自分の言葉を持つ

さて、6月に入って研究生の授業が始まり、一月経とうとしています。一週間のうち、オペラの授業は週1か2。その間に、彼らは他の講義などを受け、学校は続いているわけです。私たちは、その中の合間に、彼らに会うわけですが、3時間の授業時間の枠の中で、20人からなる生徒たちを、ある程度、ものを考えられる人間にしていく必要があります。

この場合の、「物を考える」と言うのは、もちろん、オペラの楽曲を、どう自分で創り上げていくかということですが、しかし、そこに日常生活が大いにものを言っているのは、否めません。どう言う事かといいますと・・・・

稽古を進めていくにおいて、大切なのは「気持ちを語ること」です。例えば、今、この場面において、どういう気持ちでこの言葉や音楽を扱っていますか?と言う質問に対して、自分の言葉で語れること。特に、学生や研究生と言う、これからを学んでいる人たちには必須条件です。歌ってわからせるということが出来れば、もちろん、良いのですが、そんなことは一流の人の出来ることであって、その一流の人たちでさえ、並み居る一流の演出家、指揮者と舞台をやる時には、恐らくこういったことを話し合うのが必須だろうと思います。中傷的な舞台や、楽曲の解釈を新しくする時など、まさにそうでしょうね。
ところが、若い人たちであればあるほど、「自分の言葉」で感情を語るということが、出来ません。

先日も、授業をしているときに、ある女の子に質問をしていました。しかし、その女の子は、私とうまく会話が出来ないのです。例えば、「「si davvero」ってどういう気持ち?」と聞きます。その子はしばらく考えて「「si davvero」のところですか?」又聞きなおして、考えます。そして、おもむろに「そりゃそうだ・・・」とだけ言います。これ、わかります?まったく会話がなされてませんよね。私は、気持ちが知りたかっただけなのですが、彼女はその気持ちを伝えるのに「そりゃそうだ、みたいな・・・」って言う言葉で返してくる。具体的な言葉を選べないのです。
読んでいる方は、彼女だけがそうかと思うかもしれませんね。そんなことありません。ほとんどがこう言う答え方です。

百万歩譲って(笑)「そりゃそうだ」と言うことでも、ニュアンスとして受け取るとしましょう。しかし、なぜ、そう思うのかと言う理由は、得てして希薄なのです。例えば、「愛妙」のネモリーノが1幕のデュエットで、アディーナに病気のおじさんのところへ行けといわれて、「行こうと思ったけど、行けない。何度も試したんだけど・・・」と、アディーナに言うところがあります。アディーナはこれを聞いて、「あんたが行かなければ、誰か他の人が遺産をもらうわよ」と怒ります。そして、私は問うわけです。どうして、「こんなことを言うの?」。
そうするとアディーナを歌う彼女は、「うじうじしてるから」とか「うざったいから」とか言います。しかし、私の聞きたいことは、なぜ、そう感じるかと言う「理由」です。例えば、「行こうと思ったのに、離れられない。何回も試したのに」と言う、優柔不断なところに苛々するとか・・・、そう言う答えから先を膨らませていくのですが、彼女の理由は、ネモリーノの外側のイメージだけです。すなわち「いつも、うじうじしているから」。

こう言う彼女たち、彼らと話をしていると、時々、TVを一緒に観て話をしているよう。くだらないお笑いに対して、「こいつ、うざいよね~」とか「意味なく、笑えるよね~」とか言ってるのと同じ。なのにも関わらず、彼らは「どうなんですかね?」と言う質問だけは投げてきます。「ベルコーレにも、ネモリーノにも、同じmodestoって言うのは、なぜなんですか?」お前が考えろ!!ってわけです。

もちろん、自分の言葉を下手ながら、もうちょっと頑張って話そうと思っている子もいますから、全部が全部そうでないにせよ、ボキャブラリーと想像力が死んでいます。

これは、ひとえに、普段の生活で、こう言う風に想像力とボキャブラリーを必要としてないからです。人と会話をしない。その会話も、人に何かをわかって欲しいとか、伝えるための会話ではない。本を読まない。読んでも映画のように、「所詮、小説だよね」と受け取ってしまう。簡単なことならメールでOK。それも顔文字を入れれば、気持ちは伝わると思ってる。

私もデジタル時代の人間でもありますから、メールは便利だし、自分だけの世界に閉じこもれるインターネットの世界も好きではあります。しかし、基本的に伝えたい、物を作りたい欲求が激しいがために、人と向き合う時は全、エネルギーをかけます。稽古場では特別そうです。それを自分を守るために正直に向き合わない若い子のなんと多いことか!昨日も、あまりにいい加減に、私の前に立つので、さすがにあったまに来て、怒鳴りまくり(^^;)。

