仕事納め

今日は最後のレッスンでした。
定期的にレッスンに来ているクライアントさんでありましたが、レチターレが終わって、労働意欲に駆られて働いていたそうで(笑)、久しぶりのレッスン。

最初にこの間のレチターレの反省などを聞きながら、この先の展開に付いて話をしました。

いつぞやも記事にしましたが、レチターレはお客様の前に出て、表現するレッスンの一つ。
このことを、クライアントさんに伝えながら、改めてその思いを強くしました。

彼女は今年研究生機関を終えたばかりですから、半年くらいでレチターレに出演したわけです。その公演自体でも、大きな経験をしましたが、それはまだ研究生の延長のような感覚もありました。

これから、彼女とどうトレーナーとして向き合うか。
やはり「個」の「素材」としての彼女を、育てて生きたい。その可能性を、引き出して、拡げて行きたい。その意識レベルをどうやってあげるか、これが課題だと思っています。

もちろん、私一人では為し得ないことですから、彼女にもそのことを話し、改めて一人の歌い手として、向き合うことを容認し、今日のレッスンは始まりました。

このトレーナーとしての、私の方向は、これから出会う、どのクライアントさんに対しても打ち出すコンセプトです。

歌い手としての「素材」を育てること。そのための意識レベルを上げること。
一人一人と、丁寧にその作業をするのが、私のなすべき仕事。そのためには、もっと個人としての歌い手さんを見るべきだし、付き合うべきだと思います。

来年、どんなクライアントさんが私のところにいらっしゃるのか。
でも、誰が来ても、何を勉強しても、私はいつも変わらず、耳と目と頭を、提供し続けようと思います。その「個」が「多」になったときに、質の良いオペラが成立するだろうと思うからです。

さて、今年は本当に、色んな方に出会い、色んな方にお世話になりました。
来年も、どうぞ、よろしくお願い致します。そして、自分の可能性を拡げるために、私に掛かる声を待ちつつ、日々これ精進!頑張りますよ~!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-29 17:42 | オペラ・レッスン | Comments(0)

字幕のキュー出し

今現在、字幕のキュー出しとして、ある公演に入っています。
本日と明日、本番の絨毯座と言うオペラ団体の公演で、モーツアルトの「Cosi fan tutte」なのです。

これをプロデュースなさっている、演出家の恵川智美さんとは、長年のお付き合いで、かわいがっていただいており、本番を観にいくつもりでメールしたところ、「空いてる~?」とお電話。

字幕のキュー出しがいないとのことで、急遽お手伝いに入ることになりました。

キュー出しと言うのは、演出家が決めた楽譜の中のタイミングを、実際に字幕や照明を操作する人に伝えるという作業で、楽譜を追っていきながら、キューの箇所に来ると「Go!」と声を出して、機会を操作している人たちが、ボタンを押すという、きっかけだしですね。

しかし、これが結構難しいのです。

何せ、実際にお客の目に触れるものですし、舞台上は人が動いて内容は進んでいます。
いくら、楽譜どおりに進めれば良いと言っても、指定の在る場所には、演出家の思い入れと、意図があったりします。ですから、絶対にオンタイムで字幕なり、照明なりは変わりたいわけです。

ところが、楽譜上でオンタイムでキューを出しても、ボタンを押すというタイムラグを入れなければ、遅れてしまいます。ですから、必ず、その箇所の少し前に「Go」と声を出し、ボタンを押して、字幕が現れるのがオンタイム。と言う技を使うのです。

ひえええ~、難しいよ~(;;)
一応、照明のキュー出しなどやったことが合ったので、その辺のことは理解していても、やはり、このキュー一つで、舞台の内容が変わることもあるので、演出的思考を持っている私には、恐ろしい作業なのですね。プレッシャー大!

しかも、今回ご一緒している字幕の製作者は、本当にオペラを良く知っていて、センスがいいんです。ですから、緊張。駄目も激しいし(^^;)
その代わり、少々とちっても、必ず正しい時にボタンは押されていますから、安心ですが・・・。

それにしても、今回初めて字幕のキューだしをしましたが、これが相当面白いということに気づきました。

字幕と言うのは、オペラを観たことがある方ならお分かりですが、舞台の上か、横に、白い看板かデジタルの表示で、内容を日本語で要約した文字が出るものですが、そのオン・オフが、すごく歌っている言葉を飾るのだな~と言うのに、改めて感心。

