良い声ってどんな声?~そしてレッスン・アピール(笑)

今月から来月は、久しぶりにレッスンが入っています。
と、いうことで久しぶりにレッスンネタ。

オペラ・レッスンを始めてそろそろ5年くらいになりますが、私が成長するのと同時に、やっぱりレッスンの内容や依頼されることも変わってきますね。

今レッスンを依頼してくださってる方は、30代のSopさん。

長くイタリアに留学していて、これから日本で土壌を作って頑張ろうと思ってる。

こういう方は、基本的に発声には問題がありません。
彼女が埋めたいものは経験値。

例えば、役を作ることにおいて、どうリブレットを解釈していくか、音楽を作っていくか・・・・。

もちろん、定期的にレッスンを受けてくださる方々も同じことはやりますが、彼女はすでに本番をいくつか抱えている環境にいる。

つまり、ニーズが在るが故にクオリティを求められる頻度が高くなり、それに応えるためには今の経験値では補えないと言うジレンマを抱えている。

誤解の無いようにお願いしますが、力量のことではありません。

まだ30代のSopの経験値に対して、望まれることの方が勝っているということですから、恵まれていますよね。それだけ期待されている人ということです。

今は、6月~7月にある彼女の本番に向けて、必要なリブレットを読み、歌唱表現をやっていますが、最近、歌い手さんの「声」の使い方について、なんとなく気付いたことがあります。

この彼女もそうなのですが、例えば、音程が離れているフレーズに対して、あるいは高い音を出す前に、パッセージに入る前に、必ず少し止まる感覚が在る。

理由はいくつか。

言葉を感情的に扱いすぎてテンポ観がなくなること。

高い音に対して準備が要ること。
これはパッセージの場合もそうです。

しかし、そうやって止まった後に出した音は確かにきちんと発声されていても、その次の音までは続かない。

う~ん、なんだろう・・・・・?

これはですね、やはり音程を一音として意識しているのと、その一音に対して声を発しているからかと思います。

つまり、彼ら、彼女たちにとって、「声」と言う物がやはり主であり、すべての音をちゃんとした「良い声」で歌おうとする。

そうなると、残念ながら文章として言葉を喋っている感覚が聴いている方になくなってくる。

もちろん、本人たちは読んでいます。
感情も含めてきちんと歌おうとする。むしろ歌っている。

しかし、きちんと歌おうとすればするほど、「声」になってくる。

「良い声」を出すというのは、歌い手の厳命で、声楽を始めた時から、彼らは「良い声」といわれ続けているだろうし、「良い声」というのを探し続けてず~っとレッスンを受けていると思います。

何度も書いていますが、もちろん、良い声は必要。
それは「言葉」を伝えるための道具であり、その道具は良いに越したことはありません。

でも、「良い声」ってどんな声?

誰が聞いても「良い声」ってもちろんある。

けれど、「本物」とか「良い」と言う定義は非常に曖昧。

私の「良い声」の定義は=「良い響き」。

自分の耳を刺激し、体中が気持ちよくなるのが「良い響き」の定義です。

だからこそ、その「響き」が会場で聴こえなければ、「良い声」とは思えない。

そして、その響きで聴きたいものは「言葉」です。

良い響きで伝えられた、感情を伴った「言葉」。
それに添ってくる音楽。

それで泣いたり、笑ったり、感動したりする。

だから最近、オペラはCDだけ聴くようになってきて、舞台をあまり観たいと思わなくなりました。
耳の刺激ほど演出が面白いと思えなくなってるから。

自分で演出しても、「へたくそだな~」と思うばかりで・・・・(^^;)

さて、ではその「声」をどうやって「響き」として扱えばよいか。

大切なのは、自分の響きを見つけることですが、「良い声」と言われている人たちは、必ず「響き」をすでに持っています。

問題は、それを喉で確かめてしまうこと。

自分で出しているという感覚がなければ不安になるということですが、そこで毒見してしまうと、殿様のところに行くまでに、料理は冷めてしまうでしょう(笑)?

だから、身体から声を離したいのが人情。

一番良いのは、「響き」=「声」ではなく、「響き」=「言葉」のイメージを強くすること。
そうすると、その言葉の中の一番響くところを自然に探して声を出すようになる効力があります。

そうやって言葉を歌い始めたら、文章を今度は歌うことをやる。
今度は文章の中の一番伝えたい場所にある言葉を響かせようとするようになる。

そうやって響きで形成されたフレーズが会場に響いた時、「良い声」=「良い音楽」になって、私たちの耳に返ってくるんじゃないかな。そう思っているのです。

もちろん、これも主観です。

けれど、歌い手さんには「声」も楽器だという認識がもっと欲しいし、音楽としての声楽と言う捉え方をして欲しい。

そういえば、昨日BSでドイツリートのコンサートをやっていました。
お名前を忘れましたが、バリトンの方で、リートを歌ってらっしゃるのに、珍しくピアノであっても唇をかぶせてませんでした。日本の方です。

綺麗な口で、はっきりとしたドイツ語、それに伴ったまっすぐな響きが想像される(TVなので)歌唱で、すごく良いと思いました。

好みではありますが、「伝える」と言う使命を持った「声」を、ただ磨いているだけではなくて、是非使って欲しい。
そのためには、会場の響きと共鳴する、「良い響き」が絶対に必要ですね。

それにしても、やはり本番を抱えていらっしゃるクライアントさんとの作業は在る程度のレベルがあるので、トレーナーと言う仕事が成立して嬉しいです。(^^)

しばらくトレーナー稼業はストップでしたが、その間に演出家だったり、演出助手だったり、バタバタと経験していたものが、ここに来て開いてくれるのも嬉しい。

本当はもっとレッスンを受けていただければ、伝えることが沢山在るのにとも思いますが、こればかりは、買い手市場。

そういえば、最近、声楽を習いたいとコメントなどを下さる方がいらっしゃいますが、残念ならが、私は声楽家ではないので、歌唱表現やそれに伴う響きのことはお話できても、歌を教えることはやっていません。

その代わり、プロであろうと、学生さんであろうと、趣味でなさる方であろうと、オペラや芝居の台本に関して、望んでいるものがおありで、それを探したい、あるいは経験したい、足らないものを埋めたいと思って御連絡をいただく方には、何が必要かを聞いて出来るだけ対応させていただいています。

このところ、あまり宣伝はしませんでしたが、レッスンに興味を持ってらっしゃる方がいらっしましたらば、どうぞ、気軽にコメント欄に御連絡先等書き込んでください。非公開にも出来ますので。
HPからいらっしゃる方はそちらのメールからでもコンタクト取れます。graziadioamore@yahoo.co.jp

リブレットや楽譜を読んで内容を知ったり、役作りをしたりするには5千円。
歌唱表現、立ち稽古に関しては6千円から始めさせていただき、長期でいらっしゃる方は1年後に査定をお願いして、レッスン代を上げさせていただく方法を取っています。
スポットで受けたいという方も、もちろん大歓迎です。

久しぶりのレッスンアピールはちょっと気恥ずかしいけど、伝えたいことも多くなってきました。
私と一緒に、「歌い手」としての自分を創って行きたいと思われる方がいらっしゃいましたらば、是非、ご依頼ください。

さて、今日はお休み。
明日はまたレッスン。

最高に幸せな時間は、神様からの賜物ですね(^^)
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by kuniko_maekawa | 2009-05-30 13:55 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

シェークスピアの魅力&お知らせ(^0^)

