またしばらくお休みします~(@@)

どうもまた首と肩の調子が悪いので、しばらくPCは打てません。

ちょこちょこ更新ですが、覗いてくださる方ありがとうございます。

しばらくお休みします。

レッスン等のお問い合わせはHPのメールにて受け付けています。

やっぱ健康第一ですね!

お元気で。
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by kuniko_maekawa | 2010-02-23 12:46 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

二期会オペラ公演ヴェルディ作曲「オテッロ」

またまた素晴らしい公演を観てきました。

二期会オペラ振興会公演「オテッロ」です。

演出は白井晃氏。

俳優であり、演出家。顔写真を見れば、きっと皆さんも見覚えのある方だと思います。

私は高泉敦子さんが少年を演じたり、おばあさんを演じたりして変化自在な空間を創る「遊◎機械・全自動シアター」と言う劇団の演出兼俳優さんと言うイメージが強いのですが、一昨年偶然に演出なさるお芝居を観ていて、その時の舞台の色がすごく好きだったので、期待大での観劇でした。

「オテッロ」はヴェルディの晩年の作品で、ムーア人であるベネチアの貴族オテッロが野心をもった旗手のイヤーゴに騙され、最愛の妻を殺してしまうというシェークスピアの悲劇。

オペラでこれを表すのに、音楽的な要素ももちろんですが、何よりも演劇と言う要素を絶対に外すことの出来ない作品です。

今回は、このバランスがすごく良い舞台を観ることができました。

いつもならば、オペラを観るということは「音楽を観る」と言う感覚なのですが、今回はしっかりとシェークスピア劇を見た感じがありました。

耳にはヴェルディの音楽が流れていて、それぞれの歌手の方々の声が聴こえているにも関わらず、そこにはきちんと言葉があり、その言葉と音楽に包まれた舞台空間がある。

舞台は上手奥から舞台前に向かって一本の道のような大きなカイチョウ場(斜めに舞台が上がっていることです)があり、場面を変えていくのは、大きなパネルや四角いキューブをくりぬいたもの。
まるで「2001年宇宙の旅」のモノリスのような柱。

こういった抽象的ではあるけれど、シンプルな舞台を創ったのは松井るみさん。

宮本亜門さんの「太平洋序曲」でトニー賞にノミネートもされた方です。

彼女らしいどこか空間を割ったような、すっきりしたラインと、それぞれの壁面に書いてある雲や霞を連想させる模様が照明の変化によって不気味に、あるいは美しく変わって行きます。

照明は斉藤茂男さん。

白井さんとのお芝居を観たことありますが、その時も、今回も、すごく好きな「グレー」な色を出す照明さんです。

以前に一度御一緒したことあるのですが、その時もページをめくるような色の変わり方が好きでしたが、今回も、はっきりと変わっていく照明の色が、実に多彩で、しかしうるさくなく、何より効果的な「影」を創ることが最高に素晴らしかった。

すべてが白井さんの求めている「色」と「形」だとすれば、恐ろしく相性の良いスタッフが集まったのだと思いました。

そして、何よりも素晴らしかったのはキャストの歌手の方々です。

タイトルロールを歌った成田さんをはじめ、白井さんと丁寧に舞台を創ったのだと想像しました。

もっとも特筆すべき才能は、イヤーゴをうたった大沼徹君。

まだ30代になったばかりの若きバリトンは、この難役を本当にきちんと、そして堂々と歌い、演じきりました

芝居や歌唱もさることながら、好きだったのは居方でした。

普通、イアーゴをやると、音楽のテンションの高さと、悪役と言う特殊な役を歌うために、気負ってしまったり、音楽に押されて本来の声よりも無理をしてしまったりと、難しいのですが、彼が良かったのは、恐らく彼が本来持っている柔らかい声を、そのままに使ったことです。

