表情をつけること

怒涛の「稽古場」が終わって、今日はほっと一息。結構抜け殻状態です。楽しんではいますが、吐き出すものを全部吐き出してする稽古なので、案外、エネルギーが出っ放しになり、家に帰ると、すごく疲れています。それだけ、やっている時は、テンション120%ってことなのですが・・・。

さて、昨日まで扱っていた「リゴレット」と言う作品は、そう言う意味ではリゴレットを歌う人によって、かなり様変わりするオペラだろうなと、感じざる終えないものです。何でも、そうかもしれませんが、例えば、フィガロとかだと、案外誰が歌っても、「こう言う感じかも」ってことで、あまり、歌い手が突出する感じはしませんが、例えば、「ジャンニ・スキッキ」のジャンニとか、「外套」のミケーレとか、役柄に「毒」を感じるものは、歌い手によって、相当変わるだろうなと思います。

今回「リゴレット」を歌ってくれたバリトン君は、また30代になったばかり。年齢のことを言ってはフェアではありませんが、やはり若いと思います。もちろん、それを踏まえたうえでの「稽古場」でもあったので、そこは問いませんし、彼は非常に言葉を大切に歌える人で、今回も、かなり毒のある言葉を、頑張って吐き出してくれていました。その感覚自体は面白い。如何様にも発展しそうな気がする。ところが、それに伴った表情が出てきません。自分でも、もっと泣いたり笑ったりしたいのですが、思ったよりも、顔の筋肉が動かないと言う感じ(笑)。

こう言うことは誰しもあることで、やはり歌っていると言うことに集中してしまうと言うのが理由だと思います。しかし、元もとの表情をすごく持っている歌い手さんもいます。特に、「リゴレット」みたいな毒を吐くことに、快感を素直に感じられる人など、歌うより前に、顔つきが変わってきます。先のバリトン君は多分、この快感がダイレクトに自分のモチベーションを上げないのでしょうね。歌うと言うこと自体のモチベーションの方が高いのだと思います。

これをどうするかは、そうですね~・・・どうしましょうか(笑)?
多分、すごく単純なことだと思います。その汚い言葉や、人を罵るという、人間が持っている、後ろめたい感情に、快感を感じることです。やっぱり負の力は強い。普段、私達はいけないと思っても、悪口を言っている時の方が、楽しく感じるものなのです。そのネガティブ・ハイテンションが、言葉のモチベーションを上げてくると、表情は考えなくても付きます。多分・・・(笑)。

もう一人のソプラノさんは、そういうモチベーションが、非常に高い人で、どんな場面に関しても、感情的な表情が、先に付いてきます。だからといって、言葉が消えると言うことはありません。しかし、それが、もう一つ外側に出てこない。中々、うまく行きませんね。この先のことは、役を創っていくと言うことでしょうが。

このお二人は、この先も、かかわりの多い二人です。ゆっくり時間をかけて、付き合って行きたいと思います。こう言うことまでも、経験になる、楽しい「稽古場」でした。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-07-28 13:21 | 歌手 | Comments(0)

「稽古場」VOL4「リゴレット」最終日

はい、無事に終わりました。これでお祭りが終わったと思うと少し寂しいのですが、実りの多い、4日間だったと思います。参加してくださった方と、見学にいらした方と、神様に感謝。(^^)

最終日の今日は、一番稽古場が広いところでした。
今年は、別に測ったわけではありませんが、立ち稽古に入って、段々に稽古場が大きくなっていった感じ。サイズのことです。それにつれて、稽古内容も大きくして行った感じがあります。一回目の立ち稽古では、極力しゃべることをやってもらって、歌うことは捨てても、言葉から生まれるものをメインに創っていきました。二回の目の昨日は、それから少し発展して、歌ってはいるのですが、音楽的要素を追いながら、場面を作っていきました。
そして、三回目の今日は、空間を広く使うと言うこと。そこまでに創ってきた、小さな空間を、もう少し拡げて、外側の影響も、感じてみようと思い、なるべく、歌い手の二人にも、距離をとって、演技してもらいました。

こうなると、面白いのは、ふと二人が黙ってしまう、空間だったりします。例えば、フェルマータ。オペラの楽譜に限らず、フェルマータと言う音楽記号は意外と使われています。目玉のような形の絵で、それが小節に付いた場合、「一旦止まる」と言う合図です。しかし、フェルマータと言うイタリア語自体は、「停まる、停留する」と言う意味ですから、私の感覚では、その先に続くために、一旦停留する。例えば、バス停にバスを待っているような感覚があります。
で、この広い空間で、こう言うフェルマータがある箇所にくると、お互いの息は感じていても、距離があって、動けないので、ピタッと空間が停まります。その瞬間に、リゴレットと、ジルダが二人っきりだと言う、空虚感みたいなものを感じる。

大きな理由は、稽古場が広いので、ピアノの音の余韻を、歌い手も見ているほうも、自然に感じると言うことだと思います。そして、そこから始まる次の音楽が、場面を自然に動かしていく。その空間を感じると言うことが、今までとは違って新鮮。
そして、空間が広くなると歌い手の身体が、簡単に(笑)、歌う体になってきます。これも、面白いメリットです。

しかし、歌い手自身は、今までの稽古が、空間を無視して感情的なことに走っていましたから、すごく狭い。これを、段々にゆるくしていって、体の外側に、音楽が感じられるように、崩していきました。ですから、空間にあわせて、段取りも変えますし、其れによって、おこる影響も、変わっていきますね。

参加者の二人は、少し戸惑ってはいましたが、基本的に稽古場に対して潔い人たちなので、こちらの意図を少しずつ汲み取っていきながら、最終的には、大きな息の流れを作ってくれました。後は、ピアニストの出した宿題を、私達がどう解決するか、と言うことのみ。

これは、リゴレットがモンテローネを受けて、自分が復讐をすると、言い放っていく最後の場面のところなのですが、そこのテンポを、ピアニストの田村さんが、「三連音符が装飾音符にならない程度の早さで、欲しい」と言うことを要求していました(歌唱に三連音符が頻繁に入っているのです)。普通、この箇所は、やっている方も、指揮者も場面のあおりを受けて、ほとんど2振りで行くような箇所です。そこを、4つ振りで考えたい。実際もテンポはあまり速くありません。私は、やはり、概念をちょっと捨てないといけなかったのですが、この広い空間の稽古場に来て、初めて、彼女の意図が見えてきました。