さて、私は何故か、シェークスピアが好きです。

だからと言って、すごく詳しいわけではありませんが、大抵、映画や芝居でシェークスピアのものが興行される場合は、例え、どんな役者さんであろうと、どんな演出家であろうと、無条件に行きたい、観たいと思います。

自分でも、何年か前から、レッスン生を対象に、戯曲を朗読したり、題材として使ったりしています。

主には小田島雄志さんの訳のものが好き。
もっと好きなのは、やはり英語のもの。

オペラと同様、元々作家が書いたものにイメージが想像できることと、イギリス英語の音が好き。すごく綺麗な響きがする。

もちろん、英語に堪能と言うわけではありません。

ただ「音」が好きなだけ。

日本語に訳されたものでも、特別な言い回しが綺麗で好きだったりもします。

例えば、「呪われろ」と一言で言えるところを「俺のこの心の叫びが、この世を司る悪魔の息子マーティンの耳に届いたその時に~」ってな具合に、やたらと尾ひれをつけて、色んな例えの羅列があったりする。

この言葉の選び方にも感心しますが、やっぱり一番面白いのは、これがライブであるということ。

つまり、客が聴いていて、その台詞に「わ~!」っと喝采があって、そのニーズに答えて、シェークスピアがどんどん言葉を増やして言っただろうと想像できる。

TVも映画も、無かったこの時代に、芝居と言う娯楽の多様さは想像を絶しますね。

それくらい、言葉の強さや幅を感じる。

なんでこんなことを書いているかというと、先日TVである劇団がやった「リチャード三世」と言う芝居を観たからです。

イングランドが王位争いをずっと続けていた時代(バラ戦争とかその辺の話です)、王冠をめぐって血の争いを繰り返すリチャード三世と、その周りの人たちの欲望に満ちた血なまぐさいドラマ。

劇的な要素は満載ですが、この劇団では、それを「ロンドン」と言う架空の国の地下組織みたいに設定し、衣装はパンクやビートルズの時代のロック調、モニターを舞台上に沢山置いて、そこに映像が流れる。

演出家の話がTVで流れてて、その架空の国「ロンドン」にしたと言う話を聞いた時点で、私はうんざり。

あ~、出たよ。
オペラでもありますが、そういうところを略して、簡単にしてしまうこと。

そんなの演出家が「勉強しない」と公言してるようなもんです。

そうやって制約のある枠を外して、造りやすいように造るんですね。

元々この劇団は漫画を舞台に移したような創り方が得意ですから、自分達ち寄りに作品を持ってこないと、出来なかったんでしょう。

あ~あ、と思いつつも、主役をやった俳優さんが好きだったので、観ていました。

ところが、これがどうして、ちゃんとシェークスピアの「リチャード三世」に見える。

もちろん、日本語です。

最後まで面白く観ました。

そして、思ったことは、「やっぱり誰がやっても、何をやってもシェークスピアだ。」

その言葉の強さ、物語性、何よりも確実なプロットが邪魔をさせません。

それを狙ったのかどうか、脇を固める俳優さんたちが、文学座とか青年座出身の俳優さんたちだったりすると、逆にきちん言葉を喋り、それがまたどんな演出も阻んでいました。さもありなん。

だからこそ、シェークスピアが好きです。
そうだな、その時代、絶対的に言葉で客席を沸かせた役者たちや、その舞台を飾った職人たち。

きっとすべてがシェークスピアの筆ではないと思います。

変容していく言葉がそこにはあった。

やっぱりお客が居たから。

そうやって創られた台本を、簡単に変えることなど出来ない。
例え、時代設定を変えても、衣装を奇抜なものにしても、耳の刺激には叶わない。

さて、そのシェークスピアの戯曲「リア王」を使って、8月にリーディング(朗読劇)を行います。

題して「稽古場Vol。6 『リア王』」

「稽古場」と言うのは、一つの演目を選んで、心行くまで「稽古をしよう」と私が起こしたプロジェクトで、共有する稽古場代だけを参加者で割るというルールを持っています。

今までに5回行ってきましたが、今年からはもう少し幅を広げて、外側への発信も考えようと思います。

今回は、歌い手さんも含め10人に集まっていただいて、「リア王」を読みながら、「音」に刺激を受けて身体を創っていってみようと思っています。

同時に、空間も巻き込んで行きたい。

それを叶えてくれるのは、照明です。

ただし、間接照明のみを使って、まるで自室の机の上で、スタンドの明かりが着いているような感じで、そこに読み手が動いたり、明かりを持って歩いたり、つけたり、消したり。

それもすべて「言葉の刺激」を耳で受けて、身体に反映させていこうと思っています。

以下はコンセプトノートから。

「稽古場」Vol。6「リア王」コンセプト・ノート

1)使用台本:ウイリアム・シェークスピア「リア王」

2)目的:言葉の「音」に刺激される身体と空間を経験する

3)方法:「リア王」の台本を朗読し、台詞のイメージを創っていく。
    各々が作った台詞の「音」を感じて空間を創っていく。
    例えば、間接照明を5つ舞台上においておく、「音」を感じることによって、読み手が、あるいは聞き手(客
    も含め)が明かりを変化させていく。
    「音」を感じることによって、壁を叩いてみる。台詞を重ねてみる。ピアノを弾いてみる。
    基本的には台本を手に持ち、朗読劇として読んでいくが、耳と身体を密接にすることを試してみる。ま     た、以上のようなことは、すべて偶発的なものとし、読み手は内面をどれくらい活性化させるかが勝負     でもある。

4)期日:8月19日(水) 13-17、18-21
       20日(木)13-17、18-21

      ★午後の時間帯は、明かりと空間を創る作業を試します。
      ★18:30-20で本番としますが、読む箇所は午後の試した段階で決めていきます。
      ★この試みに見学参加をしてくださる方を観客として有料入場していただきます。
        (午後の枠を500円。夜の枠を1000円)
        
   
5)場所:門仲天井ホール (大江戸線、東西線門前仲町徒歩1~3分)

6)参加者:読み手 中村 靖、恵川 智美、柴山 昌宣、前川 久仁子、松田 麻美
            折河 宏治、江口 浩平、宮本 彩音、楢松 雅子、上田 誠司

     照明 稲葉 直人(ASG)  当日協力:荒川 はるか

御興味の在る方、是非、見学参加してみてください。
まだ稽古も始まってないので、どう「言葉」が変容していくのか、私たちが変容していくのかわかりませんが、多分、恐ろしくライブ感のある空間が出来上がると思います。

午後枠は、まだ明るいということと、初めて明かりとあわせていくので、空間を創っていく作業をしていきながら、読んでいきますが、初めから創っていくことをやっています。
これも、普段見られない、生の作業を観ることが出来ます。

どちらにしても、観客の方々も居て空間が出来上がります。
どうぞ、御参加ください。

今回はチケットを出しません。
観たい方は、直接コメント欄にお名前をいただければ、予約しておきます。
席は40席。午後も夜も見たいという方は、通しで1000円。早い者勝ちです!

改めての告知は、もう少し後ですが、今からでも予約は受付ま~す!(^0^)

お楽しみに~!


                 
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by kuniko_maekawa | 2009-05-26 20:50 | 演出家のつぶやき | Comments(1)

奏法って??

