ありがとうと言われました(^^;)

最近、学校の授業や研修所などで、良く「ありがとうございました」と言われることがあります。

お礼を言われたことがオペラネタになるのかと言われそうですが、問題は内容です。

例えば、オペラを今まで経験したこと無くて、初めて私と授業をやった後、「相手の言っていることにリアクションをして、表情が変えなくちゃいけないと言うことを、今日始めて知りました。ありがとうございました。」と言われる。

例えば、ある時、若い歌い手さんがあまりにステレオタイプに役を捉えていて、楽譜通りにちゃんと段階を踏んで解釈しながら、動きを整理していった後、「今日は良い芝居をつけてもらって、ありがとうございました」と言われる。

う~ん・・・・これって喜んで良いのか悪いのか・・・・。

逆の見方をすれば、そういう風にお礼を言ってくれる人たちは、私が先生と言う立場であれ、演出家という立場であれ、自分たちが「目から鱗」の体験をしたわけで、そのことを経験させてくれた、私という人に対して、素直にお礼を言いたくなった、と言うことで、そのこと自体は「良かったね」って言わざるを得ない。

けれど、こういったことを、今まで気付かなかったことに関しては、素直に喜べない。

まあ、役の捉え方云々はその人の感性ですから、しょうがないとしても、同じ役を3度くらい歌っていた上で、「初めて楽譜を解釈するということをやった」と言う事は問題です。

今まで、誰も彼にそのことを指摘しなかったのか・・・・????

そのことにも疑問が生じます。

「相手の台詞にリアクションする」と言う事を、今まで気付かなかったってことは、そこまでの音楽稽古で何をやっていたのか???

そういえば、学部の授業で、自分のところだけに対訳を書いて、相手の台詞は何を言っているのか興味も無かった子がいました。

これもその人の感性ではあるけれど、お芝居と言うものが「会話」によって成り立っているとは思っていないのだろうか・・・・どうしても理解できない。

こういったことは、オペラだから起こることなのかも知れません。

何故ならば、そこには音符が存在しているからです。

最初に作品を知るときも、台本をしゃべって作るのではなく、まず音取りをし、それから言葉を入れていきます。

楽譜と言う物を知るために、まず音を知らなければならないからです。

もちろん、音を知ったらばそれを音楽にし、尚且つ、表現するということをしなければなりません。

しかし、そのことをちゃんと理解させることは容易ではありません。

自分が歌ってない時でも音楽は流れていて、情景をあらわしてくれる。

あるいは、重唱になってくると、言葉よりも和声感や音の正確さを求められる。

そうなると、どうしても比重は音楽の方に行きます。

そういう意味では、相手が居なくても音楽さえなってくれれば、会話は出来る。

だから、ちょっと人が足らない時でも、誰かが声だけ出してくれれば、景は出来るのですね。

このことが、相手役の言葉を聞かなかったり、流れてくる音楽に煽られて、リブレットを読まなかったりする理由になる。

困ったことです。

本当は、その音楽を表現するために声があり、尚且つ、その声で言葉を伝えるのが歌い手の仕事です。

それでなければオペラじゃない。

問題は、こういうことを学生の時にどれくらい理解できる環境にいられたかということなんです。

もしかして、私にお礼を言ってくれた学生はまだ良かったのかもしれません。

一応、気付けた現場に出会ったから。

しかし、もっと前にそれが気付ける環境はなかったのでしょうか。

オペラの中のアリアはレッスンで歌ったり、発表会や試験でも歌うはずですが、そこからオペラと言う物を知るために、何かが派生しなったのでしょうか・・・。

でも、私も音大で声楽を学んでいた時は、意味もわからないままアリアを歌っていました。

レッスンを受け持ってくださっていた先生は、まず良い声が出るように身体を作ることをやってくださり、持ち声をあまり変えずにやらせてくださいました。

そして、大学3年生の時に発表会で「ボエーム」の中の「私の名はミミ」をレッスンしていただいていた時、サビの部分の綺麗な音楽のところで、「綺麗なものは綺麗と感じで楽しく歌えばよい」と教えてくださいました。

その時、音楽を楽しむと言うことに気付いて、それからは歌うことがすごく楽しくなりましたが、やっぱり卒業するまで「良い声」と言う物に捕らわれていました。

「オペラなブログ」に書いているようなことは、スタッフになって、外側からオペラを観るようになって気付いたことです。

オペラは「声ありき」。

それは正しいです。

けれど、その「声」は使ってこそ、学ぶ意味がある。

私が気付いたことを、少しでも多くの人たちに伝えたいとやっぱり思いました。

トレーナーや先生稼業をやり始めて、随分時間が流れましたが、段々に何を伝えていくべきなのか、私にも判ってきたような気がします。

少なくとも、あんまり「お礼」を言われなくなると良いかもしれませんね(^^;)

もちろん、気付いてくれたことは嬉しいことでしたけど・・・。

気付いたら、今度はもう一つ先へ。

これも、私たちの仕事ですね。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2009-09-30 21:21 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

「オルフェオとエウリディーチェ」稽古inしましたっ!