例えば、字が出ている間と、「out」と言って、真っ暗にする部分とあります。
音楽の感じが変わったり、フェルマータなどが入って、空間が止まったりする時に、字幕を消すキューなのですが、これの消し方やタイミングなど、下手すれば、感情的に見えたりしますから、タイミングが悪いと、内容を変えてしまうことになります。

お客の目に入るものは、なんでも表現になってしまう、舞台の恐ろしさですね。

その分、有効的に使えば、これはまた、ちゃんとした表現になるのです。初めて知りました。

これを機会に、字幕のキュー出しを、もっとやりたいと思い始めたのですが、どうも、私のセンスがな~・・・・・・・(^^;)

それでも拾っていただけたら、またやりたいと思います。
今日も、頑張ってきます!緊張しますが、面白いです。どう言う形でも、舞台に対して影響があると思うと、やっぱり現場は楽しいのです。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-22 12:54 | オペラなお仕事 | Comments(0)

high・E(三点・E音)

本日は、久しぶりにレッスンでした。

最近は歌唱レッスンも入るようになり、一本のリブレットを、机上で読んだ後に、実際に表現するという段階を経験してみるのですが、この歌唱レッスン、やってみると、本当に色んなことに気づきます。これは机上のレッスンに比べれば、比じゃないくらい。

さて、今日の演目はドニゼッティの「ランメルムーアのルチア」から「Regnava nel silenzio」(静けさに支配されて)と言うアリアを聴かせて頂きました。

このアリアは1幕の冒頭、ルチアと侍女のアリーサが、恋人のエドガルドが会いに来るのを待っている間に、ルチアが見た亡霊の話をするという、ちょっとおどろおどろしい話。

この亡霊は女性で、叶えられない恋のために泉に身を投げたのですが、ある日、月夜のにその泉でエドガルドを待っていたルチアにその亡霊が現れたというもの。その話を聴いて、不吉に思ったアリーサが、この秘密の恋を諦めるようにルチアに言いますが、一転、ルチアは恋の熱い思いを歌って終わります。

内容は、ちょっと奇抜な内容で、お客を惹きつけるために、ドニゼッティが手を尽くした感じがします。

楽曲の構成は、その前半、亡霊の話をしている時は、流れるようなアンニュイさがあり、その曲が、亡霊を観たくだりなどになると、音楽が早くなって感情の起伏を表します。

そして、後半、エドガルドへの愛を歌う箇所になると、もともとのメロディに、色んな装飾をつけて、早いパッセージで最後まで歌いきるという感じ。
はっきりした二部構成で、わかりやすく綺麗な曲ですが、このパッセージが、本当に技巧的に難しいです。

早い音形、それと高い音域。内容もきちんと歌わなければいけません。

今日、いらした方は、すごくよい響きの声と、コロラトゥーラの技巧を持っていらっしゃいますから、こう言う曲を多く歌っていらっしゃいますが、最初に聴かせて頂いたとき、ちょっと違和感を感じました。

良く歌ってらっしゃいますし、アジリタのテクニックもあるのですが、何か、一つの楽曲としての満足感が無いのです。

大きな理由は、この後半のアジリタ部分に、テクニックを聴かせると言う役目しか感じてないからです。

そこで、本人に聞いてみると、やはり、それ以上の意識はされてない模様。

しかし、それでは、本来ある楽曲の意味がわからなくなりますよね。
それを強調したり、感情の起伏を表したりするのが、アジリタですから、そこをどう意識してお客の前に出すか。

そして、そのテクニックを聴かせる部分に比例して、前半の物語性の強い部分を語りきらないと、一つの楽曲の要素がなくなります。

それをお話して、直させていただきましたらば、少し、彼女の絵が見えてきました。
しかし、まだ息が動くのに時間がかかっている模様。

この方の場合は、発語と声とが、まだ別々の感覚なのですね。
しかし、伝える快感のベースに、声があり、それが良い響きと息で客席に流れないと、言葉が聴こえてこない。

こう言うとき、大抵、母音が引っ込んでしまっていますから、最近は、こう言うケースが出てくると、一度、楽譜を離れていただいて、母音だけで歌っていただいたりします。特に、得意の母音だけで歌っていただくと、そのいつも良い響きの母音の中でも、音程によって、響きが落ちていたり、上がっていたりすることに気づきます。

それを均一な息で歌えるように意識していくと、あら、不思議。言葉が綺麗につながるようになります。それをして、初めて言葉がはっきりと聴こえ、歌い手さんの創る内容が客席に伝わるようになるのですね。

