学生と言うプロセス

先週、今週とS音楽大学のオペラ実習と言う授業をやりました。

昨年から、非常勤講師として勤めているのですが、基本的に立ち稽古が始まるのは9月から。

それまでは、他の講師の先生方が一手に学生たちの音楽を見てくださっています。

この大学では学部の3年生からオペラ実習があり、頑張る子は大学院まで同じ授業を取ることが可能。

と言う事は、人によっては、都合4年間を一緒に勉強することになります。

そう考えると、将来オペラ歌手になりたい学生に関しては、非常に良いプロセス。

私もそれを考えて、3年生、4年生、大学院生と、授業の方向性や、やり方を変えています。

例えば、3年生は初めてオペラをやる人ばかりですから、まずはオペラと言うものがどういうものか、そして必要なものは何か等、初級コース。
ある意味手取り足取りですが、大切なのはオペラを好きになってほしいということ。

例え、3年生だけで授業を終わっても、音楽の楽しさやオペラの楽しさは伝えて欲しい。
出来るだけ、そういう風に授業を進めています。

4年生で授業を取る人は、少なからずオペラに興味があり、出来ればオペラ歌手になりたいと思っている学生。

歌唱力があれば、大学院を受けたいと思っているでしょうし、卒業してもオペラ団体の研究生を受けたいと思ってたり、逆に、卒業する学年だからこそ、最後にちゃんとやっておきたいなど、やはり進路によって色々ですが、3年生の時よりは、先に進めることを考えます。

大学院は、大学を卒業して尚、勉強を続けたいと思って残っているのですから、これは有無を言わさず「大人の授業」をします。

つまり、大学院を出たら、すぐにでも現場に立てるように、オペラと言うものとちゃんと向き合うことをやらせたいと思っているのです。

学部と違って、院の場合は年齢も様々ですから、大人も居れば子供もいるという変な混在。

いずれにしても二十歳過ぎれば皆大人です。

自分で考え、勉強し、研究し、オペラ歌手に必要なことを具体的に学べるようにしていきたいと思っています。

これだけのことを考えながらの授業は、なかなか体力知力を失いますが、やはり彼らは「学ぶ人」達。

この時間を大切にしてもらいたいと思っています。

しかし、うまく行かないのはやはり「親の心、子知らず」。

私ももちろん経験していますが、学生時代と言うのは特別な時間。

親や学校の庇護の下、青春を謳歌し、少々羽目を外しても「若いときは何でもやれ」的に許してもらえる。

どんなにオペラ歌手になりたいと夢を持っていても、他に誘惑や、情熱や、やりたいことは沢山。

ですから、それだけを考えて授業に向かう私達教諭陣とは、温度差がもちろんあります。

この7月の授業も、それぞれ与えられた場面に対しての、勉強がまだまだ足りません。

大学院生であっても、知らないことへの興味が薄い感じがします。

けれど、彼らにしてみれば、一生懸命やった感もあるのです。

それくらい、未知の部分が沢山ある。

もっともっとアンテナを張って、いろんなことに興味を持って欲しいと思いますが、本当に大切なのは、これらがすべて、将来へのプロセスだと気づくこと。

これも、中々難しいとは思います。

私も、この歳にして、ようやくわかったことでもありますから。

夢がまだ夢である彼らに、「プロセス」と言う言葉を説明するのも難しい(^^;)

極めれば何でもそうでしょうが、この世界に終わりはありません。

一生勉強。死ぬまで勉強。

そのための「学生」と言うプロセスを、彼らが出来るだけ大切に生きていくことを願うばかり。

もう学校も夏休みでしょうから、今頃田舎に帰る学生も居るでしょうね。

9月からの授業に期待して。

頑張れよ~(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2008-07-19 20:57 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

セッコの扱い方

毎日暑い日が続いていますが、皆様いかがお過ごしですか?