一昨日から「オルフェオとエウリディーチェ」の本読み稽古を始めました。

今回は、この作品を最初から私が創ろうと思っているので、まずは歌い手さんたちとの感性を摺り寄せる作業から始めます。

昨年、演奏会形式の「オルフェオ」に参加してくださった、諸静子さんと松田麻美さんは音楽稽古からにしていただいて、まずは今回が初役の方々と台詞を解釈することをやっています。

今日は27日組みのエウリディーチェ、柴山晴美さんと実際に歌いながらのリブレット読みをしました。

この作品は、グルックが「音楽のための劇的試み」として作曲したと楽譜の解説に書いてあるように、リブレットの随所に、ドラマチックな展開が潜んでいます。

特に3幕のオルフェオとエウリディーチェが地獄の道を歩いている場面はそうで、今日はその部分を実際に歌いながら、柴山さんと私の感性を合わせていきました。

内容は単純なことです。

エウリディーチェを見てはいけないと言う条件を忠実に守りながら、なんとか地上に連れて行きたいオルフェオと、それを急ぐあまりに強引になっていく彼に愛情を感じられなくなるエウリディーチェ。

エウリディーチェに関しては、それまでが死の世界にいたわけですから、彼女の体が甦ってくるのに時間がかかる。
しかも、目覚めて一番に彼女が望むのは、彼に抱擁してもらうこと。ここからオルフェオの試練が始まります。

この感情の幅が楽譜上どう書かれているかといえば、特別なことはありませんが、音符の種類が違う。

例えば、オルフェオの台詞に付いている音架は16分音符が随所にあるのに関して、エウリディーチェが返す台詞は8分音符と4分音符で構成されていたりする。

その時間の違いが、この二人の間に喧嘩を起こしていきます。

文章ではまったく伝わらないかと思いますが(^^;)、とにかく、こういったことを時間をかけて作って行き、歌い手同士、あるいは私と歌い手、そしてピアニストと、世界観を摺り寄せて、まず一つの音楽空間を創っていくのが目的です。

そこに照明や美術、そして演出といった外側の空間を絡ませていく。
そうやって出来上がったものを「音演出」と呼びたいのです。

柴山晴美さんも、こういった私の投げかけを辛抱強く、音にしながら試行錯誤を始めてくださっています。

それにしても彼女の言葉のなんと綺麗なこと。

元々透明感のある綺麗な響きを声に持ってらっしゃいますが、その響きで私のイメージが言葉になる嬉しさったらないです。

この作品は、アモーレもそうですが、五線を越える音がほとんどありません。

ですから、エウリディーチェも割りと重い声の方が歌うことが多い。

私には、それが納得できません。

ピュアさを感じないからです。

一度死の世界を知ってしまって、その優しい眠りから起こされ、ネガティブな感情を思い起こさせられる。
それこそ生きると言う事ですが、その感情の移り変わりはどこか子供っぽい。

なので、松田麻美さんも柴山さんもそうですが、基本的に彼女らの持っている音楽にピュアさを感じるからこそ、この役でお願いしています。

今日、彼女とレチタティーヴォを作りながら、あたしってキャスティングは天才かも~と一人で悦に入ってました(笑)。

音楽観もこちらの投げた瞬間から、変えてくださる自由さを持っています。風通しも抜群ですね~(^^)

ますます楽しみになってきました。

本当に観なきゃ損だと思います。
私もすごく観たいですもん(笑)。

とはいえ、お稽古はこれから。

随時御報告していきますね~。

そして、もう一つ大切なこと。

良いものだから、ちゃんと売りたい。
それでこそ「仕事」と言えます。

と、言うわけで、チケットお申込み、お待ちしていま~す!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2009-09-27 20:01 | MMC | Comments(0)

