音を創る

さて、トップの記事でもお知らせしましたが、8月6日に行う「音演出」のために、先週から本読みを始めました。

今回の目的は「音言葉」を創ること。

そのために、芝居的な要素の本読みではなく、あえて、きちんとイタリア語を発音することもやっています。

私はイタリア語の専門家ではありませんから、会話として正しい発音かどうか分かりませんが、少なくとも、アクセントや法則の中での読み方はわかっているつもりではあるので、そこもクリアにしながら音を模索しています。

イタリア語は、基本、母音で成立している原語。

この音の流れを創ることが大切だと思っています。

そこで、歌い手たちには、出来るだけ、長母音、短母音の長さを意識してもらっています。

特に語尾の短母音は、今回試していることです。

例えば、「siete」と言う単語があります。

「シエーテ」と読みます。

しかし、これは日本語的な読み方で、本来ならば、「シィエーテェ」という風に、「si」と言う部分の「i」と最後の「te」と言う「e」の部分にまで母音は存在しています。

こう言った音として捕らえにくい母音も、きちんと発音した上で、単語の中の音の流れを感じていき、単語を構築しようと言うわけです。

先週は顔合わせと、楽譜の内容的なことから話をしていきました。

昨日は、それを踏まえたうえで、実際に声に出して、今書いた単語の構築を重点的にしています。

何故、こんなことをするかと言うと、

これだけの音を意識していくことで、喋ることに集中するのと、母音での発声が一番良い響きを創るために、そこに感情を発散させることが出来るという持論があり、そのためには母音の長さや役割を知ってほしいと言うことがあるからです。

これが、感じ始められてから、音楽を創っていきたい。

それは、歌い手の中で感じられてきた言葉の音に、作曲家がどういう意図で、音楽を与えているかと言うのを理解して、やっと解釈が出来るのじゃないかと思っているからです。

例えば、「椿姫」のジェルモンが、2幕でヴィオレッタから書類を渡された時に「ciel!」と言う言葉の音を「d」の音で要求されているのは、どんな解釈をすればいいのか。

そういったことを探りながら創っていこうと思っています。

どんなものが出来上がるのかわかりませんが、どうか、会場に足を運んでいただき、私たちの創った音を聴いてみて下さい。

これからやく一月。

私も歌い手も、まだまだ初期段階。

これからどんな風に音を創っていくのか、どきどきです(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-29 15:08 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

シアター・クラシックス公演「想像の絆」

昨日、知り合いの役者さんから御案内いただき、芝居を観にいきました。

暇な時は芝居を観るべし。

先月から色んな種類の芝居を観ていますが、昨日は本当に質の良い、丁寧な公演でした。

シアター・クラシックスは演出家で翻訳家の三田地 里穂さんという方が主催なさっている団体。

HP等探し出せずに、詳しいことはわかりませんが、業界ではかなり定評のある方みたいで、ご自身はNYで勉強なさって、日本に戻ってきてからは様々な作品を翻訳して上演し、紹介しています。

昨日観た「想像の絆」と言う作品は、キャサリン・バターフィールドと言う女流作家が自身の体験を元に書いた作品。

NYで成功した女流作家が仕事で故郷にやってくる。そこで高校時代の恋人と再会。
彼は一つしたの学年だった女性と結婚。その妻は自分と同じ名前で、しかも末期癌に侵されている。
彼らと関わるうちに、彼女が決して観なかった内面を見つめ始めていくという物語。