もちろん、居方も演技も、言葉の扱いも若い。

さすが30代。

けれど、だからこそ「旗手」と言う、おそらくよっぽどの幸運がなければ出世しないであろう立場の弱さが見えるような気がしました。

単純に物言いが柔らかく、真面目そうに聴こえることの方が、悪役らしい太い声よりも怖い。

もっとも、そこまで計算して歌っていたかどうかはわかりませんが、その柔らかい声の響きが繰り出す色んな音は、十分に耳を刺激し、想像力をかきたてました。

長身で身のこなしも良く、本当にこれからが期待できます。

このところ、二期会オペラ振興会は、こういった意欲的な舞台を創り続けています。

元々はオペラはオペラ演出家、芝居は芝居の演出家と、どうしてもジャンルを分けて仕事を依頼されるスタッフも、この団体は垣根を越えて、新しい風を吹かせています。

今までも、宮本亜門さん、鵜山仁さん等、話題作を作ってきました。

こういう風にジャンルが違う演出家がオペラをやると、大抵は「やっぱり楽譜がわかってない」だの「ヴェルディじゃない」だの「モーツアルト」じゃないだのと外野がうるさいのが常です。

背景にはいろんなことがあります。

頑張ってオペラ演出のみを続けている、オペラ演出家も沢山いる中で、どうして芝居の演出家を使うのか。

当然知名度がチケットの売り上げに関係してくることもあるでしょうし、話題を創ると言うことも商業には欠かせないことでしょう。

しかし、それでもお客様にチケットを買っていただき、会場に足を運ばせるという、単純なサイクルを活性化させるために、何が必要かを考えると、結果的には正しいのかもしれないと思います。

弊害もあるだろうと思います。

やはりオペラは作曲家と言うたった一人の演出家がおり、彼の書いた楽譜がすべての源で、それをどう読むかと言う事が真価を問われる世界。

それに、歌い手という、身体を楽器にする人たちに対して、その楽器を余すところ無く、尚且つケアしながら、最高の状態で舞台に乗せることも必須。

芝居のように演出家が第一ではなくて、作曲家の言葉を実際に棒に託す指揮者が第一。

この独特な世界を、感性だけで創っていくには無理があります。

稽古場はやはりカオスになるだろうと想像しますし、実際にそうなった稽古場も経験したことがあります。

どちらの場合も、やはり大切なのは歌い手さんです。

歌い手が歌えなくなるような舞台では、オペラは成立しない。

そこを間に立って、橋渡しをするのが制作。

二期会は、こういったリスクやメリットをきちんと負って、制作作業が進んでいるからこそ、今日のような舞台が作られるのだと思います。

そこが素晴らしい。

ずっとオール日本人キャストで、和洋、国を問わずに、色んなジャンルのオペラをやり続けている二期会の志、そして改めて所属する歌手の層の厚さを感じた公演でもありました。

先に観た藤原歌劇団の「カルメル会修道女の対話」でも感じましたが、今、日本のオペラは新しい段階を踏み始めているのかもしれません。

イタリアやドイツや、海外からの指揮者、演出家、歌手の影響を受けるという段階を終えて、今度は日本人が日本人に影響を与える公演を創る。

今だから意味深い。
そう実感できた公演でもありました。
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by kuniko_maekawa | 2010-02-19 01:22 | 観劇日誌 | Comments(0)

目的を持つこと

日本中にオペラ公演は年間、数多く催されています。

個人で立ち上げたり、門下生の発表会までいれればかなりの公演数だと思います。

私たちスタッフも、大なり小なり、いずれかの公演にお世話になって生活の糧を得ています。

藤原歌劇団や新国立劇場、二期会など、日本を代表するオペラ団体の公演に関しては、もちろん商業ベースであり、そこで出演するキャストの歌手たちも「プロ」だと称される人たち。

市民合唱団を母体とした、いわゆる市民オペラなどでも、出演する歌い手さんたちは、やはり「プロ」と称する方か、少なくとも「プロ」になりたいと思っている人たち。

各歌劇団の研修所の修了公演なども、基本的にはオペラ歌手になりたい人たちの勉強機関ですから、卒業すれば、「プロ」になる道を歩くであろうと推測します。

地方でのオペラ団体も、東京のような発信は出来なくても、地方文化の発展の担い手を育てる、あるいは、観客を育てる、地元にオペラを密着させたい等、はっきりとした目的があります。