演出ノート

私は「演出ノート」を言うものを書きません。

オペラを演出する時は、楽譜と言う物が存在していて、その楽譜を読み取っていくってことは、結局は作曲家の演出助手をしていると言う感覚なので、私のコンセプトと言う物が必要ないと思っているからです。

お芝居の演出家さんなどのアシスタントをすると、時々「演出ノート」と言う物にお目にかかるのですが、それにはかなり詳しく、作品を演出するにあたってのコンセプトや、そこにいたるまでのプロットなどが書き込んであり、それを読めば、大体演出家の意図がわかるようになっています。

ある意味、出演者やスタッフの感性を摺り寄せるものとして、そのノートはあるのでしょうが、オペラの場合は、これまた歌い手と指揮者と演出家の役割分担がはっきりしており、おまけに作曲家と言う中心人物があるために、演出家も含めて感性を摺り寄せるのは、やはり作曲家の持っている方向だけです。

なので、やっぱり演出ノートはいらない。

こういうことを書くと、じゃあ、オペラ演出家は指揮者や歌い手と、ばらばらで良いのか、それをまとめるのが演出家じゃないかと言われそうですが、そういうことではなく、基本、作曲家と言う人がある限り、その解釈を誰しもが曲げることが出来ないと言う事なんですね。

もちろん、舞台美術や照明、衣装等、外側に関しては演出家のコンセプトは必要ですが、それでも、あくまで作品を作曲家よりに解釈するとすれば、おのずと見せなければいけないものは決まってきます。

それこそ、芸能伝達芸術の醍醐味。

これが面白いからオペラも歌舞伎もお能も好き(^^)

さて、前置きが長くなりましたが、今度の11月に公演する「オルフェオとエウリディーチェ」では、初めて演出ノートと言う物を書きました。

何せ初めてなので、何を書けば良いのかも良くわかりませんでしたが、取り合えず、今回の公演でアプローチしたいことを全部書き出した形で書式にし、歌い手、スタッフに渡しています。

珍しくこういうものを書き出したのは、「オルフェオとエウリディーチェ」を「オペラ」ではなく、「言葉」にしたいため。

もともとの形ではなく、作品を別物に仕立てるためでもあります。

本来、オペラを演出する時は、これこそ邪道と思っていることですが、今回は「詩劇」を創りたい。

「オルフェオとエウリディーチェ」と言う作品を、表現媒体として使いたい。

そのためには、私の打ち出したい形をはっきりとさせることが必要で、その形に歌い手たち、スタッフ、演奏者の感性を摺り寄せていただきたい。

そのための演出ノートです。

しかも、かなり影響力のあるノート。

私も自分が演出する際、ここまではっきりとコンセプトを持ったことは今まで無く、今回が初めてです。

MMC(maekawa mania company)は、私が正直に作品と向き合うためにのカンパニーでもあります。

書いてみて、こんなにもイメージがあったんだと、びっくりするくらい、文章があふれ出た演出ノート。

これがどんな形になってくるのか、これからが楽しみです。

私の頭に絵がある時は、絶対に成功する。

例え、どんなに良くない条件でも必ず出来上がる確信がある。

私の演出ノートがどんなものだったのか・・・・・

確かめるためには、是非会場へお越しくださいね(これ、上手いフリでしょ?^^)

明日から本読みが始まります。

さて~、いよいよ「オルフェオ」が歩き出しますよ~!(^0^)
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by kuniko_maekawa | 2009-09-24 23:16 | MMC | Comments(1)

音楽家年齢

ただいま、あるオペラ団体の稽古に参加しています。

と言っても、演出家がいない時だけの代稽古を頼まれただけなので、本番までは参加せず、今日が最後のお稽古でした。

珍しい作品で、私も始めて知ったというものですが、作中、あるパーティで、ショパンの甥と言われている男ががピアノを弾くという場面があります。

それ自体は、突拍子も無い内容ですが、このピアニスト役の男の子が実際にピアノを弾いて劇は進みます。

キャストとして参加している男の子は、芸大の2年生。19歳です。

今までは、ピアノに見立てたテーブルなんかで、指だけ動かしていたのですが、今日は稽古場にマエストロが来るので、実際に弾いてみようということで、その場面だけ、演技エリアから降りて、実際にマエストロの横でピアノを弾きました。