さて、8月6日の「オルフェオとエウリディーチェ」の公演のために、毎土日をかけて稽古を進めています。

先週から本読みを終えて、音楽稽古に入りました。

今回は指揮者を入れずに、私とピアニストと歌い手たちで、音楽も作って行きます。

「音楽を作って行く」

こう書くと、音楽家でない私にはおこがましい感じではありますが、「音演出」と言うのは、楽譜を台本に変えていく作業が主だと思っているので、出来るだけ自分で楽譜を扱いたく、無理は承知で頑張っています。

さて、グルックは1700年代の作曲家。
モーツアルトやロッシーニとかと同じ年代の作曲家です。

なので、楽曲の構成は、セッコとアンサンブルとアリア。

今回特に丁寧に作業を進めているのは、このセッコの部分。

セッコと言うのは、アンサンブルやアリアの間に入るもので、ミュージカルで言えば、台詞の部分をあらわしています。

ですから、単音で言葉のアクセントや文章の流れにそってメロディがつけられています。

メロディがあるのですから、当然、そこには音符が存在しています。

そして、音符があると言うことは、リズムもあるということ。
つまり、音符の長さが存在していると言うことです。

言葉で書くと中々説明しにくいのですが、普通の楽譜のようになっていると言うことですね。

なので、もちろん歌い手さんたちは、この部分も音を取り、メロディを歌います。

しかし、この扱い方が問題なのです。

通常このセッコの部分と言うのは、元々ある音架を反映しないことが常でした。

どういうことかというと、音符の並びや休符を無視して、言葉のニュアンスで歌うということです。

例えば、「おはよう」と言う言葉が「八分音符、四分音符、四分音符、十六分音符、八分休符」などで表されているとします。

そうすると音符どおりだと「おはーよーうっ」みたいな感じの言葉のリズムになります。

ところが、これだと通常私たちが話す話方と変わっちゃいますから、自然に「おはよう」と言えるようにリズムを変えて歌うのですね。

フレーズの速さもそうで、その時、歌い手がやりたい感情で歌われますから、一定じゃありません。

アリアの前にあるレチタティーヴォセッコみたいに、オケが途中で入ってくる場合は指揮者がテンポを合わせていきますが、それ以外は上記みたいなことが起こってきます。

しかし、私はこの状況で歌われることがあまり好きではありません。

音符が書いてある限り、作曲家の意図がそこには存在しているわけで、こちらで変なことを考えて曲解するより、そのまま歌ったほうが、よっぽど状況を表すことが出来るからです。

例えば、「愛の妙薬」の1幕でのネモリーノとアディーナの会話などそうです。

ベルコーレの求愛を受けた後、ネモリーノがアディーナに「一言良い?」って声をかけます。

アディーナは「いつものため息をついているよりは、おじさんのところに行ったら?」と進めます。
おじさんが重病で、もし死んだら、遺産をネモリーノに残すと噂を聞いたからです。

それに対するネモリーノの返事はこうです
「Il suo male non e' niente(4分休符)appresso al mio(彼の病気はたいしたことないよ・・・・僕の次だ)」

この4分休符は反映されるとされないとでは、全然違います。

このままストレートに歌い替えても、もちろんこの二つの文章は語れますが、この逆説の文章に一拍を入れることによって、彼の気後れが表現されやすいです。

つまり、おじさんのところへ行けって言い放った彼女に、思わず「そんなのかんけいねえ!」って言った後、一瞬、彼女の顔やリアクションを受けた可能性もあり、気持ちがちょっと引いちゃって「僕の悩みの後で良い」って言う。

これは本来なら「僕の悩みの次なんだから、おじさんの病は大したことないよ」って言える文章なんですが、わざわざ休符を入れて、逆説で強調している。

もちろん、気が引けると言うことだけでなく、アディーナをちょっと観て彼女を伺ったとか、ひょっとして彼女が気色ばんで、それに言い訳したとか、いくらでも考えられますね。

そういう様々な可能性が、リズム通りに扱うことで浮かび上がってきます。

つまり、何も無いことから感情やシチュエーションを起こしていくより、こうやって音楽の力を借りた方が結局、簡単だと思うのです。

このリズムのパターンは次のネモリーノの台詞にも使われています。
「Partirmi non possio (一拍半休符)Mille volte tentai・・・(離れることは出来ないんだ。・・・何度も行こうとしたのに)」