文章にするとわかりづらいのですが、この箇所は、オケで聞くと、ぶんちゃ、ぶんちゃ、と金管楽器みたいな音が入ってきます。そのテンポが、まるで「おもちゃの行進」のよう。そのことを、彼女が言っていたのですね。しかも、音楽表記は「Allegro vivo」です。つまり、陽気に活き活きと。一度、彼女が、そのリズムを刻んでくれたのですが、その時、感じたのは、ファンファーレなんだってこと。つまり、復讐することに生きがいを感じて、気がおかしくなっているリゴレットの頭上で、ファンファーレがなっていると言う感じ。ほとんど気が狂っています。それを表すためには、その金管が響けば響くほど、良いわけです。それを、速いテンポにすると、何をやっているのか、まったくわからなくなる。なるほど~!!!

こう言う異セクションの投げかけが、本当に私の経験値を上げてくれます。自分で起こした物ながら、毎年、やってよかったと思いますね。引き出しが沢山増えています。
今年は、本当に楽しくて、大笑いしながら稽古をしていました。其れも嬉しかった。この枝葉は絶対に切れることなく、また続けていけたらと思います。参加してくださった方、見学に来てくださった方、本当に、ありがとうございました!
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by kuniko_maekawa | 2006-07-27 23:22 | 稽古場 | Comments(0)

「稽古場」VOL4・「リゴレット」その3

今日の東京は、久しぶりに夏日。お天道様も、びかびかしてましたね。暑かったけど、結構清々しい一日となりました。

さて、この暑い中、今日も「「稽古場」は行われました。立ち稽古の二回目。それにしても、今年の「稽古場」は、なんだかテンションが高く、稽古中、笑いが耐えません。演目自体は、ものすごくシリアスな作品で、しかも、結構内容自体はシリアスに創っているのですが、何かの拍子にスイッチが入って、大笑いになります。だからといって、笑いっぱなしでもなく、すぐに、ちゃんと、内容に入ってくれる。いやいや、風通しの良い、面白い参加者達です(笑)。

やっている範囲は「リゴレット」の2幕、リゴレットとジルダのデュエットですが、「稽古場」では、妥協をしないのがモットー。昨日の稽古で、かなり時間をかけて、創り始めましたから、今日は、少し、先に進もうと思いつつも、やっぱり気になるところは、何回もお願いして創っているのですが、こういった音楽的要素をものすごく感じる作品を、絵にしていくのは、やはり難しいところがあります。

一つは、指揮者を入れていないこと。そう言う意味では、お互いの感性のみで、音楽も創られていきますから、お互いの、つまり、4人4様の感覚が、方向性を止める時もあります。今日は、そう言う場面が多くありました。

例えば、ジルダがリゴレットに「Parla・・・siam soli」(お話、二人きりだから)と促されて、独り言で「Ciel dammi coraggio」(神様、勇気をおあたえください)と、歌うところがあります。ここは、本来レチタティーヴォといって、演技の方が優先されるところではありますが、ジルダの歌唱が、次のテンポを創るので、そこをどう扱うかによって、芝居も変わってきます。

最初、私のイメージでは、やはり、子供に話しかけるみたいに、リゴレットが話す言葉を、しっかりした理性を持って、ジルダが神様に勇気をもらいたいと、願うように感じていました。ピアニストの田村さんも、ジルダの松田麻美ちゃんも、そのイメージは持っていたのですが、やはり歌い手の生理として、麻美ちゃんが、少しゆっくり目に歌っていました。私自身は、その後の「Tutte le feste al tempio」からのくだりを、感傷的にしたくないと言う感覚で、その前奏みたいなものに、気を取られていまして、そこの歌い方は任せていました。

しかし、どうも、前奏でリゴレットにかけながら、自分の気持ちを言うまでの決心をつけると言う芝居が付きくいのです。そこの音楽表記はandante。こう書いてある限りは、歩みが始まっている。私は、音が入ったときに、背中を押されてしまったらどうかと、彼女と話していましたら、田村さんが、そのanndanteのテンポが作りにくいと言い出しました。それで、それを解決するにはどうすればいいか、と言う話になり、結果、先の「dammi coraggio」のテンポがもっとタイトになった方がいいのじゃないか、と言うことに、落ち着きました。なるほど、やってみると、確かに、そうかもしれません。

これが、「稽古場」をやることのメリットです。演出家、歌い手、ピアニストと言う枠を超えて、それぞれが意見を言い合うことも、そうですが、その要になるのが、場面を作ると言うことに、ちゃんと集中している。そのために、それぞれのセクションで出来ることと出来ないことの、意見交換がちゃんとできる。普段の稽古ではこう言うことは、めったに出来ません。そして、この意見交換は、異セクションを知る良い機会にもなります。この「稽古場」をやっていくことで、私の中に、どれだけ引き出しが出来たか。お金を出す価値は、ここにあります。

稽古を観てくれた方が、「ライブ感がある」と、言ってくれましたが、もちろんそうです。生ものを創っていくということが、やりたくてやっているのですね。だから、これが、この日、この時で終わっても、それはそれで、一向に構わないのです。蓄積されたものが確実にあるというのがわかっていますから。

もう一箇所、明日、稽古をするところですが、田村さんのリクエストで、音楽的に、私達が解決しなくてはいけない箇所があります。今まで、考えたこと無かったことで、ちょっと違和感はあるのですが、しかし、その投げかけは面白く、歌い手達と、頭を悩ませて、創ることが出来ると思うのです。楽しみ。(^^)

それにしても、もう一つ、すごいと思うのは、こう言う、自由な稽古をしていると、歌い手達の声が、本当によく伸びていくということ。麻美ちゃんも、折河君も、本当に、のびのびと気持ちよさそうに歌っています。しかし、その自由さが、普段ストレスを感じる部分を軽くしますから、思いもかけない豊かな音楽性を生んだりします。素晴らしいですね。

