合同稽古その2

昨日は合同稽古の二回目でした。
一回目は、とにかく何がなにやらわからない、と言う感じで、構成部分を作っていったのですが、昨日は、前日の教訓(?)があり、皆、それぞれに本番へ向けての心構えが出来てきたよう。少し、稽古場の空気が違っていました。

前回の記事でもお知らせしましたように、今回は、全員参加が2演目あります。
昨日の稽古では、最初に合わせたときよりも、もちろん音楽が見えてきましたし、昨日は音楽監修の須藤氏に入っていただいて、合わせていただきましたから、こちらの演目も、どうやら収まりそう。

さて、こう言う全員参加を見ていると、本当に、その歌い手の力量と言うのがわかります。

歌唱の力量はもちろん、舞台上の存在感をコントロールするというのも、舞台人としては必要な能力だと思います。つまり、空間で、物語の場面の中で、どう言う居方をするかと言うこと。

今回は10人の歌い手が舞台に乗りますが、その中で、非常にうまく舞台空間に居るのは一人だけ。賛助出演してくれている党主税君ですが、彼は一番背が高く、185センチあります。他の誰よりも、大きくて、歩き方も大雑把ですし、どこにいても目立つはず・・・・なのですが、彼は非常にうまく舞台上に存在します。

これは、大きな舞台でも同じ。オーチャードや東京文化会館などでも、今回のような、200人くらいの小さな舞台でも、同じように、丁度良い存在感で舞台に立てるのです。特筆ですね。

だからといって、華が無いとか、歌唱が下手だとか、そんなことはありません。クオリティは高いです。

これはですね、彼が役割と、場面の空間を感じることが出来るからだと思います。

良く観ていると、彼はいつも舞台の中を見ています。
動いている人や、周りの状況。それを客席から見ているような感じがある。そして、いつの間にか、一番良い場所に陣取り、自分の出番でない時は、不思議と存在感がなくなります。けれど居るのはわかる。簡単に言えば、Scenaの息使いが出来るのですね。これはね、案外出来ないものですよ。

やはり歌える人は自分の存在をアピールしますから、そんなにすっと居場所を消せないものですが、この人は、前に藤原の本公演で「チェネレントラ」のアリドーロをやった時も、常に舞台上にいるような設定でしたが、上手に存在感を消していました。それを思い出しましたね。

ところが、他の人たち、特に舞台経験の少ない女の子達などは、すごく目立ちます。
背もたいして高くない、華も無い(申し訳ないが)にも関わらず、なぜか目立つ。存在を消してくれない。

これは、先ほどの党君とは真逆で、自分の事だけしか見えてないのですね。自分の息しかしてない。

合唱を歌いながら、自分の目の前で、何が起こっているかを全く無視して、この場面に関わろうとしています。そうするとScenaの息遣いなど出来るわけが無く、結果的に、個人の顔と立ち方になってしまいますから、そりゃ、目立ちますね。逆に、自分のメインの演目では、なぜかこう言う目立ち方をしません。今度は、歌唱に気を取られている。面白いことに、どちらもScenaの息遣いが出来てないってことなのです。おわかりですか?

こう言う感性は、経験と本人の興味の問題。
もちろん、段取りや、関わり方は決めていますが、それに自分なりのヴィジョンがなければ、体や表情は死んだままです。その上で、党君のように、一歩引いて、常に客として観ている冷静さもなければ、やはり上手な居方は出来ませんよね。

もっと大きな問題は、その子達が気づいてないと言うこと。
自分では、関わっているつもりであるのですが、Scenaと一緒に息してないと言うことに気づいてない。わからないのです。

自分ではやっているつもりですから、こちらが駄目を出しても変わらない。
もちろん、皆が皆そうではありません。やはり経験値はそれぞれ違いますから、特に目立つ子の顔を観ていると、まったく死んでいるのでわかるのです。