こんな感じ。
このときも、同じパターンで逆説的なことが休符によって強調されています。しかも先ほどとはもう少し長い休符。と言う事は、さっきの事柄よりも、尚更言いにくいことなのか、強く言いたいことなのか、と言うことが考えられますよね。

これに対してアディーナはいきなり一拍半と言う長い休符のあとに「M'asegli more,e lascia erede un altro?(だけど、もしおじさんが死んだとして、他の人に遺産をあげたら?)」

この台詞の前の一拍半は、例えば、ネモリーノがこういう答えを自分に対して言わないと思っていたから、ちょっと驚いたとか、あまりにネモリーノが自分と違う考え方をしていて、呆れたとか、如何様でも表現することが出来る。

でも、これらの休符を使わなければ、ただただ言い合いしてる人たちで終わっちゃいます。
これが私は嫌いです。

文章では伝わりにくいと思いますので、是非、楽譜をお持ちの方はごらんになってみてください。中々面白いですから。

オルフェオでもこういう現象は起きます。

物語は「愛妙」よりも現実離れしていて、しかも激しています。

ですから、感情だけでセッコを扱っていくと、逆に感動が薄れてきます。

最初に音楽稽古をしたときには、歌い手の方々は、やはり通常のセッコの扱い方をなさっていました。

さすがにキャリアがありますから、ちゃんと最初に音を出した時から、本読みの内容を反映させるべく、会話は成立しています。

このままでも大丈夫ではあるのですが、今回はとにかく丁寧に楽譜と向き合いたいので、お願いして、今はかっちりとテンポどおりにリズムを歌っていただいています。

その中にある休符、音符の長さ、音程の幅、そういうことから台詞を創ろうと思っているので。

ありがたいのは、今回のキャストの方々は本当にキャッチボールがスムーズで、表現と言うものにすごく興味を持っていてくださるということ。

当然、そういう方々に声をかけさせていただいたからではありますが、たった一言、それをお願いしただけで、即座にやりたいことを分かっていただき、苦労しながらも楽譜に取り組んでくださいます。

偶然、平行してS大学のオペラ実習でも、同じことを話してトライしています。
彼らにも楽譜のことに興味を持って欲しいから。

特に大学院の学生たちは、この先現場に出て行く可能性もありますから、出来るだけ音楽を創れるようになって欲しい。

しかし、勘違いが無いようにお願いしたいのは、必ずしも、私のやり方が正しいとは限らないと言うこと。

基本的には、おそらくイタリア人の指揮者であっても、セッコはリズムどおりでない表現を要求するのではないかと思います。

彼らは言葉がわかるだけに、ニュアンスを大切にする。

それは間違いでもなければ、ある意味自由な部分であると関わる人たちが認識があれば問題はありません。

この世界、マルもバツも無い世界ですから。

私はあくまで、作曲家が演出家だと思っているので、彼らのやりたいことを立体化してみたい欲求に囚われているだけなんですね。

でも、ヨーロッパとは違い、下地の無い東洋人の私たちが、こういうやり方で楽譜と取り組むのもありだと思うんです。

そういう演出家でありたいし、トレーナーでありたい。

とにかく、これがどんな形になっていくのか、私もまだわかりませんが、毎回良い稽古をさせていただいています。

どうか皆様、会場に足をお運びください。
損は絶対にさせません。
素晴らしい歌い手たちですから。

私のこの「音演出」を聴いてみていただきたいんです。
私のこれからのためにも。

さて、今日もこれからまたじっくりと楽譜と向き合う時間です。

これが私の最高に至福の時。

神様に感謝して(^^)
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by kuniko_maekawa | 2008-07-14 13:29 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

かもねぎショット公演「一線を越える」右往編&緊急お知らせ!