この彼のピアノがかなり素晴らしかったんです。

申し訳ないけど、それまで稽古ピアノを弾いていた方よりも、全然よいんです。

一つはピアノの音そのもの。

彼が弾く指先から出てくる音がすごく好きだった。

これもやっぱり申し訳ないけど、それまで弾いていた方と、同じピアノを弾いているとは思えないほど。

深くて良い音色が出ています。

そして、そして、何よりも、音楽がそこにあったと言う事。

これは、稽古ピアノの場合は難しく、やはり指揮者がいる限り、その指揮者の音楽を支えるのが稽古中のピアニストの役目であり、だからこそ「ピアノ」ではなく、「オケ」と呼ばれるわけで、これを破ってソリスト仕様で弾くのが必ずしも良い訳ではありませんが、この彼の場合は、役どころが「ピアニスト」。なので、彼の音楽性がそこに現れても全然おかしくない。

しかし、それだけではなく、彼の創った音楽が本当に良かったんです。

いわゆる「歌っている」。

彼の中の音楽は自由に指先から流れ出てくることが出来ます。

これはオペラの中の場面ですから、彼が弾いている間に、歌い手たちの会話が入って来るわけですが、彼のピアノの中の、この場面を聴いてると、ちゃんと二つのシーンが存在してる。

それを理屈じゃなく、身体で感じているように聴こえてくる。

う~ん、口では説明できないけど、音楽家であると言う事は、年齢や経験ではないんだと、改めて認識しました。

彼自身は、「本番も、こうやって弾ければ良いんですが、いつもギリギリまで考えちゃって・・・・」などと言っていましたが、本当にそうならば、それはこれからの経験が必要と言う事かもしれません。

こういう話を聞いていると、19歳だもんな~、なんて思いますが、いやいやどうして、その話しているレベルは演奏家レベルですから、ただの学生が「本番に弱いのよ~」などと言っているレベルは超えています。

「ギリギリまで考えちゃって・・・・」の中身は、これで表現として完成してるのかどうか、だったりする・・・。

彼の中ではきっと、「演奏家」や「音楽家」の自分は、当たり前にいるのだと思いました。

さて、同じオペラの合唱団に、高校生が4人います。

彼らも音楽家の卵。

声楽を勉強しているのだそうですが、こちらは、まだ全然子供。

器楽と声楽の開花年齢は、ひょっとしたら20歳くらい違います。

10代でデビューしていく、器楽や弦楽と違って、声楽は身体がきちんと出来上がるのがベースですから、少なくとも、30代になってからのデビューも遅くは無いです。

そういう意味では、声楽家は大人になるのがちょっと遅いかも。

先の高校生たちも、ピアニストの彼とは違って、まず音楽に関わっているという感覚が全然甘い。

もちろん、歌が好きだから声楽科に通っているのだと思いますが(音楽大学の付属高校だそうで)、声も身体も出来上がっていない今は、多分、将来のことなどまだまだ考えられないのだろうと想像できます。

しかし、ピアニスト君は、恐らく大学中にデビューできたとしても、「遅い」と思っているでしょうね。

16歳でも15歳でも、世界中で演奏活動をしているピアニストは大勢います。

そういえば、昨年、若手演奏家のコンサートを手伝った時、やはり17歳のピアニスト君に大感激したのを思い出しました。

「大人顔負け」なんて表現は、彼に失礼なくらい、演奏家としてのヴィジョンやモチベーションが確立されている。

何より、自分の音楽を表現すると言う事が良く理解されているように思いました。

声楽をやる若者に足りないところは、そこだと早く気付いて欲しいです。

声を作ること、身体を作ることと一緒に、音楽を表現することにもっと高い意識を持っていって欲しい。

それをなくして、音楽家とは言わないわけで、それは年齢ではないのですね。

まずは声を作らなきゃいけないので、音楽性は無視して、まっすぐに歌わせたり、言葉を無視して、口の開き方を固定したりと、胸が痛くなるような話も実際にありますよね。

でも、本当は、声を作ることがなんの目的なのかを教えて欲しい。

器楽をやる人も、声楽をやる人も、音楽家であることには変わりは無いんです。

例え高校生でも、音楽性を育てなくて、どうして音楽をやる意味があるのか・・・・。

もっとも、本人の感性もありますから、教育だけが悪いともいえないのでしょうが、少なくとも、綺麗な音楽は綺麗に感じて、それを伝えるのが仕事だということくらいはわかる感性が10代でも欲しいですよね。