それにしても、今日のクライアントさんは、本当に素晴らしい響きを持っています。
途中、三点E音が出てくるのですが、最初、ちょっと喉を掠めて響きが奥に行ってしまうので、前に突き放すようにして、息で出すように歌ってもらったら、すっごい!恐ろしく素晴らしい響きの三点Eが出ました。いわゆるハイ・Eと言う奴。「椿姫」のアリアなどの最後に上げる音ですね。
見事、見事。ため息がでます。

それにしても、息は本当に大切。
発声のためのブレスではなく、綺麗な息を作るブレスが出来るようになると、声は変わります。

そして、何より、その先に、いつも客席を見ること。
それが出来るようになれば、歌い手さんは、本当に上手になります。彼女にも、期待は大、です!

来週、今日作ったことを、こなしてみるということで、もう一度同じ曲をレッスンしますが、さて、どうなっていることやら・・・。本当に楽しみな逸材です!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-18 18:41 | オペラ・レッスン | Comments(0)

山本真由美&浅野菜生子デュオコンサート「ラテンの風景・セヴィリアの歌」

昨日、友人である、ソプラノの山本真由美さん、ピアニストの浅野菜生子さんのデュオコンサートに行ってまいりました。

会場は大田区民ホール・アプリコ小ホール。
恐らく、100人くらいでしょうか?いわゆる、箱型式で、椅子を並べて客席を作るというタイプのもの。コンサートホールの響きは無いにしても、手ごろな響きと、大きさと蒲田駅から5分もかからないと言う、良い立地条件があります。

山本さんは二期会会員。
私は大学の同級生で同じクラスでした。その時はあまりお話もしませんでしたが、演出助手をやるようになってから、何度か舞台でお会いするようになり、今はご近所さんでもあるので、仲良くさせていただいています。
非常にモチベーションの高い方で、頭も切れるので、どの稽古場でも評判が良く、しかも、役創りに定評があります。歌唱表現も優れていますから、言葉がストレートに伝わり、こちらの感情がゆすぶられます。何よりも舞台と歌うと言うことに、本当に情熱のある方。昨日の演奏会でも、彼女のタレントを本当に堪能させていただきました。

浅野さんは藤原歌劇団団員のコレペティトゥーア。
合わせて6年くらいのイタリア留学中、スペインの劇場や、個人のレッスンなど、経験と知識が豊富で、尚且つ、素晴らしい耳の持ち主ですから、コレペティとしては本当に希有な才能をお持ちです。ピアニストとしても、確かな技術を持ってらっしゃいますし、この方も、舞台と歌うこと(?)に本当にモチベーションが高いですから、二人のコンサートはまるで歌い手同士でやっているよう。どちらにも音楽の要素として「歌」がはっきりしているように感じます。

プログラムは、前半はイタリアの古典のもの。
皆さんご存知のスカルラッティの「すみれ」やヴィヴァルディの「私はジャスミンの花」(Io sono quel gelsomino)等、お聴きになれば、お好きな方はすぐにお分かりになるような歌曲やアリアです。

圧巻は後半に演奏された、トゥリーナと言う作曲家の「セヴィリアの歌」と言う作品。
プログラムの解説には「セビリア生まれのトゥリーナが、やはり同郷のホセ・ムニョス・ラモンの詩に作曲した、いわば故郷へ対するオマージュとも言うべき作品。」とあります。

セビリアにある聖週間(復活祭前の一週間)と言うお祭りをモティーフに7曲で構成されています。
ます一曲目は「前奏曲」。ピアノで惹かれるこの曲は春の夜の透明感をあらわし、二曲目の「聖週間」に引き渡され、今度はソプラノ・ソロで祭りの情景が豊かに歌い上げられるという風に、歌唱と、ピアノソロ、その間に朗読と、一つの世界が繰り広げられます。構成は次の通り。

1・前奏曲(ピアノソロ)
2・聖週間(独唱)
3・広場の泉(独唱)
4・祭りの夜(ピアノソロ)
5・幻影(独唱)
6・ヒラルダの塔(独唱)
7・贈り物(ピアノソロ)

みせ方としてもそうだったのですが、前半とは違い、これこそデュオだと感心したくらい、お互いの音楽性が一つです。しかし、タレントは別。表現する楽器が違うというのが、そう感じるのでしょうけれど、この「セヴィリアの歌」と言う作品を演奏するという、方向性や、音楽性が二人を通してこちらに伝わってくるので、本当に豊かな聖週間を目に浮かべました。