Scenaの息遣い。
簡単なことです。まずは、音楽を感じること。
例え、助演でいて、歌うことが無いにしても、流れている音楽を感じて動いたり、芝居が作られなければ、結局はその音楽感から外れてしまい、すごく目立って終わりです。

それが欲しい時もありますが、歌っていようが、歌って居まいが、音楽の息遣いが出来ないと駄目なのですね。

前述の党君は、そう言う意味で逸材です。
まったく感性でこういった居方が出来る。メインの演目なら、なお更、音楽の中に居ます。
誰しもが持っている感性ではないのでしょうが、歌い手は基本的に音楽家。そこを忘れては何をやっても、駄目なのですね。

さて、今日も檄を飛ばしてきます。
でもね、本当に面白くなってるんですよ。しつこく、チケットのお知らせします!どうぞ、どうぞ、会場に足を運んでください!お待ちしています!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-11-30 13:49 | レチターレ | Comments(0)

合同稽古その一

日付が変わっちゃいましたが、本日はレチターレの合同稽古の一回目でした。

レチターレの場合は、演目別に先に稽古して、本番前に構成舞台を創っていくというやり方をしています。それで、今日は初めて全員がそろって、公演のための稽古をしました。

今年はとにかくお客様を楽しませることに重きを置いていますので、お客様に対しての脅かしや、アピールをはっきりと作りたいと思っています。そのために、語り部を一人にして、この一人の人を中心に演目自体は進んでいきます。そのために、案外、速い展開で進んでいくので、自分達の演目に集中することなく、舞台は進んでいく怖さがあります。

今日最初に2部を通してみたのですが、思ったとおりに、この展開に煽られた状態になっており、何がなにやらわからない感じ。この流されていく感覚を、もっと落ち着かせて、客の方に向けるように、通し稽古までを持っていきます。

さて、前回もそうでしたが、全員参加と言う場面を必ず入れています。今回は二演目。
一つは「チェネレントラ」、一つは「フィガロの結婚」のフィナーレ。合同稽古の目的は、この全員参加を作ることもあります。本来、そこまでに、自分達の演目はこなされていないといけないわけですが、これも中々手ごわい(^^;)。

全員参加のものは、まったく個人的な最良に任せていますから、楽譜を渡しておいて、今までほったらかしにしていましたが、思ったとおりに、「今日、はじめて楽譜をみました」状態。まあね、メインの演目だけでも目一杯だったとは思うけれど、せめて、楽譜を観ていることが絵になるくらい考えてくれるといいのですけれど、そこは起用には出来ません。おいおい・・・(==)

こう言う心理はわからないでもないですが、やっぱり、もらった曲に対しての興味はもっと持つべきです。それが合唱の部分であっても、ソロとしてもらっていても。場面を作り出す面白さに加担していると認識があるともっと違うのかもしれませんけれど、これをどうやって起こしていけばいいのかは、やっぱり合唱でも面白いことをやってもらわないといけないってことですね。

こうやって並べてみて、初めて構成舞台がこうなんだっていうことが認識されます。
ここからが本当の勝負で、本番までの間の、今日を合わせて5日間。一番集中できる時です。このときに出来上がらなかったら、今回はただの発表会で終わります。

参加者が、どこまでこれに気づくか。それが一番やりたい訓練です。
お客に自分達がどれくらいの能力を提供できるのか。それだけを考えて、詰め稽古をしていく。そして、本番への気持ちとプロセスを作っていく。

本番は、いつも良いです。
これはどの公演でも、演奏会でもそう。それは、特別な時間であり、誰しもが、その瞬間にものすごい集中力を発揮できるから。誰も、自分の事など考えていません。
だからこそ、稽古場でどれだけ自分を集中させていけるか。それが、結果的には、お客に与える自分の身体を作るのです。

さてさて、本当に楽しい舞台になると思っています。作っている私が言うのですから、間違いありません。どうぞ、皆様、会場にお越しください!絶対に、損はさせません。とにかく、沢山の方々に観ていただきたいです!どうぞ、どうぞ、よろしくお願いしますね~!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2006-11-29 00:41 | レチターレ | Comments(0)