いつか、これがただの「遊び」ではなく、このままの形で公演が打てたら、どんなに面白いかと思っています。いずれやりたいことですが、それには、ちゃんとしたヴィジョンと、時間が必要になり、今は、方法が見つかりません。そのうち、神様が、ちゃんと方法を見つけてくださると信じていますけれどね。明日も、頑張ります!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-07-26 22:19 | 稽古場 | Comments(2)

「稽古場」VoL4「リゴレット」その2

さてさて、本日は「稽古場」の2回目であります。先日行った音楽稽古は参加者だけで稽古をし、まずは顔合わせと、内容を見ていったのですが、今日からは見学者が参加します。

「稽古場」をやるに当たって、必ずやりたかったことは、ギャラリーを入れること。これは、もちろん、参加者に了承を得た場合に限りますが、それでも、大抵は皆さん許可を下さるので、見学者を集っています。
もちろん、稽古を観て何かを感じて欲しいのが理由ではありますが、この稽古場で行われていることに、刺激を受けた人たちが、何か枝をつなげて欲しいと思っていることもあります。実際に、自分達でもこう言う稽古をしてみたいと言って、月1くらいで、稽古を始めたグループなどもありました。また、歌っている歌い手を実際に聞いて、他の公演にも、声を掛けてくださるとか、何かしら、お立ち台みたいなものを作りたかったので、いずれは、稽古場からホールに移行して、公開稽古と言うものを発展させたいと思っています。そう言うわけで、今日は8人ほど見学者が来てくれました。

さて、今日の稽古から明日にかけての稽古は、非常に、小さい空間を作ることをやっています。こういった稽古の形は、作品と参加してくれている歌い手達を見て、どう言う方向でやっていくかを決めていくのですが、今回参加してくれている、折河君も、松田さんも(詳しいプロフィールなど知りたければ、前回の記事をご参照)非常に風通しが良い人たち。特に、松田さんはこちらの言葉尻から、自分の中の方向性を、自然に変えることが出来ます。言葉の感覚まで変わる。彼女の感性をして、安心して投げかけができると言えます。折河君は、それとは対照的に、核となるものが必要ではあります。しかし、今年は今までとは違って、その核を重石に、非常に自由な感覚で自分を解放することが出来ます。ですから、サディスションがしっかりしていれば、彼の掴んでいる核から重石を外すことなく、安心して、方向性を変えてくれます。

余談ではありますが、彼とは彼が研究生を修了してからずっと、こういった小さいことをご一緒させていただいていますが、4年経った今年、彼の中の可能性が少しずつ開き始めているのを感じています。随分出来ることが沢山増えています。それが、はっきりとわかる。素晴らしいです。常に、自分で、足らないものを埋める努力を続けている結果です。これからが、本当に楽しみですね。

さて、こう言う二人に、勝るとも劣らない、ピアニストの田村ルリさんが、また蜂の一刺し的に、面白い投げかけが飛んできて、みんなで頭をつき合わすのが、稽古場。そのためには、まず、今回は、ヴェルディの音楽的要素を素直に感じることから行きたかったので、先述したように、小さい空間を作っていくことをやりました。すなわち、あまり歌いすぎず、オケの影響を感じ、尚且つ、言葉から創っていくと言うこと。

私がヴェルディに演出家的に食指が動かないのは、前回も書きましたが、とにかく音楽的に良すぎて、今更、演出が何をするんだ、みたいな感じになるからです。つまり、ト書きどおりに動けば十分絵としては成立し、後は、音楽にお任せする方が、よほど、すばらしい場面をお客さんが想像できるだろうと、思ってしまい、手が出せません。
それで、これを逆手に取らせていただいて、まず、歌うと言うことのストレスを取り去っていただき、なるべく言葉をしゃべると言う手段で、場面を作らせてもらっています。

これをするメリットは、歌い手さんが、あまり声ばかりに気を取られないこと。歌うために、体の動きを制御しなくてすむこと。そしてオケとのコラポレーションがしやすいこと。そうすると、自然に、芝居のような感覚になってきて、歌い手二人の間が、近くなると言うことなのですね。
しかし、本来歌った方が、感覚として良いというのが、歌い手さんの常。そこを頑張ってもらいました。

最初こそ、身体が歌う姿勢になっていたのですが、何回か試していくうちに、段々と体の空気がポンプのようになってきます。特に、折河君。そうなると、言葉が理由を創っていくようになり、ちょっと面白い体になってきますね。なんと言うか、ずっとその体の息吹きが止まらない。そう言う場面ではありますが、例えば、ジルダが自分のことを話し始めているときなど、しばらく歌う場所が無いわけですが、そういったときでも、体の空気が絶えず空間にある。存在感が消えないのですね。これが、麻美ちゃんと、折河君と、ちゃんと交互に見えてくる。

二人の距離や、空間自体はものすごく狭いです。それを要求している。もう少し、お互いがむき出しになってくると、変わってくるのですが、それはまた、明日のお楽しみです(笑)。

ピアニストの田村ルリちゃんは、非常に感覚が鋭いですから、こういった歌い手達の息を、本当に良く聴いています。そして、自分の中の世界観を拡げていくのがわかりますね。彼女のピアノの音にも触発されて、私の感覚が変わるときも、もちろんあります。指揮者がいない分、こういった自由な空間と言うのが、音楽の中にも生まれる気がします。しかし、今日も、彼女と話していて、指揮者が入ったら、入ったで、もう一人、自由なことを言う人が増えるだけで、誰しもが、あまたをクリアにした常態で、稽古場に入ったら、同じことかもしれません。

明日、もう一度、こう言う稽古をしたらば、明後日、最後の日は、逆に空間を拡げようと思います。広い稽古場ですし、声を使うと言う、ストレスをなしに、創って行ったこの言葉が、本来の仕事である、声を使うと言うことに戻したら、どう、発展するのか。楽しみですね。