とはいえ、私自身も音大生の時は、そこまで音楽と向き合っては居ませんでした。

声が出ればよかったし、深い内容よりは、綺麗なメロディを歌えれば楽しかった。

そういえば、同じ学年のピアノ科の友達は、もっと演奏家として先を目指していたかもしれません。
練習の仕方が違ってました。

今は、離れたから余計にわかることもある。

若い人たちが、音楽科という学科に進む時、その先に「音楽家」としての自分が見えているのかどうか、私たちはもっと問うべきなのでしょう。

「見える」といえば、その感性を絶対に殺さないで拡げていくのは、教える側の責任でもあると思います。

とにかく、そんなことを感じさせてくれた19歳のピアニスト君に感謝。

先の楽しみな音楽家に会いました。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2009-09-22 00:18 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

絨毯座・十字屋共催「フィガロの結婚~一幕一夜」

昨日まで、ある現場に入っていました。

演出家の恵川智美さん主催の「絨毯座」と言う団体と、銀座十字屋さんの共済で、「フィガロの結婚」」を一日一幕、四夜に渡ってレクチャーとを交えてやるという企画もの。

私は字幕オペレーターで参加し、なんとか自分の仕事をやったという感じでありましたが、歌い手さんが素晴らしく、公演は大成功でした。

今回は、劇場ではなく、十字屋さんが持っているサロンでの上演。

客席を150席入れて、サロン全体を歌い手さんが歩き回り、空間を全部使うと言う形でしたから、幕ごとに景がはっきりとしていて面白かったと思います。

客席の前に、畳4枚くらいの平台が置いてあり、そこがメインのエリアですが、これだけ客席に近いと、本当に各々歌い手さんの技量や、経験値、何よりお客様に対しての責任みたいなことが感じられ、集まった方々は、本当に才能豊かで、尚且つ、オペラに対して、芝居に対して情熱があり、何よりも音楽を演じられる貴重な人たちでありました。

特にフィガロを歌った柴山昌宣君と、スザンナの赤星啓子さんは絶品で、こんなにかわいらしく、愛情豊かなフィガロとスザンナは見たことないくらいの素敵なカップルでした。

今回は稽古も少なく、それぞれが才能を持ち寄ったという感じでしたが、レパートリーってこういうことかと柴山君もしみじみ言ってましたね。

私もそう思います。

これはスッタフなどにもそうで、何回もやっているおなじみの作品は、たとえ楽譜が読めなくても、身体に音楽がしみこんで、自然に景を作ることが出来る。

「通常~する」と言う言葉は、ここから生まれてくるのだと思います。
そして、その「通常」をどう壊していくかがレパートリーを育てる。

さて、その柴山君が打ち上げの時に、すごく面白いことを話してくれました。

面白いこと、と言うか・・・改めてこの人が素晴らしいと思った瞬間でもありましたが・・・。

今回はサロンをすべて使って空間を作ってましたから、照明ももちろん、客席をも巻き込んで作られていました。

デザイナーはASGの稲葉直人君。

私も良くご一緒していただいて、素晴らしいお仕事をしていただく人ですが、柴山君が彼の照明家としての仕事に感動していました。

曰く、「かっちりと明かりは決まってるんだけど、だからと言って、頑固じゃなく、色んなことに応じて自由に空間を創っていて、安心して明かりの中に居られる。すべて任せて歌うことが出来る」

常々、稲葉君の明かりの作り方には私も信頼をおいていますが、歌い手さんからこういう風な話を聞いたことは無く、彼の仕事の良さと、何よりも、柴山君の感性の良さに感激しました。

劇場だと、もう少し距離を離して感じられる照明も、こういう狭い空間だと、もっと肌に感じるのだと思いますが、それでも、「安心して明かりの中に居られる。」と言うこと自体、柴山君が無意識に空間に影響され、それを表現に変えている人なのだと言う事が逆にわかって、舌を巻きました。

字幕を出していた私のタイミングが、お客様に通じて、「顔をみると反応がわかるんだよね。ありがとう」とも。

私自身は決して満足してない出来なのはおいといて、彼にとっては、音楽も、芝居も、照明も、字幕も、衣装も、ひょっとしたら、自分自身も、何もかも、彼の肌に触るものなのでしょうね。