作品を知るということ

今日は久しぶりに研究生の授業に行きました。
今年は、10月のアンサンブル試験に続き、修了公演も同じクラスを演出します。
今は、まだ音楽稽古の時期なので、演出家が授業に出席することは無いのですが、今日は音楽スタッフの先生方が、お休みらしく急遽借り出されました。

しかし、いきなり借り出されたからといって、一回だけ、しかも3時間、なんて埋めようがありません。
細かくやれば、時間が余るし、大雑把にやったところで、意味無い感じもするし。第一、研究生達もまだまだ譜読みもおぼつかないという頃でしょうから、内容のことをうるさく言っても頭に入りません。とりあえず、時代背景や、キャラクターのことなど、歌わせながら内容のことも少しずつ話しことにしました。

話すばかりでは、与えるだけになるので、授業の場合は質問形式で行うのですが、楽曲を歌わせて、感じることを質問していくと、答えられないことがなんと多いことか。

ここで、質問しているのは、今歌った場面では、何が起こっているの?とか、姉妹の関係とか、恋人達の経緯とか、そういうことです。しかし、うまく答えられない。

大体のことは答えるようですが、それはその楽曲の中で想像することだけです。つまり、作品の大きな流れがまだ見えてない様子。

しかし、演目が決まってから一月半経っています。この間、何をしていたのか・・・???
もちろん、音取りや歌詞に慣れるのに時間がかかっているのですが、この最初の作業をするときに、オペラの概要を知ることは、ほとんど無視されています。

音も取れてちゃんと歌えるようになったら、内容を勉強しようと言うわけです。これは大きな弊害。そこに納得するまで、作品さえしろうとしないのですから、音楽が感じるわけがありません。

これは、日本と言うお国柄だと思うのですが、日本はとかく基礎だ大事。
例えば、スポーツなんかもそうですよね。まずは、基本。

それはとても大切なことで、それ自体を否定はしませんが、こと、芸術に関してはその生真面目さが、マイナスになるときがあります。

例えば、バレエなど、同じように基本が大事でしょうが、やはり表情や感情が豊かでないと、どんなにテクニックが高くても、芸術性が低くなります。フィギュアスケートなど、最初のコンパルソリ(だったと思いますが、スケーティングのテクニックを競う段階です。マルを描いたり、規定にどれだけそれるかが観られます)は高い点数が取れても、ショートプログラムやフリーになると、途端に芸術性を問われて点数が低くなります。

以前、あるオペラで振り付けにイタリア人が来た時に、日本人のダンサーに振りを渡す段階で、そのダンサーの表情が固いので、「どうしてそんなに表情が乏しいのか」と聞いたところ、そのダンサーは「振り付けを付けている段階だから」と、答えました。どう思いますか?

その振付師は、振り付けの段階から内容も一緒に創るのが当たり前だと言っていた訳ですね。だから、表情が硬いのはおかしい。

研究生達に音をとりながら、そこまでのことは要求しませんが、もっと、作品に興味を持って、準備をして欲しいものだと思います。

楽譜をもらったら、対訳などを書き込むでしょうから、書き込みながら、大きな流れはちゃんと確認しておく。

音取りの最初から、内容を濃くしろとは言いませんから、ある程度慣れてきたら、時代を調べる。キャラクターを考える。作品を知る努力はいくらでも出来ると思うのです。

それを知って音楽稽古をするのと知らないでするのでは、本当に大きな差があります。それを楽しみながら、やる術を学んで欲しいものですが・・・・。

ま、そういったことも含めて、今日も沢山投げては来たので、後は、立ち稽古で私と再び会うまでの間、彼らがどれだけ作品を知ってくるか楽しみに待つことにします。

それにしても、一本を演出するというのも、やはり大変な作業です。レチターレの方が、演目の数は多くても、物語性が無いだけ、好き勝手に出来る楽しさがありますね。

とはいえ、研究生達が、沢山レチターレのチケットを買ってくれました。感謝、感謝(^^)。きっと、刺激になるよ~ん!
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by kuniko_maekawa | 2006-11-21 23:57 | 演出家のつぶやき | Comments(1)

稽古場がゆがむ???