ストーリーはその作家のモノローグを中心に、関わる人たちとのシーンが絡んで行きます。

2時間半と言う長いお芝居でしたが、面白い脚本でした。

三田地さんの演出は、特に目で見る効果があるというわけでもなく、衣装も含めて前編モノクロの世界。

古い映画を観ているような感じがします。

それにも好感を持ちましたが、何よりもどの役者さんも丁寧に台詞を扱っており、すべての訳の人たちの言葉が全部聞こえてきたことに感動しました。

役者さんたちは、ワークショップ等で集まってきた方々らしく、力量は様々でした。
長い台詞も多かったですから、途中詰まってしまったりも・・・・。

しかし、それでも耳に残るきちんとした音、その台詞を伝えるというエネルギーが生んだ自然の動き。

逆に、それ以外には余計なものは一切無い芝居でしたから、もともとの台本の世界観を失ってなかったと思います。

これは本当に素晴らしいことです。

長い芝居ですし、ほとんどがモノローグですから、何かを変えていかないと客は飽きるかもしれないって、演出家ならば危惧します。

しかし、敢えて余計なことはしないで、きちんと語らせる。
これが一番大切なことですよね。

終わってから、御案内いただいた役者さんに三田地さんを御紹介していただいたんですが、小柄で地味な感じの方。穏やかに小さな声で話されますが、役者さん曰く、ものすごいエネルギーを持っている方なんですって。

紹介したい作品が沢山あって、役者さえ揃えば、公演を打つということを一人で頑張ってらっしゃる方です。

志が良い舞台を創る見本みたいなものですよね。

その前の日の浅丘ルリ子様といい、やっぱり大切なのは伝えることなんですよね。

それは自分をアピールすることじゃない、ただの素材となって台詞を伝えることなんですよ。

そのために役者は力量を持たないといけない。

歌い手も同じことです。
やるべきことは、作曲家の作品をどうやって伝えるかと言うこと。

ものすごく良い公演を観たな~と、本当に心が大満足でした!

さて、今日から8月公演のための準備に入ります。

詳細はまたアップしますが、その公演で、私は3人の歌い手と「音言葉」を創ろうと思っています。私も含めて、どれだけ素材として作品に関われるのか・・・。

迷いはあっても、やってみるべきですね!

「想像の絆」は確か明日までやっています。
シアター代官山 チケット5000円。

行ってみる価値大有りですよ!

シアター・クラシックス 03-5720-1174 tcrep07@yahoo.co.jp
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-21 13:17 | 観劇日誌 | Comments(0)

天王洲銀河劇場「ハロルドとモード」

本日は、浅丘ルリ子様を堪能してまいりました!

「ハロルドとモード」と言うお芝居で、80歳の老女と19歳の青年が恋をすると言う話。

こういう類の話は、あんまり興味を惹かれないのですが、実は以前から生の浅丘ルリ子様を観たく、勢いチケット購入。照明が私の好きな沢田祐二さんだったし・・・・(^^)

キャストもTVの宣伝の仕方も、いかにも商業演劇という感じでしたが、浅丘ルリ子様はすごいっ!

この方は本当に素晴らしいです。

「女優」ってこういう人のこと言うのかしら。
うなりっぱなしでした。

まず、台詞が本当に素晴らしい。

何が素晴らしいって、この人の言葉はどれもきちんと聞こえてきます。

しかし、感情過多に喋っているわけでもなく、むしろ棒読みに近いイントネーションだったりするのですが、何故か、すべての台詞がはっきりわかって感動する。

これってすごいですよ。

普通、これくらいのキャリアの人になると、その人の特有の芸と言うものがアピールされて、ちょっとくどいと感じる時もあるけれど、この人にはむしろ透明感とか素材の良さばかりを感じる。

綺麗な響きの声で、しっかりと初めから最後まで台詞を声にすることで、脚本家の言葉が全部伝わる。

本来ある「声の伝達」方法がしっかりしているということです。

だからこそ、脚本が生きる。

「伝える」ってこういうことだとわかります。

何よりも、何よりも、姿が綺麗!

この役どころの80歳とは言わないまでも、やはり60近いのじゃないでしょうか。
ひょっとして、60歳も越えてるのかな?