特に、山本さんのスペイン語は見事で、歌っているような語っているような音楽は本当に素晴らしいです。そして、非常に綺麗。
元々容姿の美しい人ではありますが、このときは本当に綺麗だった。
こう言う空間が音楽の中で持てると言うのは特筆ですね。中身が無ければ出来ないことです。

そして、浅野さんのピアノが、本当に新鮮でさわやかです。
なんと言うか、ピアノには言葉が無いからでしょうか?逆に、彼女自身のスペインへの情景や、想いみたいなものを、音の中にすごく具体的に感じました。そして「さわやかさ」を感じるのです。
ピアニストとしても、確かな技術を持っていることにも、改めて感動。
普段は、コレペティストとしての彼女と接する機会しかない私には、それだけでも新鮮ですが、それ以外でも、彼女の音楽性の豊かさや、何より「歌う」音が耳に心地良いです。

楽曲はどちらかと言うと、土着の色の濃い、叙情性豊かなものに感じました。
なのに、彼女の音楽には、太陽や土ぼこり、何よりマリア様を神輿に担ぎ、道を歩いていく、人々の声などが聴こえてきそう。楽しみました。

最近、私の同級生や同い年の音楽家たちの演奏などを聴くと、本当に豊かさが増したと感じることが多いです。
これは明らかに年齢が良い風に重ねられたということだと思います。
それぞれがふくよかに成熟し、積み重ねた経験が非常に良い形で、熟されていく。
尚且つテクニックがあるので、それを十分に表現することができる。

40代は本当に良い時代だと感じました。実りの時。
私も、彼女達に負けずに、自分の経験を更に開花させたいです。本当に、堪能した一夜でありました。
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by kuniko_maekawa | 2006-12-15 13:34 | 観劇日誌 | Comments(0)

レチターレの本当に意味

このところ、意義のあるレッスンを何回かしました。そして、考えさせられることも・・・・。
それによって、トレーナーであることの、意味みたいなことが自分の中に、確信として生まれてきました。

今現在、私のところのレッスンのプログラムは、定期的にいらっしゃるクライアントさんを中心に、それぞれがオペラを一作品、役を決めてそれを創る作業をしています。それをやりつつ、年に一度の試演会と朗読会。この試演会は、前回やったレチターレです。

それとは別に、スポットでレッスンを受けにいらっしゃる方。
演奏会があったり、地方からいらっしゃったり、これは形としては様々です。その中で、レチターレに出演なさる方もいらっしゃいます。

やることは、これだけなのですが、今年レチターレを終えてみて、ある不安が私に残りました。

それは、来年をどうするかと言うこと。

打ち上げの時に、音楽監修の須藤氏にも指摘されたことですが、やはり続けるということは、その公演自体の方向性が無ければいけません。

彼曰く、「この公演を生徒の発表会とするのか、それとも前川の公演とするのか。もう、決めないといけない。」との事。

言われていることは良くわかりました。
出演している人に関わらず、代表として私の名前を出している限り、これは「前川のレチターレ」と言う風に、お客様には印象付けられます。しかも、昨年と今年と出演者が変われば、企画・演出の方に、目線は行きます。

しかし、私自身は発表会として考えており、この出演者が変わると言う現実に、焦燥感を感じていました。

今年、終わってみて、この公演に参加した人たちが、この二回目の公演を始まりとしてくださるかを、ちょこっと意識調査してみますも、やはり公演は打ち上げ花火で、終わってしまえば、達成感だけが残ったと言う感じでありました。

もちろん、レッスンを続けたいと言ってくれている参加者も居て、継続しないというわけではないのですが、ここにいたり、レチターレの意味合いと言うものが、参加者と私とでは温度差があることがわかりました。

誤解のないように記しておきますが、参加者の方々が何もわかってないと言うわけではなく、私が、自身の方向性を掴みきれないで居たのが、大きな原因です。

昨年、レチターレが終わって、レッスンを継続したのは一人でした。参加者は7人。そのうちの、4人は定期的にレッスンに来ている人たちでした。

何故、そうなったのかは定かではありませんが、プロセスを踏みたかった私は、本当に苛々し、理由を探ったものでした。私が悪かったのかとも思いましたし・・・。

今年、レチターレに参加した人たちは、昨年公演が終わってからレッスンを始めた人たちです。
ですから、新しいものを作るつもりで、今年の公演を作りました。

作っている最中も、終わってからも、私の不安は、またもや継続者が出なかったらどうしようか、と言うことだけです。

しかし、やはり状況は変わらないのです。
初旬に公演は終わりましたから、12月はまだまだ始まったばかり、暮れまでには3週間は有にあります。しかし、今月レッスンを入れますと言ってきた子は一人でした。