まあ、多分に、私の頭がゆがむのです。
さて、前回の記事で、歌い手の風通しの良さについて、書きました。今は、ずっとレチターレの立ち稽古が続いているので、そこで色んなことを感じているのですが、ずっと以前から、自分で立ち稽古をしていると、どうしても、成立しない稽古が出来る時があるのを疑問に思っていました。

研究生などをやっている時にも、こう現象はあります。
段取りを考えて稽古場に入るのですが、どうしてもうまく行かない。作っている絵が完成しない。

最初、やはり自分の絵が悪いのかと思ったり、出来ない演目に関しては、苦手な曲なのかと思ったりもしてました。

しかし、最近、これは例の「風通し」が悪いんだということに気づいたのです。
つまり、歌い手の心が閉ざされていると、私の与えたものが、生きて返ってこない。ただ、動きのみ、だた、方向のみの絵が出来上がっているのです。

これは、「稽古場」などで、研究生の授業などでやる演目をかけたときに、明らかに歌い手のレベルが違い、あっという間に絵が出来上がったのを経験したことで気づきました。

でも、レベルが違うだけではないのです。研究生達だって、下手は下手成りに、作品は作れます。絵が出来上がるのです。

じゃあ、絵が出来上がらないのは、どういうわけか。
本人達の息吹きが入ってこないのです。私の与えた段取りに、命が吹き込まれない。それは、ただ、与えられたものをやろうとしているからなのです。

こう言う歌い手にぶつかった時、どんな手を尽くしても、まず、彼ら、彼女らの心を開くことからやらないと、絶対に作品は作れません。歌い手の方で、理由を産まないからです。

昨日レチターレでやった稽古でも、そうでした。
何回も書いているように、今回は段取りは踏みませんから、私の大まかに感じていることと、音楽を兼ね合わせて、その場で作って行くやりかたをしていますが、頭の固いSopさんが、どうしても乗ってくることが出来ません。そして、どんどん防御に入ってくる。

例えば、こちらが渡した方向性が、うまく行かない場合に、「自分は違うところでリアクションしようと思っていた。」となってきます。もちろん、それならそれで、構いませんが、結局はシャッターを降ろしているだけなので、自分の思うとおりのことも出来ません。

そうなると、目の前の歌い手が、段々、無表情な息をしない人型に見えてきて、稽古場の空気が止まり、私の頭がゆがんでくるのです。「なんでなの?」「どうして感じないの?」などといいつつも、一生懸命動かそうとしてしまい、歌い手を動かすことばかりに集中し始めるのです。これでは絵が出来るわけありません。参りました。(^^;)

彼女の場合は、お稽古のはじめがいつもそうですから、なんとなくプロセスはわかっても、毎回こうでは成長が無い。それに、レチターレは生み出す稽古が主だと考え、そのことは本人もわかっていながら、出来ない。性格的なことだと言ってしまえばそれまででしょうけれど、それが、無駄な時間を作ってしまいます。

こういった現象が、私のほうにも影響するということに気づいてからは、一応手を尽くして、動かないものを動かしてみた後は、ほったらかしにすることにしています。
私にしても、自分の創る方向に自信が持てなくなるのは非常に良くない。その壁に稽古場が覆われ始めると、本当に空気が止まってしまいます。それは一番あってはいけない状態なのです。

ともあれ、それに気づいた時は、自分の絵がおかしいわけではないとわかって、ほっとしました(笑)。だって、同じ演目を「稽古場」でかけると、いとも簡単に楽譜が見えてきて、絵が作れるんですもの。その時の歌い手達が、異常に風通しが良いことをかんがみても、問題は、自分を開くかどうかだけです。