だから、どれも針を持っていてはいけないんです。きっと。

私と彼は同級生で、今までオペラの内容のことは話しても、こんなふうな話はしたことありませんでした。

客席から見て、明かりが綺麗だとか、字幕がおかしいとか良いとか、そういうことは沢山話しましたが、お互いが、まだまだ自分の中から離れきらなかったのかもしれません。

これだから、最近は同級生たちと舞台を創りたくなる。

若い人たちの一生懸命さも、刺激を受けるし、楽しいけれど、でも、同じ時間を違う形で過ごしてきた感性を出し合いたくなる。

「そうだよね~」の同意の言葉が深みを感じるようになる。

本当に良い年代になってきました。

同時に、舞台空間と言う物に、私たちスタッフは、もっと責任を持つべきだとも思いました。

もちろん、今までも無意識に作ってきたわけではないけれど、私自身は、客の目や演者たちの肌に空気のように添う空間を考えたことが無かったかもしれません。

オペラの場合は、音楽があり、劇場全体にまず音楽空間がある。

その音楽空間に包まれた空気をどう作っていくのか。

その空気を肌に感じて、どう歌い手は、あるいは役者は生きていくのか。

いろんな意味で、良い経験値になった公演でありました。

出演者の方々、スタッフの皆様、お疲れ様でした!(^^)

「フィガロの結婚」一幕一夜

2009年9月10日~18日   銀座十字屋ホール

出演:フィガロ    柴山昌宣
    スザンナ   赤星啓子
    伯爵     大山大輔
    伯爵夫人  諸井サチヨ
    マルチェッリーナ 松下裕貴子
    バルトロ   黒木純
    バジリオ   流子健太郎
    バルバリーナ  西本真子

演出:恵川智美  舞台監督:中村真理  舞台美術:荒田良  照明:稲葉直人(ASG)

   
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by kuniko_maekawa | 2009-09-19 15:18 | オペラなお仕事 | Comments(0)

音演出と言うこと

「オルフェオとエウリディーチェ」のチケット発売ということで、各方面にチラシをお渡ししています。

そこで必ず聞かれるのが「音演出」って何?ってこと。

そのためにチラシにも一筆入れさせていただいていますが、ここでもちゃんと御説明しようかと思います。

オペラを上演する際に、一番重要なものは楽譜。

芝居の台本と同じと考えていただければお分かりかと思いますが、芝居の台本と違うのは、戯曲作家だけの世界観ではなく、そこに作曲家と言う音楽空間を司る人物がいることです。

つまり、楽譜を書いた作曲家と言う人物が人間であり、音符一つ、休符一つにもその作曲家の思考がある。

ト書き一つをとっても、そこにト書きが遂行される音楽が用意されていて、歌い手がそれをすっ飛ばして何かを出来ないようになっている。

むしろ、してはいけないようになっています。

単純に考えると、それは「制約」として私たちを縛っていると思われがちですが、そうではないのがオペラの面白さです。

つまり、その作曲家の指定した音楽をそれぞれの人たちが解釈して表現した時、オリジナリティが生まれる。

歌舞伎や古典バレエと同じです。

元々ある形を、演じ手の感性で解釈し表現する。
そうすると、そこにはその演じ手にしか表現できないものが生まれ、「~の勧進帳は素晴らしい」とか「~の白鳥は素晴らしい」と言って、リピーターが出来る。

オペラは伝承芸能です。

何百年も前に作られた作品を、ずっとずっと演じ続ける。

絶対に変わらない楽譜がそこにある。

それこそが、オペラの醍醐味です。

私が「音」にこだわるのは、これが理由です。

作曲家の残した楽譜を立体化したい。

そこにある「音」を全部観せたい。

それには、耳の刺激が絶対に必要です。

そして、耳に刺激を与えるための方法として、伝える方の歌い手たちの内面を刺激するのが一番良い。

そのために、言葉の「音」を作り、それを歌う(あるいは喋る)歌い手たち自身を刺激していく。

そうして生まれる感情から、自然に身体が動くのが正しいと思っており、まさに私の「正義」です。

「音演出」とは、楽譜に書いてあるすべての音を表現として伝え、観せること。

単純なことですが、一番難しいこの事が私の仕事と思っているのです。

さて、それを形にしていくのに、どの作品を選べばよいのか。

このシリーズではこの先もずっと、古典以前を扱おうと思っています。

特にバロック作品を中心に作ろうと思っていますが、これにも訳があります。

小節線を無くしたいからです。

演者と戯曲作家、作曲家たちのみで「音」が表現されていた時代。

芸術が力を持ち始め、這い上がろうとしていた時代だからこそ、人間の言葉に近い感じがする。

まずは、「オルフェオ」をご覧ください。

私たちの作る音。

その音で創る空間。

呟くように歌う詩劇を創りたいと思っています。

沢山の方の御来場をお待ちしています。(^^)
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by kuniko_maekawa | 2009-09-12 13:16 | MMC | Comments(0)