理由は様々です。
しかし、定期的にレッスンを受けていた人たちでさえ、すぐにはレッスンを入れる状況にならないらしく、ここに温度差があります。

レチターレはプロセスなのです。1年机上の勉強をしたことを、試すためだけにある「場」です。
この「場」での経験は、次のプロセスに踏まえられなければいけません。

しかし、彼女達に取って、レチターレは集大成なのです。
多分、昨年の子達もそうだったと思います。精一杯の力を注いで、満足してしまう公演なのです。

二回目の今年、この温度差に始めて気づきました。
私は、終わってから、すぐに次の段階に進めたい。客の前で、感じたことを忘れないうちに、次のヴィジョンを決めたい。そうしなければ、積み重ねなんてなりえないのです。

それは、私がトレーナーであることの本質です。
トレーナーは、歌い手を教える仕事ではありません。歌い手と共に、自身を創る仕事です。
しかし、どうしても歌い手自身の意識レベルが低いと、研究生と同じ作業になります。お客のために、自分を創ると言うことが、使命とは感じられない。

それも、私を悩ませていることの一つです。
歌い手自身のモチベーションが高くて初めて、私の耳と目と頭は必要とされる。
本人達が、ただのお稽古事と同じように、レッスンを受けて、それ以上を求めないなら、私は必要ないのです。

レチターレは、そうやって創った自分を、客の前に出すレッスンです。これも自分自身を創るという、トレーナー作業の一環ですが、この部分を伝える術を用いませんでした。

レッスンを続けなければ、意味の無い公演だと、もっと参加者に伝えるべきでした。

来年のレチターレは、これを実行しようと思います。これからレッスンを継続してくれた人と、新しく依頼してくださる方々とで行うことにします。他には介在させない。それでも、場として欲しければ、参加費を払って自分で「場」を買って頂く。例え、レッスン生が一人であっても、レチターレは成立します。実施レッスンであるからです。

そして、トレーナーとしての私。
私はこれから、意識レベルの高い歌い手を探していきます。
ここ何日かのレッスンで、依頼してくださった方が、歌唱に付いての方向性を、認めてくださったりしたことも自信に繋がりましたが、私と同じ意識レベルで、共同作業をすることが一番良い結果を生むだろうし、元々トレーナーと言うのはまったく個人的な用途の元にあるものです。

私の耳と目と頭を求めてくださる方に、それを提供するのが正しいあり方だと思います。
公演を行うことが、目的ではないのです。

私自身も、アピールとして、こう言った公演を打ち出していましたが、今後はそれも必要ないと思います。もっと、私個人の能力として、勝負していきたいからです。

そんなわけで、今年もレチターレをやって本当に良かったと思っています。場と参加者を与えてくださった神様に感謝。何よりも、奢っている私をいつも砕いてくださることが、一番ありがたいです。

さて、これから先、どんな方にお会いできるのでしょうか?誰が私の能力を買ってくださるのでしょうか?神様しかご存じない出会いではありますが、本当の意味でのトレーニングを必要となさっている方が、与えられるように、節に願います。そして、この仕事に用いられていることに、大きな恵みを感じないではいられません。栄光在主。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-13 14:36 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

音、音、音

もう日付は変わりましたが、本日は、あるお芝居を観にいきました。

ギャラリースペースを利用して空間を作り、役者の息が聴こえてきそうな感じの、狭さでしたが、試みとしては面白しろく、久しぶりに小劇場感覚で観ていました。

しかし、残念ながら、台本が好きではなく、どうも、世界観がつかめないまま、2時間を終えましたが、会場を出て、家路に着きながら、何が駄目なのかをなんとなく考えていました。

