドレスも豪華で、メイクも髪型も、綺麗ですが、一向に身体が開かず、客席との距離が縮まりません。先の記事にも書きましたが、お客を期待させてくれない。「今、私は勉強中で、ここまで、出来ました。」という、文字通りの発表をしています。双方向が無いのですね。その証拠に、手癖、顔癖のオンパレードです(笑)。手を泳がせる人。腰に片手を当てたままの人、どの言葉を歌っても、怖い顔の人、本人は、一生懸命、笑顔を作り、なんとか曲の内容を伝えているつもりでも、基本的に、自分のために歌っていますから、客席には届きません。これは、やはり、しごく残念。せっかく良い声で歌っているのに、もっと息が動かない?とか、身体が石のように、固まったままだとか、観てて疲れてしまいます。これは、ひとえに、その人個人の捉え方でもありますが、実践派は、普段でも演奏会やオペラの公演が多い人たちですし、明らかに、客に育ててもらっている実感が本人たちにあります。これは、やはり経験の差なんでしょうか。
そういえば、一人年配の婦人が「ルサルカ」(違ったかな~)のアリアと「マイウエイ」を歌われました。小さい声でしたが、精一杯心と身体が開いて、綺麗な声が出ていました。今日の演奏の中で、実は一番心が動きました。歌い終わられて、嬉しそうにしてらっしゃるのを見たとき、ちょっとうるっと来てしまいましたが、本来、発表会というのなら、こういう素直さが、すごく素敵です。今の自分の状態を見てください、では無く、今の自分はこんなに歌が好きなんです。と、気持ちを伝えることが、発表なのではないでしょうかね。だって、「発表」という字は「表現を発する」と書くんですよ。
このご婦人のように、ただ、歌いたいだけでも、舞台に立つ意味はあります。しかし、お客様がいる限り、それが自分だけのものであっては、ならないのです。私が聴いた、何人かは、大学を出、研究生を修了し、自分の道を歩いている立派な大人。舞台の上でも、そろそろ大人になる時を迎えていると思います。それに気づく人が、先に進める世界です。早く気づいて欲しいですね。
それにしても、この友人夫婦は、本当に素晴らしい教育者でもあります。ご本人たちも、歌い手として活躍し、忙しい中、こうやって立派に生徒さんたちを育てていらっしゃる。頭が下がります。私も、少しでも、追いつくように、勉強していかないといけないと、改めて思いました。日々これ勉強、勉強!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-05-26 01:04 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

お客を期待させること

歌唱レッスンのことは、先の記事にも書きました。アリアでもアンサンブルでも、ただ楽譜を読むにとどまらず、そこで自分が探し出して知識とした情報を、音楽に出来なければ、最終目的には到達しません。それで、最近は、ある程度楽譜を読んだらば、区切りをつけて、歌ってみることを薦めています。そこで、初めて自分がどれだけ役を掴んでいるか、わかるからです。
しかし、掴んでいるだけでは、まだまだ足りません。最終的には、それがお客様の心をどれだけ動かすか、なのですが、先日も、歌唱レッスンをしていて、思うところが沢山ありました。
このクライアントさんは、割と歌唱レッスンを入れる人です。もうすぐオーディションがあるので、モチベーションは高いのですが、どうも、うまく音楽に出来ません。一つは、今現在声を作っている最中で、まだまだ不安定だと言うこと。やはり、歌えて初めて歌い手さんの身体は軽くなります。そこを意識しすぎて、逆に硬くなってしまいます。それと、もう一つ。お客を意識できていないこと。前者は時間を掛けていくしかありませんし、彼女自身も、納得して進めていることですから、気をつけていけばいいことですが、後者は、明らかに舞台経験の少なさを物語っています。つまり、お客に育ってもらう環境にいないと言うことですね。それで、自分の中ばかりで、音楽つくりを考えてしまうのです。それで「やっているつもり」と言うことになる。しかも、自分ではすごく勉強していますから、なぜ、こちらが「わからない」と言うか、理解できない。これは、あまり舞台に乗る機会が無く、自宅とレッスンの往復、みたいになる人にはありがちです。研究生などは大まかに、こういう人ばかりです。それでも、感性というもので、自然と外側に向く人もいますが、そう言う人は、基本的に「観て貰いたい、聴いてもらいたい、泣いてもらいたい、笑ってもらいたい」と言う、欲求が並以上です(笑)。
