学校公演の意味

さて、20日から始まった学校公演のお稽古、なし崩し的に立ち稽古に入っています。(^^;)

今回は「フィガロの結婚」を芝居仕立てにして、なんとっ!1時間15分上演です。

もちろん、4幕分の物語を台詞を交えながら有名なアリアやアンサンブルをしっかり入れて、この時間に仕上がりました。あたしってば、天才かもっ!

今回の鑑賞演奏会は、中学1,2年生が対象。

中にはオペラを初めて観る人もいると思います。

そこで私たちが心していることは、とにかく楽しめること。
だから少々の羽目ははずしても良いと思っています。

しかし、音楽は最大限に良いものを。
歌い手たちも本当に思ったとおりの才能豊かな人たちが集まってくれました。
人柄も実力も十分に持った人たち。

何より嬉しいのは、要のフィガロを私と大学の同級生であるバリトン君がやってくれていること。

彼はもうベテランで、所属している団体でも、他の公演でもその才能をいつも望まれている人。

ひっぱりだこですから、いつも忙しい人なんですが、今回、他の若い歌い手を見て、望んで入ってくれました。

彼とやれることは私にとっても良い結果となります。
同い年の気軽さ、育ってきた環境も影響を受けた人も同じ、そしてお互いの尺の違いも受け入れあえるライバル意識の高さ。

同じレベルの、場合によっては彼の方がレベルが上である人と、物つくりが出来ることが本当に幸せですね(^^)稽古場が心地よいのです。

私のつたない訳詩も台本も、彼らによって活き活きとしよい作品になりつつあります。

これを観てくれる学生さんたちがどう思ってくれるのか、楽しみになってきました。

何より、客席に座ってくれた彼女たち(女子校なのです)の一人でも他のオペラ公演の会場に足を運んでくれたなら、こんな嬉しいことはありません。
これがこの公演の本当の目的といってもいいくらい。

今の日本のオペラの一番の問題は、どれだけ関係者以外の人たちを会場に来させるかと言う事。

どのオペラ公演に行っても、あいている客席。関係者の顔。
もちろん、そればかりではないのでしょうが、大きな団体の公演以外は、本当にこんな現象が常なんです。

でも、それでは何の意味も無い。
本当に来て欲しいのは、純粋にオペラを楽しんでくれる人なんです。
そのための努力こそが、本当の私たちの仕事なんじゃないかと思います。

草の根運動的な公演ではありますが、大きな意味がありますよね。

さて、もうすぐ1月も終わります。
旧暦では2月3日が年明け。間もなく、本当の意味での新しい年が始まりますね(^^)
頑張らなくっちゃ~!
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-28 23:47 | 演出家のつぶやき | Comments(1)

関西二期会公演「ナクソス島のアリアドネ」

「ナクソス島のアリアドネ」 は、リヒャルト・シュトラウス作曲、フーゴー・フォン・ホフマンスタール台本によるオペラ。

モリエールの戯曲「町人貴族」の劇中劇として書かれ、シュトゥットガルトで作曲者指揮により初演されましたが、不評に終わったため、台本、音楽をともに改訂し、劇中劇から独立した1幕オペラとして、1916年に初演。現在はこの改訂版が通常演奏されるものです。

上演形態も面白く、幕は2幕構成ですが、最初の景をプロローグとし、悲劇と喜劇を合わせて上演せよという難題を出され、悩む音楽教師やオペラ作曲家、プリマドンナ、踊り子たちのドダバタぶりが描きます。

つづく1幕では、プリマドンナが演じるギリシア神話に基づくアリアドネの悲劇と、コンメディアデラルテの踊り子が演じるツェルビネッタらによる舞踏劇が同時進行し、愛情の対比が歌われますが、この二つの景で「プロローグ付き1幕」として上演されているのです。

今回の公演は、新国立劇場の地域招聘公演で、東京以外で秀逸な公演を選んで新国立劇場で上演するという出し物。

上演したのは関西二期会です。

大阪、神戸と歌い手さんの幅も広く、東京二期会と並んで老舗の団体です。
歌える方も多く、私も何人か東京でご一緒した方もいらっしゃいます。

演出は師匠である松本重孝氏。

地方での仕事をこよなく愛しており、久しぶりに東京で師匠の作品を見ました。

それにしても、松本氏は常に常に作品の僕です。

私は今回始めてこの作品を観ましたが、難しいオペラだと思いました。

本編は劇中劇と言う事もあって、そこで語られるアリアドネとバッカスの物語をどう見せるかと言うことに終始しそうなのですが、最初のプロローグ部分などは、何の展開があるわけでもなく、歌い手自身の曲への理解が無ければただの人物紹介になってしまいそうです。