物を作る現場において、しかも、それがお客を対象にした、娯楽を創るのもであれば、余計、稽古場が真摯でないと成立しません。その真剣ささえも、持っていないこの若い歌い手の卵が、どうして、こう言う研究所にいるのか。自分を表に出すことが苦手なら、歌い手などなるべきではありませんし、音楽を楽しむ自分が素直にないという音楽家など、意味のないものだと思います。

この温度差を、わかってもらうのには、ものすごい努力が要ります。捨ててしまって、適当に出来ることだけ与えた方が楽です。しかしね~、ひょんなことから、可能性が生まれることもある。それがあるから、やはり、捨てることは出来ません。こうして、私は又来週も、宇宙人と戦うべく、この週末は刺抜きにいそしまなければいけないのですね・・・・。ま、神様は誰彼愛していらっしゃる。キリスト教における、「理性を必要とする愛」というのは、こう言うところに必要なことなのでしょうね。喜びをもって、頑張らなければ~・・・・(;;)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-30 14:41 | トレーナーのつぶやき | Comments(4)

声の種類と演目

歌い手の声の種類は、色々です。ソプラノ、メゾ、アルト、テノール、バリトンといった大まかな声部があり、更に、各声部のなかでも、声の質によって細かい分類があります。例えば、ソプラノだったら、軽い順から、レッジェーロ、リリコ・レッジェーロ、リリコ、リリコ・スピント、リリコ・ドラマンティコといった具合。男声も、同じですね。しかし、これは、高い音が出ないから、重いものを歌うと言うことでなく、単に、音色です。例えば、シャーリー・バレットというメゾなどは、テクニック的に高い音もきちんと使えるために、ヴェルディのマクベス夫人などを歌ったりします。これはソプラノの曲なのですね。テノールなども本来はリリコ・レッジェーロであっても、ロッシーニからヴェルディまでレパートリーとして持っていたりするのです。

この境は、私にも良くわかりませんが、テクニックやニュアンスなどが使えれば、声が出る限り、どの役でも出来るという広さを持っているのだと思います。しかし、歌い手さんの方は、自分で楽曲を選ぶ場合に、どこまで自分の声の幅を認識しているのでしょうか?時々あららと思うことがあるのです。

今、研究生の授業では、色んなオペラのアンサンブルをやっています。ある一場面選んで、それを演じて試験とするわけですが、女声の数が圧倒的に多いこの世界では、こういった授業にも助演として男声が入ってきます。彼らは、出来る限りのご奉仕として、役を二役か三役振り分けられるわけですが、その中にも必ずしも、自分の声部にあってないものもあります。何せ、いないんですから、しょうがない。例えば、本来はロッシーニバリトンであるはずの人が、「椿姫」のジェルモンもやるといった感じ。今も、一人のバリトン君が、この憂き目に会っています(笑)。

こういった場合、歌う方は必ず役に自分の声をあわそうとします。つまり、ジェルモンと言う父親の役に必要な威厳を声で現そうとしています。だから、必要以上に重く歌い、声をつぶしてしまいそうです。

私は実は、これは違うと思っているのですね。基本的に持ち声が変わるわけはないのだから、声質だけの問題ならば、わざわざ声をそれっぽくしなくても、音楽感やリブレットの読み方さえ、しっかりしていれば、ちゃんと威厳のある父親は出来るのです。
先の助演君も、最初えらく気張って威厳を出そうと、頑張って歌っていましたが、一曲終わったら、は~は~言ってます。これでは持ちませんね(^^;)

ジェルモンは、父親役ということで、かなり皆さんも重々しい声を想像なさるでしょうが、実は楽譜上はテノール?と見まごうほどの高い音の羅列です。バリトンにしては、かなりきつい音の並び。ほとんど五線を越えています。その中に書いてあることは、しかし、重厚で、しかも、誠実さがある(解釈の仕方は色々ですよ)。この高い音のラインを、きちんとした発声で歌っていないと、あっという間に、つぶれてしまいます。

そこで、そのバリトン君に、色々お話をして、私の解釈と楽譜上のことと、そして、何より彼の持ち味である、高い音の響きを戻してもらいました。このバリトン君は、高音のE、F、Gくらいの音がすごく綺麗でつややかです。しかし、きちんとバリトンの響きを持っており、決してテノールのような明るさではないのです。確かに、若く聴こえますが、それに伴ってばたばた動かずに、音楽だけを感じていれば、十分、ジェルモンに見えます。もとい、聴こえてくるのです。