さて、前述のクライアントさんのように、自分の中でだけ燃え上がっている人を外側に向けるには、徹底的にお客様を意識してもらうことです。例えば、アリアを歌う際、フェルマータとか、リタルダンド、ラレンタンドなど、次の音楽に移るときに、少しテンポがゆっくりになったり、ふいに休みになったりしますよね。これは、もちろん、作曲家が効果を狙って書いているものでしょうが、このときを狙って、「お客様を期待させて!」と叩き込むわけです(笑)。つまり、自分の音楽をどう作るかは、自分しか知らないのだから、「教えてあげよ~か~・・・(他に、言いようを思いつかない)」的に、お客に投げかけることが必要です。十分にじりじりさせてから、お客のストレスを解消するべく、予想もつかないような、良い声と音楽を投げてあげる(笑)。こんな感じ。これは極端な例ですが、こういう風に、常にお客が自分に期待していると思うことも、必要なことです。その期待にこたえて、自分の声を磨く、知識をふやす。そして、自分の音楽はこうだ、と、お客様に投げ出してみる。自分の心が動くときは、このお客様とのコラポレーションがうまくいったときなんだと、わかるまでは、やはり、舞台を踏んでいくしかないのです。
先日レッスンしたクライアントさんは、そのレッスン中に、ふと、たがが外れて、今まで聴いたことも無いような、魅力のある声が出てきて、びっくりでした。しかし、これは、私が逐一うるさく、「客だ、客だ」と言い続けて、段々目の前に客席を感じることが出来たからです。そしたら、自然に笑顔になって、体から力が抜けた。一瞬、私もほっとしました。この感性があるなら、彼女もこれから十分に可能性がある。しかし、これがまた自分だけの世界に戻るのも、あっという間です。そんなに簡単に、いつもの感覚が抜けることは無いのですが、少しずつでも、自分の中にある欲求に気づいていくことが大切です。彼女のオーディションはもう少し。少なくとも、最高の笑顔で、審査員の前に出れるといいんですけどね。オーディションであろうが、試験であろうが、相手は「聴き手」お客様なのです。良い、経験になると良いですね。
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by kuniko_maekawa | 2006-05-21 19:26 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

「レチターレ第二回公演」発進!

昨年公演に足を運んでくださった方、お待たせしました!今年も「レチターレ」をやることになりました。公演日は12月4日。会場は前回と同じく、角筈区民ホールでやりたいのですが、如何せん、まだ抽選日じゃないので取れてません(笑)、きちんと場所等決まりましたら、「新着情報」の方で、お知らせしますね。
初めてこの名前を目にする方にちょっとご説明しておきますと、この公演は、私のところでレッスンを受けてらっしゃる方を中心に、年に一回行っている試演会です。といっても、昨年が第一回目ですから、まだまだこれからですが、基本的に、オペラのアンサンブルをお話や、ナレーションなどで、つなげて一本にする、いわゆる構成舞台の形を取っています。昨年は7演目ほどを詩と芝居の台本等をつなげて、一本のオムニバス舞台にしました。もちろん、演出構成は私がやるのですが、毎回同じ趣向じゃ面白くないので、今回も色々頭を悩ませています。と、言うのは、前回は参加者に適当にやりたいアンサンブルを持ってきてもらって、それを構成したのですが、今回は、端から構成するつもりで、こちらである程度の曲を選曲させていただいてから、皆さんにご了承いただくという形にしています。今、ちょうど第一案が出て、それを参加者に配って、これから調整に入るところですが、毎日、何かしらのちょっとした驚きに、結構心が刺激されて、楽しいです(笑)。
例えば、私の構成は、頭の中でつなげる文章や絵を思い描きながら、歌い手の顔と声質を一生懸命思い出して、このメンバーで、この曲なら、お客さんも飽きないだろう、と言うものを選曲しています。だから、人によっては、いかにも、デュエットです!見たいな曲だったり、seccoが主だったり、アリアだけだったりと、なんともバランスが悪い。それと、どうしても参加者の声域は偏りますから、そこをもしかして、これくらいの低さなら・・・・とか、キャラクターでいけるとか・・・、少し頑張れば、いけそう・・・とかの色んな方向から、せめて選曲していきます。それを、皆に投げてみると、もちろん、オン・フィットする人もあれば、しない人もいるわけです。そこで、また、新しい可能性を探すために、曲を選曲し、最初に考えた構成をぶち壊して、新しいものを作るわけですね。皆良い人たちばかりですから、自分が断ったら、私の構成が変わって、申し訳無いと思って、参加をやめましょうかと言ってくださったりするのですが、私自身は、まったく問題が無く、どちらかと言うと、こういう新しい風が吹いて、風向きが変わると、全然違う方向から見れたりするので、むしろ楽しんでいるのですね。思いがけないことも一杯起こります。絶対に、これはOkしないよな~・・・などと思っていると、軽く「OK」だったり。逆に、参加者が「やりたい」といってきた曲が、思いも寄らないものだったり、中々楽しい(笑)。