しかし、すべての登場人物を丁寧に歌わせ、なおかつ、大金持ちの思い付きによって、劇術作品に、当時の民衆芝居であるコンメディアデラルテの役者芝居を同時に上演しなければならなくなった、作曲家の苦悩などが、自然にわかってくる。

シュトラウスの音楽は、「サロメ」などと同様に、変調の嵐で、どこか壮大で永遠さを感じさせるようなものですが、その中に自然にドラマを引き起こし、劇中劇の複線として成り立って行かせるには、どれだけ演出家も歌い手も音楽家の意図を汲むかというところに終始すると思います。

松本氏は、彼のどの作品にもあるように、演出家としての故意的な作業ではなく、音楽家の音楽観を伝えるために、いかにして歌い手を伝い手にするか、そのために、声をどうやって楽器として使うか、その努力が本当に報われていました。

もちろん、これをするには、氏自身も恐ろしく楽譜を読み込み、作曲家のリサーチをすると言う作業があり、なおかつそれを解釈する想像力の深さ自由さは、絶対に誰も叶うことができない才能です。

それ故に、いつも彼の作品には「演出家、松本重孝」としての看板は観えません。
必ずといって良いほど「作品」が観えてくる。いや、むしろ作品しか見えてこない。歌い手さえ。
これが本当にすごいのです。

師匠であるがための贔屓目と思う無かれ、この作品はそういう意味では如何様にも形を変えることが出来るもの。

そこに興味を持ってしまって、故意的に何かやったら、簡単にシュトラウスの音楽につぶされてしまいます。あの才能に勝とうと思ったらば、彼のような音楽を作れなければ外側だけでは駄目だと思います。

さて、本編は、その大金持ちの意見を汲まれて、「アリアドネ」の物語の中に、喜劇役者たちが時々登場してきては、叙情的な場面を覆していきます。

アリアドネは基本的に一人の男の帰りを信じて待っている女。
大して、喜劇役者の花形ツェルビネッタは、男を愛しても、すぐに忘れてしまって、新しい男を受け入れてしまう女。

プログラムの解説ではこの本編のテーマは「変身」。

アリアドネは一人の男が忘れられないために、その男が死んでしまって新しい愛を知った時に初めて生まれ変わるということを知る。
しかし、ツェルビネッタはいつも忘れてしまうので、結局変わることが出来ない。

壮大な愛のバラードの中に、ツェルビネッタのような現実感のあるパーツを入れることで、シュトラウス自身が陰と陽、現実と非現実など、「変身」に関わる何かを表現したのだろうか。

この辺はプログラムだけではわからないのですが、確かにシュトラウスの変調がどこまでの方向性を持って始まっており、どこに到達するかは最後にならないとわからりませんでした。

しかしですよ、そんな小難しいことを舞台で現せるわけでもなく、単純に舞台上は島の海の見える場所にアリアドネが恋人を待っていて、その心情を歌うところに、喜劇役者たちが傍若無人に入ってくる。それを交互に歌っていくしかやりようはありません。

ところが、恋人が戻ってきたときから一気に物語りは「アリアドネ編」一辺倒になります。

今回の舞台美術は荒田良さん。
私も若いときからお世話になっていて、女性らしい繊細なシャープな絵が魅力です。
しかし、その繊細さが一気に太っ腹に展開する時も小気味良い方。

この恋人の登場も、大きな船に乗って煙をバンバン炊いての登場です。

あ~、もう良いなあ~(^^)もっと煙を炊いて欲しいくらいだった。

いわゆるカストラートの時代を模倣したような登場シーン。

それから悠然と降りてきた恋人バッカスとの永遠ともいえるデュエットが終わると、段々周りの島のセットなどが音楽が壮大に鳴っていくとともに、袖に引っ込んで行き、いつのまにか星空と二人しか舞台に残っていません。
最後に天井につってあった白い布が下りてきて、二人の抱き合っている床がせりあがって来、いつの間にかベッドに。そして、あたかも天から許されたごとくに、神々しく布が横たわった二人にふんわりとかぶさり、後はお楽しみ~という幕切れです。

や~、もう、師匠ったら~!!!大満足です~!(@0@)

このシュトラウスのばかばかしいくらい壮大な愛欲賛歌を良くぞこんな風にダイナミックに作ってくれましたっ!嬉しくなっちゃいました。

本当に舞台はこれで良いんです。
音楽家の意図を演出家が読み、それを歌い手の音楽にさせたらば、後は単純なことで良いんです。それが本当に良く現れていた公演でした。

私も常々こういう作品作りをしたいと思っています。

だから師匠なんですけどね。

久しぶりに大満足のオペラ公演となりました。

この公演は27日もやっています。
是非、足を運んでください。日本のオペラ界もまだまだ頑張れるんですから(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-26 22:01 | 観劇日誌 | Comments(0)