どの楽曲を扱うときも、自分の持ち声を変えずに内容で役を創る。そこは、絶対だと思うのです。後は、きっとテクニックをしっかりつけると言うことなのでしょうね。マリア・カラスなどは、元々はリリコの声でありながら、「ルチア」の狂乱のアリアや、ロッシーニなどを沢山歌っていました。声はあまり良くないといわれながらも、アジリタ(早いパッセージです)のテクニックが抜群だったために、役の幅が広かったのですね。もちろん、感性も表現力もあったわけです。

やはり、ここにも歌い手自身が、己と言う歌い手を客観的に見つめる能力を求められると思います。その上で、テクニックを磨いて、役の幅を広げる。でも、それは決して、役に自分の声を合わすことじゃないのだと思うのです。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-28 22:12 | 歌手 | Comments(2)

イメージの効力

昨日、藤原歌劇団育成部の新人演奏会に行った感想を記事に書きましたが、もう一つ、面白いな、と思う現象が。それは、楽曲を歌唱する時に、どれくらいイメージがあるかと言うことなのですが、如実にそれがあわられるのが、早いパッセージの時です。やはり、日本人のソプラノ歌手は、ほとんどがレッジェーロかリリコ・レッジェーロ。時々メゾやリリコの歌い手がいますが、楽曲の選び方によっては、微妙です。昨日、最後に歌ったソプラノさんも、中音域はリリコ・レッジェーロの素晴らしい響きでしたが、高音域になるとレッジェーロのような響きです。本人も、迷っているって言ってました(笑)。
こう言う声が出揃いますから、楽曲も、ドニゼッティ、ベッリーニ、ロッシーニが大半。スープレット系のアリアになりますと、コロラトウーラのパッセージが一杯出てきます。もちろん、テクニック的にも大変。よほど良く歌っていても、全部の音を良い響きで、しかもスピードを落とさずに客席に投げるのは一流でも、緊張するところでしょう。若い歌い手たちは、見な、一様に下降形は上から下に、上昇形(なんか漢字が良くわからず)は下から上へ、顔が素直に動いていきます(笑)。上に上がっていく時は、まだしも、下に下がってくるとなると、段々ネガティブに聴こえてくる。顔もすごい形相になってきます。音程と息が続くかどうかで、生死をさまよっているみたい(^^;)これは、ちょっといただけません。こう言うときに、大切なのでは、ある種のイメージを持つことです。
ソプラノは下降していると本来の良い響きから苦手な中音域を通って、ほとんど響かない低い音で決め台詞などあったりします。そうなると、段々顔は暗くなるし、声は引っ込んでくるしと、良いことはありません。理由は様々でしょうが、イメージの持ち方が悪いのだと、私は思っています。これは、パッセージに限らず、言葉、音にイメージを持つという訓練は必須だと思います。例えば、こう言う下降形は逆に低い方から高い方に声を出すというイメージを持ってみる。そうすると、少なくとも、低い声を使うという苦手意識がなくなるのと、息の流れが先に続きます。逆に高くて苦しい(sopなのに・・・)パッセージのときは歌いだした、その音と同じ高さの音を歌い続けているイメージをもって、息だけ使う。これも案外有効です。こういった簡単なイメージトレーニングで、自分を少し楽にすることを歌い手さん自身が覚えれば、もっと、舞台の上で体が自由になるはず。もともとテクニックを持っていて、パッセージを楽しめる人なら、問題ないですが、逆にレガートな部分でも、スラーの方向性や、フレーズの捉え方などにも、イメージは必要だと思います。言葉や音符にあるのは当たり前。でも、大きな意味でのイメージトレーニングも、歌い手さんには必要不可欠です。
そして、もう一つ。「支え」です。声を出すには、この「支える」と言うことが、絶対条件ではありますが、それを重要に考えすぎるために、体が逆に固まってしまって、てこでも動きません。これも、困ったものですね。確かに、良い響きは出ています。声も、会場にちゃんと聴こえてくる。しかし、肝心の立ち姿と言うものが、まったく死んでしまっています。それも、本当に支えたい高音域のところは、案外支えきれなくて、ふにゃっとしてしまう。これでは本末転倒。
本来「支え」は、体を空洞化するためのベースになるものです。ポンプの空気が入る部分。そこに対して、やわらかくポンプが押せないと、空気は出てきません。ポンプを押した途端に、言葉の形をした口から声が出て、客の耳には「言葉」として聴こえてくるわけですから、どこも別個にはならないのですね。もちろん、ここにもイメージは必須です。一度出した音が客席にす~っと消えていくようなイメージをいつも持ってください。そうすれば、ベッリーニなんて、どんなに声が伸びやかになるか・・・・。
最近、教会で賛美歌を歌う私は、ひそかにこの自分の歌唱論を実践しています(笑)。そして、イメージをちゃんとつかめた時の方が、声が伸びやかな感じがする。最も、音程と声自体は、ひっどい物が口から飛び出て、周りを巻き込んでいますが・・・・・(^^;)。人間の想像力って、案外馬鹿に出来ません。イメージ一つで、人間性も変えることが出来るのですから。どうぞ、お試しあれ。信じるものは救われる!です!(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-25 15:37 | トレーナーのつぶやき | Comments(2)