そう言う意味では、この公演は皆が参加費を出しての自主公演です。(と、言うより、無理無理そう言う形を取らせてしまった。ははは・・・)私は、そこを大切にしたくて、私中心の公演にはしたくないと思っています。本当は、私は彼らには「先生」と言う立場なので、厳命として与えられた曲をやれ!といっても、良いのですが、それではわざわざ彼らが投資した意味がありません。彼らにとっては決して安くない参加費だからこそ、彼らが納得をした上で、公演を行うことに意義がありますし、逆に、彼らがその意義を感じて、公演を作ることに、もっと関わってくれた方がいいのです。そう言う意味では、私も演出家として参加しますから、私の構成に出来るだけ添ってやっていただきたい、と言う旨はお伝えします。私は私で、意志がありますから。これに指揮者を加えて、音楽的にどう発展させていくかで、また演目も変わる可能性もあります。とにかく、誰もお客さんでいさせたくないと言うのが、望みなのです。
「レチターレ」と言う言葉の意味は、「芝居をする、朗読する、朗誦する、振りをする」いろんな意味を含めています。私たちは舞台人として、この言葉を真摯に捉えたいと思っています。ま、仕上げをごろうじろ。本番まではまだ半年あります。今年は、足の故障があったので、駄目かと思っていましたが、なんとか走り出せてほっとしています。ゆっくり時間を掛けて、楽しい一夜をみなさんに提供したいと思っています。こぞってご来場くださいね!
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by kuniko_maekawa | 2006-05-19 12:29 | レチターレ | Comments(0)

今日は久しぶりに藤原歌劇団の育成部の授業に行ってきました。いわゆる「研究生」と言う、オペラ歌手の卵たちがここで二年間、あるいは三年間学んで、準団員になると、晴れて藤原歌劇団の本公演に合唱団で参加したり出来ます。今日行ったクラスは、最終クラスで、その前期のアンサンブル試験のためでした。マスターコースの夜間のコースで、来月から演出家として授業に入るので、様子を見に行ったわけですが、中々、どうして・・・、相手は手ごわいです(笑)。
今日の授業は基本的に音楽稽古ですから、私は見学者然としてのんびり指揮者の悪戦苦闘を見ていましたが、中に一人、良く歌っているのですが、すごく変な感じがする子がいました。何が変かといいますと・・・・。歌っている最中に、手がひっきりなしに動くのです。
これは、もしかして、合唱クラブなどを体験なさった方なら、わかるかもしれませんが、発声をするときに、良く手を前に投げ出して、物を投げるようにして、声をだしたり、口の中に手を突っ込んで、指を三本入れて口を大きく開けたりと、そう言うことをやるときがあります。まさに、それと同じで、自分が、苦手な音だとか、支えを必要とする高い声を出すときなどに、口の側に手を当てたり、息をまわすために、お腹の変で手を泳がせたりする。目もむき出しにしたり、口を開けたら、そのままあけ方を確かめたり、とにかく、手と顔が止まる事がありません。これは、まずい。しかし、彼女は非常に良い声質の持ち主で、どうやら頭も悪くないらしく、指摘されるところを、うまくは無いにせよ、変えることが出来る。つまり、音楽感として悪くないものを持っているのです。このまま行けば、良いオペラ歌手になる可能性を沢山持っているようです。しかし、この手が添えもののようについてくるのは、使い物になりません。これは由々しきことですね。
こういう「癖」を持った人は、本当に多いです。声を支えるために、必ず手を振り出さないと歌えない人、目をむき出すと言うのは、結構、皆がやります。共鳴が額だと思っているのでしょう、そこに当てようとムキになるのです。口の形が悪いのは、ものすごく多い。変な形にして、音程を整えようとする。振り向きざまに右肩だけが、30センチくらい下がる人。内股で歩く人、これも男性に多いです。スポーツなどをやっていると、内股になる人が多いからですね。例えば、野球とか、陸上とか。どうやってもまっすぐ歩けない人もいました。そうそう、眉をしかめる人。これも多いですね。何をやっても悲しそうに見える人です。とにかく、生活においての「癖」がどれだけ舞台に乗る人たちのマイナス点になるか・・・。