昨日、ある古典音楽のコンサートに行きました。

1600年代から1700年代の歌曲とリコーダー、そしてチェンバロで通奏低音のセミナーを行うというので、御案内をいただき、珍しくなんの下調べもしないでチケットを買っていきましたが、う~ん、ちょっと考えてしまった。

演奏会のプログラムは好きでした。

スカルラッティやヘンデル。

私の知らない女性作曲家のものなど、プログラムの解説も面白く、まだまだ知らない音楽が沢山あるな~と、モチベーションも上がりました。

古典音楽は私の大好きな分野で、ライフワークとして、バロックやそのもっと前のオペラもやりたいと思い続けています。

しかし、元譜は小節線もないものも多く、奏法等、ちゃんと勉強しないと逆に面白いものは出来ないだろうな、と二の足を踏んでいます。

どうやって勉強して良いかわからないからです。

そこに、このコンサートのチラシをいただいたので、期待して足を運びました。

先の「う~ん」と思ったのは、声楽の奏法について。

チェンバロやリコーダーの演奏はすごく好きでした。
楽曲の自由さや、彼らの演奏形態にちゃんとした核があるような感じがして、楽しかった。
音色も思ったとおりのもので、特にチェンバロは躍動感のある楽曲を初めて聴いた感じで、この楽器の可能性もすごく感じてよかったです。

何より、爪で引っかいたような奏法が面白く、これも何かの形なのかなと想像の幅が広がった。
モーツアルトも、バッハも、こんな風に色んな弾き方をして作曲していったのだろうか・・・・。

今の楽器よりも、はるかに音の幅は狭く感じるのに、楽器として魅力を感じました。

リコーダーは、もっと時代性を感じます。

やっぱり、笛、弦楽器、太鼓の類は、もっとも人間に近いものなんだろうな、と。

どこでも、誰でもが木の筒に穴を開けたり、樽に皮を張って叩いたり、硬い紐を張って爪弾いてみたいり・・・・。

以前、聴きに行ったバロックの演奏会でも、ギターの腹を叩いて、歌い手が足を踏み鳴らして歌ったりしてました。そんな感じ。

そこで唯一引っかかったのが、声楽です。

ソプラノの方が歌ってらっしゃったのですが、この方の歌い方がどうしても好きになれなかった。

でも、いわゆるバロック唱法の第一人者でいらっしゃるみたいで、彼女の歌い方にも「奏法」と言うものがあるのでしょう。

この時代の楽曲は、「アリア」→「レチタティーヴォ」→「アリア」みたいな単純なもの。

プログラムによると、レチタティーヴォと言うのは、元々説明箇所みたいなものだそうです。
それは題材によるもので、古典は元々ギリシャ詩劇を題材にしており、在る程度の上流階級の人たちならば、その題材を常識として知ってた。

ところが、モンテヴェルディ等が「創作」をし始めると、内容を説明しなくてはいけない。
それがレチタティーヴォの部分だそうです。基本的な内容と感情はアリアで進行して行く。なるほど・・・・。

だから、その時代、レチタティーヴォは軽んじられ、お客はアリアだけ聴いて、レチタティーヴォの部分になると雑談して聞いてなかったんですって。

さて、この演奏会では「歌と詩の解釈、通奏低音および旋律楽器」のためのプログラムとして楽曲が上がっており、歌を交えた最少人数のアンサンブルこそ、音楽の透明感を得られる。そこで「歌詞と通奏低音」の世界を探求していくということがコンセプトでした。

しかし、彼女の歌い方では、その「歌詞」がまったく聴こえて来ないのですね。

バロック唱法と私が思っているものの一つに「ノン・ビブラート」と言う事があります。
「思っている」と言うのは、今だにどういう歌唱法正しいかどうかわからないからですが、昨日のような演奏を聴くと、やっぱりそう思ってしまいます。

彼女のノンビブラートはすべて声を引いて、喉の奥のほうで震えを抑えている感じ。

いわゆる頭声発声に近いと思うんですけど、それにしては響きが頭には届いてない。
つまり、こちらに聞こえてくるのは、響きの無いファルセットの硬いやつ。

それだけでも会場の響きを捉えにくいのに、必ず語尾を抜くように歌う。
イタリア語であっても、ドイツ語であっても、英語であっても同じ。

そうなると、何も言葉が伝わってこない。

かといって、チェンバロとリコーダーにマッチした声の音とも思えない。
申し訳ないけれど、歌が入るものはすべて、フラストレーションを感じてしまいました。

これって、どうしてでしょうね?

ただ単に声の好みと言う事なのかしら?

けれど、言葉が伝わらないと、説明として入っているレチタティーヴォはまったく用を成さなくなります。

合奏するだけならば「奏法」は必要ない感じがしました。

グレゴリオ聖歌や古典の曲に関して、CDなどで海外のものを聴いても、頭声発声であっても声が前に出ていると思うんですよね。

もしかして、この歌い手さんは「奏法」に捕らわれすぎているのじゃないかしら。

きっとすごく勉強したんですよね。
何かのコンクールで賞もとっていた。

御自分でもグループを立ち上げて活動している。

でも、「勉強」を発表しているだけみたいでした。

こんな唱法がある、こんな楽曲が在る、けれどプログラムに書いてあった「歌詞と通奏低音」の魅力は何も感じませんでした。

それとも、私の「勉強不足」でしょうか?

勉強しなくちゃ楽しくない演奏会ならば、最初から勉強会にしてくれれば良いのに。

これじゃ、ギリシャ詩劇は知ってるけれど、「創作」となるとレチタティーヴォで説明しなければならない貴族たちと同じですね。

演奏会自体を否定はしませんが、3500円のチケット代を払ってくる人が何を期待してくるのか、もっとリサーチしても良いのじゃないかと思いました。

知らない世界だからこそ、マニアにならずに、知ってもらうために伝えることは沢山あるのじゃないかと。

なんとなく納得いかない時間を過ごしました。

これは反面教師で。

私の打つ自主公演にも、何かを期待してくるお客様がいらっしゃるのでしょうから、「奏法」にこだわるのであれば、伝える努力をもっとしなくちゃいけない。

チケット代はその勉強代でした。
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by kuniko_maekawa | 2009-05-20 12:59 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

「ひねり」と言うもの

昨日、先輩演出家さんと芝居を観にいきました。

大正時代の新聞記者たちを通して、「言論」と言う物をテーマにしたお芝居で、この劇団の主催者が台本を書いて、ワークショップなどで集まった役者さんたちが出演しています。

昨年、この劇団に関わっている音響さんから御案内いただいて、初めて観にいったのですが、その時の芝居がものすごく面白くて、ある役者友達にお知らせしたところ、彼もいたく気に入って、ワークショップまで受け、今回の芝居に出演する運びとなりました。

オペラと違って、芝居の劇団は星の数ほどあります。
この日も、チラシを沢山持って帰りました。いつ、どこででも、芝居は打っている。これだけはすごいといつも感心します。

ワークショップなどから、内容を作っていき、観客に見せると言うやり方も多いですよね。

在る程度のスペースと、人が集まれば芝居は出来上がります。

オペラにはないこの自由さに憧れつつも、音楽と言う規制が無い不安定さが怖くて、どうしても芝居を作ることが出来ない私でありますが、それを払拭するように、できるだけ色んな劇団を観にいきたいと思っています。

さて、この劇団は台本作家であり、演出家である主催者の言葉が好きで、今回も期待していました。

実際、役者たちが交わす会話劇には魅了され、その時間は非常に耳に心地よく過ごしたのですが、題材にした「新聞」と言う物と、「政治」「言論の自由」「労働運動」といったものに端から興味が無かった私には、どうもテーマが掴みにくい。