私たちは、基本雇われて各団体に行きますから、その団体団体の目的を明確に理解し、それに必要なことをやるのが仕事だと思っています。

しかし、困るのは、この目的がはっきりしない時。

ある程度の予算を捻出し、スタッフを雇い、オペラ公演という形態をとるけれども、出演者たちに明確な目的が無い時です。

その人たちは、もちろん声楽を習っており、ある程度の力量を持っている。

オペラの役が歌える訳ですから当たり前ですね。

しかし、ただ勉強している。

オペラ歌手になりたいとか、オラトリオを歌って行きたいとか、どこかに留学したいから経験を積んでおきたいとか(それだって最終的にどんな歌い手になるか、と言う目的が必要ですが)、そういった目的が自分たちの中にない。

習っている先生などに、「声楽を勉強してるんだから、オペラもやった方が良い」と言われるとか、「ただ誘われてやってみようと思った」とか・・・・。

それでも、稽古をしながら何か目的が生まれてくればOKです。

公演が終了したら・・・・・「苦手だった高さのコントロールが出来るようになりたい」、「イタリア語が理解できるようになりたい」、「人前で演技する苦手意識をなくしたい」等々・・・。

ただ「自分を変えたい」とかだけでも良いんです。

なんとか目的を持ってやってほしい。

何の目的もなしにやっている公演は、例えその時うまく行っても、何も産まない。

本人たちに、何かを成し遂げたいと言う強さやテンションが無いので、稽古場で何も生まれてこないんです。

演出家、あるいは指揮者の言ったことを、ロボットのようにこなして行くだけ。

しかも、こちらが「目的を持つこと」の意味を問うても、そのことも理解できない。

それこそ「目的が無い証拠」。

「ただ、好きな歌をうたっているだけで良いんです。」と言うのならば、チケット代を無料にすべきです。

気付かないから、予算を捻出するために高額のチケット代を設定してしまう。

「公演するならちゃんとしたホールを取らなきゃ駄目」なとど言われて、結構都心の名のあるホールを取ったりする。

知らないことは恐ろしいです。

そのことをちゃんと教えない方もどうかと思いますが、信じてついている先生ですからしょうがない。

たとえどんなに良いホールでも、内容が「勉強」のものに4千円とか5千円とか払うかどうか、その先生に聞いてみたいです。

とにかく、これから公演をやろうと思っている人たち、これを読んでくださったのならば、なんでも良いから目的を持ってことを起こしてください。

スタッフに依頼する時も、指揮者にお願いする時も、予算はともかく、自分たちがどうしたいから公演をやって経験値を増やしたいんだと、力説してください。

そうじゃないと、本当の雇われ仕事をすることになっちゃいます。

目的が無い人たちをなんとかすることは仕事には含まれていない。

ただ、「客への責任」はありますから、名前が出る以上、その責任だけは果たさなければいけません。
そのことだけが、私たちの目的になります。

ともあれ、「目的を持つこと=お客様への責任を果たすこと」。

この図式がわかっていれば、日本のオペラ界はもう少しレベルが上がるのかもしれません。

海外は劇場があります。

一流はみんなその劇場に集まってくる。

それ以外は二流以下です。

観客もそれがわかっているから、劇場以外のコンサートに関して、逆に寛容だったりする。

「よくがんばってるわね~」

沢山拍手をしてくれる。

その拍手がどういう種類かわかっているから、切磋琢磨が生まれる。

海外の友人が、そういう意味で日本は誰手も舞台に上がることができるといいます。

けれど、切磋琢磨は無い。

この悪循環は一生抜けないかもしれないけど、言い続けることは大事かもしれないと、おばさんは思っているのです。
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by kuniko_maekawa | 2010-02-13 12:35 | 演出家のつぶやき | Comments(0)