体のゆがみや、手の形くらいなら、歌がうまければ、なんとか許してもらえますが、先の彼女のように、発声の手助けとして、その手が動くと言うのは致命的です。それで、その子の順番が終わったときに、そのことを言ってみると、横で指揮者が「下の学年のときから言ってる」と、ぼそっとつぶやきました。ってことは、1年半くらい言われていても取れないと言うことです。でしたら、もっと努力しないと、この先どれくらいかかるかわかりません。しかし、取れない理由の一つには怠惰もあると思います。その子はそうは思ってないのでしょうけれど、本当に取りたかったら、腕を縛るくらいのことをやらないと、長年染み付いた「癖」など取れるわけがありません。そこまでやらなくても、歌えてるから、と言うは一番怠惰な考え方です。このままでは、この子はオーディションにも受からないし、ましてや舞台で役を付けるなんて、考えられません。それを踏まえて、心を鬼にして、自分に課す、メンタル面の強さが掛けているのでしょう。
そうは言っても、今日歌った子達のどれくらいが、自分は今、オペラ歌手になるために、この育成部に入ったのだと、認識しているのか・・・・・・。これから、この子達と一緒に、ほぼ1年間、勉強して行きます。来年の3月、たとえ一人でも、即、実践に使えるオペラ歌手予備軍を育てるのが、私たち講師の仕事ですが、それにしても、このモチベーションの低さはいったい・・・・。でも、やっぱり授業は楽しいです。この何も知らない子供たちを、段々に大人にしていきながら、自分も、さらにレベルを上げていく努力をする。今年は、最後の修了公演まで、私が演出しますから、彼らを愛していきながら、良い舞台を創りたいと思っています。これから、一杯報告しますから、こう、ご期待!
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by kuniko_maekawa | 2006-05-16 23:38 | トレーナーのつぶやき | Comments(4)

「レナート・ブルゾン」スペシャルコンサート

本日は、偶然にも招待券をいただいて、バリトンのレナート・ブルゾン氏のコンサートに行ってきました。これは、彼の舞台生活45周年を記念したスペシャルコンサートと名がついており、副題に「ヴェルディ~父の肖像」と付いています。その副題の通り、彼のレパートリーである、「ルイザ・ミラー」「ナブッコ」「椿姫」などから、アリアとアンサンブルの選曲でした。相手役を務めるのは、ホールアカデミー出身の皆さん。今では、二期会、藤原でご活躍中の若手の歌い手さんです。このホールアカデミーと言うのは、私も、今日知ったのですが、サントリーホールが主催している、研修期間のようです。しかし、特に授業を組んでと言うこともないらしく、主にブルゾン氏と指揮者のマルコ・ボエーミ氏のレッスンを受けることができると言うことと、ホールオペラ等のアンダーに起用されると言うメリットがあるようです。
さて、ブルゾン氏は御歳70歳近いのでしょうか?正確な年齢はわかりませんが、デビューが61年ですから、そこから45年と言うことは、20歳でデビューしても今年65歳。それより上であれば70近いであろうと言う憶測です。しかし、相変わらずの美声は変わりありません。私は、94年に藤原の「アンドレア・シェニエ」でご一緒しています。その時も彼の美声は素晴らしく、そして非常に頭の切れる人でしたから、きちんと自分の演技や、立ち位置など、計算されつくしていて、感心したのを覚えています。しかし、人間的にちょっと癖のある人で、いわゆるインテリと言う代名詞がぴったりな感じがしました。品はあるのですが、自分の測りにかなわないと、それを無理にでも、当てはめさせるような、ちょっと維持の悪いところを感じていました。しかし、それは、実は、彼が美声ではあっても、決して強い声ではないと言うことろに原因があると思われます。つまり、舞台上でも奥のほうや、響かないところに立つと、自分の声がオケを越えて、客席に届かないと言う、恐怖があるのだとおもうのです。それゆえ、彼は決して自分に損なことはしない。照明や、衣装など、すべてそう言う風に、設定されています。
今回も、こういう人柄は良く出ていました。彼の得意とする「椿姫」と「リゴレット」以外は、今回は譜面台を出しての歌唱です。最初一声出したときは、さすが!と思う、良い響きと、洗練された彼の音楽に一瞬引き込まれたのですが、そのうち、それが、一辺倒に思えてきました。確か、どこかで、ヴェルディの演目ばかり続けて演じたような情報もあるのですが、「ルイザ」も楽譜を観ています。アリアはまだしも、その後のルイーザとのデュエットなど、お互いに棒歌いのような感じもします。ただ、さすがにブルゾンは舞台の居方が違いますから、それがこなれてない楽曲でも、どこで声を聴かせて、どこで客席を見て・・・みたいなことは、なんか計算としてあるのです。ですから、なんとなく熱くない感じがしても、まあ、こんな感じかな・・・・と思って聴いていました。しかし、二部になって「椿姫」のデュエットが始まったときに、なんだ~!こいつ~!