新国立劇場「お気に召すまま」

昨日、久しぶりにお芝居を観にいきました。

これは文化庁新進芸術家育成公演事業と言うものの一環らしく、海外派遣研修の成果だそうで、文化庁助成金で留学した役者、スタッフが関わって行われたものみたいです。

場所は新国立劇場小劇場。

私も小劇場シリーズと言う小オペラ公演で、スタッフで入ったことのあるホールで、500くらいの小さな劇場ですが、台詞を聞くには響きすぎずに良い空間だと思っています。(なのに、オペラを公演する新国の不思議)

「お気に召すまま」はシェークスピアの作品でも有名なもの。
る公爵領で起こった兄弟争いの結果、弟が追放されアーバンの森に迷い込む。そこには先代公爵が難を逃れて暮らしており、そこにまた、現公爵に追い出された前公爵の娘ロザリンドも迷い込んでいます。その弟オーランドとロザリンドは、追い出される前に一目ぼれした間柄。
しかし、身の危険を感じて、ロザリンドは男装して森に潜んでいましたから、彼にはわかりません。それどころか、オーランドはロザリンドへの恋わずらいで森の木々に名前を刻んだり、詩を貼り付けたりするばかり。
ロザリンドは男装しているのをいいことに、恋の練習のため、自分をロザリンドと思い、愛を語る練習をするように仕向ける・・・・。

蜷川幸雄氏などが、すべてを男優で上演するなどして話題でしたよね。

元々、シェークスピアの時代は役者はすべて男。
だからこそ、女性が男性に化けるという役どころが沢山出てきます。

「十二夜」のバイオラ、「ヴェニスの商人」のポーシャ、そしてこの「お気に召すまま」のロザリンド等など・・・。

そして、その誰もが、頭脳と根性と裁量を持っています。

私がシェークスピアを見るのが楽しいのは、一つはこの事があるのかも。

イギリスは女王の国ですから、女性賛美も影響があったかもしれませんね。
ベニスの商人のポーシャなど、実に小気味良いです。

そして何より言葉の面白さ。
今回は演出家が訳したようですが、それでも本来の面白さを垣間見せる元々の台詞と言うものが優れています。

演出は良いとは思いませんでしたから、台本のよさでしょう。

それに、この時代、役者によって台詞は如何様でも代わっていきましたから、そのライブ感を常々台本には感じます。
それが私がシェークスピアを好きな理由です。時代の自由さがある。

さて、今回の公演は、残念ながらその面白さみたいなものは感じませんでした。
翻訳自体もよくなかったのですが、何より役者の台詞回しが下手。

しかも、女性が男性をやるというのをロザリンドだけにせず、公爵やシェークイズ(憂鬱な男)など何も女性が無理してやら無くてもいいと言う役も女性がやっていました。なんで????

この人たちは、これが演出家の要求かどうかわかりませんが、往々にして声をつぶして男っぽい声にし、早口で押し殺したように喋るので、何を言ってるのかさっぱり。

しかも、役どころとしてはどれもかっこよく、美味しい、強面の役ですから、なんだ、このへなちょこって感じ。

今回チケット代を出しましたから、いくらでも言ってやる(--)

中にはTVなどで名前を知っている役者さんもいましたが、こんなに舞台では下手なんだと思ったくらい。自己満足な芝居を感じました。

その中で唯一ロザリンドを演じた松熊つる松さんという方と、有川博さんが郡を抜いていました。

それとは反比例に、舞台美術(伊藤雅子)はすごく好きでした。

小劇場は床も客席もすべてが黒ですが、その中で真紅のオペラカーテンが舞台上にプロセミアムとして仮設してあります。

別に閉まらないのですが、これがある意味人形芝居的にも、きちんと空間を創っていたのと、色が素晴らしく綺麗な真紅でした。良く、この色を探してきたなと言う感じ。

最初は幕前芝居のように、そのカーテンと張り出し舞台しかないのですが、アーバンの森の場面になった時に、初めて奥の幕が開いて、木々が立っている舞台になります。

その木々のバランスも、色も好きだったし、その中に現れる衣装(前岡直子)もそれぞれが形と色のバランスをうまく配置してあって、キャラクター的にも良くわかったし、この世界観好きだな~って思っていたのですが、いかんせん、照明が・・・・。