はっきりしたお年はわかりませんが、立ち姿がすごく綺麗。

昔からの独特な顔立ちも変わられていませんが、なんか、もう現実の人じゃないみたい。

でも、舞台に生きるのならば、それくらいの非現実感が見えなくちゃ。

若い恋人に誕生日祝いをしてもらう場面で、床に座る場面があるのですが、その恋人に手を引かれて座る時、一瞬背中を客席に見せながら座るんですが、それがぞくっとするほど色っぽいです。

衣装は普通のシャツブラウスなので、裸を観ているわけでもないのに、その背中にどきっとする。

優雅と言うか、神秘と言うか・・・。

そんな風に座る人いませんよ~(^^;)

一度彼女のドキュメンタリーを見たことがあって、彼女は家族の生活を一切自分が養ってきたのだという話をしていました。

日常生活なんて、感じさせない人でありましたから、その彼女が淡々とそういう話をしているのを、不思議に観ていましたが、その時も、今日の舞台も、彼女の中に鋼のような強さを感じます。

とがったナイフみたい。

刃を決して出すわけじゃないのに、怖い感じがする。

一生を舞台で生ききる感じがします。

余計なものを一切含まない、彼女の演技に脱帽。

それだけでもお金を出した価値があると、初めて思えた女優さんでした。

ああ、感動・・・・。
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-20 00:21 | 観劇日誌 | Comments(0)

間を使う

久しぶりにトレーナーレッスンをしています。

このところ演出家稼業に精をだしていましたが、暇になってくるとレッスンを入れやすくなってくるせいもあり、毎週何かと楽譜のことを扱う機会が増えて、やはり嬉しい(^^)

演出家は演出家でやりたい仕事ではありますが、一生をかけて出来るのはトレーナーだと思っています。続けられる幸せですね。

さて、私のところで出来るレッスンは、役を創ると言うこともそうですが、やはり重きは「表現する方法を見つけること」であります。

そのためにクライアントさんに合わせて色々と話し合いながら進めていくわけですが、どういうことを表現しようと、結果的に行き着くところは「言葉」をどう扱うかと言う問題に突き当たります。

人間は話をしているときが一番エネルギーがある。
自分がその時どんな気持ちだったか、それをどうやって伝えたいか、その想いが強ければ強いほど、人は雄弁になり、それにつれて表情や体の動きが付いてきます。

その自然な状態がいつもあるべきだと思ってる。

だから、しゃべるということに関しては、それぞれのイメージもあるし、実際に言葉があるわけですから、その感情を作ればいい。

でも、本当に大切なのは、その感情が動く時だと思うんですよね。

つまり、台詞と台詞の「間」。

この「間」と言うものをちゃんと扱えるようになってきたら、一流です。

オペラの場合は、そこに音楽が存在する。
いわゆる「間奏」というもの。

例え、それが休符で合っても、そこにはテンポが存在しています。

つまり、故意的に時を刻まれている。

しかし、それは作曲家が要求した「間」であり、感情が動いていくことには代わりがありません。

じゃあ、芝居の「間」はどうなのか。
オペラのように間奏があるわけではありません。

その分、役者の感性に任されています。

オペラと違うのは、役者が黙っている間、そこにあるのは沈黙。
しかし、その沈黙の時間によって、お客様はその役の感情を想像する。


先月観にいったドイツ人俳優の一人芝居。
その俳優さんがおっしゃってました。

「それぞれの役には特有のリズム、特有の声、特有の体、特有の想像力がある」

これってすごく名言だと思います。

特に「特有のリズム」ってところ。

つまり、音楽的だということ。

私は常々口から出るものはすべて「音」だと思っていて、芝居の台詞であろうが、オペラの音楽であろうが、それを扱うのはすべて「音」であり、その構成をしているものは「リズム」だと思うのです。