メールなどを駆使して、あるいはブログなどで、今や「言論の自由」と言う物を簡単に手に入れられる時代に生きてる私でありますから、余計そうなのかもしれませんが、なんだろう・・・すごく非現実に捉えてしまって、ファジーに観ちゃいました。

それを御一緒した演出家さんにお話したところ、彼女曰く「ひねりがない」。

つまり、その題材とテーマがストレートすぎて、勉強したものを発表しているだけに観えるということらしい。

う~ん、そうか~。

ここで頭を抱えるのは、「ひねり」と言う事に関して、またまた私がファジーだから。

元々直球勝負しか出来ない性格だからか、物事を「ひねる」というのが私には難しいです。

第一、意味も良くわからない。

照明家の友人なんかと話す「ケレン味」というのと、多分同じ。

一つのテーマをその内容そのままではなくて、湾曲させて、核心に迫るというのでしょうか、私の認識はそんなものです。

彼女曰く、「『フィガロの結婚』はストレートすぎて、ひねりたくなって逆に難しい。いまだに切り口がわからない。でも、『コジ ファン トゥッテ』は元々がひねって在るから、すごく得意。『ドン・ジョヴァンニ』とかもいけるかもね~。荒唐無稽と言う物に関してね~」

私にはどれも、どうストレートで、どうひねっているのかわかりません。正直なところ(^^;)

これって、多分、「テーマ」と言う物を捉えることが出来ないのかも、と、自分では密かに思っています。

昔、某ミュージカルの演出家にアシスタントで付いた時、「この作品を今の時代に東京でやるという意味は?前川だったらどういうテーマでやる?」と言われて、答えに窮したことがありました。

私の中では、作品のテーマ=音楽と思ってる節があるので、そこを読み解かないとわからないんですね。

つまり、台本からテーマと言う物を探したことが無いかもしれません。

音楽から・・・・楽譜から・・・・、そうなると、テーマ=作曲家になっちゃう。

これだから、きっとお芝居は永遠に作れないのかも・・・・・。

そうか~、今気付いたけど、ずっと台本や小説や、物書きをしたかったけど、一向に一本かけないのは、テーマを創ることが出来ないからなんだ~。納得~(^^;)

いえ、気付いてました。

いまだにこの壁が乗り越えられないのですね。

最近は、お芝居を観にいくのに、割と人を誘います。

それは照明家だったり、演出家だったり、一般人だったり、歌い手だったり。

終演後、食事などした時に、彼らが話す感想に非常に興味がある。

特に、スタッフは、私よりもフィールドが広いですから、色んな舞台を経験してるので、知らないことも話してもらえそうで、嬉しくなる。

そんなことより、経験しろって感じですが、こればっかりはな~。

でも、少しずつ言葉を音にして、台詞と言う物に近づこうという魂胆。

お試しは8月です。

今は準備段階で台本を整理しながら、やっぱりシェークスピアってオペラみたいだ~と悦に入ってる次第。

これじゃあ、いつまでたってもオリジナルは無理そうですね(^^;)

これから、買い物に行って気晴らししたら、また台本整理です。

告知はもう少し後。

お楽しみに~(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2009-05-14 13:17 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

ミヒャエル・ゾーヴァ展

この人の絵画展もかなり待っていました。

大好きな、大好きな挿絵画家。
ミヒャエル・ゾーヴァ展に行ってきましたよ。

多分、この絵に見覚えの在る方がいらっしゃると思うのですが・・・・・
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これは「アメリ」と言う映画で、主人公のアメリという女の子の寝室にかかっていた絵。
なんとなく、覚えがありますか?

私が彼の絵に最初に出会ったのは、「小さな王様」と言う本の表紙でした。

ポケットの入るくらいの小さな王様が、在る日「僕」のところに現れる。

シュールな展開でしたが、何よりも、その絵が実に絵画的で、ただの挿絵とは思えない。

中世の写実絵画を思わせる画風なのに、どこかメルヘンで、どこかブラックで・・・・。
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その後は、エスターハージという、うさぎの王子様のお話。

人間の豹柄のパンツが気に入って、鏡の前でポーズしてるという、可愛い絵。

あっという間に虜になりました。

それから、何冊か彼が挿絵を書いている本を集め、画集も手に入れて、何か在ると眺めるという感じ。
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ここには全部載せきれませんが、いくつか絵を見てもらえばお分かりかと思いますが、彼の絵には独特の暗さがあります。

例えば、彼が良く描く海や森は、どこか暗く、それだけ観ていると陰鬱とも思えるのですが、その陰鬱な海岸で縞模様のガウンを着たアヒルが焚き火にあたってたりする。

そうすると、その焚き火のあたりだけがほんのりと明るくて、まさに光とはこんな具合だろうかと思います。

しかも、そのアヒルが可愛い(^^)

他にも、ものすごい悪天候で荒れている海の上にまさに揺れている船が一艘。
その上に、何匹もの動物たちが乗っていて、舳先に繋がれた救命ボートの上には小さな恐竜まで・・・・・。

その動物たちがどれも、どこかユニークな表情で可愛い。

でも、波の色や、空からの光は宗教画を観ているみたいに美しいです。

この彼の世界に魅了されています。

今回は、彼の挿絵やポスター、それから私が観たかった「箱舟」や「遠出」と言う、海をテーマにした作品がほとんど展示されていて、大興奮でした。

彼の特徴は動物を使うこと。

彼自身もコメントしていましたが、皮肉やシリアスな部分を、動物や昆虫を使うことによって、シニカルではあっても、どこかユーモアと言うフィルターがかかる。

例えば、「1868年コガネムシが大量殺戮された」みたいなコメントがあって、コガネムシがないている銅像の前に、一匹のコガネムシが白い花を手向けている。

こんなメルヘンだか、ブラックだかギリギリのところのセンスがものすごく好きです。

もう一つ、この人の特徴は規則性を壊すという面白さ。

例えば「父、左から三番目」と言う絵があるのですが、20人くらいの背広を着ている男性たちの集合写真。みんな真面目な顔をして、同じような背広を着ていますが、左から三番目の男性だけが口に指を突っ込んで、あっかんべ~をしている。

笑えますが、こういう非規則性がすごく好き。

逆に規則性が面白い絵もあります。
窓の外に沢山の男が飛んでいる。
皆同じ背広を着て、同じ顔をして、同じ方向に。

これが豚だったり、ペンギンだったりする。

文章ではとても説明できませんが、とにかく世界観が大好きです。

一番好きなのは光の使い方。

この人の絵を見ていると舞台を感じる。

こういう照明を作りたいと常々思っている、光の描き方なんです。

薄暗い波の上にあたる日の光。

窓から差し込む月明かり。

テーブルの上の電球の明かり。

どれをとっても、ものすごく舞台的。

う~ん、これもまた口で説明できない~(^^;)

昨年観たワイエスと似た光の描き方。
この人も大好きな作家で、やっとその絵に会うことができて感動した。

実際にゾーヴァは「魔笛」の舞台美術などを手がけていたりしますが、その絵よりも、挿絵に書かれているものの方が、もっと物語性と、舞台空間を感じました。

何はともあれ、観れて良かった!