これは有名な2幕のジェルモンとヴィオレッタの二重唱ですが、ヴィオレッタの野田ヒロ子さんは本当に一生懸命、しかも役としてお客様の前に立って居たにもかかわらず、ブルゾンは、めちゃめちゃなリズム、悪い音程、何より、ヴィオレッタの歌い終わりを、まるで噛み付くみたいに、先走りするのです。お分かりですか?こういうのを「食う」と言うのですが、良くお芝居などで、相手の台詞が終わらないうちに、台詞をかぶせてしまうことを、こういうのです。これでは、せっかく野田さんが感情を入れて歌いきっても、何の余韻も残りません。ひょっとして、嫌がらせでわざとやっているのかと思うくらい。しかも、ものすごくリズムを崩して歌うのです。特にレチタティーヴォといって、台詞に近い部分など、オーケストラとのアッコンパニャートでも、お構いなしです。これは、ひどかった。おかげで、指揮者も付いていけずに、オケもばらばら。これには、びっくりです。これは、「リゴレット」の有名なアリア「Cortigiani vil razza dannata」でも同じことが起こりました。しかも、前奏で入り損ねて、ずれる始末。結局楽譜を観て歌った方が、こなれてない分、しっかり楽譜どおりに歌うので、まだよかったと言う感じの演奏会になってしまいました。私は「椿姫」のデュエットを聴いたあと、お得意の「プロバンスの空と海」を歌って、拍手喝采を受けているときに、呆れて拍手などする気になりませんでした。どんなにこの曲を感動的に歌っても、あそこまで、舐めた演奏をされては、とてもじゃないけど、この人が音楽を扱っていると言うこと自体、許せなくなります。しかも、S席は1万2千円。これだけのお金を払わせておきながら、馬鹿にしています。
それでも、日本のお客さんは、何とか感動したがりますから、みんな拍手喝采、ちょっと間違ったくらいは、ご愛嬌とでも言いたそうです。これも、こういう現象を生む、原因だと思います。拍手など、しなければ良いんです。あれだけ有名なデュエットですから、オペラファンなら、歌える人だっているはずです。その人たちを前にして、あんなにめちゃくちゃに楽譜を崩して歌うなんて・・・・。なんだか、がっかり。やはり音楽は人間性です。どんなに素晴らしい声を持っていても、演技の才能を持っていても、最後には、人間性が勝ちます。それを目の当たりにした演奏会でした。
私は、やっぱり草の根オペラが性にあってるし、好きです。小さいところで、うまい歌い手を集めて、散歩がてらにオペラを観ていってもらう。そして、泣いてもらったり、笑ってもらったり、一緒に身体を揺らしてもらって、楽しんでもらいたい。どんなに、立派な舞台や有名な歌手でも、心が動かなければ、何の意味も無いのです。そう言うことを、改めて思い直した一夜でありました。
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by kuniko_maekawa | 2006-05-13 23:44 | 観劇日誌 | Comments(4)

オペラ・レッスン「歌唱編」

さて、私のところにレッスンにいらっしゃる方は、最初に、レッスンの方向性や、どういう作品を勉強していくか、などのお話をします。その時に、いくつかパターンをあげて説明するのですが、大抵はリブレットを読む、楽譜を読む、台詞読みする、リズム読みするくらいまでで、話は終わりそうになります。そこで、私は必ず、プレミアとして、歌唱を聴くということを付け加えます。そうすると、必ず、ええ~!そんなこと出来るの?と、案外あからさまにびっくりなさる方が、多いです。なぜ、プレミアにしているかというと、私は元々演出家なので、歌のレッスンと私が結びつかないだろうなと言うことと、歌い手さんの「歌のレッスン」と言う感覚が、発声的なことに結びつくので、最初からはお勧めしてないのです。しかし、元々オペラは歌って表現するものですから、台詞が上手にしゃべれたからと言って、同じように歌えるとは限りません。それに、私が歌唱を聴くときは演出と言う観点から聴きますから、そこに舞台の設定や、場面、役としての歌唱の仕方など、テクニックや発声を直すということは無く、アリアであっても、オペラの全幕の中の一つの影響としてレッスンをさせていただきます。その中で、自分がどういう風に、楽曲を構成して、お客様に聴かせるのか、そこがポイントになってきます。実際に、歌唱レッスンを受けてくれているクライアントさんは皆さん、これがわかっているので、逆に、リブレットや楽譜を読んだところで、それを声にしていくと言う段階を踏んでいきます。