台本は嫌い。役者も申し訳ないけれど、下手。
しかし、何人か好きな話し方をする役者が居ます。

こう言うとき、私の耳は、色んなものを「音」で捉えます。
台詞や、足音、衣擦れ、役者の息や台本、全部が音に聴こえます。

もちろん、聞いているのは、台詞ですが、なんと言うか、「音」なんですね。
この、「音」がちゃんと聴こえてこないと、どうしても興味が薄くなる。

今日の芝居は、気に入った「音」が聴こえてこなかった。それが、非常にしんどかったですね。

芝居はオペラと違って、音楽がありません。
その分、役者の力量にすべてが任されていくのですが、声を使っている限り、そこには「音」が発生します。その音が、自分の持っている「音」と合わないと、やはり、素直に心に入ってこないのですね。

お芝居はそう言う意味で本当に難しい。
台本を書くなど、自分では想像も付かないことです。私の中に、こう言う「音」を紡ぎだすことが、出来ないとわかっているからです。

今日は、出演なさっていた役者さんに、ご案内をいただきました。
彼の言葉からも「音」は聴こえてきませんでしたが、良い居方をしていました。
あまり役者さんの知り合いは居ませんから、これからも楽しみに、舞台を拝見させていただこうと思っています。

そして、私達も、歌い手と一緒に、それぞれの「音」を、もっと探していかないといけないですよね。
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by kuniko_maekawa | 2006-12-11 01:06 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

素材であること

レチターレも終わり、ほっと一息。
研究生の授業も始まりましたから、ちょっと新鮮な風が吹き込んできました。

先日、授業後に恵川智美さんとおっしゃる演出家と食事をしました時に、色々と歌い手のことで盛り上がりました。

彼女が今、持っている稽古場や、これから行う公演などで、キャストを決める際に、色々と相談を受けることもあり、私がお薦めする歌い手さんのお名前なども出させていただいて、実際に使っていただくのですが、この歌い手さん達の稽古場の居方について、共通した感想があること気づいたのですね。

こう言う場合、女同士と言うのは、しゃべるという要素もあいまって、盛り上がれますから、会話が発展しちゃって楽しかったのですが、今彼女は、「絨毯座」と言う団体を起こし、オペラの一作品をワークショップから始めて、本番までのプロセスを踏むという試みをなさっています。

ワークショップと言うのは、芝居などでも良くもたれる場ですが、身体を使っての表現方法を、稽古場で探していくもので、歌うこと重視のオペラでは中々お稽古に組み込まれることはありません。

しかし、身体を自由な発想にするということは大切で、やはり演奏者の内面からの発想が無ければ、表現と言うものは出てきません。やろうとしても、無理なんですね。

恵川さんも、その辺を歌い手達からは感じていて、私も共通で知っている、歌い手の話になりました。

両方とも、私もよく知っている歌い手で、歌唱能力も、舞台の居方も、すごく良い人たちで、この先を期待しています。

しかし、片方は、稽古をしているときが、ものすごく楽しい。それは、感性と感性、才能と才能、そんな風に会話できる人だからです。その時に、歌い手と演出家と言う立場こそあれ、人間は介在しない気持ちよさがあり、自然と、Scenaが出来上がっていく。この快感と開放感が、この人との作品を作るうえでの至福です。

ところが、もう一人の歌い手には、この感覚が無い。同じように、稽古場を形成することができる実力も、感性も持っているのに、どうしても、開放感が無い。「作る」と言う作業をしなければいけないのですね。

そうしましたら、恵川さんが、非常に的確に、おっしゃいました。
「その彼は、素材として稽古場に居ないんだよね」

おおおお~!!!なるほど~!!!
簡単な言葉だけど、すっごく言いえている。

「素材」と言っても、質の悪いものではなりえません。歌唱も、感性も、表現力も、あるレベル以上のものを持っているからこそ、「素材」になりえるもの。これが、後者の歌い手さんには感じられないのです。

これは、この先も彼の課題となるでしょうが、もったいないことです。
今のオペラの稽古場で、こんな風に「素材」となることを要求されることも、どれくらいあるかわかりませんから、これは、「タイプ」として処理されることもある。

だからこそ、恵川さんの試みや、私のようなトレーナーが居るのだと、やはり思いますが、私自身も、やはり歌い手との接し方、見方、才能と言うものの意味などが、少しわかり始めたのかもしれないと、感じています。

恵川智美プロデュース、「絨毯座」第一回公演「Cosi fan tutte」は12月22,23日。けやきホールで行われます。HP等、ありますので、ご興味のある方は、どうぞ、足を運んでください。
デスピーナが3人いたり、日本語の台詞が入ったり、普段見られない形です。楽しいこと請け合いです!(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-08 17:58 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

第二回レチターレ公演終了!