演出家も人間ですから、自分のやりたいことを押し付ける嫌いはあります。けれど、やっぱり筆がうまく動いてくれないと、キャンパスに色は塗れないわけですね。そのためには、お互いが綺麗な状態で、いられないといけないわけです。すでに絵が入っているキャンパスや、汚れた筆は、違う色を作り出すのです。

さて、シャッターが降りている自分と言うのを認識されているだけ、開こうとする努力はありますから、先のSopさんも、次回の稽古に期待します。

稽古場は、やはり足らないものを見つける場所です。
そのためには、良い子になっては駄目なのです。思い切って、自分をさらけ出す勇気を持って欲しいものです。第一、私達演出家や指揮者は、恥ずかしいくらい裸になって稽古場にいるんですから。(^^;)せめても、真正面から向き合って欲しいものだと思います。
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by kuniko_maekawa | 2006-11-17 13:18 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

風通し

このところは、なんだか気温が変ですね~。
寒いのは寒いと思うのですが、今日なんか妙に生暖かい風が吹いてたりして、体調がおかしくなるのも当たり前って感じですね。

毎日なんとなく進んでくるレチターレでも、風邪引きなどが発生。お稽古が二日ほど取りになったりしました。

さて、今日も立ち稽古があったわけですが、ここ何回かのたち稽古に比べて、今日は、すごく楽しい稽古場でした。なぜか・・・。稽古場の風通しがものすごく良かったからです。

これはですね、参加してくれた歌い手さんがそうだからです。
今日の演目は「ルチア」。二幕のルチアとエンリーコの二重唱なのですが、このエンリーコをやってくれているバリトン君が、本当にいつも風を通してくれるのですね。

このバリトン君は、藤原歌劇団準団員の党主税君といいます。
もう、本公演でもおなじみで、昨年1年間文化庁でイタリアに留学しており、帰ってきたばかりだというのに、レチターレに参加してくれました。

それだけでも嬉しかったのですが、彼の稽古場でのスタンスが、ちっとも変わらないということも、大きな喜び。

以前からいろんなことを手伝ってもらったり、「稽古場」に参加してもらったりと、作品を一緒に創るということを、やってくれる人でしたが、その彼の特徴として、とにかく、いつも、Openなのです。体と心を与えてくれる。

なんと言うのでしょうね、何を投げても、頭で考えるのじゃなく、体で起こしてくれるというか、とにかく、「やってみましょう」といって、いかようにも、自分を変えてくれる。つまり、自分を捨ててくれるのですね。

稽古場に自分の身を投げ出すと言うこと。これって、意外としているようで、出来ていません。
稽古に参加するだけなら、誰でも出来ます。そこで、渡されたものをこなすことも、出来る。

しかし、稽古場に身を投げ出すことは、ある意味、自分を守ることを捨てるということですから、歌い手さんには、一番難しいかもしれません。声、体、息、守るものは沢山あります。

でも、守ることをしていると、出来てないこと、足らないことを、隠すことをやり始めます。
声がひっくり返ったり、うまく響きがつかめないとか、そう言うことが、自分の弱点だとすると、そのことを理由に、動きを制限したり、解釈を変えたりする。

そうすると、無難に、そつなくこなすために、細工をしなければなりません。これでは、物は創れません。

稽古場に立つということは、あえて、その部分をさらけ出して、「これは苦手なんです、でも、これなら出来ます!」と言う、展開を望んでいくことです。足らないものを見せて、初めて新しい可能性が見える。

私が昨年、レチターレを初めて、最初にぶち当たったのは、この壁です。
皆が最初の立ち稽古で与えられた段取りを、次の稽古の時、見事にそつなくこなしてきたのです。「ここまでやりました」みたいな。