空間を歌うと言うこと

藤原歌劇団育成部新人演奏会へ行って来ました。これは毎年行われる、研究生のお披露目演奏会です。藤原の育成部の場合、研究生を修了した段階で、準団員と言う枠に推薦されます。残念ながら推薦されなければ、一応藤原との縁は切れてしまうと言うわけですね。いわゆる成績優秀者というわけでしょうが、そう言う新しく準団員になりました、と言う若者たちを一般の方々に知ってもらうと言う演奏会です。
毎年招待されていますし、私が研究生と関わるのはアンサンブル試験や、修了公演でのことなので、ソロで歌うのを聴く機会は余りありませんから、ものめずらしく時間があれば、毎年聴きに行っています。さて、今年も22人の若い歌い手が登場しました。これも、楽しみの一つですが、研究生は毎年毎クラス、力量も個性もバラバラです。そう言う意味では、今年は質の高い演奏会ではありました。歌って聞かせる子が多かったのですね。それぞれの課題はありますが、その中でちょっと面白い現象を見ました。
会場はイイノホール。ここは演奏会としても良く使用されていましたが、最近はもっと音響の良いホールが出来ましたから、もっぱらファッションショーなどで使われるような古いホールになってきました。いわゆる「うなぎの寝床」で、奥行きは無く横広です。音響はそんなに悪くないのですが、横が広いと、お客が集中しにくいのですね。歌っているのが、まだそんなに上手じゃない居方をしますから(歌が下手ではなく、舞台の居方がおぼつかないのです)、余計にそうです。今日も、少し手元のプログラムや、居ずまいを直す音など、演奏していてもしょっちゅう聞こえていました。ところが、あるSopの時に、ほ~っと思うことが・・・。
彼女は休憩前に出てきました。お客もそろそろ腰が落ち着かなくなる頃。しかも歌いだしたのが「ボエーム」のミミのアリア。今までがスープレット系が多かっただけに、ちょっと緩慢な空気が流れそうになったのですが、歌いだしてしばらくしてから、少しずつお客のざわつきがなくなり、す~っと、彼女の歌に手中しだしたのです。これは不思議な現象でした。その子は私のレッスン生でもあり、いつも、腰を落ち着けて歌うと言うことが中々苦手そうなのですが、今日の歌唱は、私もびっくりするくらい、音楽観が広く、彼女の持ち味でもある、深みのある良い響きで声がしっとりと出ています。元々小さくて細いのに、その体が何倍も大きくなったよう。良い息が流れていました。気づくと、お客が水を打ったように静かに彼女の歌を聴いているのです。これは素晴らしい・・・。思わず感心。ところが、少しして、音楽が動き出すと、まだざわめきが戻ってきます。ああ、やっぱりと思っていると、また静かになる。つまり、彼女の歌につれて、客が反応しているのですね。うわ~、すごい~。と思いました。もちろん、満場の拍手。私にしても、この子の体に、こんな音楽が備わっていたなんて、と驚きと感動が隠せません。自分でも、それを感じたらしく、感動していました。どんどんお客に自分をゆだねた結果ですね。
こんなところにも、お客さんの大切さを感じます。彼女は、この演奏会の2週間ほど前に、オーケストラをバックに、同じ曲を歌う機会を与えられていました。それが、今日のような、音楽観の広さを産んだのでしょうけれど、それに伴って、お客さんが正直に集中したり、気を緩めたりする。このお客様のいる生きた客席を含めて、空間を掴むと言うのだと、また思いました。そして、その空間ごと歌うと言うこと。彼女が今日、感じたことが、その先に繋がると本当に良いと思っています。この感覚を忘れないでいてくれると言いのですが。
それにしても、舞台の空間を掴むと言うか、自分の歌う会場を知ると言うことを、もっと若い人はやらねばなりません。今日も、何人かの子は、何を思ったのか、舞台の前に出すぎて、明らかに反響版の響きを外しています。せっかく良い声で歌っても、空間の響きがどこが一番良いのか、自分の声がどう乗るのか、くらい、わからなくては怖いです。オペラで舞台に立った時など、家具と家具の間や、後ろに平気で立つのと同じですね。
いずれにしても、今日の演奏をしてくれた若者たちは、いずれは藤原歌劇団を担い、重鎮となっていくのでしょうから、是非、頑張って欲しいものです。特に、一番最後に歌唱したSopなどは、これからの可能性を十分に感じさせてくれる逸材でした。おばさんは、見守るのみ。楽しみが増えました。(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-24 21:29 | トレーナーのつぶやき | Comments(2)