その「リズム」は呼吸だったり、鼓動だったり。

身体が生きている限り、血がめぐっている限り、私たちはテンポの中に存在しています。

「間」というものは、実は感情が一番動いている時間。

それをどれだけ感じ、うまく扱っていくかが表現と言うものかもしれませんね。

「良い言葉を使える」のと同時に「良い間」を使える。

鶏と卵ですが、気を使うべきところは、人の気づかないところであると思っています。

「良い間」というものは、客席に期待を与える時間でもあります。

ドキドキするのは、役者が黙っている時。
フェルマータが長い時。

その醍醐味と快感を演者がもっと知ること。

さて、今年は無いと思っていましたが、新しいクライアントさんもいらっしゃいました。
また、改めて人と楽譜に向き合う時間が始まります。

良き出会いと、時間に感謝して。(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-15 13:24 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

六月大歌舞伎

昨日久しぶりに歌舞伎座に行ってきました。
e0022232_12233631.jpg


前回行ったのは蜷川幸雄の「十二夜」を観にいった時だから、2,3年経っちゃったかも・・・・。

こんなに行ってないのに、歌舞伎好き。

TVとかでは出来るだけ見るようにしてるのですが、別段贔屓の役者がいるとか、好きな演目があるわけでもないのに、歌舞伎は好き。

多分、歌舞伎座が好きなんだと思います。

雰囲気もそうですが、中入ると一台テーマパーク。

座席の格差や出店、集まる人々、建物の古さやあちこちにある和装の面白さ。

なんだか足を運ぶこと自体にテンションがあがる。

もっと頻繁に行かなくちゃと思いながら、いつでも演目がかかっていて、いつでもいける気安さが結構足を遠のかせてもいる。こんなに日常にある劇場ってここだけだと思います。

本当に日本に唯一の芝居小屋。幟も誇らしいですね(^^)
e0022232_12241242.jpg


今月は松本幸四郎、市川染五郎の親子と吉右衛門、片岡仁左衛門、中村富十郎等々、豪華絢爛。
e0022232_1335156.jpg


役者で選べるというのも、歌舞伎の楽しみですよね~。
演目に詳しくない私としてはここが大切。

しかも、チケット代も幕見から考えれば千円弱から見れる席もあり、ほんっとリーズナブル。

今回は16:30の夜公演を2500円の席で。
3階の丁度真ん中辺り。後ろから4番目くらいです。
それでもちゃんと舞台が見えるあたり、歌舞伎座の設計にはいつも驚かされます。
e0022232_12271248.jpg

これでも芝居はちゃんと楽しめる距離感なんです。

演目は四つ。
まずは古典もの
「義経千本桜~すし屋~」
染五郎、吉右衛門に芝雀をメインに脇を名優が固めます。

都を落ちた平の維盛があるすし屋にかくまわれています。
ある日、そこの放蕩息子が金を無心にやってきます。まんまと母親を騙して金を取り上げたのですが、店を出ようとしたところに父親が帰ってくるところと遭遇。
やむなく金をすし桶に隠して逃げます。
父親は父親で、背中に隠して生首を持って帰ってきました。
途中で死人に出会い、かくまっていた維盛の代わりにして都に差しだし、維盛を逃がそうという計画でした。
ところが、この生首を息子が間違えて持って帰ってしまいます。

最終的には、息子が維盛を助けた変わりに死ぬことになるのですが、こういった芝居の最中、半分は台詞、半分はシテ方と言う、語り部たちによってナレーションみたいに謡われていきます。

このシテ方は舞台の上下にあるそれ専用の建物の中におり、時々表に出ています。

二番目にやった演目、「身替座禅」と言う演目の時は、舞台の上手とセンター奥に団を組み、ここにずら~っとシテ方が並んで演奏していました。

きっとTVの新春番組とかでも良くある光景ですよね。

今回はこのシテ方の演奏も堪能しました~。
一人、すごく声の良い謡い手さんがいて、なんか引き込まれた。

この謡いの種類は、演目によって分けられるよう。
「長唄」「竹本」「常盤津」「清元」と四つの基本的な音を使うのだそうです。
それぞれ、楽譜みたいなものをおいてある台があるのですが、その形も分けられています。

音の違いは正直分からないのですが、言ってしまえば、オーケストラと同じですから、すごい効果。声もよくなきゃ語れませんね。

それから「下座音楽」
これは伴奏と擬音。
例えば、足音とか風とか波とかいわゆる「鳴り物」と呼ばれるものを、色んな道具を使ってあらわす人たち。

特に足音は上手の脇で、実際に板を木で叩いて役者の足とあわせます。
これが見事!