昨日も、そう言うレッスンを一本やりました。彼女は今月オーディションがあるので、それに向けてのことでしたが、まず、適当に発声レッスンをしてもらい、さて、歌いましょうとなると、いきなり、直立不動で、顔の形も固定されています。つまり、良い発声で歌える身体で私の前に立っているのです。おやおや、と思いましたが、これは、案外皆そうです。歌を聴かせてくださいというと、必ず、良いポジションで歌えるように、色気の無い身体で、私の前に立ちます。
しかし、私が欲しいのは、役として立っている体で、このレッスンの姿勢で立たれてもらっても、困るわけです。そして、こうやって歌いだした楽曲は、ただの棒歌い。必ず、です。昨日のレッスン生もそうでした。最初に、何も言わずにただ歌ってもらうのですが、最後まで言葉の色も変わらず、ダイナミックスも変わらず、何も起こりません。しかし、本人は良い声で歌ったと思っているようです。これを、発語を中心に、段々言葉を前に出し、それと同時に体の息を回して使うと言うことを、うるさく言い続けて、1時間ちょっとくらい立つと、やっと、体が動いてきます。そして、暑くなって来る。それまでは、私は汗だくですが、彼女自身は「別に暑くありません」、です(笑)。
もちろん、最初からきちんと役としてのアリアを歌う方もいらっしゃいます。そう言う方には、それ以上のレベルのことが出来るので、それはまたそれで、身体を開くことをしなければいけませんが、とにかく、普段のレッスンで、いったいどんな風に、身体を使っているのか不安になります。
そして、いざ「歌う」となると、それまでの何回かの机上のレッスンはすべて、無駄になっています。例えば、リブレットの解釈や、楽譜の音符の長さ、ダイナミックスなど。目で追って、確認したものが、声を出した途端にただの記号のようになるのですね。これは、研究生や、学生などを長くやっていて、いつも最初にぶつかる壁みたいなものです。歌い手さんたちは、「歌う」と言う能力を持っているのに、その能力のおかげで、自分をがんじがらめにします。そして、ちゃんと声を出せるまでは、言葉や音符は二の次なのです。
そう言う意味では、普段のレッスンが、どれだけ「声」だけに偏っているかがわかります。確かに、ちゃんとした発声で歌うことが第一の条件です。そして、その「声」の評価で歌い手の真価が図られているのも、本当のことです。しかし、海外の歌い手たちが、その歌声に豊かな感性を感じるのは、決して「声」を評価にしてないからだと思うのです。声が良くても、感性が無ければ、客が感動してくれない。そのストレートな評価が歌い手を育てています。時々公開レッスンを聴きに行くと、イタリア人の先生が、日本の若い歌い手に「この内容なのに、どうして何の表情も無いの?」などと、テクニックのこと以外のことをすごく言っていたりします。しかし、受けた方は、レッスンとは、歌えないところを何とかしてくれると思っていますから、何を言われているかわからず、ただ、にこにことうなずいているだけで、こちらが恥ずかしい思いをすることがあります。そして、終わって、歌の先生などと話しているときに、「やっぱりイタリア人は細かくないわね」などとおしゃべりしていたりするのを聴くと、日本の歌手の教育は、根底からやり直すべきなんだとがっかりします。発声をしていても、口から出しているのは「声」ではなくて、「音楽」なんだと、今、レッスンをしている声楽家の先生たちが、どれだけわかっていてくださるか。これからの日本のオペラ界はここにかかっていると思うのですが・・・。一言付け加えておきますが、もちろん、「声」をちゃんと音楽として育てていくことを、使命としてよい歌い手さんを輩出なさっている先生もちゃんといらっしゃいます。私の友人たちも、ピアニストであれ、歌い手であれ、自分たちが教えている歌い手たちに、ちゃんと「音楽」を育てています。ですから、その方たちのところからは、素晴らしい可能性をもった歌い手さんたちが、ちゃんと育っています。しかし、絶対数が少ない。これから、私たちの年代が教授や助教授になってくるでしょうからそこに期待しているのですが・・・。少なくとも、私のところに来ている人たちだけには、それをわかって欲しいと思って、今日も楽譜を開いています。ほんとに・・・。(;;)