何回か日本で開催されていたのですが、大きな美術館では中々やってくれないのですね。
今回も銀座松屋の催事場ですし・・・・。

まだ存命で、バリバリ描いてますから、これからも彼の作品を観ることが出来る。
ワイエスもそうですが、生きている作家と言うのは、この楽しみがあります。

残念ながら、絵画展は今日までだったので、ゾーヴァを御存じない方は、画集や挿絵の本を観ていただくしかないのですが、人気の画家なので、簡単に手に入ると思います。

あ~、それにしても、ず~っと観たかった画家の絵を、直接見ることが出来る幸せもありません。

何回も同じ絵を観てはため息つきました。

ず~っと、この世界に浸っていたかった~。

私の絵画展の楽しみ方は、年々濃くなっています。

まず最初に1枚1枚を堪能したらば、もう一度観たい絵のところに戻って、ソファがあればそこに座って、ず~っとその絵を観てる。

気が済むまで何回でも座って、観たい絵を観ます。

本当に好きな絵は、映画よりも、舞台よりも、心に残って離れがたい。

後ろ髪を引かれつつ、離れる感じです。

だから一人だとたっぷり2時間は美術館にいる。
展示が多かったりすると3時間とか4時間とか・・・・。

でも、画家の筆跡や、その絵の空間を観ていると、その絵が持っている時間が観えてきて、それも愛しくなるんですよね。

絵画展は本当に良いです。

2時間も経ったままだと、足が持たない時も在るので、最近は選んで行かないといけませんが・・・・・。

今日は若い友人と一緒に行きましたから、その後は月島でお好み焼きともんじゃを楽しみましたよ♪

誰かと行く楽しみは、感動を分かち合えること。

もっとも、その他の話題で楽しむこと然りですが(笑)。

絵画も、写真も、書架も、映画も、舞台も・・・人間の表現は結局「手」になるものだと改めて思いました。

は~、楽しかった~(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2009-05-11 23:18 | 観劇日誌 | Comments(2)

ありがとうございます!

「オペラなブログ」にあるまじき記事ですが、いきなりびっくりしたので、取り合えず御礼まで。

なんと、なんと、昨日のアクセス数80人越えですよ・・・・(@@)

すみません、どうかしちゃってるんでしょうか????
舌禍事件、起こしてるわけじゃないですよね(笑)?

このブログを始めて4年経ちましたが、こんなこと初めて。驚くやら嬉しいやら・・・・(^^)
覗いて下さった方、読んでくださった方、本当にありがとうございます。とてもとても、嬉しいです。

最近は、思うところが少なかったのと、オペラと私の関わり方が変わってきたのもあり、それと共にオペラレッスンも少なくなってきたので、記事を書くのがちょっと億劫になってきて、閉じようかとも思っていました。

けれど、ずっと更新しなかった時も、必ず20人くらいの人たちが覗いてくださっていて、これを読んでレッスンに来てくださったり、演奏会に来てくださったり、そういう方もいらしたので、閉じきらずにここまで来てましたが、なんだか書いてて良かったのかなと思ったりもして・・・・・。

出来れば過去の記事も合わせて読んでください。
その方が、きっと読んでくださる方々には、特に若い歌い手さんや、学生さんたちには役に立つと思います。

そのつもりで書き始めたブログですし、若い人たちに少しでも自分たちの「方法」が見つかればそれが一番良い。

ただ、最近の私は、もっと自由に色んなことを捉えていて、自分の表現媒体として、必ずしも「オペラ」じゃなくても良いと思っています。

オペラは大好きで、今の私の原点だし、「仕事」と言う感覚が一番強いジャンルです。
音大を卒業してから、ずっとオペラの世界でしか仕事をしてこなかったのも理由でしょう。他のことを知らなさ過ぎた。

逆に、その狭い世界で生きるのならば、なんとか成功したかったし、トレーナーや演出家としても、もっと仕事をしたい。もっと、もっと出来ることも沢山在るはず。そう思ってここ何年かは頑張ってきました。

それは今でも変わりませんが、同時に私という人間が舞台を創るのに、本当にぴったり来る媒体は、多分、「オペラ」じゃないと感じ始めていたのも事実。

本当に3年くらい、このことをどうすり合わせていけば良いのか、結構考えていました。
方法が見つからなかった。

でも、今は納得する道が見つかりそうです。

だからと言ってオペラの世界から居なくなるということはありません。
ここは私のグラウンドで、仕事場でもありますから、一生関わって行くと思います。

オペラは仕事として関わりながら、本当に創りたいものを成功させて行くということがこれからの課題です。

そうは言いながら、それにはオペラ歌手が必須です。

良い音楽家が必須です。

良いプランナーが必須です。

でも、創りたものは「詩劇」。

楽器も声も舞台も照明も同じレベルで舞台にありたい。もちろん、私も。

そのために必要なものは、ただの「音」。
「音」だけです。

なんだかわかりませんね。
私も、まだ実態が掴めません。でも、「音」を観せたいのは確か。

今年はこれをかなえるために、二本、自主公演を打ちます。

一回目は8月19日、20日に門仲天井ホールにて「稽古場Vol・6」と題して、シェークスピアの「リア王」を歌い手と私、7人で朗読します。
そこに照明家に一人入ってもらって、言葉の「音」に明かりをコラボさせていこうと思っています。

2回目は11月28日にやはり門仲天井ホールにて、グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」を上演します。
こちらは昨年の夏に「音演出」させてもらったものを形にして詩劇として起こしてみようと思っています。

詳細はまたこのブログでお知らせします。

この発信は少なくとも5年、続けて行こうと思っています。

今までは内側の経験値だけを上げるために、発信と言う物はしませんでしたが、ようやく重い腰を上げて、これを外に発信する気になりました。

目指すはオフ・ブロードウエイ。

私のこの小さな劇場で経験をした歌い手や役者たち、スタッフたちが、3000人劇場に育っていく。
これが夢です。叶えたいですね(^^)

なんかお礼のつもりが、変な夢語りになっちゃいました。

でも、どうかこれからも御贔屓に。

そして、面白いと思ったら、是非、トレーナーに使ってください、一緒に舞台を創ってください。

今の自分を立たせてくださる、色んな人たちに感謝して。

目指せ100人越え~!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2009-05-08 15:06 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

声の記憶

GW、あっという間に終わっちゃいましたね。

一つ公演が終わって、今や毎日が日曜日になった私に取っては、あんまり関係ないことではありますが(働いている皆さん、すみません~^^)、それでもちょっとお祭りっぽい雰囲気だったのが、普通の平日な感じはしてきました。

さて、オペラ公演に入っていると、毎日、毎時間、耳に聞こえてくるのは歌手たちの声。

歌って初めて台詞を喋るということになるこの声の威力には、これまでもしばしば魅了されてきました。

ソリストとして舞台に上がってくる歌手は、当たり前のことですが「声」を持っています。

それが無ければ歌い手にならないわけで、当然、皆さん良い声です。

それがどう扱われていくか、あるいは、どう使っていくかを吟味していくのが稽古場でありますが、こうやって色んな歌い手の方と御一緒していると、やっぱりとても好きな声や好きな歌い方に出会うわけで、それが私の中の「声」の記憶として残ります。

でも、それってただ好きな声と言うわけではなくて、すごくマニアックに残るんですね。

例えば、「ボエーム」の4幕のマルチェッロとロドルフォとのデュエットで、マルチェッロが歌う「e il mio vile la chiama」の一フレーズはMさんの声。絶品(^0^=)

この方の声は高いFの辺りが大好きで、「蝶々夫人」の三幕でスズキとピンカートン、シャープレスが歌う三重唱でも大好きなFがある。

もちろん公演を御一緒してますから、「ボエーム」の時など、その場面になると必ず舞台袖に行き、私が聴き入ってると、共演してたイタリア人歌手が「久仁子は仕事熱心だね、いつも僕らを心配してて舞台袖に来てくれるね」って勘違いしてました。おめ~の声を聴いてんじゃね~!(笑)