それを崩していくのに、3回ある稽古の内、2回を使わなければなりませんでした。
少ない稽古で、与えられた演目を生み出すためには、自分を開き、入ってくる新しい風をまともに受けることが、実は一番大切なことだと思います。

今年は、昨年のことも踏まえて、最初からこちらも段取りを多くは与えません。
投げっぱなし、ほったらかしです。
しかし、稽古場に立った時に、こちらが風を吹きさらしにして、歌い手のどこに吹き込んでいくのかを、常に、常に狙っています。

その中で、今日の稽古みたいに、いきなり風を受けてくれる歌い手さんと創ると、あっという間に作品が出来上がります。本当に至福のとき。

彼とは1年ぶりなわけですが、すっと戻ってきて、すっと稽古して、何事も無かったかのように、もう同じ息で作品が出来上がる。ああああ・・・・なんて素晴らしい・・・・・。

こう言う歌い手、稽古場、レチターレを与えていただいたこと事態が、もう恵みですね。

風通しの良い稽古場を創るもの。一番大切なのは、お互いを信じることだけなんです。
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by kuniko_maekawa | 2006-11-15 00:52 | レチターレ | Comments(0)

立ち稽古に入りました

レチターレも本番までひと月をきりました。
今週から徐々に立ち稽古に入っています。と、言っても、一演目3回。通常の稽古にしてみたら、少ないですよね。だからこそ、一回一回価値あるものになります。

さて、この回数+合同稽古、通し稽古で本番に乗せられるものなのか・・・・。乗せられるものなのです。案外。

これを可能にしている理由は、「段取り」に重きを置かないからです。

どういうことかといいますと、通常のオペラのお稽古には「段取り」と言うものが存在します。
これは、もちろん演出家のコンセプトに従って、歩く方向やその時何をするかなどを、約束事を決めていく作業です。「段取りを付ける」と言うのですが、レチターレの立ち稽古では、極力それを無くそうとしています。

かと言って、全く何も無いわけにも行きませんから、簡単なセットを用意して、一応の方向性は決めていきます。しかし、これも、実際に動いてもらいながら、その時現れたものを拾っていこうと思っているので、ほとんど「あって無きがごとし」です。

ではどうやって作っているかと言うと、コンセプトは投げます。これが方向性。この演目に関しては、お客に、こう言うことを提供したいと説明し、あとは出入りくらいは決めて、さて、やってみましょうと言うことになります。

歌い手さんたちは、こちらのコンセプトに出来るだけ添うように動いてくれますが、大雑把な説明だけだと、結局は自分達の感性みたいなものになってきます。そこから生まれたものを、色んな方向からつついていって、一つの形を生み出していきます。

ですから、私は、ああしたい、こうしたい、とイメージを投げているだけ。それを、自分達の持っている引き出しの中から、出来るだけ近いイメージとして、歌い手さんは演じてくれるのです。

一見簡単なようですが、中々どうして・・・・・。
イメージを投げているこちらも、受け取る歌い手さんも感性が違います。そこを、どういう方向に持っていくか。あるいは受け取るか。感性が違えば、思うように出ない絵もあります。

しかし、これをやるメリットは、引き出しを作るのには、楽曲における理由が沢山ないといけないからです。

歌い手さんたちは、段取りをつけると、それを「こなす」ことに一生懸命になります。ですから、歌い手自身が持っている「理由」が殺される時がある。
しかし音楽的にも、演技的にも、本人達の自然な理由がしっかりしてないと、結局は流されてしまいます。音楽が流れている分、オペラはぼけっとしていても、進んでくれますが、確実に舞台の息が止まっています。これを、絶対に避けたいのですね。

こう言う稽古をしていて、一番大切なことは、風通しをよくすること。自分を守らないで、何を言われても、何をやれといわれても、何でもいいからやってみる!と言う、風通しが良くないと、絶対に出来上がっていきません。ですから、とにかく風通しの良い稽古場を作ること。これが、私の仕事といっても過言ではありません。