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by kuniko_maekawa | 2006-05-12 12:38 | オペラ・レッスン | Comments(0)

自分と向き合う方法

トレーナー家業をはじめてから、三年目になりました。あっという間に一年過ぎてしまうので、数えてからびっくりですが、その間に私自身も変わっていきますから、結構レッスンは生ものです。今年に入って、新しいクライアントさんが3人ほどいらっしゃっていて、それぞれに、やり方も、得るものも違うのですが、最近、私が思うのは、やはり、どれだけ自分を知っているかと言うことも、こういうレッスンを受ける人に投げないといけないことだということです。おかげさまで、今私のところにいる人たちは、基本的にはオペラ歌手を目指しており、それぞれのレベルの中で、出来ることを一緒に勉強していますから、まず、うまくなりたいと言うモチベーションは高いです。そのために、イタリア留学を考えていたり、指揮者とレッスンしたり、と、いろんなことに投資すると言うことの意味も良くわかっています。ですから、私は私の分野で彼らと付き合うわけですが、その人たちに、お勧めしているのは、「足らないことを知る」と言うことす。では、具体的に、どうやってそれを知ったらよいのか。元々、足らないものばかりと思っているから、こういうレッスンにも来るわけで・・・。そこで、もっとも単純な方法を、話しています。「書き出すこと」です(笑)。
例えば、今日、レッスンを受けたとします。当然、出来ることだけではありませんから、2時間の中で、自分に投げかけられたサディスションや、自分で気づいたことなどを、終わった後に、うちに帰って、ノートに書き出して、それを次のレッスンのための勉強をするとき、あるいは、歌の練習をするとき、何かにつけ、開いて欲しいのです。つまり、いつも、自分に足らないものを具体的に眺めると言うことですが、単純なようでこれは結構効き目があります。私も、よくやるのですが、頭で覚えていることは、案外自分で良いように書き換えることがあります、それに、文章や、文字にすることによって、目で理解することが出来る。これは、漢字文化のなせる業ですが、絵として自分に残るのですね。しかし、これをネガティブに捉えて、「駄目ノート」などと、名づけてはセンスがありません(笑)。どちらかと言うと、「夢のノート」ですよ。箇条書きを消していけば、あら、不思議。素晴らしいオペラ歌手が出来上がってると言うことですから(笑)。
人間は、自分に良いことは知りたがりますが、悪いことは出来れば知らずに済ませたいです。けれど、染みがついている服を敢えて、着ないでしょう?その染みを消す努力をするじゃないですか。それと同じことです。そうやって、自分と常に向き合って、出来ることが何で、出来ないことが何で、そのために、何をすればいいのか、具体的にするべきだと思います。それがわかって、初めて、足らないものを埋めていける。そう言う見方をするならば、可能性が、足らない分だけあると言うことですから、素晴らしいですよね。
どうぞ、最近伸び悩んでいるな~などと思っている歌い手の皆さん、一度試してみてください。レッスンのたびに、何を言われたかを書き留めて、それを次のレッスンまでに、消していく。新しいことを言われたら、それを忘れないように書き留めておく。もちろん、褒められた項も作っておきましょう。それ以上のものを、更に、創っていくために。頑張ってくださいね。ノート選びも、楽しいと思いますよ。実行された方で、良い結果が出たら、教えてください。自己啓発本を書きますから(笑)。
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by kuniko_maekawa | 2006-05-08 20:48 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

オーケストラの息