「ドン・ジョヴァンニ」のカンツォネッタが残っているのはT君。
ふっふっふ~、これはね~、実は二人で歩いている時に(まあ、デートではありません)、元々もこの歌が好きだった彼が鼻歌で歌ったんですね。

でも、この時の声がすごく心地良く耳に残り、この曲ってきっとこんな風にドン・ジョヴァンニが窓辺で歌ったんだってなんかなっとくした。

それ以来、D・Gを演出する時は、必ず「カンツォネッタは鼻歌で」と注文を出し、「殺す気かっ!」と言われています(^^;)

同じくD・Gの「カタログの歌」と言うレポレッロのアリアはU君。
これはね~、何がどう好きというのはあまりなく(基本、声は好き)、なんだかこのアリアは彼が歌うのがしっくりくる。きっと言葉の扱いや音楽の持っている質に彼の声が合ったのかも。こういう記憶もあります。

愛妙のベルコーレの1幕フィナーレは断然O君。

これは本当に綺麗なパッセージで、誰が歌ったのを聴いても好きでは在るのですが、今だ、O君の響きにまさったものは無し。

これも聴いた時のシチュエーションは笑えたんですが、分かっちゃうので内緒。

でも、初めてすべてのパッセージが音階として成り立っていて不思議に感動しました。

ここまででお気づきになった方も多いと思いますが、はい、すべてバリトンですね(笑)。

実は、私はバリトン好き。(^^)

声の記憶も、多く残っているのはバリトンの声。
こればっかりは好みなので、御了承ください。

もちろん、ソプラノもメゾもテノールも好きな声は沢山。
目が覚めるように綺麗な声にもであったことはあります。
でも音符を伴って記憶に残るものは引っかかるところが多分違うんですね。

こういう記憶は、やっぱりそこから想像力をもたらしてくれるので大切にしています。

おかげで、どの歌い手にもこれを要求しちゃうので、煙たがられることしばし(笑)。

さて、しばらくは「オペラなブログ」もゆっくり更新に戻りますかね~。

次の発信の準備はそろそろと・・・・・。

また告知しま~す!
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by kuniko_maekawa | 2009-05-07 12:33 | 歌手 | Comments(0)

経験値ということ

う~ん、多分、公演効果だと思いますが、最近、珍しく「オペラなブログ」のアクセス数が多い・・・・。

70人越えしてたりして・・・・。

手の痺れが酷くなってしばらくお休みする前でさえ、ここまでアクセス数高くなかったんだけど、舌禍事件でも起こしてるのかと心配・・・・(笑)。

まあ、でも、読んでいただけるならばそれはそれで嬉しいですね。

もう一つのブログと一緒に書いてると、つい、書き過ぎて、またも手が痺れてきているのでほどほどにしなくちゃ~・・・・。

と、言いつつ、やっぱり仕事に入っていると、感じることが満載。

昨日、やっと一つの仕事が終わりました。

ダブルキャストで、4回の本番。

合唱団いたっては、舞台稽古が始まってから、毎日でしたから、本当にお疲れ様でした!

さて、今回のキャストは、片方はプロ組み。片方は、学生も混じった若手組み。

どちらも二回の公演でした。

面白かったのは、やっぱり経験値のなせる業。

初日はどちらも良い公演でした。

やはり稽古を続けて来たプロセスが身体の中に残っているし、初めてお客様の前に、作品を出すわけですから、緊張感もあります。

やっとこぎつけた、と言う達成感も手伝い、テンションも高く終わりました。

しかし、本当の勝負は二回目の公演。

ここに経験値の差がはっきりと現れます。

どちらのキャストも二回目の公演までに二日間空きました。

そこをどう過ごすかというのは個人的なことなので、問題ではありません。

問題は、あいている期間をどう過ごそうが、舞台に戻ってきた時に初日がプロセスとなっているかどうか・・・です。

つまり、一回目の公演で掴んだ色んな情報が、初日があけたという安心感だけで終わってしまわないで、二回目の糧となること。

そういう意味では、二回目こそが、一番良い状態でありたい。

今回も、ベテラン組みはそうでした。

初日よりも、二回目の方が尚更良い舞台でした。

お客様も交えた空間が、彼らの中にしっくり来てる。

そういえば、中の一人が、舞台稽古が続く中、ちょっと疲れてきてた時に「これでお客が入っていれば、テンションあげて頑張れるのに」と言ってました。

客にもらえるエネルギーを知ってるんですよね。

気になるのはお客様の反応。

彼らが舞台に乗って考えるのは、多分、そのことのみ。

だから、二日空こうが三日空こうが、必ず同じ状態で舞台に戻ってき、お客様と対峙しながら更に膨らませていく。

若手組みには、これが難しかったですね。

彼らも二日間、非常に良く頑張っていましたが、間が空いて戻ってきた時に、その空間に馴染むのが遅かった。

きっと同じように緊張しただろうし、同じようにテンションを上げただろうし、同じように舞台に乗ったと思いますが、一回目の公演をプロセスにすることは難しかった。

多分、「なんかちょっとおかしい」と思いながら、冷静に舞台に立ってたのじゃないかなと感じます。

だからといって、これがよいものか悪いものかもわからない。

誤解の無いように書いておきますが、公演自体は大成功でした。
若手組みの公演にはスタンディングオベーションもあったくらい。

その日のお客様は非常に喜んで帰りました。

これは私が感じる経験値の違い。

決して教えられるものでもなく、私自身も何度も自分で経験してわかったこと。

これは、彼らがこの先の長い歌い手人生の中で自然に培っていくものです。
何度も何度も、沢山の舞台で、色んなお客様の前で舞台を踏んで身につけていくものです。

ベテラン組みは、さすがでしたね。

これが若手組みのキャストたちに、どう理解されるかは私にも分かりません。

一生理解できない人もやはりいますから。

私の親友であるバリトン君がいつも言ってました。
「歌い手は舞台に上がってなんぼ。舞台に上がって歌ってなきゃ意味が無い」って。

歌い手に限らず、舞台人が戻るところは、やっぱり舞台なんです。私たちスタッフもね。(^^)

楽しい仕事でした~。

私にしても多分経験値が数倍上がったはず。

それが実感できるのは次の仕事場に入った時。

こんなことやってもう20年も経っちゃった・・・・・。

でも、最近、このこと考えるとちょっとにやけるようになりました。

仕事に対して、やっと一つ山を越えた感じ。

もしかしたら、これからが本当に仕事が分かってくるのかもしれません。

人生は長いですね(^^;)

公演に関わった全ての人たちに感謝して。

お疲れ様でした!
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by kuniko_maekawa | 2009-05-04 12:59 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

新国立劇場「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

先月28日に新国立劇場でショスタコーヴィチ作曲「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の公開GPを観させて頂きました。

以前から曲だけは知っていて、一度舞台を観たいと思っていた作品で、期せずして機会を得ることが出来たので、非常に楽しみにして劇場へ向かいましたが、いや~見事に期待は叶いました!