はい、昨日、無事に終了いたしました。会場に足を運んでくださった方、本当にありがとうございました!客席数は126席。まずまずの集客数でした。心から感謝いたします。(^^)

さて、今回は、本当に色んな事を学んだ公演でした。
大きなトラブルはありませんでしたが、それでも、乗る予定だった歌い手達のキャンセルや、スケジュールの問題や、体調不良などによる、稽古のNG。なんだか、いつも、胃が痛かったような気もします。

しかし、しかし・・・、終わってみれば、公演は大成功です!
参加した歌い手達は、自分達の可能性を精一杯使って、舞台に立ち、お客様は本当に喜んでくださいました。公演終了後も、楽しかったという感想を沢山いただき、嬉しい思いで一杯です。

もちろん、課題も多くあります。
前回、今回と、レチターレは構成舞台を組みました。一本の作品ではなく、それぞれが違う演目をアトランダムに選んで、一本の流れを作っていくものです。
今回は、一人の「語り」を作って、その人がしゃべる台詞から、演目が移って行くという形を取りました。しかし、この形にすると、演目の切れ目がありませんから、お客様が拍手をなさるのは、一部と二部の最後だけです。
つまり、緞帳が下りるときに、やっと拍手が出来るという状態。

この形に慣れないと、ジェットコースターみたいに、目の前で過ぎていく時間を、落ち着かないまま過ごすことになるかもしれません。

もう一つ、これは音楽監修の須藤氏にも指摘されたのですが、参加している歌い手自身が、この構成舞台の意味をわかってないように感じるということです。

もちろん、形はわかっています。順番も、台詞も。
しかし、自分の出番だけではなく、最初の演目から、最後の演目までを通して、一本の作品にしなければいけない、と言う感覚を持っていた参加者がどれくらいいただろうか、と言う不安です。

これは、私も感じていました。
お稽古はそれぞれの演目ごとしかしませんし、合同稽古になって、初めて流れがわかった時点で、それには興味がなさそうだな~と、感じていたからです。

事実、通し稽古までは、公演としての空気が作られていかずに、苛々したのも事実です。
しかし、最初の通し稽古でようやく、全体の流れが動いたので、一応構成舞台としての空気は作れたような気になっていましたが、やはり、わかる人にはわかりますね(^^;)。反省。

それは、そこをもっと意味を持たせなかった私の責任ですが、もう一つは、前回のように、つながりの台詞を一人の人がしゃべり、自分達の曲の繋がりを、持たせなかったこともあります。

今年は歌うことに専念させてみたかったので、そうしたのですが、そうすると、本当に自分達の演目にしか興味は無く、他の演目ももちろん、プログラムとしては渡していても、「この作品はどこの場面なんですか?」なんて、だいぶ稽古も進んだところで、質問されたりして苦笑しました。

今回は、昨年よりも、歌唱の充実した歌い手が参加しました。
そう言う意味では、もう少し公演としてのレベルも上がると予測されましたが、結局は一人、一人の意識や興味の幅が、非常に重要なのだということも、改めて認識されました。

例え、こう言う構成をしても、やっぱり拍手を入れたくなる、と言う気にお客様をさせるべきですし、私の与えた特殊な構成を、自分達の感性に捉えなおしていくという作業は、違う能力を使わないと、出来ないものなのです。

こういったことを、理解していくのも、このレチターレをやる大きな意義です。
トレーナーとして、歌い手達を観て行った時に、本当に重箱の隅を突くみたいに、その作業は行われなければならず、それを、私仕様に開発して行くのではなくて、あくまで、その歌い手仕様に、可能性として、表に出していく。改めて、この仕事の難しさを感じます。

ともあれ、こういった構成を楽しんでくださった方も沢山いました。
そうそう、今回はピアニストが本当に助けてくださって、両ピアニストとも、「大変素晴らしかった」と言う、感想を沢山いただきました。

打ち上げの時に、ピアニストから「指揮者が本番も振って欲しい」とのご意見もいただきました。
昨年、今年と、音楽監修には居てくださっても、本番を振っていただいていません。
基本的に、レチターレはプロセスを踏むことを目的としてますから、歌手としての音楽観を、やはり持つべきだというのが、本番に指揮者を入れない理由でもありますが、しかし、私やピアニスト達以外に、やはり客観的に音楽を扱う人が居るべきなのも、良くわかります。
方向性が一つになるからです。