こういう楽しみが随所にあるのが歌舞伎。

なんていうんでしょうね。
人の手がかかっているんですよね。全部。

例えば、最初の演目で大転換があります。

維盛を追ってきた役人が来るから、掃除しろとの沙汰がすし屋に下る。

そうすると、役者が芝居をしている間に、黒衣(くろごと読みます)がいきなり出てきて、じょうしき(ござのこと)をざ~っと袖に引いて帰ります。

当然のことながら、見えてます。
歌舞儀は基本、照明操作はありません。

業界用語で言う、ピーカン(すごい明るいこと)。

ですから、そこに出てくる黒衣も消し幕(黒い幕でいらないものを隠して袖に連れて行く)も見えて当然。黒いから見えてないものなんだ、と言う原理があり、それをあからさまにしています。

そういうおおらかさも大好き。

「後見(こうけん)」という役どころがありますが、この「後見」さんも、羽織袴を来て、普通に舞台上に出てきます。

そして、役者の着物を脱がせたり、小道具をセットしたり、いつも中腰か膝を付いた状態で、役者の傍に、すすすす~っと滑ってきては、仕事をしてまた袖や台の傍でじっとしてる。

今回はこの後見の仕事も堪能しました~。

ニ演目目の「身替座禅」は、浮気相手に会いに行きたい殿様が、女房を騙すために、お堂で座禅を組むのを承諾させ、太郎冠者に頼んで身替りをしてもらう。

ところが様子を見に来た女房に太郎冠者がばれてしまい、女房が今度は身替りになって殿様の帰ってくるのを待っているという狂言。

演じた仁左衛門と段四郎、錦之介が見事でしたが、ここでの後見が本当にすんごい仕事ぶりでした。

身替りになるのに、殿様の着物を羽織るのですが、これを太郎冠者から女房に、女房から殿様にと、渡っていくのに、一々扱いやすいように畳みなおします。

しかし、傍では芝居が続いており、時間にしたら30秒くらい。

あっという間に綺麗にたたまれて、撮りやすい位置におかれます。ひえ~、すごい。

他にも、殿様が浮気相手に着せてもらった小袖を脱がせて片袖にするのに、仁左衛門の動きに合わせて中腰で滑りながらの作業。

思わず芝居を忘れました。神業・・・・(@@)

しかし、これには役者の息もあるのだと思います。

ここまで、ぴったりと添って仕事が出来るのは、どれくらい人間的信用があるのでしょうか。
それが本当に舞台前面にある歌舞伎の世界。

シテ方のそれぞれの合わせ方、鳴り物の合わせ方、黒衣の舞台の居方、後見の仕事の技。

歌舞伎が好きなのは、これが全部感じられて、やっぱり舞台って生ものだと信じられるから。

しかし、これが新作となると、ちょっと興ざめ。

今回も一演目、新作歌舞伎が入っていました。

これはちゃんと作者と演出家がおり、舞台美術も照明も名前が入ります。

歌舞伎の公演は、基本的に客電を落としません。

いつでも、客が出入りし、解説書など読むため。客は勝手に話したり、トイレに行ったりします。
これも好きなところ。

しかし、新作歌舞伎は照明効果が入るために、客電を落とします。

現代の芝居の感覚で観る。

今回は「生きている小平次」と言う新作。
松本幸四郎、市川染五郎、福助と言う面白どころ。

話の内容は、女房と恋仲になった友人を殺して、その亡霊に脅かされるという怪談。

これはこれで悪くないのですが、現代芝居ならば歌舞伎座で観なくても良いと思うので、その前の狂言が良かっただけに、私としてはちょっと興ざめ。

でも、これも歌舞伎の流れを楽しむという意味ではもちろん楽しめるんですよ。役者はうまいですしね(^^)