見学してくれた人たちにも、何かの布石になると良いと思っています。何より、私達の経験値がいっきに上がるのも、「稽古場」のメリットであります。問題は、後二日、私の頭が、彼らの自由さに付いて行けるかどうかでありますが・・・。でも、頑張ります。これをやるとやらないとでは、本当に、この後の色んな稽古がまったく違います。自分で起こした事ながら、今はこの「稽古場」が、私と言う演出家をを作っているのです。今日も、頑張った~!(^^;)
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by kuniko_maekawa | 2006-07-25 21:38 | 稽古場 | Comments(0)

オペラ・レッスン ピアニスト編

日付は変わりましたが、本日はピアニストの方のレッスンをしました。

この方は、私のブログを読んでいらした方で、今までオペラにあまりかかわっておられず、器楽の伴奏などしてらっしゃったのですが、最近オペラの稽古などもやるようになり、イタリア語も含めて、リブレットを読んでみたいと言うことで、私のところにいらしているのですが、今度、初めてモーツアルトの「Figaroの結婚」のチェンバロをやることになりました。そこで、内容を読むことと平行して、実践的なことも、やっていくことにしました。

さて、secco(セッコ)とは、楽曲と楽曲の間の台詞みたいなもので、それに通奏低音と、和音が付いているのですが、楽譜上では、ただの和音だけが変化していくことしか書かれていません。ところが、seccoの難しいところは、芝居によって、和音を足したり、小道具的に、音を使ったり、そう言うことをして、場面を作ることをしなければいけません。文章にすると、ちょっと難しいのですが、ミュージカルにおける、効果音と同じだと思われれば、良いでしょうか。

例えば、Figaroの2幕でConteとContessaが話をしているときに、Conteが手紙を出したとします。その時に、出し方によって、音を付ける。怒っているときは、和音を足してみる。そう言う感じですね。
難しいのは、やりすぎると、歌い手の息を殺したり、説明しすぎたり、演出のコンセプトを変えたり、そう言うことが起こります。だから、結構ナーバスなポジション。稽古も左右したりしますから、やる方も、かなり想像力や、構築力も要求されます。

基本的にメソッドはありません。楽譜にも残っていません。多分、世界中、このチェンバロを引く人は、みんな唯一つ、「センス」のみで弾いていると思います。ここが本当に、難しい。
ですから、相性が合わないと、すごく稽古がすすみません。反対に、すごく相性が良い人だと、歌い手が乗ってくるのがわかります。これは、ひとえに、経験とセンスしかないだと思います。
それで、今日は歌い手さんを二人付き合ってもらって、実際に、どう、歌い手の息を感じて場面を作っていくかをやってみました。

まず、楽譜どおりに通奏低音を入れてみる。そうすると、そこに歌い手の声しか聞こえてこないはずなので、その状態で歌い手の息を感じてもらいます。それから、彼女が実際に考えてきた、和音を入れていきながら、場面を作っていくことをしました。その際、私はちゃんと演出家の役割をして、歌い手達に、自分のコンセプトを話しながら、実際に動いてもらったりします。そうすると、その空間が動くことや、彼女達の表情から、ピアニストさんが影響を受け始めました。

どう変わったかと言うと、今までは「こう、音を入れなくちゃいけない」と思っていたものが、「こう音を入れたくなる」に変わってくる。おわかりですか?seccoを入れるピアニストにも、場面を演出的に作る積極性が必要なのです。ですから、まず、彼女自身が息をし始めます。
演出的に動く歌い手達の息や、表情を良くみるようになっています。そうすると、seccoを弾いていた音がまず、変わります。非常に音楽的になるのですね。これは、面白かったです。

今日は2幕の13番と15番の前のseccoを中心にやりました。バリトンと、ソプラノの方に付き合っていただいたのですが、両人とも非常に風通しが良く、こちらの意図を汲んでくれて、かなり自由に、動いてくれたおかげで、ピアニストさんも、かなり影響を受け、良い、空間を作れていました。

後は、彼女がやる現場の中の歌い手や、演出家によって、全然違ってきます。其れこそ、歌い手が変われば、180度展開することもあります。これに、色々対処できるように、もう少し、彼女がなれる必要もありますね。

しかし、こう言う稽古は中々こちらも出来ませんでしたから、良い経験になりました。私のトレーナー作業も、何ができるのか、可能性ばかりを探っていましたが、こうやって、クライアントさんが、一歩を踏み出してくださって、初めてわかることなのですね。

歌い手達にも、良い経験となったみたいです。こう言う風な形で、歌い手たちとも、もっと稽古が出来るといいと思いますね。ちょっと、面白いレッスンになりました。
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by kuniko_maekawa | 2006-07-24 01:04 | オペラ・レッスン | Comments(0)

稽古場VOL・4「リゴレット」

さて、今年も、恒例の「稽古場」が始まりました。
これは、私の大切にしているプロジェクトで、歌い手と、ピアニストと、私とで、作品を選び、それをきちんと稽古するという試みです。そのためにそれぞれが、稽古場代を支払って、「場」を共有します。小額では合っても、お金を出して参加する変わりに、なんでも試してみる。そこで何を得るかは、それぞれの価値観によりますから、ものすごくマニアックな稽古になります。
最初は、私のフラストレーションを解消するために、「場」を設けようと思ったのですが、声を掛けてみると、案外、みんなが乗ってくれて、今年で4回目となりました。稽古は公開にしているので、それを見て、刺激を受けてくれた人達が、また新しくグループを作ったりと、結構リンクされたりして、中々有意義なものになりつつあるのが嬉しいですね。

今年は、ヴェルディ作曲の「リゴレット」。「稽古場」では、初のヴェルディもの。と、言うより、私の頭の中に、ヴェルディをやろうという発想があまりなく、自分でも、決めてから、なにするべ~???って(笑)。
演目を決めたのは、今回参加してくれるバリトンの折河宏治君と、たまたま話をしてたときに稽古場の話になり、「今年は、何やるんですか?」「決めてない・・・今、何やりたい?」「・・・・う~ん、リゴレット・・・」「へぇ~・・・」みたいなノリで、「じゃあ、誰がジルダやる?」「・・・・う~ん、松田麻美さん・・・・」「へ?・・・へぇ~・・・」決める時は、いつも、こう言う感じです。結構「ひょうたんから駒」的に(笑)。