勉強のプロセス

本日は、雨の中、歌い手さんが一人、レッスンの面談に来て下さいました。彼女は、4年前に研究生を修了し、オーディションなどを受けて、頑張っているようです。まさに4年ぶりに連絡を下さって、レッスンを受けると言う運びになったのですが、最初にレッスンの依頼の電話を受けた時、実は、私は結構感動していました。彼女がこれだけの期間を置いても、私を必要としてくれたこともそうですが、彼女なりに、彼女のペースで、勉強を続けて、その上でプロセスとして私のレッスンを受けようと思ってくれたことが、何より、嬉しかったのですね。
別に、私のレッスンでなくても良いのですが、研究生を出て、女声はやはり場を求めて苦労します。ましてや、ある程度の歌唱力を持っていたりすると、モチベーションは高いですから、すぐにも、イタリアに行ったり、オペラの舞台に立ったりしたい。しかし、現実はそんなに甘くありません。合唱団としての仕事も難しいし、オペラ公演となると、それぞれの持ち味や、演技力など、団体によって望まれることも違いますから、見た目が、ちょっと地味目の彼女は、中々難しかったかもしれません。コンクールなども受けたようですが、審査員に「表現力が足らない」と言われ、それで、私のことを思い出したのだそうです。
表現力自体は、経験と感性でどうにかなるのかもしれませんが、私のようなところを、プロセスとしてちゃんと把握できていたのが、彼女にとっては良かったことだと思います。それは、私がいいとか悪いとかじゃなく、明らかに、足らないと言うことを認識し、そのために、それを埋めることに投資すると言う意思が、彼女にあったと言うことが、素晴らしいですね。これが、指揮者であっても、コレペティストであっても、彼女が欲しい表現力と言うものを身に付けられるならば、多分、彼女は門をたたくと思うのです。しかし、場は欲しいけれど、彼女のように、プロセスを踏むことに投資すると言う人は、中々いないかもしれません。歌のレッスンは、別です。これは、主食ですから。食べないと、死んでしまいます。歌い手がレッスンをやめたら、あっという間に、歌えなくなりますよね。声を確認していくことは、一生やら無ければいけないことのように感じます。
しかし、その他の足らないものを認識し、時間をかけて勉強することは、付加価値です。これを、どれくらいのレベルで考えるかが、その人の内側を広げます。
先日、ある教え子が、イタリアから戻ってきた記念に、演奏会をしました。これは、オペラを一本カットしたりしながら、デュエットやアリアをナレーターで繋げているもので、ソファや、机など用意し、一応演技つきでした。しかし、残念ながら、彼女の歌唱は、歌唱だけにとどまっており、イタリアでどれくらいのことが、勉強できていたのかわかりませんでした。もちろん、声は素晴らしい。しかし、音楽は崩れているし、楽譜の内容は伝わらないし、その上で出来上がった演技つきの舞台は、正直、試演会の域を出ませんでした。しかし、チケットは4500円。本人は、3年も海外留学をしています。きっと、歌唱は頑張って勉強してきたのでしょう。それだけでも、大変なことだったと思いますが、しかし、客として聴いた時に、まったく満足できるものが無かったのも事実。例えば、指揮者について、楽譜を勉強するとか、演技の先生について、演技を勉強するとか、ヨーロッパで出来る勉強を、もっとリサーチできなかったのでしょうか?海外に行ったことない私にはえらそうなこといえませんが、だったら、日本でも誰か、演出家や、指揮者に付くべきでした。
この二人のどちらが良いとか、悪いとかは、勉強する段階の付加価値のつけ方のような気がします。やはり、イタリアに飛び出していったと言うことだけでも、先の彼女には出来ないことだった。しかし、日本で勉強している人たちと、あまり変わらない状態に思える、後の彼女と、足して割るといいのに、と、思います。そうすれば、プラマイ・ゼロだなって・・・(^^;)
いずれにしても、いつも思うのは、その人がどれだけ自分の足らないことに気づいているかどうか、それに尽きると思うのです。先の彼女は、まず、歌だけ、それから表現、それからイタリアと、段階をつけて、ゆっくりと勉強しています。そう言う意味では、今頃足らないことに気づいたのかい?と言う遅さもあるでしょうが、気づいたことが大切です。そうすれば、新しいサイクルが作れるんですもん。イタリアから戻ってきた彼女も、またこれからキャリアを積んでいかなければいけません。今のままではもったいない、良い声をしています。出来るだけ、客の前に出て、自分を突き放すことをしなければいけません。それから、楽譜の勉強も。頑張って欲しいものです。みんな可能性がありますもんね。
それにしても、皆さん、レッスンを依頼してくださったり、演奏会にご招待いただいたり、本当にありがたいです。それで、また、私も成長させていただいています。これからの人たちのために、私も、もっと勉強しなくては・・・と、思う次第です。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-18 17:08 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