昨日TVで世界の小澤征司(あれ?この感じでしたっけ?ど忘れしました)が、彼の行っている音楽塾を中国でやった際のドキュメンタリーをやっていました。何の気なしに観ていたのですが、これが結構面白く、考えさせられること然り。
彼の主催している音楽塾は、日本でも毎年行われていますが、学生や、若い演奏家たちをオーディションで選び、交響曲やオペラを上演して育成に携わると言うものです。選ばれた人たちや、上演される演目はともかく、その主旨は素晴らしいし、彼で無ければできない規模のものがいつも出てくるので、感心しています。彼自身のパーソナリティも、メディアを通して知る限りでは、好意を持っています。どこか、自分の弱さも強さも糧にしているようなしたたかさと、バイタリティを感じるからです。こそこそと、批判だけしていて、実際には身体を動かさないような人たちは一杯いますから、それに比べれば、ワンマンだとか、彼自身の勉強するために企画を起こしているとか、もし本当であっても、逆に潔いです。第一、彼ほどの位置にいける人たちが、この音楽界でどれだけいるのか。神様に選ばれた人だと思います。
さて、その彼が北京と後、新開だったかな?二箇所でオーディションをして選んだ若い演奏家たちは、個人の実力はものすごく持っています。オーディションの場面も映っていましたが、ちょっと聴いても、素晴らしい。しかし、彼らはソリストとしての勉強はしているけれど、オーケストラとしての訓練はほとんどなされていないらしく、それに小澤さんがてこずっていました。おりしも、中国は経済発展の真っ只中ですから、北京の中央音楽院など、後者を建て増し、ホールを建て、学生を一杯入れて学校を発展させるべく頑張っているらしいのですが、小澤さんはその中で、器ではなく、中身を充実させるべきだと、声を大にしていってらっしゃいました。事実、オケの練習のとき、実力と努力が足らずに、ついていけない学生が何人もいる。しかし、みんなソリストとしては優秀ですから、耳はよいし、技術は持っていたりするわけです。
原因の一つは中国の一人っ子政策で、育った彼らは全員が一人っ子で、人と何かをあわせることをしなくて良い、生活をしていること。そのために、人の話を熱心に聴くと言うことができません。事実、携帯はおきっぱなしだし、稽古に鉛筆を持ってきません。話を書き留めると言うことがないのでしょうね。そして、表情が上の空です。それが怒れば怒るほど、シャッターが下りてくるみたいに、無表情になる。これは怖いことですね~。教える側も、その子の成績がよければ、そこから先の彼らの人格的なことまでは、注意しないのだそうです。しかし、そう言う意味では、教える側だって、一人っ子政策で生まれた人たちが、段々その位置に来る時代でしょうから、その感覚をおかしいと思わないわけですよね。しかも、それが音楽であると言うことが、本当に恐ろしいと思います。
小澤さんはしきりと「息」だと言っていました。ブレスをして、曲を変えていく。そして、人の音を良く聴くこと。単純なことのようですが、何をするにも大切なことです。オーボエ奏者の宮本文昭氏が参加していて、学生たちに、面白いことを言っていました。「オケはちょっとうまくなると、一緒にブレスが出来るようになる。そして、もっとうまくなると、一緒に切れるようになる」すごく、大切なことだと思いました。後、チェロの原田さんと言う方も、インタビューで、「オケが最初からそろったらおかしい。皆人間が違うんだから。そこが最初からぴったりそろうのは、何か自分を殺しているからそうなるんでしょう?」って日本人はそう言うことが好きだから、出来るけど、個々の息が音楽を作る上で実力を出しながら一つの目的に向かうのが、正しいと。これにも唸っちゃいました。
最近は私たちも、研究生などを相手にし、何を考えているかわからない、息をしないなどと、同僚の指揮者たちと嘆いたりします。時代の流れと言うのは簡単なのですが、だからこそ、その流れに添った音楽の創り方もあるのかもしれません。いずれにしても、「音楽が好きだ」と言うことだけは、みんな同じはずですもんね。考えさせられました。
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by kuniko_maekawa | 2006-05-05 13:08 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)