今回は2004年にロイヤルオペラで初演されたものの再演。

リチャード・ジョーンズと言う演出家によるコンセプトで、ローレンス・オリビエ賞の最優秀オペラ賞と言う栄冠にも輝いたプロダクションだそうです。

しかし、それもさもありなんと思える舞台でした。

ずっと前に、一度、ハリー・クプファーの演出で日本での公演が行われ、私の周りもそれを見ている人たちが大半で、かなりその舞台の面白さを聴いてはいたのですが、私自身はそれを実際には観ておらず、今回が初めて舞台化をしたものを観るということで期待大。

物語の特異性と、ショスタコーヴィチの音楽が好きだということで、CDだけは何故か手に入れていて、対訳を読みながら物語を「聴いて」このオペラの面白さを実感していたと言う作品でもあります。

だから、なんだか満を持して公演を観た感じ。

19世紀末のロシア。裕福な商人ボリスの息子ジノーヴィの妻カテリーナは欲求不満だ。舅のボリスは口うるさく、夫との夫婦生活は無い。そこへ新しく入ってきた使用人セルゲイがカテリーナを誘惑し、関係を持った二人はボリスとジノーヴィを殺してしまう。
しかし、二人の結婚式の日、隠していたジノーヴィの死体が見つかり、二人はシベリアへ流刑となる。
シベリアへ向かう途中、女囚人に手を出したセルゲイに絶望したカテリーナは、浮気相手の女囚人と一緒に川へ身を投げる。

と言う、どうにも救いようの無い話(笑)。

1930年代に作られたこの作品は、初演時には大絶賛だったものの、スターリンの弾圧にあい、しばらくは上演禁止となった後、再び復活して今に至る作品でもあります。

ロシアの現代史と言う物にあまり詳しくない私ですが、ロシア・アバンギャルド(前衛的芸術?)のことは、それを題材にした芝居を観にいったことがあって、少し齧りました。

この頃は西洋の基準を排したことが良しとされていましたから、ある意味芸術はどこか「飛んでない」といけなかった。

建物だったら、蜂の巣のような住宅や、男女、子供の区別をはっきりつけた共同住宅等、音楽も同じことが要求されたのだと、何かで読みました。

いずれにしても、政治的混乱が多い国ほど、芸術は何らかの形で育つのだと実感するような作品です。

舞台は大きな壁を一つの仕切りによって区切られているシンプルなもの。

ドアからドアへつながる部屋がロールみたいに変わって行きます。

例えば、1幕の1場は、上手の部屋が居間で、下手にドアを通って抜けると、事務所。

それが、次の場面では、上手の部屋が事務所で、下手の部屋がカテリーナの寝室といった感じ。

文章では書きづらいのですが、ドアから抜けるとまた次の部屋へつながるという風に見えます。

こういったシンプルな壁とか、ボックス型の舞台は、最近良くありますよね。

それ自体は新しいこととは思いませんが、その壁の仕切り方や高さ、家具との色目等が好きでした。

その空間が好きだった。

そこに入って来る人物たちの動き、特に合唱団の人たちの立たせ方が絶妙。

例えば、最初にボリスに意見を言いに入って来る労働者たちは下手のドアから、無表情に無感動に一定のテンポでずるずると入って来る。
そのずるずると入って来る人々でいつの間にか部屋の中は埋まっていき、部屋がゆがんでくるのじゃないかと思えるような圧迫感がある。

そうかと思えば、結婚式のシーンで、音楽のあるメロディーにあわせてシャンパンを瓶に口をつけて煽る。
これがまた機械的で面白い。

それはある意味ドラマとはまったく無関係に感じる場合もあります。

こういった一種意味の無い動きが大大大好き!

しかも、この演出家の才能なのか、振り付け家の才能なのかわかりませんが、音楽はまったく邪魔されていません。

これが素晴らしいと思いました。

演出家が意識してそれをしたのか分かりませんが、それこそアヴァンギャルドな感じは満載で、ボリスを殺して、幕が変わり、転換をしていくときも、大きなイントレ(鉄骨の台です)がゆっくりと移動しながら、壁紙を張っていく。

舞台の壁の上に張って紙を落としていきますから、相当高いし、でかい。

しかし、それが、まるで蒔絵をといているように、ゆっくりと移動しながら舞台を横切っていく、同じテンポで家具が移動されていき、物語のページがめくられていく。

やはりロシア・アヴァンギャルドの時代の芝居の写真で、大きな自転車を同じように舞台に転がしていたのを観たことあります。

この時代、産業と言うことが大きな課題だったのかな。
機械と言う物が意味のあるものだった。そんな感じがしました。

壁紙の色や、衣装の色目、全体に好きなものだったのですが、何が良かったって、音楽です!

ショスタコーヴィチってこんなに綺麗な音楽だったろうかと思ったくらいに、流れてくる音楽にすべて魅了されました。

聴き比べられるほど聴いては無いですが、それでも、この指揮者は良かったのではないでしょうか。

舞台を観ながらほとんど耳はオケから離れられませんでしたから、結果大満足でした。

そういう意味で、演出も、先の合唱の使い方といい、時にはミュージカルのように、時にはバレエのように、音を扱っていて、けれど、決して音楽からはみ出さない感じがあって、秀逸に感じました。

実は、私が大感激していると首をかしげる人たちもいたのですが、でも、良かったんだから仕方がない(笑)。

好みで言えば、相当大好き!

元々が現代音楽かバロックかと言う人ですから、きっとものすごく時代的に制約があった中で、閉じ込められた発想がものすごく自由に感じる、ショスタコーヴィチに魅了されました。

こうなると、歌い手たちにも、当然、歌手というより、俳優の要素が多大に要求されるでしょうね。

でも、これも時代の音楽だからかもしれません。

確か、昨日初日があけたばかりだと思います。

別に、マネージングしてるわけではありませんが、これは一見(一聴)の価値ありです!
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by kuniko_maekawa | 2009-05-02 12:56 | 観劇日誌 | Comments(0)

武蔵野音楽大学オペラ公演「コジ ファン トゥッテ」

4月29,30日と武蔵野音楽大学のオペラ公演がありました。

演目はモーツアルト作曲オペラ「コジ ファン トゥッテ」

「女はみんなこうしたもの」と言う邦題どおり、若い男性二人が自分たちの恋人のの誠実を試すために賭けをすると言う物語。

副題は「恋人学校」と言う名前がついています。

老哲学者のドン・アルフォンソが友人であり、教え子でもある若い士官、フェッランドとグリエルモから自分たちの恋人の自慢話を聞かされ、一計を案じます。
「そんなに誠実だというのならば、証拠を見せてみろ」
アルフォンソの提案は、それぞれが変装して今の恋人たちの前に現れ求婚すると言うこと。ただし、方法は自分に任せること。期限は明日の朝。
若者たちは当然自信満々にこの提案を受け入れます。おまけに100ゼッキーニと言うお金を掛けて。

話しの面白さなのか、人気のあるオペラで、特に若い歌い手たちが好んで選ぶような気がします。

しかし、結構内容は難しく、アルフォンソや小間使いのデスピーナなど、裏が裏をかくみたいな役どころもあり、よほどしっかりした役作りが欲しいのと、音楽も非常に高度で、重量なアンサンブルが物語を進めており、きちんとした歌唱能力がないと、楽曲が成立せず、結局作品は成り立ちません。

学校公演や研究所でも、良くハイライトなどで選ばれますが、私にはいまだに疑問。

やはり在る程度の経験がないと、内容を深くしていくのに苦労すると思います。

「荒唐無稽」と言うのはファンタジーとは違うと思うのですが・・・・。

とはいえ、ここまで愛される作品も珍しいかもしれませんね。

演出は恵川智美さん。

彼女らしい、しっかりしたプロットとコンセプトで、この「コジ」は、私が今まで観た中でも、秀逸です。

「コジ」というと、男性達がやる「賭け事」の部分が中心となって、取り替えた女性に恋をしかけると言うことに夢中になっていくと言う男性中心のお話になりがちですが、彼女のコンセプトは「女たちが選ぶ」と言うこと。