なぜ、ヴェルディをやらないかと言うと、この時代のものは、モーツアルトの時代とかと違って、音楽的素養が多く、演出的に、食指をそそらないということが一つ。どちらかといえば、指揮者の領分って感じがするので。それと、ソプラノはともかく、男声にヴェルディを歌える声を持っている人が、中々いないこと。私の好きな、「リゴレット」とか「ドロバトーレ」など、歌い手を集めるのが大変。

しかし、今回は、何故か、先述したノリで、なんか決めちゃいました。大きな理由は折河君がやりたいと言ってくれたことですが、其れとは別に、多分、折河君も、松田麻美さんも、この先、この役を歌う機会があるかどうか、わからない声種であるということ。実力とは違います。実力は十分あるお二人。そうではなくて、自分達が持っている声の質が、「リゴレット」や「ジルダ」を歌う声種じゃ無いということです。普段は、ロッシーニやプッチーニ等歌っている人たち。なんか、プレミア気分になっちゃって、「決して、今の声の方向性を変えない」と言うことを約束して、やってみることにしました。

昨日は初稽古。今回は4回の稽古を組むことが出来ました。なので、少し、ゆっくりと時間をかけて場面を創ろうと思っています。やるのは2幕のリゴレットとジルダの二重唱。マントヴァ公の部下にさらわれて、公に辱められたジルダが、宮殿にジルダを探しに来たリゴレットと対面。そこで、ジルダからすべてを聞かされて、復讐の鬼と化すリゴレット。と、言うわけで、音楽的にも非常にドラマチックで、本当に心を動かされる音が随所に流れてきます。

ピアニストに田村ルリさんが入ってくださり、とりあえず、稽古開始。
「稽古場」で、私がいつも気をつけていることは、何もヴィジョンを持っていかないこと。自分で、こうしたい、ああしたい、と言う形を持ってはいると、素直な目と耳で、作品を見れなくなるし、歌い手達、ピアニスト達から出てくる物が、キャッチできなくなるからです。それでは、面白くない。
音楽稽古でありながら、昨日もそう言う稽古になりました。

折河宏治君は藤原歌劇団の準団員で、もう本公演にもデビューしています。明るい響きの良く伸びる声を持っており、体も大きく舞台の居方もよいので、これからが楽しみな逸材。其れにもかかわらず、自分の足らないものを埋めるという作業を真面目に出来る人ですから、こう言う場にも、積極的にかかわってきてくれて非常にありがたい。「稽古場」も、一回目から参加してくれています。少し、「場」に慣れるのに時間がかかるのですが、自分のペースがつかめて、ふっと「場」に入り込むと、非常に面白い感性を発揮してくれます。それが将来性を感じさせる。いつも、一緒にやっていて、そう言うところに魅力を感じる歌い手さん。

松田麻美さんも藤原歌劇団の準団員。この人は声の美しさもさることながら、容姿が非常に美しい。ほんとにジルダに見えます。そのくせ、飾ったところも無く、人間としても魅力あふれている人なのですが、普段は、「ボエーム」のミミなどがレパートリーです。ですから、今回は折河君のラブコールもあり、思い切って挑戦。でも、昨日の音楽稽古では全然ジルダの声でした。
さて、この人は、ものすごく感性を持っています。「稽古場」も、今回で二回目の参加。今年の私のお誕生日朗読会では一緒に「マリア・ステュアート」を読んでくれました。その時もそうでしたが、こちらが何を欲しがっているのかを、理屈でなくキャッチしてくれて、付加価値をつけて戻してくれるという、本当にキャッチボールを楽しめる人です。

加えて、ピアノの田村ルリちゃんは、これまた感性の塊。技術もさることながら、彼女も、本能的な感覚で私の話や、稽古場で起こった物事をキャッチしていくので、どこまで、音楽観が広がるかは無限大。指揮者を入れていませんから、音楽的なことは、彼女が支えて、持って行きます。彼女も、毎回の参加者で、様子もわかっている分、昨日は、最初から音楽がぶっとんでいました(笑)。いや、楽しい、楽しい。

この面子で行った第一回目の音楽稽古は、なんと言うか・・・、それぞれの引き出しを、まずさらけ出す、的な感じになりました。内容は私が感じたことを話していきますが、それを形にしていくときに、彼らから必ず何かが加わって返ってきます。それが素晴らしく新鮮でした。そして、二人とも、「本来のもち声を役によって変えない」という約束は守ってくれていますから、逆に、彼らの言葉が聴こえてきて、それがまた新鮮です。

昨日はとりあえず、芝居で言う「読み合わせ」。来週からの3回ある稽古を使って、私達の「リゴレット」を生み出して行こうと思っています。新着情報に、インフォメーションを出していますから、どうぞ、興味のある方は、足を運んでみてください。お待ちしていま~す!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2006-07-22 14:41 | 稽古場 | Comments(0)

村上曜子ソプラノリサイタル・日本歌曲の夕べ

本日は、ご招待いただいて、珍しく日本歌曲のコンサートへ行ってきました。かなっくホールと言うところでの演奏会でしたが、東神奈川駅の目の前にある、非常に響きの良いホール。神奈川は、以前、横浜オペラシティのお稽古で通いましたが、結構、こう言う小さく、音響の良いホールが多く、感心します。もう少し、都内に近かったら、使いたいホールは沢山ありました。

さて、コンサートの主役は村上曜子さんと言うソプラノの方です。昨年、先述した横浜シティオペラでお仕事をさせていただいたときに、「修道女アンジェリカ」のジェノヴィエッファという修道女役をなさっていて、そこでお知り合いになりました。非常に綺麗な声の持ち主で、レッジェーロでありますが、高音など、芯のしっかりした響きで空間を満たします。舞台の居方も非常に良く、今日も、歌っている間中、彼女の周りの空気が、良い感じで動いていました。

プログラムは、全曲日本歌曲。
前半に中田喜直の曲を中心にした、割とポピュラーな歌曲を集め、後半が山田耕作の連作を3本。この後半のプログラムが非常に良く、思わず聴き入ってしまいました。