昨日、下北沢にある「ザ・スズナリ」と言う小さな劇場で面白いパフォーマンスを観にいきました。

振り付け家であり、演出家でもある伊藤多恵さんと俳優の多田慶子さんが創設した「かもねぎショット」と言う劇団で、高見亮子さんと言う俳優兼劇作家の方の新作10本を、「右往編」「左往編」と2部作にし、伊藤さんのダンスパフォーマンスと合わせて構成舞台を創っています。

伊藤多恵さんとは、随分長いお付き合いになりましたが、あるオペラ公演で御一緒してから、ずっと懇意にさせていただき、プライベートでも、本当にお世話になっている方なのですが、その振り付けも独特の世界観で、大好きな芸術家です。

以前から「かもねぎ」のことはお聞きしてたのですが、今回初めて観させていただくことが出来ました。

スズナリは、100席くらいの小さな劇場。

もう随分前から小劇場としては有名で、私も20年ぶり?くらいに入りました。

前に来た時は、確か鈴木ジュサブローの人形芝居を観に来たような・・・。

舞台は伊藤さんのダンスと高見さんのお芝居が交互に行われます。

そのどちらともで一つの作品。

言葉で説明することは難しいのですが、芝居の方は何ということは無い日常から一線を越えるというのが、どういうことなのか、普通の言葉で語られていきます。

例えば、女性がバーで不倫している会話。

小説家と観葉植物の会話。

誰かの役に立とうとしている女たちの会話。

不条理劇という言葉がありますが、それにちょっと近い感じ。

答えがあるようでないような。

でも言葉の羅列が本当に面白く新鮮。

会話のテンポもよく、自然と笑いも起こってきます。

そう、どれも可笑しいんです。

お笑いのショーを見ているみたいに、なんか、笑えちゃうんです。

そして、俳優さんたちが、女性も男性も皆なんだか声の響きが綺麗。

だから、ちゃんと言葉が聞こえてくる。

実は先日、藤原竜也の「かもめ」を観にいったのですが、このお芝居は麻美れいさんとか藤木孝さんとか、名だたる俳優が出ていましたが、それぞれに個性が強すぎて、なんだか言葉がよくわからず、作品としてはつまらなかったのですね。

やっぱり団体の大きさや、俳優の知名度とかじゃないんです。
作品の質は。本当にそう思います。

伊藤さんのダンスは本当に大好き!

4人のダンサーたちが、身体のすべての間接、を使ってさまざまに変容していきますが、その間、一向に動きが止まることがありません。

まるで、風が吹いているみたいに、身体が常に流れを作っている。
空気を作っている。

これがたまらなく好きです。ほんっとに(><)!!

そして、使われている音楽のセンスのよさ。これも素晴らしい。

私は昨日、朝から大学で、オペラについて一説ぶってきましたが、そんなこと、何の意味も無い様に思えました。

身体のすべてを余すことなく使って表現することって、理屈じゃないなって。

とにかく、お勧めです。

公演は今日の夜まで「右往編」。

明日から13日まで「左往編」です。

お時間がある方、是非、足を運んでみてください。
「かもねぎショット」のHPからでも、「ザ・スズナリ」のHPからでも公演案内はごらんになれます。

絶対に、必ず、大満足すること請け合いです!
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by kuniko_maekawa | 2008-07-13 13:44 | 観劇日誌 | Comments(0)

向かい合うレベル

さて、今日は久しぶりにS音楽大学での授業でした。

昨年から参加している、オペラ実習の授業。

大学の3,4年生、大学院生たちと、曜日を違えてオペラを学んでいきます。

演出家としての授業ですからもちろん私の領分は、立ち稽古。

それまではオペラ実習を担当している声楽科の諸先生方が、この学生たちの授業を見てくださっています。

実際に試演会をそれぞれやり、最終的にはお客様の前で歌うと言うのが目的。

やはり舞台にのって初めて、表現をすることが成り立ちますから、それは不可欠です。

7月も二週目からは夏休みに入り、実際の立ち稽古は9月からですが、今週、来週と、9月からの立ち稽古に備えて、基礎演技的なことや楽譜の内容のことなどを色々やろうと思っています。