最近、照明君と仲良くなったこともあり、また、自分でも舞台美術や衣装などスタッフワークをすることになったおかげで、空間や色と言うものに多大なる興味を持つことが出来ているのですが、その中でつくづく思うのは、照明って明かりを当てることじゃなく、影を作ることじゃないかな~なんて・・・・。

ま、技術も良く知らない私が言うのもおこがましいと思いつつも、昨日の照明は、すべての場所に明かりがあり、まさに、何もかもがあからさまに見える辛い明かりでした。

たとえ、日の光がさんさんと輝いていても、木々の中では木漏れ日と言うものになり、日陰というものができます。

確かに目が慣れれば明るさが物足りないかもしれませんが、そこは映画と同じに世界観なのだと思うのです。

その舞台中の時間の進行、季節の進行だけでよいのではないでしょうか?

あくまで好みの問題でしょうから、演出家がこの明かりを望んだのかもしれないし、そうなるとやっぱり問題は演出家とデザイナーの相性と、お互いのセンスみたいになりますよね。

私はあんまりセンスのない演出家ですから、出来るだけ任せたいとは思っても、自分の世界観を壊されるのと、思考を煽られるような形はいや。

どんな風に作ったかは想像も出来ませんが、舞台の怖いところは、ただ一回目に映ったこの景色を好きか嫌いかで判断されるところです。それは反面教師的に感じました。

己を知るにも良い機会でしたね。

今日はこれからオペラを一本観にいきます。

最近はお芝居もやってみたい欲も出てきている私。
しかし、それでも言葉が音として伝わりたいのは変わりません。それがなんとも辛い舞台となりました。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-25 15:09 | 観劇日誌 | Comments(0)

セオリー

最近は演出家なので、「オペラのブログ」もトレーナーとしての記事は中々書けなくなってきました。その辺を楽しみにしてらっしゃる方はもうしわけありません。
どうも、感じないと書けないので。

演出家として仕事をしていると、色んな人たちと出会います。

歌い手はもちろん、舞台監督、制作、大道具、音響、照明、舞台美術、衣装、音楽スタッフ等々・・・。

皆さん人間ですから、それぞれの考え方もあり、同時にそれぞれの方々の「セオリー」というものを感じます。

「セオリー」とは単純に「理論」のことです。
では「理論」とは何か。
広辞苑を引くと・・・・
「理論=個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系。また、実践に対応する純粋な論理的知識」

はい、まさに。
私にももちろん、セオリーはありますが、ここ最近の傾向として、わざとこのセオリーを持たないことを実践しています。逆に壊したいという気持ちも・・・。

作品を構成していると、一番核になるものは当然筋道です。

つじつまがどう合うかということ。

登場人物や背景、場面の設定など、ちゃんとした筋書きが通ってこそわかるものであり、それを交通整理するのも演出家の仕事です。

しかし、それはあくまで単純な導線だけでよく、そこに理論を持ってくる必要が無いと思っています。

大きな理由としては、オペラの場合、作曲家がすでに存在していないということがあります。

つまり、正しい筋道をわかろうとしても無駄。想像するしかない。
そこを追求しても真実がわからないということが一つ。

もう一つは、客の思考に対してセオリーを感じないと言うこと。

どんなにこちらが理論を持ってしても、見ているほうは如何様でも理由をつけて、勝手に感想を持ってしまう。舞台が生ものだという理由ですよね。

こういった物作りをしているわけですから、セオリーというものがある意味、必要ないと思っているのです。

そこで、各スタッフや歌い手に私がまず望むことは、ファジーな部分を常に持っていて欲しいこと。完璧なセオリーを自分の中に持たないで居て欲しいのです。

何故、こんなことを描いているかというと、最近、やはり何回もスタッフワークをします。
そのたびに、演出家に求められることは「何をしたいのか」と言う事。

当然、それは仕事の役割として理解しているのですが、そればかりを求められると、自分の思考が理由付けられるみたいで、ちょっと難儀しているのです。

私の能力やキャパシティの問題でもありますが、思考が煽られるのが一番嫌です。苦手。

私の中にはAもBもあり、舞台美術も照明も歌い手も、目の前に出てきたもの、耳に聞こえたものそれが、私のAかBかCかどれかに当たる。

だから、各スタッフ(この場合歌い手も音楽家も入ります)が、私との場を多く持って、稽古を一緒に作って欲しい。
例えば、照明家が稽古場にいれば、照明家の目で稽古を進めて欲しいし、舞台美術家ならば
、美術家としての導線を観て欲しい。その中に私の思考がある。そのために楽譜も一緒に読んで欲しい。