藤原歌劇団本公演プーランク作曲「カルメル会修道女の対話」

感想と言うより、まずはお知らせです。

本日15時、明日15時と東京文化会館で藤原歌劇団公演プーランク作曲「カルメル会修道女の対話」と言うオペラが上演されます。

演出の松本重孝さんを筆頭に、照明の沢田祐二さん、舞台美術の荒田良さん、衣装の前岡直子さんと素晴らしい才能が終結しました。

指揮はアラン・ギンガル氏。

私は「ドン・キショット」と言う作品で二回ほど御一緒していますが、人間的にも素晴らしいマエストロ。

「対話」と言う、オペラの核になる形式を、すっきりと、尚且つドラマをはっきり勧めていく音楽創りをなさっています。

題材はフランス革命後の宗教弾圧と言う難しい内容で、キリスト教的階級批判(主と僕という階級を生み出すことへの批判)を名目に、カルメル会の修道女達が斬首刑になったと言う事実を背景に、貴族階級からカルメル会へ入会し、自己精神と無償の誓願の間で揺れ動くブランシュと言う女性を主人公に、登場人物たちが、まさに「対話」をするオペラ。

登場人物たちは、動くのではなく、常に言葉を紡いでいます。

フランスの作品だからかどうか、言葉も難しく、哲学的で、しかも宗教理念が軸に語られている。

ただし、音楽は非常に美しく、一瞬まったく関係ない不協和音でさえ、ガラスが光っているように感じます。

松本氏の演出はシンプルで、舞台上も、場面転換を四本の大きな暖簾のような幕を境に、幕前と後ろでまさに「対話」を切り取っているような形です。

しかし、そこに望まれているものは「対話」であり、動くことではない。

そのことをどれだけ理解して、「ただ話す」と言う事をこなせるかどうかと言うのが、歌い手さんの力量を見る要になります。

そういう意味では、全日本人キャストで、これだけのフランス語の会話を成立させた藤原歌劇団の歌手の方々は素晴らしい!

特に明後日のブランシュを歌う佐藤亜紀子さん、コンスタンスを歌う大貫裕子さんは声の素晴らしさもさることながら、難しい役柄を「対話」することに成功していました。

病の床で死の恐怖に怯え、信仰と人間の苦しみの波佐間で文字通り悶絶死する、クロワシー修道院長の郡愛子さんは歌い手の経験以上に、御本人の役への執着、芝居への努力に歌唱のエネルギーが相まって、圧倒されました。

クロワシー亡き後、新修道院長となり、修道女たちと殉教をするリドワーヌ新修道院長を歌った佐藤ひさらさんも秀逸。

以前より、役の読み方の深さや演技の緻密さは素晴らしかったですが、やはり「対話」を成立させられる数少ない言葉を持った歌い手さんだと感動しました。

舞台は本当に素晴らしく、特に照明の沢田祐二さんの凝縮した明かりは、宗教画を観ているようです。

あまりに素晴らしくて言葉に出来ないくらい。

大好きな尊敬する照明家ですが、どの作品を観ても、どこが照明の変化なのか一回も見つけたことが無いくらい、自然に景が映っていき、いつの間にか物語りに誘導されて居ます。
何をかいわんや。才能ってこういうことだと思います。

荒田さんの舞台美術は文化の大ホールの舞台を思い切って前後に切って、狭い空間を創り、その分できる高さがものすごく有効に飾られていました。

例えば、1幕冒頭のブランシュの館の居間。

暖炉の上に巨大な先祖の肖像画があり、それを囲むような小さな額が規則正しく縦に並んでいます。

しかし、そこだけがこの館の高さを表す空間であり、極力場を狭めて人物の姿のエリアだけをあてた、沢田さんの照明と相まって、「偶像の虚構さ」をかもし出します。
貴族階級が崩壊し、燃えカスになる前の虚構さです。恐怖でもあります。

カソリックの貴族階級への傾斜、教会への偶像崇拝。

色んなことが創造される舞台でありました。

私は、自分がクリスチャンであるがゆえに、抱えている信仰の悩みをダイレクトに投影してしまい、この作品を観るのは、正直しんどいです。

それでも、二回、GPを観させていただき、心の中を吐き出したような苦さを感じながら、音楽の素晴らしさ、舞台の素晴らしさに感動せずに居られませんでした。

急なお知らせになりましたが、どうぞ、まだ間に合います。

会場へ足を運んで、この作品を観ていただきたい。

藤原歌劇団が新しく生まれ変わる瞬間かも知れません。

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by kuniko_maekawa | 2010-02-06 13:50 | 観劇日誌 | Comments(0)