こう言う稽古場を作るのには、信頼関係が一番必要ではありますが、べたべたした関係ではなく、稽古に入った途端に、一気に集中して作っていく。これも、必要なことですね。

今回は、わりと、皆、扉を開けてくれているみたいで、ほっとしています。
後は、本番まで、私の頭と耳と目が新鮮でいてくれること。絶対に、楽しくなると思っています。すでに、稽古が楽しいですもん。(^^)再三再四でありますが、是非、会場にお越しください!損はさせませんから!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2006-11-10 23:51 | レチターレ | Comments(0)

音符優先

昨年「レチターレ」を公演した時には、まだHPを立ち上げておらず、ブログも開設してなかったので、あまり詳しく稽古のことを記事に出来なかったのですが、今年はまさにオンタイム。良いですね。刺激は毎日あります(^^)。

さて、演目を考える時に、もちろん、ブッファとセリアと良いバランスで組むことにしています。お客の事を考えると当然ですよね。

セリアのものは、ゆっくりな曲が多いですが、ブッファのものはそうも行きません。今回はロッシーニとドニゼッティが多いですから、アジリタやら、三連符のつながりやら、とにかく、せわしない音形が沢山あります。

しかし、この早いパッセージの中にも言葉は入っていますから、歌い手は大変。
唇を早口言葉のように動かして、尚且つ、良い響きを離さないで息を回していかなければ、お客の耳には届きません。
演出家や指揮者は身勝手ですから、「やっぱり内容がわからないとね~」などといって、要求は激しいです(笑)。そこで、色んな方法を見つけようと頑張るのですが、中々うまく行きませんでした。

さて、一昨日、昨日と、レチターレでは早口パターンの楽曲の稽古が続きました。
しかも、私の音楽稽古でしたので、「稽古場」を作っているときのように、「お試し~」などといいながら、楽しく稽古をしていたのですが、「ドン・パスクワーレ」のデュエットで、三連符の早いパッセージになってきたときに、どうも、やっぱり言葉と声がすんなり来ない。言葉が繋がってこない感じがする。

そのことを歌い手に伝えようとして、ふと、「音符を優先にしてみたらどうなるの?」と言う、お試しをやりたくなりました。
相手のバリトン君は、私のこう言う勝手な発想に慣れている人なので、軽く「良いですよ~」と言ってやってくれたのです。したらばっ!!最高の音楽が出来ました!

何をやってもらったかと言うと、通常、歌い手さんたちには、先ほども書きましたように、こう言うパッセージを扱うときでも、やはり言葉をしゃべるように歌ってもらうのですが、音符を優先にするということは、言葉はそのまま付けて、まさに音符を歌う感覚で歌ってもらうことです。

つまり、言葉の意味を考えないで音符を重視してもらったのです。
その結果、音楽的に正しく、それに語感が自然に着いてきて、発語と音楽が一緒になったのです。これは、すごいことです!まさに私がやりたかった理想の形。

こんなことで、方法が見つかるとは。
それをやった後から、この稽古場は音楽の恵みに満たされました。音楽が先に進みだしたのです。素晴らしい!

その次の日にロッシーニの「チェネントラ」を稽古したとき、やはり早いパッセージに皆が着いていけません。それで、確認のためもあって、音符読みで歌うことを提案しました。

つまり「レレレレレファ」と言う風に、まさに音符をそのまま声にしていくという作業。しかし、音とりではありませんから、音楽は作ります。それで歌うと、まず。縦割りのリズム感がしっかりとしてきます、尚且つ、歌い手自身に、何の音を出しているのかが、はっきりしてきます。これも、先の方法と同じで、音符優先。音楽が先に進んできます。

これが、まず主としてあることかもしれません。音楽の場合。
しかし、言葉が必ずあるものですから、音符だけではもちろん成立しない。
ですから、リブレットを勉強し、台詞として扱い、尚且つリズム読みもやってのことでもあります。