しかし、そんな時間、無いのが当たり前ですから、短い時間で一瞬にして、各セオリーの披露会になるのが今のスタッフ打ち合わせの現状であり、稽古の現状です。

でも、理論などで物は作れない。
法則はありです。それは機材や楽器や、使わなければいけないものの使い方や使用目的。

それ以外にセオリーは必要ないのが舞台だと思っています。
原則さえも例外ではありません。後ろを向いて歌っても、本物の声はオケを通るんですから。

今、私が暖めているものは、こういったセオリーを一切無くした舞台を創るということ。
それがこれからどれだけ叶うかわかりませんが。

少なくとも、この先、私と一緒に仕事をしてくださる人たちにそれを求め続けて行きたいと思っています。

そうやって創った舞台は大きくても小さくても、伝えるものだけは無限大になるはずなんです。
絶対に叶えたい大きな目標です。(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-21 15:36 | 演出家のつぶやき | Comments(1)

台詞を扱うこと

今年に入ってから、台詞物を演出する仕事が二本続きます。
一本はオペレッタで、一本はフィガロを芝居仕立てにしたもの。これは自分で台本を書きました。

この4日間くらいはオペレッタの稽古をずっとやっていまして、読み合わせや楽譜の中身のことをクリアにするためのことをやりましたが、台詞と言うものについて、どう捕らえるかと言う難しさを感じています。

常々このブログでも書いているように、朗読会などで私が台詞を扱う時、一番気をつけていることは、「音」です。

どんなものであれ、例えば悲鳴であれ、それが口から出るものであれば音程があり、それを扱うと言うことは、「音」を扱うのと同じことだと思っています。

ですから、まず、きちんと音としての効果を歌い手たち、あるいは役者たちが扱えるのがベスト。

そういう耳の刺激と言うものが十分意識できたらば、芝居としての台詞として扱うことをやります。そうなると、当然、その人物が扱う言葉自体にシチュエーションや感情が伴ってきます。

ここまでは理論としては、なんとなく理解できる範囲。

しかし、実際に身体を動かしてみると、モチベーションがはっきりと変わります。

どうかわるかというと、「喋ること」から「動くこと」へ。
理由が変貌していきます。

例えば、女性が独り言を喋って、上手の部屋へ行こうとします。
その部屋には彼女の元恋人が先に入ってきていて、ソファで眠り込んでいます。

そのいびきを聞いて、彼女は元恋人の所在をしるのですが、台詞は単に、「あら?あのいびきは?」

こういうシチュエーションで、こういう台詞だと、やる方は単純に、眠り込んでいる元恋人をまったく見ようとしません。つまり、居ないという設定があり、いびきで気づくと言うことをやります。

でも、ですよ?
元々いないと思っているのだから、そこで誰が寝ていても問題ではありません。
つまり、恋人だと思ってないのですから、パーティなんかで大勢の人がその屋敷に来ている限り、誰がそこで寝こけていても恋人だと思ってなければ、目に入れることに問題が無いのです。

あるいは、泥棒が入っていると勘違いするかもしれません。

いずれにしても、家具の置き位置でもありますが、気づかないわけにはいかないシチュエーションがあるということです。

これはまず台詞を動くための理由にしているわけで、いびき自体を聞いたときのリアクションにはしていないってことなんです。わかります?難しいですね(^^;)

例えば、いびきを聞いて元恋人だと思ったとしても、いるわけないと思っていれば、無視する芝居も出来る。でも、やっぱり聞いたことあるいびきだから、もしかして・・・・ってソファに近づく。

そこで彼の顔を見たときに、懐かしいと思うのか、嫌だと思うのか、それによって彼の名前を呼ぶ、呼び方が違ってきます。近づいていく時も、どこで確信を持って歩くのかによって、感情が変わってくる。これが「喋るため」に台詞を理由にすること。

何せ、台詞の中ではこの状況は、「あら、あのいびきは・・・・?ダニロだわ、起きてよ、ダニロ」と言う文章でしか表されません。

これを「動くため」の理由にすると、元恋人がいびきをかいて寝ているから、確かめに行って、彼を起こすと言う動きをするために、台詞を喋るようになるのです。わかります?
結局行間にシチュエーションが生まれなくなるのですね。

これは、台詞を読むときに、立体的な感覚や具体的なイメージが沸きにくいと言うことが問題です。

もちろん、読み手は一生懸命このシチュエーションを語ろうとしてくれるのですが、客観的ではないのです。ある意味、客の目線や耳になってこの台詞を立体化することが必要なんですね。