最後の演目は「三人形(みつにんぎょう)」と言う舞踊劇。
奴、若衆、傾城という三人で踊ります。ちなみにこれの音は「常盤津」ふ~、色々と覚えるのは難しいですね~(^^;)

こちらはとにかく踊りの妙。

そして、衣装。

歌舞伎の最大の楽しみは衣装です。

私は、多分、相当影響を受けています。
特に赤。

これは幕や緋毛せん(赤い絨毯みたいなもの)に始まって、襦袢、半襟、内掛けの裏地と、様々に赤が使われていて、これが本当に綺麗。

他の色目も見事。

オレンジベースの内掛けに赤い裏地、紫に目の覚めるような黄緑、かと思えば、茶の着流しに黒いチェックの裏地と、夢の様に綺麗で楽しい着物のオンパレードです。

当然のことながら、役者の着方も自然で、衣装と共に動きも見せる、みたいなところもあるので、ため息が出ること何十回・・・・は~、綺麗です~(=^^=)

そして、そして・・・・・

今回、なんと、となりのおじさんが「大向こう」だったこと。

これは、声をかける人です。

歌舞伎に付き物の掛け声。
「ほうらい屋!」とか「おもだか屋!」とか、TVとかでも良く声が入っていますよね。

由来はしりませんが、これが結構テンションを上げる。

よほどのツウじゃ無い限り、これは出来ません。

いや~、普通のおじさんだったんですが、これが有名な「大向こう」か~と感激。

一緒に声をかけたかったけど、さすがに勇気が・・・・・。

今回は私の経験値が上がっていたせいか、ほんっとに色々楽しみました。

もちろん、幕間の休憩時間も、たい焼き食べたり、売店めぐりやったり・・・・。

一人でも十分こういうことが出来るのが歌舞伎座。

役者の妙を今更語っても意味無いことですが、彼らは本当に素晴らしい。

きっと器用、不器用あると思いますが、屋号を背負って、舞台に上がり続ける努力は並々ならないと思います。

これから年齢的にも、もっと楽しめそう。

来月も行こうと硬く心に誓いつつ、にやにやと歌舞伎座を後にした夜でした(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-10 13:40 | 観劇日誌 | Comments(0)

日本語と言うもの

先日、師匠と飲み会をやった際に、やはり話題になるのは、舞台のこと。

演出家としての話であったり、関わるスタッフや歌い手の話に盛り上がりますが、その中で最大に私のテンションが上がったのが、言葉の音の話。

私の持論として、このブログでも再三書いているように、歌い手であれ、役者であれ、表現と言うものは、どれだけ言葉を扱えるかにかかっていると言う事があります。

身体表現も、表情も、何をどういうイメージで喋っているかで決まってくる。

うまいとか下手とかいうのならば、それは台詞の音をどれだけ持っているかだと思っています。

当然、その台詞の音を作るために、行間と言うものが生まれるわけで、うまい役者さんは、この行間をも、台詞の音を効果的にするために、非常にうまく扱います。歌い手も然り。

その話をしていたときに、色んな国の言語の話や歌い手の話になり、日本のTVドラマの俳優と言われている人たちの台詞が好きじゃないこと、逆に韓国の俳優さんたちの台詞は、どんな若い人でも、ちゃんと喋るという話をしていました。