オペラ以外で村上さんの歌唱を聴くのは、今日が初めてですが、彼女は非常に語感が良いです。感性があるのもそうでしょうけれど、日本語のボキャブラリーが、多分多い方なのだと思います。何故かと言うと、漢字をちゃんと表現して歌ってらっしゃるように、聴こえるからです。

私たちの母国語である日本語は漢字文化です。例えば「目」と「芽」。「箸」と「端」同じように発音しても、目で見ると表したいものが違うことが一目でわかります。しかし、その漢字自体のボキャブラリーがないと、この目で見たときの感覚が、表現としては起こりません。漢字を知らなければ、歌詞を読んでも、イメージが湧かないと言うわけです。
村上さんの言葉は、イメージが非常に豊か。ことに聴いていて漢字が想像できるのは、素晴らしいことだと思います。当然、表情も豊かです。これが、正しい感情のあり方だと思います。

山田耕作という作曲家は、皆さんご存知の「あかとんぼ」の作曲者で、オペラも多数書いています。そのためなのか、今日の連作は、どれもドラマチックに感じました。それぞれの題材も、百人一首や、柳川地方の方言を使った歌曲や、三木露風の詩を使った、ドイツ歌曲風のものまで、そのバラエティにとんだ作風にも興味を覚えましたし、それぞれの歌詞を、それぞれの楽曲にあわせて、村上さんが言葉を操る妙にも、心が動きました。本当に、彼女は声楽的なことだけではなく、言葉としての音楽を感じる方なのだと思います。これからも、ますます歌い続けていただきたい。本当に、清々しく家路に尽きました。

一つ、特筆だったのは、ピアノを弾かれた嘉山淳子さんが素晴らしく良かったことです。しっかりした音もさることながら、決して強すぎず、弱すぎず、何より、彼女の中の音楽観が豊かで素晴らしい。ピアノが歌うのですね。その歌と、村上さんの歌が合わさって、なんとも豊かな音楽が流れていました。技術も素晴らしい。こんなに豊かなピアノの音も、久しぶりに聴きました。まだ、音が耳に残っている感じ。

最近、演奏会にご招待いただくことが多く、嬉しい限りです。どんなに忙しくても、やっぱり足を運ぶべきです。こんな風に、気持ち良い音楽に出会えるんですもんね。
大きな舞台を踏んで、有名になることは大切なことかもしれませんが、こんな風に、地道に勉強しながら、豊かな音楽を創れる音楽家になることの方が、本当は、もっと大切なことかもしれないと、改めて思います。だって、聴いてらっしゃったお客様たちが、みんな、嬉しそうでしたよ。こんなに舞台と客席が近いなんて、素敵です。
それぞれ、醍醐味は違いますが、やはり、私は草の根推奨派かな~(^^)
とにかく、とにかく、楽しく、心地よい、演奏会でした。今日も、神様に感謝です!
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by kuniko_maekawa | 2006-07-19 23:56 | 観劇日誌 | Comments(0)

ドイツ歌曲にはまる

少し前に歌い手の友人と話している時に、ドイツ歌曲の話になりました。その友人はバリトンで、今はイタリアオペラが多いですが、学生の時にずっとドイツ歌曲を勉強していて、なんの話をしていてそうなったか忘れましたが、いつか、ドイツ歌曲に戻って演奏会をライフワークにしたいといっていました。そこで、急に食指が動き、久しぶりにドイツ歌曲を聴いてみようと、さっそく図書館でその時話題になった、シューマンの「詩人の恋」と私が好きだった同じくシューマンの「女の愛と生涯」のCDを借りてきました。

私は大学で声楽を学んでいた時も、先生がイタリアに留学なさっていた方なので、ずっとイタリアものを勉強していました。こう言うのは、習う先生の方向によります。大学に入学したときから、はっきりしたヴィジョンをもって、先生を探すと言うことなんて、あまりないですから、たまたま入った門下によって、勉強するものが変わります。
そう言うわけで、あまりドイツ歌曲を歌ったことはありませんでしたが、聴く機会はもちろんありましたので、やはり楽譜を買い求めたりはしていました。

しかし、この世界に入ってからは、イタリアオペラ一辺倒。これまたお仕事をしていた環境がそうだったこともあり、ドイツオペラを原語でやる機会など、長い年月1,2回くらいでしたでしょうか?こんなわけですから、すっかりドイツものから遠ざかっていました。

久しぶりの、ドイツ歌曲。その友人が何年か前に演奏会でシューベルトを歌ったのを聴きに行って依頼です。しかし、美しい旋律、そして、新鮮です。何かと言いますと、学生の時には感じなかった、言葉の感覚、いわゆる語感と言うものに、それぞれの歌い手の妙を感じます。そして、その元になっている詩のイメージ。これがまた、美しい。っていうより、ひどく肉感的に感じます。

元々歌曲は詩を作曲家が選んで、それに曲を付けるものですから、非常に、作曲家自身の気持ちや環境に近く感じます。オペラにもそれは感じる時がありますが、「詩」と言うもののバックグラウンドが、個人的な感情の吐露であり、その吐露された感情を、「言葉」と言うオブラートに包むと言うような、すごく心の内側に迫るもののようなものですから、歌手とその歌手が選んだ歌曲との関係性みたいなものも、すごくあからさまにされるように思います。

こんなこと、学生の時にはもちろん、わからなかったのですが、今、私の耳が刺激を受けるのが、何を聴いていても、まさに「言葉」のみ。語感と、その時使われている音楽が合致した時に心が震えます。これは、どうやら、歌曲の方が刺激的で、背景がない分、想像力を掻きたてられるみたい。すっかりはまってしまいました。

先の友人に、何曲か紹介してもらって、CDを聴きまくり。シューマン、ベートーベン、ブラームス等々。今度はシュトラウスや、ヴォルグ。近代のものも聴いてみようと思っています。そして、歌曲を聴くのが私によいと感じるのは、歌手を意識するからですね。