これにはまず台詞の持つ広さに慣れることです。
決して文章ではなく、「言葉」であると言うこと。それによって、誰しもが影響を受け、想像することが出来る具体性を持っているということ。難しいですが、必要なことですね。

例えば、この恋人たちがお互いを意味して喋る「君」とか「あなた」は、必ず固有名詞があるはずです。そういうことが言い方を変えて行き、身体の使い方を変えていきます。

オペレッタは楽しい演目ですが、案外、こういう台詞をきちんと扱わずに、三の線だけをテンションで推すと、楽屋受けみたいになってくる可能性が大です。

大切なところは、きちんと喋りたいですね。
キャストの皆さん、期待してま~す!!!(^0^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-16 15:19 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

育ててもらうこと

11日から鹿児島入りして、ずっと稽古をしています。
15日に戻りますが、演出家としての仕事として最たるものの、スタッフワークもちゃんとスケジュールに入っています。

今回は、舞監さんと舞台美術家以外は、鹿児島のスタッフをお願いすることになっていますから、距離を埋める仕事も必要。
久しぶりの演出家としての仕事はかなり考えることを要求されています。

こういった作業は、今まであまりやったことがありませんでした。

と言うのも、私自身が演出家として仕事をするのを、どこかでまだ受け入れてなかったために、中々仕事が回ってこなかったからです。

あったとしても、ある程度自分だけの裁量でやれるくらいの仕事。
つまり、小さい枠で予算もほとんど無いようなものですから、スタッフを頼めるような余裕はありませんでした。

しかし、このところはずっとスタッフを入れての仕事をやっています。
その中で、否応無しに、成長することを求められており、結構私自身は一杯一杯になりながらも、絶対的に山の上に居なければいけない立場を加味しめながら、育てられるありがたさを感じています。

私は、実はこの「育ててもらう」と言うことが、どうにも嫌でした。

なんというか、自分よりも仕事の出来る人たちと仕事をするのが、面映いこともありましたが、なんとなく、自分が壊されそうで嫌だったんです。

それで、自分の裁量でなんとか出来る仕事しか選んでなかった感があります。
あるいは、わざわざそういう環境を求めなかった。それで自分の仕事や思考を守っていました。

しかし、演出家としての仕事をやろうと決心してからは、敢えてそういう現場を選んでいるような感じがします。あるいは、私よりも才能のあるスタッフをお願いするということも。

そこで起こることは、前述した「成長を求められること」で、それを受け入れるのには恐ろしく自分の足らないものを知ることになります。

それを一緒にやるスタッフたちは、本当に根気良く教えてくれます。学ばせてくれます。
ありがたいです。申し訳ないくらい。

先日も、2月にやる仕事で、どうしても解決できないことがあって、どうすればいいのかずっと悩んだ挙句、あるスタッフに相談しました。

実は、これはそのスタッフの専門分野で、本来ならば仕事としてお願いするべきことなんですが、予算が無くてお願いできませんでした。

しかし、どうしてもそのことをやらなければ公演の形が出来ません。
しかも、私にはその知識がありません。

知っていても問題ない事でもあるのに、想像は出来ても、確実な知識が無かったのです。

それで、友人でもあるスタッフに相談に乗ってもらったところ、わざわざ時間を作ってくれて、実際に使用するホールに行って、説明してくれるとのこと。
スケジュール的にに駄目だったのですが、あわや、仕事として入れてくれようとしてました。

ひええ~、待って、待って、それは悪いよ~!!!
と、言うことで、彼一人が付き合ってくれて、レクチャーを受けることになったのですが、謝礼をどうしようか話をしようとした時に、「レクチャーじゃお金取れないから良いよ」って・・・・。

青くなりました。
スタッフにただで教えてもらうなんてありえない。
私自身がいつも気をつけていることです。

私たちの仕事は、ほとんどが思考です。
口で簡単に話すことが出来る。

だからこそ、絶対に仕事にすべきだ、と、私自身がモットーにしています。

なのに・・・、相談はいくらでも乗りますって、彼は自分の時間を私にくれました。

う~、感動。
こうやって、私は本当に育てられています。
しかも、みんなすごく真剣。
こちらが一個疑問を投げると、彼らは百個答えを探す方法を投げてくれる。
ありがたいです、本当に。

これをすべて受け取って、演出家として知らなきゃいけないことを、今は吸収していくのみです。

明日で鹿児島での仕事はいったん終わり。
東京に戻って、また次の仕事の準備をします。
良い舞台を創りたいです。
私には、私を育てたいと思ってくれているスタッフたちの想いがかかっています。

頑張ります。
これも演出家の仕事だと思うので。神様が与えてくださった道は、いつでも暖かく見守られています。感謝ばかりです。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-13 22:19 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