すると、師匠がすごく面白いことおっしゃったのです。

「日本語は言葉が語りすぎる。」

例えば、「雨」と言う言葉一つをとっても、「五月雨」「春雨」「時雨」等々・・・こんなにも雨の量や季節感を語る言葉があります。

そのどれかを選べば、特に表情をつけて喋らなくても、情景が語られると言うわけ。

ところが、外国語にはそれがない。

雨の量が多いか、少ないかを語るだけで、後は行動であらわさなければならない。

「春雨だから濡れていこう」と肩をだけば良いってもんでもなく、

「春だから温かいし、雨も少ないから、濡れていこうよ」とちゃんと話して行動を起こさないといけません。

なるほどね~。
これには納得。

そういえば、「何をかいわんや」なんて、日本語しかないかもな~。

だからこそ、洋物を扱っている私たちはちゃんと喋る必要がありますね。

師匠と飲むのは(飲んでいるのは師匠ばかりなり・・・ですが)、いろんな意味で嬉しいことが沢山です。

次回私が扱う公演は、「音」を創ることがコンセプトです。

一緒にやってくれるのは女性ばかり、3人の歌い手たち。

どれだけ彼女たちの肉の言葉を音として表現できるかが勝負。

楽しみですね(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-05 12:58 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

Sizuoka春の芸術祭公演「エリザベス2世」

先週の土曜日、はるばる静岡までお芝居を観にいってきました。

これは静岡芸術劇場と言うホールを主体に活動している「SPAC((財)静岡県舞台芸術センター)」と言う制作団体が行った演劇祭です。
e0022232_14212479.jpg

e0022232_14213757.jpg


5/10~6/29まで、世界各国から招聘された俳優、演劇団体、舞踊団体などが作品を上演しており、かなり質の高い芸術祭だと言う感想を持ちました。

東京からも無料送迎バスが出ており、私はそれに乗って静岡まで観劇に行けたわけです。

さて、私の観た作品はトーマス・ベルンハルトという劇作家の作品で、「エリザベス2世」と言うお芝居。

設定はエリザベス2世がウイーンを訪問するある日。
武器の売買で巨万の富を築いた老人の邸宅に自称知り合いの人たちが押しかけてくる。
この家は、女王の行列の通り道であり、女王を一目見ようと人々が集まってきたのだ。
しかし、彼らはこの老人がみな「もっとも憎んでいる」人たち。
彼らはエリザベス2世を見下ろそうと必死でバルコニーを目指すが・・・。

本来はそれぞれの登場人物を多数で演じる普通の芝居の形態のようですが、今回はドイツの名優ゲルト・フォスが一人で演じ分けると言うもの。

戯曲を書いたベルンハルトはもう亡くなっていますが、遺言により、この作品を母国オーストリアで上演することを禁じていましたが、家族の了解を得て上演。フォスの代表作になっているようです。

静岡芸術劇場と言うホールは非常に良いホールでした。

舞台は床も袖も黒。
壁は土壁でやはりグレーのような黒のような色に石本来の質感がちゃんとあり、客席は海老茶のようなエンジのような赤。

客席と舞台の距離も丁度良く、芝居には本当に適しているように思いました。

舞台セットは、一人がけのソファ、小さなテーブル、そして柱時計。

それが、センターより、少し下手においてあり、そこに喪服で車椅子に乗って老人が現れます。

面白い台本だと思いました。
きっとドイツ語が分かればもっと面白かっただろうと思いますが、残念ながら、字幕に頼るしかありません。

しかもこの芝居は本来普通の多人数の芝居。

それを一人でやるわけで、しかも脚色もしていませんから、どういう風に演じるのか・・・やはり最初は声音を変えるとか、姿かたちを変えるとか、そういうことかと思ってました。

フォスは一冊のノートみたいなものを膝において、それを使いながら、いわゆるト書きを全部台詞として読んでいきます。

つまり、台詞であるところは声音を変えたり演じたりし、ト書きのところはナレーターのように読むというわけです。

例えば、老人が「お前は曇りだといったな」という時はちゃんと演じ、その答えを召使がするところは「リヒャルト、答える:はい、そうでございます。旦那さま」と本来ト書きであるところの「リヒャルト答える」も声に出してナレーターのように読むのです。