普段、私は、オペラを聴く時に、あまり歌手では選びません。やはり指揮者か、映像の場合は、演出家ということがあります。それに、アンサンブルと言う意識が強いですから、一人ひとりの声よりも、なんか、もっと大きな枠で聴いてしまうので、よっぽど嫌な声じゃない限りは、案外選んで買いません。
しかし、歌曲の場合は、そうはいきません。たった一人の歌手の言葉の妙技を楽しみますから、やはり選びたくなりますね。そう言う意味では、もっともっと色んな声を聴こうと思っていましたから、良い機会となりました。

舞台上の可能性としても、広がりを歌曲に感じます。この想像の世界を、立体化させたいなどと、大それたことも考えてしまいます。でも、ちょっと歌曲と、自分と言うテーマを、もう少し発展させて、何か形に出来ないかと思い始めました。
それにしても、ひょんなことから、自分の新しい世界が見えてきました。友人には感謝。神様にも感謝。しばらく、はまり込んでしまいそうです(^^;)
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by kuniko_maekawa | 2006-07-17 22:48 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

オペラの報酬

梅雨明け間近のこのごろ、雨が少なくなってきた分、あっつい暑い・・・・。さすがにうさぎも私もへばっています。しかし、舞台業界と言うのは面白いもので、下半期に向けてのこの時期からが、やたら新しい動きが起こってきて、何か、サイクルが換わる感じがします。

先日ある演出家の方から、歌い手を紹介してくれないかと言うお話をいただきました。「コジ ファン トゥッテ」をなさるのですが、8月からワークショップと言う形で、段々に創っていき、本番は12月にチケットを出して売り公演としてやります。役者さんも絡めて、面白いものになると思いますが、条件として、歌い手に報酬がありません。その代わり持ち出しも無い。つまり、身一つで来てくれれば、得るものは多いというわけです。

こう言う条件は、私も良く考えます。つまり、何に価値観をおくかというところで、賛同者を募るわけです。お金にはならないけど、勉強はさせてあげるよって。こう言う場合、事を起こした方は、プロジェクトに自信を持っていますから、それとお金の価値は比べ物にならないと思うわけですが、しかし、ある程度力量のある歌い手は欲しい。やはり、自分で演出する場合など、相手が学生に毛の生えた実力しかもっていなかったら、ちゃんとしたものは創れないのです。ところが、主に男声歌手の場合ですが、そういう力量を持っている歌手は、往々にして、すでに歌うことで報酬を得ています。そこで、誰に声を掛けるかと言う選択肢が、非常に狭まり、個人的な関係になってきます。

そりゃそうですね。報酬は一切出さずに、時間と労力はいただきます。それに対して返せるものは、ただの経験と知識。もちろん、それ自体、すばらしく価値のあるものだと思ってはいます。しかし、実際問題として、実体の無いものです。そこに、どう価値観をもってくるのか。

それで、まず、気心の知れた人に声を掛けます。こう言うことにお金ではなく、興味で付き合ってくれる人。先の演出家と話しているときに、その名前自体も、全然違う感覚で上がってきているのが面白かったです。つまり、お互いに、こいつは金を出さないとやらないだろうな、と思っている基準が違うのですね。

私は、ある程度年齢と経験で判断します。ですから、例え40代でも、日本での舞台経験が無い人、合唱団の経験が無い人、そして、不器用な人、などは、声を掛ければやるかもしれないと思います。それと、うまくなりたいと願っている人。そう言う人は、合唱をやっていても、わかりますから、例え、歌で稼いでいても、経験が欲しいと判断してやはり、声をかけます。つまり、うまくなりたいということに、まっすぐであれば、興味を持つだろうなと思うのです。

しかし、有名税を欲しがる人には声を掛けません。と、言うか、彼らは乗りません。報酬で自分の査定を測るので、しょうがないですね。それから、歌を「仕事」と考えている人。こう言う人たちは、男声であるという価値が商品になるということがわかっていますから、値踏みをします。例え、プライベートで仲が良くても、駄目ですね。「歌を仕事」にするというのは、オペラ歌手になるとかそう言うことではなく、合唱団や、レストランで歌うとか、スクールとか、一つの手仕事として「歌」を選んでいる人のことです。ですから、それ以上のクオリティを必要としないので、こう言う経験に価値観は無いのですね。別に悪いことではありません。ある種の職人と思えばいいのです。日本は、それでやっていけます。学校の先生などもそう。

しかし、裏を返せば、こちらの方も、自分のやりたいことを安く上げたいという腹はあります。それに、まだ土台をもたない若い歌い手ばかりを使うようになると、それも利用しているようで、時々良くないような気もします。どの団体も、お金の無い団体は「若い歌い手」を探しています。ノルマを持たせても、ギャラが無くてもよいと判断しているのですね。「勉強させてあげる」と言う名目で。

其れこそ、思い上がりです。若い芽だからこそ、お金の価値と、自分の価値をちゃんと比例して考えられる歌い手に育てないといけない。これは、きっと、永遠の課題だと思います。

私もそれに甘えつつ、今のプロジェクトを発進できています。しかし、出来るだけ、彼らのメリットになるような仕事も、どこかで起こればまわすようにもしています。そうしないと、いつも、損ばかりさせるようになります。もちろん、その努力も、彼らの身になるものだと、信じてはいるのですけれどね・・・・。

こう言うことを考えると、自分をもっと大きくしたいと思います。私にお金があれば、誰しも潤わせて、尚且つ、舞台が創ることが出来るのに・・・・。これも、神様が望めば、そうなるかもしれません。そうなった時に、無報酬でも舞台を一緒に創ってくれる彼らに、きちんとした報酬と役を与えることが出来るように、日々、こちらも精進するしか、今はないのですね。うーん、ちょっと悔しい。

今は演出家も場がありません。先の演出家が、そうやってプロジェクトを起こすのも、すごくわかります。日本はこうやって個人的に頑張るしかない文化事情です。まずは、そこが改善されるべきなのだと、本当に思います。道はまだまだ遠いですね~。
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by kuniko_maekawa | 2006-07-14 13:37 | トレーナーのつぶやき | Comments(3)