そこまで言葉を自分のものにしたら、この音符優先はかなり有効な方法だと思います。
もちろん、ゆっくり歌うことでも音符を認識するには必要なことかもしれませんね。

皆さんも、どうぞ、お試しあれ。その代わり、語感も一緒に鍛えないと、発語にはならないと思いますが・・・・。その時こそ、私のお耳をお貸ししますよ!レッスンはいつでも受付ま~す!(笑)
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by kuniko_maekawa | 2006-11-04 14:35 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

レチターレにおけるプロセス

毎度レチターレの稽古報告です。
前回の記事でも書いていますように、レチターレでは指揮者の方に入っていただいて、音楽的な投げかけをしていただくのですが、通常のオペラの稽古のように、立ち稽古に入るまでに指揮者稽古を組むと言うことはしません。

一つの理由は、指揮者が本番を振るわけではないので、音楽を指揮者の感覚にしないためと、歌い手自身が音楽をどう構成していくかと言うプロセスを踏んでもらうためです。もちろん、一本やる場合は当然指揮者が必要ですが、こう言う小さいものであるからこそ、歌い手の音楽観をきちんと持つべきだと思うのですね。

そして、もう一つは立ち稽古に入るまでのプロセスをあまり区切りたくないと言うことがあります。そのために、指揮者が入らない音楽稽古の間は、私との音楽稽古をします。

これは「稽古場」をやりながら方法を得たことですが、指揮者の投げる音楽的要素と、私の投げる演出家的要素は、どちらも歌い手の音楽観を刺激します。

特に、私がやっていることは、ほとんど芝居の本読みのようなことですから、内容と音楽と一緒にこちらに聴こえてくることを、歌い手に提示して、そして、一緒に考えていく。そして、立ち稽古に自然に持っていく。そうすると、表現と言うものを頭で考えなくなって良い感じがします。

つまり、指揮者も私も、それぞれの耳をお客の耳にして、歌い手が創って来るものを、どう感じるかだけをぶつけていくわけですね。

それはまたピアニストの方々も同じで、彼らは彼らで、私達の投げかからイメージをもらって、膨らませ、歌い手達とのコラポレーションをどうもって行くかを考える。そこで、聴こえてくる声や、音楽がオケとどう絡みたいのか、そういう投げかけをまた歌い手達に投げます。

読んでていて、お分かりかと思いますが、ここであたふたしているのは実は歌い手だけということになりますね(笑)?

別に、いじめているわけではありませんが、この三者三様の投げかけを最終的に形にしていくのは歌い手自身の感性によります。

この投げかけは、その後の稽古で「こなされる」ことはありません。
指揮者も私も、本番に向けてのことを考えて投げているわけではありませんから、そこに目的は無いわけです。

正しい言い方をすれば、参加している歌い手さんたちの将来的な目的には即していても、12月4日の本番のためには、何も投げられていません。

ただ、この楽曲をどう解釈するのか、それによって、何が必要か、何が足らないかをただ「聴いていく」。大変なことですね。ははははは・・・・(^^)

このところ、私の音楽稽古が続きます。今日も、そう。
私は最大限に耳と心を開いて、歌い手達から聴こえてくるものを聞き取り、それに対して感じていることを投げて、また新しく扉を開いていきます。結構大変ではありますが、稽古の最初と最後では、明らかに彼らの中で感じていることが違うのも、感じています。
それは佐藤、須藤両氏の稽古でも同じ。

そして、同時に私の中の扉も存分に開いていき、経験値が積まれていく。
立ち稽古に入っても、それは変わらず行われることです。最終的にどうなるかは、神様のみぞ知る。

それにしても、歌い手さんは頑固です(笑)。良い意味でも、悪い意味でも、ですが、でも、客の前で正直な自分を出せること。それこそが、私達の出来ることですね。

さて、さて、今日も扉を一杯開けてきます!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-11-01 14:15 | レチターレ | Comments(0)