芝居の演出家VSオペラの演出家

先頃、あるオペラ団体に関わっている友人から、演出家のことで相談を受けました。どう言うことかと言いますと、今度彼らがやる公演の演出家が、芝居畑の人で、オペラのことがわかっておらずに、困っていると言うこと。う~ん、よくある話である。
演出家と言う職業は、本来ならジャンルを分けるべきものでもないのですが、扱う作品の種類が違うと、方法は違ってくると思います。その大きなジャンルわけとして、「芝居」と「オペラ」となるわけですね。もちろん、演出家の方も、仕事を始める流れとして、芝居から入る人、オペラから入る人、色々です。出身が違えば、自然にジャンルが違いますよね。例えば、私の場合は、声楽を学んでいた関係で、そのまま自然にオペラの世界へ入りました。芝居の現場も入ったことがありますが、やはりなじめませんでした。方法がちがうのです。逆に、役者をやっていて、スタッフになり、助手を探していたオペラの演出家にアシスタントとしてついてから、オペラの世界に入った人もいます。このジャンルが、時として入れ替わった時、色々問題が起こるのですが、それも、双方のプライドと、思い入れと言う感じがします。
芝居とオペラは、はっきりと方法が違います。何せ、片方は台詞だけ、片方は音楽付き。芝居の場合は、役者さんとともに一つの台詞を追いながら、役を創っていくという、無限大の仕事を要求されますが、オペラの場合は、まず作曲家がいて、そこに歌い手がいて、指揮者がいて、と、何人もの音楽的解釈を通り越して演出家の解釈が存在したりしますから、まず、楽譜を読むことが必須です。しかし、だからといって、オペラ演出家が、ハイレベルと言うことになりません。私は、両方の演出家とオペラで仕事をしたことがありますから、それぞれの才能のすごさに、感嘆しています。楽譜をまったく読めない演出家でも、感性がよければ、音楽の長さ、歌唱の大切さ、間奏の意味などを、ちゃんと汲み取ることが出来ます。むしろ、楽譜が読める私たちの方が、その感性を失わないように、楽譜上でのはっきりした箇所を提示できなければいけないという、プレッシャーが大変でした。例えば、宮本亜門さんなどそうです。反面、まったく楽譜を無視して、リブレットだけでオペラの場面を作ってしまおうとした演出家とも仕事をしたことがありますが、結局は、常に流れてくる音に負けて、歌い手や指揮者の言うことを飲まざるを得ないと言う事態に陥ったこともあります。しかも、その演出家がオペラ演出家だったりします。ジャンルじゃなく、才能なのだと思いますが、その相談をしてきた友人が、関わっている演出家と彼らも、まず、ここで対立しているのですね。「演出は感性だ」「オペラは音楽だ」みたいなところ。そして、双方が「知らないくせに」と言う相手のジャンル違いをどこかで攻めていることと、お互いの領域を守ろうとしてプライド合戦になる。困ったことですが、往々にしてあることです。
こういうことを解消するには、まずは、腹を割って話をするしかありません。双方に良いところはあるわけで、例えば、芝居の演出家との稽古は、何も無いところから、発想を展開させて場面を構築すると言う、キャッチボールを経験できます。しかし、歌い手たちは、ここで「自分たちは芝居は素人だ」といって、このやり方に対応できないことを方法のせいにしてしまいます。これは、良くない。段取りをもらえれば、出来るのに、と言いたいわけです。「オペラは普通、こういうやりかたはしない。」この世界、「普通」なんてことはありませんから、リベラルさが無さ過ぎです。加えて、こんな発想も出来ないのかという、狭さも印象としては出来てしまいます。それで、芝居の演出家からすれば、「オペラの人は芝居が出来ない」となるわけです。しかし、逆の見方をすれば、楽譜を読んでいけば、音楽のサイズと言うものがある程度の自由さを束縛していることはわかります。その音楽の中での、リベラルな作り方は、やはり芝居とは違います。そこは、勉強すべきなのです。難しいですね。しかし、先にも書いたように、大切なのは受け入れることです。受け入れた上で、お互いの必要性を話し合う。これさえ、シャットアウトするような演出家なら、芝居であろうと、オペラであろうと、必要悪だと言うことになると思います。
今は、チケットが売れると言うこともあって、名前のある芝居の演出家がどんどんオペラに進出しています。オペラ演出家はついぞ、名前が出ると言うことが無いですから、知名度では負けています。しかし、感性も、音楽観も、何より、作曲家とのコンタクトが群を抜いてこそ、本物のオペラ演出家なのではないかと、私は思っています。そして、オペラを演出する限り、演出家の名前が大切なのではなくて、作品が前面に出るのが一番大切なのではないかと、日々、思っているのですが・・・・・。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-16 13:27 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