それに、彼女曰く、歌い手とピアニスト、お互いの甘えもやはり出てくる。
オペラと言う音楽をやるためには、一つの要があった方が良いとおっしゃっていました。わかります。

結果的には、私の方向性の問題でもあります。
私の元に、集まってくる、この歌い手達を、どう育てていくのか、レチターレと言う団体を、どう言う方向性も持って行くのか。段々難しくなってきました。

昨年、レチターレが終わった後、私のレッスンに戻ってきたレッスン生はたった一人でした。
今年も、どう言う状態になるのかわかりません。
プロセスを踏ませたいと思っても、毎回人が変われば、その人たちのためのことを、考えなければいけません。けれど、私の名前で公演を行っている以上、やはり団体としての認識もされてきます。

昨日、家に帰ってから、初めてトレーナーと言う職業の難しさを、覚えて眠れませんでした。
私自身の成長はどうなのか、このままでいいのか。色々考えました。

でも、神さまからいただいたこの能力を、もっともっと、伸ばしていって、やはり、この仕事を続けて行きたいと思っています。

本当に、この公演をやってよかったと思います。
参加してくださった歌い手の皆さん、音楽監修の佐藤宏氏、須藤桂司氏、ピアニストの田村ルリちゃん、野口幸太君、そして、賛助で参加していただいた、党主税氏、折河宏治氏(このお二人には本当に助けていただきました。)、何より、客席に2時間弱も座っていてくださった、お客様、お一人、お一人に感謝いたします。本当に、本当に、ありがとうございました!

さて、また新しい一歩の始まりです。
どこまでも続く道ですが、頑張ります。大好きな職業ですから。年齢、性別、国籍、待ったく関係無しに、トレーナーとして依頼されるのが望みです。叶えたいです。

神さまと共に、この公演がありました。主の御名を賛美して。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-05 16:38 | レチターレ | Comments(6)

通し稽古

はい、本日は、レチターレの通し稽古をしました。

昨日までは、色んな事を作りながら、全員で合わせていって構成を作っていっていたのですが、今日は、その集大成のようなもの。最初に、少し駄目だしをしたら、1部2部とも通してみました。

昨日までは、稽古場も、まだ不安な空気が流れ、決まってないところも多くあったような感じだったのですが、今日は、まずまずです。初めて、全体の流れが見えてきました。ほっと一安心。

通常のオペラの稽古でも、やっぱり見えてくるのは通し稽古の前あたりですが、今回は、ぎりぎりセーフかな。色んな事情で稽古が無くなる日も、多かったり、風邪がはやったり、腰を痛めたりと、なんとなく、誰かを気遣いながら、稽古を勧めており、その割には、やることはたっぷりありましたから、途中、キャパシティを越えてるかな~なんて、反省しかかったのですが、やはり、そんなことはありません。やってよかったです。

今日みたいに、ある程度の流れが見えるときは、大抵集中力が良いです。
誰しもが、周りに流されずに、自分のすべきことをやっている。そうして初めて、客観的に、この公演がどう言う公演なのか、その中でのそれぞれの役割は何か、と言うことが見えてくるのですね。今日の通し稽古はそう言う流れがありました。

そうすると、逆に駄目出しは増えます(笑)。
当然ですね。やっと、それぞれの場面の中に立つことが出来るようになったんですから、見えてくるものが違います。

今までは、こなれない部分。わからない部分を、駄目だしするだけだったのが、内容を濃くするものに変わっていくのです。

この時期?と思います?
この時期だから出てくる「駄目」なんですよ(^^)。
あ、ちなみに「駄目だし」とは、演出家がつけた動きやコンセプトなどを、稽古しながらチェックして、それを伝えることです。そのチェックされた部分は「駄目」それを口に出して伝えるので、「駄目だし」。変な名前ですね(笑)

もう、心配はありません。
私はいつもそうなのですが、自分の演出作品に関して、GPに行くまでに、舞台の空間に良い空気が出来上がったら、その公演は成功すると確信しています。
本当にそうなのです。細かいことは色々あっても、公演としての空気が出来上がってくれば、大抵成功なのです。

今回も、やっとその流れが見えました。もう、よっぽどのことが無ければ、面白くない舞台など出来るわけがありません。歌い手一人一人が、ようやく役割に気づきましたから。

本当に、本番が楽しみです!チケット、まだ手に入れてない方、これを観なかったら、損しますよ~!!!!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2006-12-01 23:55 | レチターレ | Comments(6)