音楽と身体そして舞台と言うこと

今月、久しぶりに大学の授業に行ってきました。

私の行っているS音楽大学では、今年大学院のガラコンサートで、一本のファルサ(笑劇)をやることになり、そのための訳を作ったり、それに基づく色々な資料等を学生たちに伝えたりと、今までとは少し違ったことをやっています。

授業での立ち稽古は、大抵9月から。

なので、この時期に演出家が入ることは珍しいですが、ファルサをやるということもあり、入れるものなら早めに入って、音楽稽古と一緒にリブレットを解釈していく方法等話せればと思って授業に入らせていただいたわけです。

大学の授業でも、一般公演でも、音楽稽古のあり方は中々難しいものがあります。

基本的に公演の中で組まれている音楽稽古は、芝居における台本読みと一緒だと思っています。

つまり、各々読み込んできた台本、あるいは楽譜の内容を、共演者や指揮者、芝居の場合は演出家と作っていく最初の段階。

なので、当然、その時に音が取れて無いだの、言葉の意味がわからないだのということは有り得ないわけで、結果、回数もそんなにあるわけではありません。

オペラ公演に関しては、本指揮者と合わせる前に、コレペティと言うピアニストと内容を個人的に作って行きます。

もちろん、その時に音楽だけが作られるということは有り得ない。

何故ならば、その音楽こそが作曲家の要求している「言葉」であるから。

しかし、これが学生ともなると、そこを理解してもらうのが一番大変。

先日の授業で、「リゴレット」の最終幕の有名な4重唱を聴いていました。

公爵がお忍びで、場末の酒場にやってきて、マッダレーナと言う女を口説いている。

この女はスパラフチーレと言う殺し屋の妹で、娘のジルダを手篭めにされたリゴレットが、公爵の殺しを依頼している。しかも、ジルダは公爵を愛しており、その娘に公爵がどれだけ非情な男か見せるために、二人は酒場の外で、マッダレーナと公爵の秘め事を聞いているという場面。

有名な場面なので、音楽がふと頭に浮かんでくる方も多いのではないでしょうか。

この4重唱は、確かにそれぞれの役に言葉が与えられていますが、例えば「フィガロの結婚」の4幕の5重唱(変装した伯爵夫人にケルビーノが迫り、それを伯爵とフィガロとスザンナが影から見ている場面)みたいに、ドラマはあまり動きません。

つまり、一人ひとりの言葉数が少ない。

しいて言えば、公爵はマッダレーナを口説いている分、言葉が多いのですが、それも後半になれば4重唱の中で同じ言葉を繰り返すのみになってきます。

舞台を観ていれば、酒場の中にいる公爵とマッダレーナが、いちゃいちゃしてるのを、酒場の外にいるリゴレットとジルダが聞き耳を立てて、歯がゆい思いをしているという図。

元々動かないんですよね。

しかし、音楽は動いています。

これはさすがに言葉では説明しにくいのですが、例えば、「Bella figlia dell’amore~」で始まる、公爵の口説き文句の部分は、ゆっくりしたテンポで気持ちよい音楽ですが、ダイナミックスが秀逸。

PP、クレシェンド、デクレシェンドと繰り返していきますが、それがマッダレーナの耳元、あるいは口元で身体を寄せながら歌っているような波を感じさせる。

それをまるで切り離すみたいにマッダレーナの早い言葉が入ってきます。

その後を公爵と同じくらいのテンポ感で、ジルダの「裏切られた」と言う言葉が入ってき、ついでリゴレットが「まだ満足しないか」と問いながら、ジルダと同じ音楽観を持ってベースに入ってきます。

この楽曲の構成は、4声をあわせて、二分音での長いフレーズの後に、16分音符での短い言葉の刻みがあり、これが時間をずらして入って来る。

ま、文章だとよくわからないと思いますが、想像してみてください(笑)。

こういう音楽をどう演奏するかと言われても、本当に、ただただ楽譜通りに演奏するのがベストだと答えるしかありません。

なぜかというと、その音楽こそが、舞台の空間を創っているからです。

これをして「音楽空間」だとよく言っているのですが、それを歌っているほうが理解しているか理解していないかでは、舞台の見え方が全然変わります。ウソではありません。ほんっとに。

重唱は人数が増えれば増えるほど、個人が歌っている箇所や言葉は、どんどん楽器に近くなっていきます。

つまり、言葉を追うことが出来なくなってきて、全体の音楽だけが聴こえて来る。

映画のように、カメラを向ければ、個人の顔は映されて、その言葉は表情とともにわかるかもしれませんが、ライブの舞台でそれは出来ない。

お客様はきっと、その時聴こえてきた声をただ聴くことになるのではないでしょうか?
私自身はそうです。

誰というのではなく、その時生まれた音楽を聴いている。

しかし、そこに関係性が無いわけではないですよね。

例えば、リゴレットとジルダのフレーズが一緒であれば、そこには関係性の音楽空間が生まれてくる。
それさえ理解できていれば、二人が正面を向いていても、その身体が語ってくれる。

難しい言い方ですね。

簡単に言えば、その音楽を作っているという意識を持って欲しいと言う事でしょうか。

これは自論ですが、オペラの場合、舞台上で歌手が行うことに無意識なものは無いと私は思っているのです。(芝居は経験が無いのではっきり言えない)

一声出すのも、意識的なものが欲しい。

何故かというと、オペラの場合は、作曲家の音楽が歌い手の声よりも先に「scena(場面)」を予測させるから。

つまり、言葉が聞こえるより先に、音楽が耳を変えていく。

そして、その先の方向性が聴いている人にわかるのは、歌手の言葉が入ってきてから。

それがわかっていれば、如何様でも客を期待させ、騙すことが出来る。

フェルマータなんて最たるもんですよね。
空間が止まっているその次は、歌い手しかわからない。

だから、常に意識的に音楽を司っていて欲しい。

無意識が許されるのはテクニックを気にするとか、そういった初歩的なことかな(^^;)

そうやって意識されている歌い手の身体は生きてますから、言葉よりも音楽で場面が動く場合、その身体を見ているだけで、舞台は成立します。これがオペラの醍醐味。

この4重唱を学生達が歌った後、当然何も感じませんから、先のことを説明して、楽曲を解釈してもう一度歌わせると、たとえ学生であっても、音楽空間を持つ身体になってきます。

だから音楽稽古が大切。

その作品の音楽観にどれだけ身体を合わせ、指揮者や演出家と感性をあわせていくことができるのか。
作品ごとに、プロダクションごとに、自分と言う歌い手の仕事を決めていく瞬間だからです。

このことをどれくらい理解してもらえるかわかりませんが、とにかくただただ伝えるのみ。

音楽と身体とscenaはすべて同時に創られるべし。

音楽空間は、音楽家だけが創れる、特別な空間なんですね。
ああ、羨ましい~!

さて、そろそろ色々と動き出せそうな感じになってきました。

この音楽空間を自分でも、もっと具体的に創っていきたいので、そのための企画もしようかなと思っています。

やっぱり創って何ぼだけど、ただただ舞台だけに集中するのは嫌なんですね。

もっともっと音楽を創りたい。

そう改めて思った夏でありました。
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by kuniko_maekawa | 2010-07-25 17:59 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)