中鉢聡コンサート「もう一つの歌」

今日はチケットをいただいて(いただいてばっかりですが・・・)、藤原歌劇団のテノール中鉢聡さんのコンサートに行ってきました。いまや藤原歌劇団を代表するテノール。このところ「アドリアーナ・ルクブルール」「トスカ」と立て続けにプリモを張って頑張っています。私はほとんど同年代なので、一緒に育っている感じがあって幼馴染のような感覚のある人ですが、それにしても、容姿の素晴らしいこと。ほんっと舞台に立ってるだけで絵になるハンサム君です。やはり舞台にはこういう容姿が必要ですよね。TVで観ても映りが良いったら(笑)
さて、今日は普段の彼とは違って、バロックからタンゴ、スペイン歌曲の王様ファリャまで、古楽器とフラメンコギターと言うパートナーで、非常に楽しみました。古楽器を弾いていたのは、先日柴山晴美さんのコンサートでも伴奏をなさっていた、つのだたかしさん。今日もまたモンテヴェルディ、カッチーニとバロックは欠かせません。中鉢君は元々語感が良く、素晴らしく綺麗な響きの声を持っています。最近はオペラばかりを聴いていましたから、新鮮。オペラのプリモだと、どうしても頑張って力が入りすぎるところも、今日はすごく自然で綺麗です。元々言葉の感覚が良い人ですから、イタリア語やスペイン語がはっきりとわかり、そしてその曲の背景がちゃんと見えてきます。センスがよいのですね。「Amarilli mia bella(麗しのアマリッリ)」など、心に染みました。そして、この間聴いた柴山さんとはまったく違うと感じたのは、やはり、男性的な音楽をすごく感じました。歌っているものも違いますが、晴美さんの時はもっとやわらかい自然みたいに、おおらかさを感じて楽しんだのですが、同じタンギングをしても(本当にこういうかわかりせんが、タンギングみたいに同じ音を短く歌うカディンツがあるのです)どこか男らしい手法に聴こえる。不思議でした。もっとも、おおらかさは両方同じですが、この時代のほうが、男と女の違いがはっきりしていたのでしょうかね?
後半、フラメンコギター登場。晴美さんから「惚れるよ!」とお聞きしていた、山崎まさしさんと言うギタリストの方の演奏が圧巻。もちろん、フラメンコを聞いたことがないわけではありませんが、なんと言う迫力。そして、指の強さ。情熱的なエネルギーもそうですが、まるで叩きつけるように音が出てきます。つのださんも後半は普通のリュートではなくて、中近東のリュートであるラウタという楽器に変えて、フラメンコギターと一緒に演奏なさいました。そこに、中鉢君が入ると、本当に、男くさいというか、男性的なタンゴやファリャの歌曲が展開されて、すごく面白かったです。私、ファリャは女性の方が好きだったんですが、ちょっと考え方が変わりました。男性のファリャも、作曲家自身の声が聞こえてきそうで、なんか、すごく官能的でエネルギッシュでしたよね。とにかく、素晴らしい演奏会でした。
私は元々ファドやカンツォーネのようなどこか民謡臭いものも大好きです。こんな感じの曲なら、自分でも歌えるかな~、なんて、ちょっと夢をもった昼間のひと時でした。それにしても、最近、良くチケットをいただいて、こんな素敵な時間を過ごします。音楽は私の根本なんですよね。それを神様がちょっと気づいてくださって、賜物を下さったのだと思っています。感謝感謝!皆さんも、時々こういう古楽の音楽を楽しんでみてください。私も聞き始めたばかりですが、かなり楽しめます。何しろ、どう想像してもいい、自由さがあるのです。音楽の広さを感じますよ(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-10 22:02 | 観劇日誌 | Comments(2)