日伊声楽コンコルソ

本日はチケットをいただきまして、初めて日伊声楽コンコルソの本選に行ってきました。これは今年で42回目になりますが、イタリア・アリアと歌曲で順位を競うコンクールで、これまでも、松本美和子さん、林康子さん、市原多朗さん等、オペラファンなら誰しも知っている、素晴らしい歌い手さんたちが優勝し、賞金でイタリア留学を果たしたり、次のステップへの足がかりとして踏んできた、由緒あるコンクールです。あまりコンクールに馴染みのない私でも、日伊何位と聞くと、へ~って、思わずその歌い手さんを評価する対象にしてしまうくらい。それで、興味も手伝って、会場へ足を運びました。

私自身もコンクールを経験してはいます。もう遠い昔の中学生とか高校生のころですが。しかし、やはり順位と言うもので評価され、しかも歴然と審査員の主観がその評価の中心であります。発表があったとき、自分と言う人間に線が引かれたように感じ、始めて自分を他人の評価に任せて、うまいか下手かを判断したことを覚えています。

さて、日伊コンコルソは1,2次予選を通過した人が本選に挑み、順位を決めていきます。今年は10人。Sop5人、テノール3人、バリトン1人、バス1人が残っていました。さすがに、本選に残るだけあって、皆さん歌唱の実力はレベルが高いです。しかし、疑問もいくつか・・・・。

まずは選曲。やはりコンクールと言うことで、賞を狙いに来るのでしょう。派手な曲、鑑賞に堪える曲が並んでいました。しかし、何人かの方は、本来のもち声を行かせる曲を歌ってないように感じました。なんというか・・・、響きに違和感があるというか・・・・。例えば、あるテノール君などは、多分ロッシーニかドニゼッティか、そこらをテクニックで聴かせた方がよほど響きがマッチして素晴らしかったろうなと思われるのですが、彼が歌った曲はヴェルディの重めのものだったりします。彼が歌うのを聴きながら、その声の中にロッシーニを歌った時の輝きみたいなものを想像しちゃうのですから、私の耳にはあまり心地よいとは思えませんでした。

それから、3曲歌っていましたが、その曲の順番。本当に聴かせたい曲を輝かせるために、皆さん色々考えるのでしょうが、あるSopの方は、私は非常に好きだったのですが、いきなり彼女の声にしては重めのアリアを二曲ずっしりと歌った後、きっと本来は彼女の持ち味であろう、スープレットな歌曲をすごく上手に歌っていました。それでも賞に入るかと思うくらい良かったですが、最初の印象が強すぎたのか、入選で終わりました。残念!

こう言う舞台はやはり通常の舞台とは違った緊張感があり、順番もくじ引きで決めるみたいだし、何か神聖なものさえ感じますよね。しかし、正直「あっ!」と思うような歌にはめぐり合えず、ちょっと期待しすぎた感じ。まだみなさん若いのですもんね。これからですね。

コンクールの審査をやっている間に、昨年の1位の羽渕浩樹君と、同じく昨年の2位の清水理恵さんとのミニコンサートがありました。実は、こちらが目当てで伺ったのですが、こういった大きなコンクールの賞をいただくというのは、やはり歌い手さんを育てるのでしょうか、お二人とも良く存じ上げているのですが、非常にレベルの高い、素晴らしいコンサートでした。

特に羽渕君は、副賞であるイタリア留学へ行って、この演奏会のために帰ってきている最中。下から上まで、非常に良い息の流れと響きを持っているのは元より、発語が、以前にもまして、前に流れるようになり、一回り声の広がりが広くなった感じ。ロッシーニとベルディでしたが、全然違う楽曲を見事に歌いこなしていました。この人の、持ち味は、すばらしく綺麗な高音域にあります。伸びやかな艶があり、それこそビロードのような耳触り。まだまだ声は伸びそうです。楽曲のレパートリーも幅が広く、これからが、本当に楽しみです。これからまたイタリアへ向かいますが、ますます輝きを増して戻ってきて欲しい人です。

清水理恵さんは、私のクライアントさん。リブレットを読み込むため私と勉強しにいらしています。声を聴かせて頂くのは今日が始めて。しかし、実に響きの空間が広い方で、びっくりしました。うまく表現できないのですが、コロラトゥーラかと思うような響きの位置ですが、その当たったところからの広がりが、会場を満たすような広さを持っているのです。そのため、少し言葉が奥になってしまいますが、だからといって、声が奥に行くことはありません。息の流れが良いことと、もしかして、共鳴感がいいのかもしれません。会場に対しての声の乗りを感じることが出来るのではないでしょうか?珍しい歌い手さんですね。
本来歌うことがきっと大好きだと思うのですが、舞台の上の空間が非常に明るくて、清潔。そして、楽しい。明るい曲ばかりであったこともあるでしょうけれど、「ルチア」の二幕、エンリーコとルチアのデュエットでも、この感じはありましたので、舞台の居方が自然に出来る人みたいです。羽渕君との響きが良く合っていて、このデュエットは楽しみました。この方も、本当にこれからが楽しみ。また、色々ご一緒にお勉強したいと思います。

中々良い勉強をしましたが、一つ面白かったのは、伴奏者の方々。こちらももちろん、十人十色。色んな方がいましたが、やはり心地よいと思うのは、必ずオーケストラを意識して弾いてらっしゃる方。私も存じ上げている方もいらっしゃいましたが、例えば、良くご一緒するコレペティの方が弾いてらっしゃる時は、やはり、伴奏の方にも場面を感じる。つまり、歌われているアリアを、オペラの中の場面の一つとして弾いてらっしゃる。これは経験と言うこともあるのでしょうが、明らかな違いが出ていました。歌い手さんを飾るのですね。

コンクールといえど、やはり私たちの目には、通常の演奏会とかわりありません。この舞台の上で、この3曲をどうお客にアピールするのか。例え、賞に入った方でも、その方の舞台姿など思い出すにつれ、もっともっと、やらねばいけないことなのだと、感じ入った次第です。
実は私は、基本的にアンチ・コンクール派です。だって、芸術に点数なんて意味無いんですもん。でも、たまには、行ってみるもんですね。刺激的な時間でした。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-07-09 22:45 | 観劇日誌 | Comments(0)