今日は学部生たちとの最初の授業で、これまでに彼らが音楽稽古をしてきた成果を聴かせていただきながら、これから何が必要かを話してきました。

午前中は3年生。

ほとんどが始めてオペラをやるといった子たち。

おそらく、私が話すことや、実際に自分たちが役を作って舞台に乗せると言うことに、まったく具体的なイメージが無いのが正直なところ。

ですから、話をしていても、質問をすると言うよりも、こういうもんだよ、って、かなり情報や知識を与えて、興味を起こしていくのが大変。

午後からは4年生。

昨年もこの授業を取っており、更に勉強したいとか、いずれはオペラ歌手になりたいと具体的に考え始めているような子も出始めています。

しかし、まだまだ声のことや音楽観みたいなものは未知数。

彼らの可能性も未知の代わりに、私との距離はやはり遠い。

こういう人たちと向き合っている時のエネルギーの放出と言ったら半端じゃありません。

何せ、相手は真っ白。オペラと言うものに対しての引き出しもゼロ。

もちろん、歌い手としても未熟ですから、テクニックは愚か、まだ響きもつかめてない段階。

しかし、この「ゼロ」と言う状態は逆を返せば、知りたいことや欲求がものすごくあるってことでもあります。

まるでザルや穴が開いたバケツみたいに、何をいれてもこぼれて行ってしまう、底なしの欲求って本当にすごいです。

私が何を喋っても、初めて聞くものばかりという顔つきで、興味が沸いてくれば来るほど、「もっと話して、もっと言って、もっと動いて見せて」と、まるで雛が餌を欲しがるような凄みも感じたりして・・・・。

しかし、彼らの何かを刺激し、そういった状態になってくると、途端に彼らのエネルギーは倍増。

しかも、私は一人ですが、相手は30人くらい居ますから、もう・・・・・・(@@)

授業が終わると、私はすっかり力尽き、お腹がすくかと思いきや、食欲もなくなるくらい・・・。

さて、こういうことは研究生や学生ばかりと付き合っていると、あんまり気にならないことで、なんでも一生懸命やっていれば、エネルギーってなくなるよな~なんて思ってしまいそうなんですが、向き合うレベルが違えば全然違うんです。

今現在、稽古を進めている「オルフェオとエウリディーチェ」の稽古。

昨日の日曜に音楽稽古を開始しました。

3人の女声と同じように向き合って、丁寧な本読みをしています。

彼女たちも、この作品が初めてですし、私との稽古も初めてな人もおり、やはり「知りたい」と言う欲求のボルテージは上がっているのですが、彼女たちとの稽古は、ここまでのエネルギー放出はしない。

疲れ方は同じでも、食欲まではなくならない。

むしろ、ちゃんとお腹がすいて、実に健康的(笑)。

これはですね、ひとえに、彼女たちのレベルが学生たちに比べて高いからです。

当たり前のことですが、このレベルと言うのは、実力だけではなく、やはり経験値や引き出しの数だったりするのですが、一番の違いは、素材としての自分をどれだけ認識しているかと言う事。

つまり、学生たちは、まだ自分の勉強のためや自分の興味のために、この授業で学ぼうとしていますが、オルフェオの女声たちは、客のために自分が何を出来るかを私との稽古でつかもうとしています。

そのために、オルフェオ組みは自分たちの足らないものを補って、自分たちの中で練り、それをまた全然違う表現として出してくると言う、キャッチボールが成立します。

学生たちは、なんと言ってもまだ学生。

いろんなことが未知数。

オルフェオ組はみんな四十路。

舞台の経験も多いです。

私は、どのレベルの人たちとも、もちろん真剣に向き合って、へとへとになりながらも、それぞれから受ける刺激を、また自分の糧にして舞台を創っています。

こんなこと、滅多に経験できることじゃないですよね。
幸せなことです。

「オルフェオ」はまた今週から音を創っていく作業が始まります。

女声たちは、かなりレベルが高く、私もまだ予測できない音が沢山出来そうです。

どうぞ、皆さん、会場に足を運んでくださいね。
お待ちしています!

それはともかく、さすがに今日はへとへと・・・・。

明日は一日勉強して、また明後日、今度は大学院の学生たちと勉強してきます。

これもまた違うレベル。

しっかり体力、知力を養わなきゃ!

夏になってきて、毎日蒸し暑いですね。
夏ばてに負けず、頑張りましょう!
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by kuniko_maekawa | 2008-07-07 21:35 | 演出家のつぶやき | Comments(0)