南條年章オペラ研究室オペラ全曲シリーズ「カルメル会修道女の対話」

久しぶりに、オペラを聴いて、泣いちゃいました。や~、ちょっと号泣(^^;)。はい、本日は千駄ヶ谷の津田ホールに、表題の演奏会を聴きに行ってきました。このオペラは日本でも上演されていますが、きわめて回数が少なく、しかも、原語上演(仏語)となると、いつだかサイトウキネンでやったくらいではないでしょうか。作曲はプーランクです。フランス革命後の恐怖政治の中、無神論主義から、宗教が弾圧されます。その中で殉教した12人の修道女の話ですが、興味深いのは実話だと言うこと。こういった、弾圧はロベスピエールの代等の元、多く行われていたようですが、この実話の修道女たちの処刑が、ロベスピエール失脚の10日前だったそうで、その結果、有名になったのだということでした。この修道女たちは実は13人いて、その中の一人だけが、パリに出かけていて、難を免れています。そして、この修道女が史実を書き残したものが小説になり、戯曲になり、映画になり、プーランクの作曲により、オペラになったわけです。
この南條年章先生には、日本オペラ振興会育成部のディクションの先生をやってらっしゃった時、私はスタッフとしてこの育成部のクラスに入るようになり、出会いました。教育と言うものに、心血を注いでらっしゃって、確実に歌い手さんを育てていらっしゃいます。門下の歌い手さんも、二期会や藤原などの本公演で、ソリストとして活躍されています。ですから、門下発表会などに行くと、本当にごちそうさま!というくらい、堪能できます(笑)。さて、この南條先生によって、「カルメル会修道女の対話」は日本初演されました。この育成部の修了公演によってです。訳詞も南條先生。本当に多才な方です。私はこれにもスタッフで関わっていましたから、ものすごく作品としても大好きでした。今日の公演は南條オペラ研究室の15周年記念の公演です。それにたがわず素晴らしい公演でした。
何にもまして、主役のブランシュを歌った、平井香織さんが素晴らしかった!彼女は実は音大の同級生なのですが、元々素晴らしく歌のうまい人でしたけど、それが年齢と共に、段々幅が広くなっていく感じで、40代に入った、現在、本当に綺麗な体と、息と素晴らしい声、何より、彼女自身の役の解釈の深さなど、舞台上を自由に使っています。歌えば歌うほど、この人は体の力が抜けていき、まるで会場全体を包むように、声が伸びてくる。こんなに気持ちよく声を出す人も、めったにお目にかかりません(笑)ブランシュと言う役は非常にエキセントリックで、尚且つ歌唱としても大変難しいと思いますが、それを見事に歌いきっていました。
各役の歌い手さんたちが、それぞれに素晴らしい歌唱でしたが、このオペラ研究室公演の楽しみは合唱です。何せ、一人一人が、超ソリストですから、合唱の声が素晴らしく美しく、深みがあります。このオペラは最終場、13人の修道女たちが断頭台の露と消えていくのですが、その時「Salve regina」と言う聖歌が歌われます。楽曲の中で、これを歌いながら、首を切る音が鳴り、一人ずつ倒れていきます。その後ろで群集がずっとハミングやAhで合唱をしており、非常に心を打たれるのですが、この合唱が、ものすごく良かったんですよ。それに泣かされた感じ。
まもなく洗礼を受ける私は、前は感じなかったことを、一杯感じて、それで心を打たれると言うこともあったのですが、やはり、彼らの音の素晴らしさに涙が出たことは間違いありません。とにかく、素晴らしい演奏会でした。
南條先生は、この演奏会を毎回、企画なさり、歌い手たちにもノルマも課さずに、全部御自分でやってらっしゃいます。毎回、素晴らしい公演で、まさに頭が下がります。いつまでも、お元気で、ずっと、このシリーズを公演して行っていただきたい。こんな風に、心を打たれる演奏会も、めったに無いですもんね。学ぶべきものが沢山あった、今日の演奏会でした。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2006-06-04 22:50 | 観劇日誌 | Comments(2)