これは、形としては問題なく受け入れることが出来るのですが、如何せん、字幕が弊害でした。

字幕は本来、二行ずつくらいを出しますが、喋ってないところも先に出さざる終えないので、ト書きを喋る前に字幕で読むということになりますから、逆に芝居として読まれるとしらけてしまうのです。

しょうがないこととはいえ、ト書きの部分は字幕を入れないとか、その部分だけ1行で別に扱うとか、考えようがあったと思うのですが、それによってフォスの台詞を意識できなかったのは残念です。

ゲルト・フォスという人は1941年生まれですから、67歳。

丁度この役と同じような体の重さを感じていると思います。

名優と言われるだけあって、自然に言葉と体が役として動いてくる。何をするでもない存在感があります。

終演した後、質問コーナーみたいなのが30分ほどあって、色々と彼が答えている中で、やはりな、と思ったことが一つ。

役をどうやって作っていくかという質問の中で、
「それぞれの登場人物は、その役特有の声、リズム、体、想像力を持っており、そのある人物の持っている宇宙を探していくのが面白い。
自分のやっている役が一番美しくなる時は、役の後ろに自分がいて、イメージだけが表に出ているときだ」と答えていました。

これって、自分が無くなってるってことですよね。

あるべきものは、その登場人物の宇宙だけ。
自分と言う人間をなくしたときに、それは表に出てくる。

さもありなん。

その前の日に師匠と飲んだのですが、彼があるTVで大野和志さんという指揮者がザルツブルグでデビューしたドキュメントを観ていた時、やはり大野さんが同じ事を言っていたというのを聴いていたので、それを確認したような気持ちになりました。

大野さんは早くに日本でデビューして、一線で振っていましたが、ふと見なくなったな~と思ったらば、海外で活動なさっていました。

そこで、サヴァリッシュやアバドや一流の指揮者たちと出会うたび、彼らが自分と言う人間を無くして仕事をするのを目の当たりにし、気づき、今まで日本でやっていたことをすべて捨てなきゃ駄目なんだと理解して、歩みだしたのだそうです。

私も常々そう思っています。

自分じゃない。

ただ、そこにある作品と向かい合い、それを表現するだけ。

それが私たちを表現者とする方法であり、仕事です。

「エリザベス2世」に出てくる登場人物は、みんな老人宅のバルコニーで女王の行列をみたいだけで、自分がどれだけ老人と友情を育んでいるかをアピールします。

その嘘を老人は憎んでいる。

ただ一人、25年使えていたリヒャルトだけを老人は愛し、恐れています。

このリヒャルトはシェークスピアの「リチャード3世」がモデルなんだそうです。
「決して抗わない肯定の人」。私はシェークスピアを読んでないのですが、このリヒャルトの決まり文句は「もちろんです」。

しかし、老人は彼に対して自分が行ってきた行為により、彼が自分を殺すかもしれないといつも思って怯えています。
どんな時にも「もちろんです」と肯定される怖さですよね。

私の周りにも居ます。

誰の周りにも居るのかもしれません。

嘘をつくことと、ただ黙って受け入れることと、どちらが人間にとって良いのでしょうね。

海外の作品を時々観たくなるのは、やはり芝居にテーマがはっきりしているから。

日本は政治的に恐怖を感じない国ですから、作られる芝居も日常のことだったり、逆に非現実過ぎる。唯一テーマとして捕らえられるのは歴史のことを扱ったときだけだと感じます。

しかし、ドイツやロシア、イスラエルなど政治的にしんどいことが起こりすぎる国は、芝居のメッセージがやはりはっきりしていて観たくなります。
俳優さんにもそういう強さを感じますよね。日本の緩さとは全然違う感じ。惹かれます。

しばらく面白そうな演目があるので、もう一演目くらい行きたいと思ってます。

バス旅行も中々楽しいですよ。

皆さんもどうぞ、お試しあれ!(^^)
[PR]

by kuniko_maekawa | 2008-06-02 14:29 | 観劇日誌 | Comments(0)