つまり、男性たちは絶対に心変わりをしないということが崩されていき、結果的には賭けが成立する。

そして、アルフォンソ言うところの「女はみんなこういうもの」と言う、教育が成されて行きます。

だから、全般に男性たちは、どちらの女性が落ちても問題ないと言う風に創られています。

自分たちは変装してるし、心変わりしなければ良いですから、変装した後でも、誰を落とそうとするかは不明瞭。

その代わり、女たちはどんどん目覚めて変わっていく。

この過程が非常に丁寧に創られていて、久しぶりに面白い「コジ」を観ました。

そして、自分の中のステレオタイプだったものを払拭しました。

私は今回アシスタントで入っており、彼女が創っていく様をつぶさに見ていましたが、とにかく、彼女の根気強さ、丁寧さには、毎度のことながら頭が下がります。

自分のコンセプトをこんなにも大切に、そして、お客のことを、スタッフのことを、出演者のことを、こんなにも愛している演出家も少ないかもしれません。

いつにもまして、感動してました。

舞台美術は荒田良さん。
今回も、彼女のきちんとしたフォルムの中に、ちょっとした感動が満載。

例えば、舞台は絵の額縁のようなもので飾られているのですが、そこの上手側だけが、三角形に出っ張っています。

「張り出し」と言うのですが、その部分だけ「けこみ」と言う、足元の色が違う。

額縁に収まっている部分は、正直な部分で、張り出しに出てくると、虚構の世界や詐欺の世界が展開する。

そのために、その部分だけ、トリックアートのように張り出して見える。ちょっとした3Dです。

恵川さんとのお仕事も多いのですが、そのたびにコンセプトを支える重要な器を見ることが出来ます。

衣装は増田恵美さん、きちんとした時代衣装の中に、彼女特有の遊びがあって、現代的にも見える色目もこのコンセプトにかなってました。

照明はASGの石川紀子さん。

今回は女性ばかりのプランナーでしたね。
これも恵川さんのお仕事では結構多いかも。

その都度、女性たちのパワーと緻密さと潔さに感服します。

石川さんの明かりは「しっかりしてる」と言う印象。

線を描いているわけでもないし、はっきりした色の分かれ目があるわけではないのですが、舞台の矩形がはっきり見えてくる。

オペラの照明を観ていて、気になるのは、明かりの変化の時間です。

もちろん、芝居も音の無い台詞の中で変化は難しいと思うのですが、オペラは音楽が在るが故に、下手な変化を見ていると音楽が壊されてがっかりする。

彼女の明かりの変化は、彼女が歌っているように行われていた感じがします。

そういうことが出来るというのは特筆。きっと音楽が自然に身体の中に在る人なのでしょうね。

キャストはダブルでした。

Aキャストはすでにオペラ歌手として国内の舞台で活躍している人たち。

Bキャストはまだこれからの若い人たちがオーディションで選ばれました。

どちらも、それぞれの持ち味で非常に良い歌い手さんたちだったと思いますが、こういう形態で難しかったのは、どちらの組みに標準をあわせるかと言う事。

通常の外公演の稽古の場合、やはり歌い手さんは仕事として関わりますから、当然、演出家とも指揮者とも対等に稽古場にあります。

たとえ経験が少ないにしても、その経験で仕事をしに稽古場に来たのだから、出来なくてもほおって置かれる。

もちろん、出来なければコンセプトが成り立たないわけですから、それ相応のケアはしても、結局は仕事ですから出来るところまでで終わりですね。

その代わり、次回は絶対に無い。

今回Aキャストの稽古に関しては、そういう形態で望んでいました。

しかし、学校公演の主旨として、学生や若い卒業生たちに場を与えるということもあるのでしょう。

基本的には卒業生で創られたBキャストは院生も二人いてのグループでしたから、こちらは育てるということをしなければいけない。

そうなるとAキャストのような稽古形態には出来ないわけで、これが非常に大変でした。

結局は多くは若い人たちを育てるということにエネルギーは注がれます。

なので、Bキャストの人たちは、ある意味守られました。

出来ることも、出来ないことも、誰かが必ず手を差し伸べる準備が出来ており、彼らの中の最大のエネルギーを引き出す準備をさせてあげました。

結果、昨日の彼らの初日は本当に素晴らしい舞台が出来上がり、お客様も大満足で、拍手が鳴り止まないほどでした。

Aキャストは、逆に、ほとんどを彼らの経験と力量に任されており、加えて職員と言う立場もあり、本当に大変だったと思います。

その中でも、自分たちのモチベーションとペースを崩さずに、きちんと役作りと音楽作りをやっていった彼らはさすが!

舞台を観ながら、感嘆しました。これがプロと言う人たち。

どちらが良いか悪いかと言う事ではなく、相対する私たちが、これを間違えてはいけないと言う事を肝に銘じなければいけないということです。

これだけの手を掛けて若い人たちを舞台に乗せる時、彼らにとってちゃんとプロセスだとわからせてあげるまでが仕事だということ。

まだ、これだけの人たちの手が必要だと、でも、それを借りてもお客様のために最高の舞台を創ることが必要なんだということ、そして、今、出来ないことがやがては出来るようになるのが大切だということ。

これをちゃんと分からせて上げられるケアの仕方が出来たら一番良いと思います。

逆に、プロにはプロへの感謝と敬服を持って対応すること。

どれだけのプレッシャーを抱えながら彼らは舞台に乗っていくだろうか。
それを、こちらも職人として、つかず離れず、必要なことだけをケアしていけること。
両方の力量で出来上がったファジーな部分は、すべてお客様にお任せして拍手を受けること。

シビアではありますが、このことを若い人たちも感じて欲しいと思います。

ともあれ、今回は本当に両キャスト共に素晴らしい公演でした。

誰のおかげでもない、彼らが自分たちで作り上げた本番だったと思います。

歌い手は本当に素晴らしいです。

自分の声と身体をつくり、真摯に稽古場にあり、3時間半もの作品を覚え、勉強し、演じ、そして最高に良い声を望まれる。

どんな指揮者の用件も、演出家の用件も、全部受け入れ、例え、相性が悪かろうが良かろうが、すべての責任を背負って舞台に乗って客の前に姿をさらす。

たとえ若い歌い手であろうが、重鎮であろうが、心から尊敬せずにはいられません。

長い稽古期間をこなし、素晴らしい舞台を創ったキャストの皆さんが、今回の一番の功労者でした。

本当にお疲れ様でした!

本番は後二回残されています。

5月2日18:30開演、Aキャスト  フィオルディリージ 諸井 サチヨ
                      ドーラベッラ     河野 めぐみ
                      フェッランド     樋口 達也
                      グリエルモ      谷  友博
                      D・アルフォンソ  三戸  大久
                      デスピーナ     佐藤 篤子

5月3日15:00開演 Bキャスト  フィオルディリージ 伊藤 晴
                      ドーラベッラ     長瀬 千賀子
                      フェッランド      日浦 眞矩
                      グリエルモ      大西 宇宙
                      D・アルフォンソ   上田 誠司
                      デスピーナ      高江洲 里枝

武蔵野音楽大学ベートーベンホール(西武池袋線江古田駅徒歩7分)
チケット3000円  主催 武蔵野音楽大学

当日券もまだあると思います。是非、会場に足を運んでくださいね。
そして、歌い手たちの名演を楽しんでください。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2009-05-01 15:24 | 観劇日誌 | Comments(0)