演出家としての気構え

さて、お正月気分はとっくに無くなり、仕事が始まってきました。

年始の記事にも書きましたように、今年の私は演出家。

明日から新しい団体とのお稽古が始まります。
今週に入って色々とそのための準備をしていますが、昨日舞台監督さん、舞台美術家さんと打ち合わせをしました。

今までの私は、トレーナー稼業をメインにおいていましたから、演出家として仕事を受けるのは稀で、引き受けても、自分の裁量でやれる範囲の仕事でありましたし、そういう仕事しか来ませんでした。

ので、どこか曖昧に現実を認識しないまま、舞台を創ることに専念できてた感がありますが、今回ははっきりと演出家として仕事を引き受けましたから、なんだか見えるものが違います。

加えて、ある程度の予算がある団体との仕事ですから、当然、スタッフもフルコースになり、予算や時間との戦いも始まってきます。

こういった仕事をやるに当たり、神様が私に与えてくださっている能力の一つに、己の足らないものを知るってことがあります。

基本的に、苦手なものや、知らないもの、出来ないものが、舞台を創るにおいて、どういう弊害を起こすかがわかるのです。
これは演助をやっててもそう。

なので、これを補ってもらうべく、良いスタッフとのかかわりを求めます。
性格的なこと、仕事的なこと、私との相性。

これだけは見極める能力がありそう。良かった・・・・(^^;)

しかし、そうやってお願いしたスタッフだけに、打ち合わせとなるときっつ~い・・・(;;)

物言いではありません。
人間はとても良い人たち。そうではなくて、仕事に対する姿勢がシビア。

甘さなど微塵もありません。
まあ、そういう人たちの方が好きなのですが、はっきりと出来ること、出来ないこと。
それをどう考えてればいいのか、どういう方法があるのか、投げっぱなしにもせず、しかし、考えを押し付けず、ものすごく上手にことを進めてくれます。

私は、この人たちの間にあり、まるで授業を受ける生徒みたいに従順に知らないことを教えてもらいながら、制作やキャストたちとの間に立って、ことを進めていきます。

何せ未熟者ですから、最初からわかってれば自分が苦労しなくてもすむことも沢山。
しかし、それを学ぶためにも、今回引き受けている仕事です。

そして、何より大切なことを教えてもらっています。
演出家としての気構え。

舞台を創るだけの才能は誰しも持っているだろうと思います。

中には、何も知らずに演出だけさせてくれ!と言う人も居ます。予算のことなど聞きたくないって。

でも、私は、現実を知らずして理想は創れないと何故か思うのです。

何故って、予算や時間と言うのは必ず存在し、どんなに予算があっても、なくても、時間があっても、なくても、限度がないって事はないのです。

何兆円予算が合っても、たとえ10万でも、予算の限度は同じです。
人間は金があればあるほど、使うのですから。
時間もそう。

だったら、その枠の中でMAXに出来ることをやりたいのが私の指針です。

そのMAXの中身を端っこまで知りたいのも私の常。

たった一枚の舞台図面を書くのに、何がどこまで枝葉が広がっていて、そのために、どれだけ
図面が細分化されて、コピーを何枚とって、どれくらいの人が関わっているのか、その頂点に私がいると言う山の形を知ってこそ、演出家の居どこがわかる。予算や時間の大切さがわかる。
出来ることがわかるってわけなんです。

何より、このすべてがお客様のためです。

一人客席に座ってもらうために、どれだけの人がかかわり、エネルギーが注がれていくか。

このところ現実を突きつけられていて、ちょっと飽和状態。
でも、頑張ります。

私はこういう演出家になりたいのです。(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-10 13:27 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

育てる観客になること

お正月も開けましたね。
楽しいお休み過ごされましたか?

さてさて、今年は春まで演出家仕事にせいを出します。
ここ何年かのスタッフ生活の中でも、珍しく忙しい。しかも、すべてが演出の仕事というのは初めてです。励みたいですね。

このところ、自主公演という形態が増えてきました。

これは歌い手だったり、指揮者だったり、演出家だったり、団体の主になる方のジャンルはさまざま。
しかし、基本的には依頼を受けてやる仕事では成し遂げられないことをやるという名目は同じだと思われます。

例えば、やりたい演目、好きな歌い手との競演、普段タブーとされている演出への挑戦等等・・・。

いずれにしても、自主公演というのは「資金も制作作業も自分でやるからには、好きなことさせろ!」という要素が多分に含まれています。

なんかすごいこと書いてるようですが、私自身も自主公演を打っている人間ですから、こういう要素を含んでいます。

こういった公演の弊害は、自分でお金を出していること。

つまり、自分のお金なんだから好きなことさせてもらう、言わせてもらうってことです。

正論です。
雇われているわけじゃない。好きなことを自分のお金でやればいいと、私も思います。

しかし、そこに最大の問題である「思い入れ」と言うものが入ってきた時点で、私は自主公演に客を入れるのをやめるべきだと思っています。

もちろん、公演と言う形態を取るのですから、お客様がいなければ成り立たないだろうと言うことはわかっています。

でしたらば、少なくともチケット代を無料にすべきです。

なぜならば、「思い入れ」で作ったものは、あくまで「自分のために」作っているものであり、会場に来てくださっているお客様のためには作ってないからです。「実験劇場」などと銘打っているものなど、まさに・・・。

そんな公演にチケット代を払ってきてもらうのもおこがましい。
第一、会場に来るのだって交通費と時間はかかっています。

レチターレは教育的見地を持った自主公演ですから、チケット代を売ってきてもらうのも教育と言うことでチケットを出していますが、参加者が売れないチケット代は設定しません。
だから、映画を見るのと同じくらい。それでもチケット収益を考えてしまいます。おこがましいですね。

ところが、多くの自主制作者にはこういうことは考えられないみたいで、私費を投じて公演をするくせに、利益をチケット代から得ようとします。

チケット代を設定するのならば、あくまでもお客に添った作品を作るべきです。
そういう経験をするために私費を投じるのならば、投資として成り立ちます。

日本のお客の方も、こういった公演に関して「エールを送る」的に寛容になる悪い癖があります。
「情熱」とか「根性」とかが好きな国民ですからね。

しかし、皆さん、ご自分でチケットを買う時に、よくよく制作団体や、そこに集う歌い手や、形態などを吟味してチケットをお求め下さい。

2,3千円ならいざ知らず(それでも私には高い)、5千円以上のお金を人の趣味に出します?
観るほうも賢くお金を使うべきです。そういう観客もまた舞台を育てますから。

いきなり年明けの記事がこれかい!って感じですが、この仕事をしていると、温度差を感じることもしばしばなので、しかも、今、まさに感じている最中なので、助言として。そして、己への警告として。

単なる愚痴と思うなかれ、お客としての成長も必要なオペラ界なのです。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-04 15:02 | 演出家のつぶやき | Comments(4)

明けましておめでとうございます!

今年が始まりました!
皆様、楽しいお正月過ごされていますか?

昨年は「オペラのブログ」をご愛読いただき感謝しています。
中々更新がままならず、あるのかないのかわからないブログになりつつありますが、細々と続けていきますので、今年もご愛顧を。

さて、2008年の私の仕事はまず4月までに3つの演出本番を終えること。

2月22日、中村橋にある富士見中学校にて「フィガロの結婚」の鑑賞演奏会。
3月15,16日と鹿児島オペラ協会公演「メリー・ウイドウ」
4月19,20日グランベーネ公演「トスカ」

どれも私にとっては一手間かかるものばかり。
フィガロは中学生に向けての発信ですから、訳詩をし、台本を創りました。

「メリーウイドウ」は初めて手がけるオペレッタ。
しかも、鹿児島オペラ協会は伝統ある団体で、すでに30年以上公演を続けています。
栗山昌良先生に始まって、私の師匠もかかわっている団体。やっといただけた感じがあります。
団体の胸をお借りしての仕事となりますが、初めてのオペレッタでもありますし楽しい舞台が出来たらいいと思っています。

「トスカ」は私が29の時、自分でプロデュースして演出した作品です。
それ以来触る機会がなかったのですが、今回、偶然いただけることになりました。
作品にも思い入れはあるのですが、何より、今回ご一緒する歌い手さんたちが一流です。
やはり、その胸をお借りしての仕事ですが、満を持してかかるつもりです。

それ以降はまだ未定ではありますが、朗読会やレチターレも変わらず発信していきたいと思っていますから、やっぱりいっぱいいっぱいになりそう。

でも、いつでもスタッフや友人に守られて頑張れています。
今年も感謝の気持ちを忘れずにいたいですね。

私の心に響くもの、創っていく舞台、もっともっと記事も書きたいと思います。
何より、今年もトレーナーとしての器を大きくし、もっと多くのクライアントさんと向き合いたいです。こればっかりは神様のみぞ知る・・・ですが(^^)

今年もうさぎ屋をどうぞご贔屓に。
楽しいお正月をお過ごしください!

2008年元旦  オペラトレーナー・演出家 前川 久仁子
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-01-01 00:53 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)