セオリーというもの

あれよあれよという間に、10月に入りましたね~。

このところ雨が多くて寒かったですけれど、今日はまた夏の日差しが戻ってきたみたい。

それでも風が涼しく、やっぱり秋だと感じるようになりました。

日々の生活は相変わらずで、週の前半は大学の授業関係のことに追われ、週の後半は抜け殻のようにぼけっと過ごす・・・。

ここ20年間の中で、こんなに時計がいらない生活をしたのは初めてです。
良きかな。(^^)

とは言いながら、この商売は人と対することがまず仕事。

大学に行けば、関わる人たちすべてを含め、軽く60人くらいと毎週向き合っている。

外の仕事でも多くの人とかかわりますが、人として生きている限り、そこにはそれぞれのセオリーというものが存在しています。

セオリーとは、「理論」。

主義であったり、思想であったりするものでしょうか。

この間も、一人の学生とそのことを考えざるを得ないような状態になりました。

彼はいわゆる問題児で、他の学生たちと足並みをそろえることが出来ません。

例えば遅刻や早退等、誰かに伝えることをしない。

黙って姿を消す。

全員に話しているときでも、一人だけ椅子に座らず地べたに座って前に立っているものから姿を隠したり、椅子に座っている時でも、きちんと座っていられない。

与えられた課題をやりこなすなど、当然やらず、相手役が稽古できない。

しかし、話をすると暴力的でも無く、むしろ丁寧に敬語も話す。

出来なかった課題のことや、態度を怒られると落ち込む。

これがふてくされるとか、一貫して態度が悪いとかなら、怒れば良いし、授業をやめさせても良い。

ところが彼の大きな問題は、すべてにおいて彼にとっての「正しい理由」があることです。

例えば、朝9時に授業に来るのに起きられないから友達にモーニングコールを頼んでいる。

しかし、ある日、授業が無くなったので、そのモーニングコールの電話をかけなくてよいと言うことを友達に深夜2時に伝えたというんです。

9時に授業に行くためには、彼が何時に起きれば良いのかわからないけど、少なくとも7時には起こさないといけないわけで、その時間にかける電話がいらないというのを深夜2時にかけたというのです。

これについて、彼の正しいところは、わざわざ電話をかけてもらわなくてすむように、事前に知らせたところ。
しかし、相手の都合は全く関係ない常識を超えた時間帯です。

これは担当の先生がかなり怒ったらしいんですが、彼曰く「言われてわかった」

課題が出来て無いことも、「歌ってみてわかった」

小道具を探している時も「知らないからわからない」

こちらからしてみれば、まず深夜2時に相手に電話をかけること自体NGだし、歌ってみないと自分の勉強の度合いがわからないのが理解できないし、小道具を知らなければ、調べればよいと思うわけですが、彼にはどれも通じませんし、どれにも理由があります。

つまり、彼にはセオリーがある。

自分は自分の思うとおりにやったら、他とは違っていた。
それがわかったんで、今度からはちゃんとできると思う、と言うわけです。

なので、彼には怒鳴ったりすることはまったく意味を成しません。

自分としては納得行く形でやっているのに、何を怒られているのかわからない。

しかも、言われたら直すというシステムも持っていますから申し訳ないが、余計始末が悪い。

つまり、彼はそれでコミュニケーションも取れていると思っているからです。

こういったことで彼はずっと「マイペース」と言われてほったらかしにされてきました。

「ああ、○○だからね~」

この学生と授業をやっている時、やはり問題が起こったために、このことを彼に話しました。

相変わらず「知らなかったからしょうがない。言われたので直してくる」と言う会話になったからです。

その時に、私が彼に話したことは、こういうことです。

「あなたの性格や、あなたが持っているセオリーは、私には関係無い。しかし、あらゆることに責任がある。授業を選択した責任、相手役への責任、自分を育ててくれる先生への責任、聴いてくださるお客様への責任。それをどう取るつもりなのか」

どうしてこんなことになったかと言うと、彼が与えられた課題を半分ほど歌った時、「すみません、ここから先は、意味もわからないし、音楽出来て無いので歌えません」と自分で歌うことをやめてしまったからです。

このまま歌えなくなるよりは、止めて謝った方が正しいと彼は思ったわけです。

私の問い掛けには彼はどう応えて良いかわからない風でした。

彼の答えはともかく、一個人のセオリーはプライベートの問題で、それを貫きたいのならば、相手を犠牲にすることをわかっていなくてはいけません。

私の知り合いに、己のセオリーを守りたい一身で、ウソばかりついている人がいます。

そうすることで、自分が守られると思っているわけです。

しかも自分が正しいと思っていますから、ウソがばれても悪びれない。
仕事はちゃんとやっていますから、むしろ周りのほうが「あいつはな~」と言って、彼に合わせています。

彼はますます冗長して、今や裸の王様。

そういう意味では、セオリーを通すということは、かなり強い意志が必要です。自分以外の人間にそれを押し付けるわけですから、やり遂げている人は逆に感心します。

が、人間として生きている限り、この世の中は自分だけで生きているわけではない。

生まれてくる瞬間から、一人ではない。

私にもセオリーはありますが、それが人を傷つけてしまうものや、不快感を与える時には、出来るだけ我慢しようと思っています。

そう思えるのは、対人間を意識しているからです。

それでも時として、人を傷つけてします。

その学生も、私の知り合いも、恐らく、自分以外の人間は意識されていないのだと思います。

あるいは、自分のセオリーを一緒に生きてくれる人や、理解してくれる人以外は。

でも、それでいいのでしょうか?

私はやっぱり否だと思います。

この間BSで裏千家の大宗匠、千 玄宝さんのインタビューをやっていました。

最近は全部個々で生きている。日本語で言えば「と」の時代だと。

昔は親「の」子、あなた「の」わたし、と相手と自分が一対だった。しかし、今は親「と」子。あなた「と」わたしと言う具合に、各家族化されている。

だから礼儀とか作法が家庭で教えられない。

もう一つ素晴らしいと思ったのは物には「形」が必要だ。

それは「型」と言う物に、人間の「血」が入って「かたち」となるのだ、と。

う~ん、さすが!

この「ち」の部分が本当になくなっているように感じます。

セオリーを持っているのは悪いことではありません。

しかし、人にナイフで切りつけても、「切れば血が出るとは知らなかった」と言いながら、相手の指を包帯で巻くようなセオリーは、すでに「理論」ではありません。

私はそういう若者たちを、母親のように教育することに興味はありません。

しかし、知らないことがわかればやる、というのであれば、教えるのは教師をしている責任だと思っています。

この地球は本当に面倒くさい。

人間のセオリーがイニシチアブを取っているから。

自然や動物たちを見ていると、それが生きるためだけの本能だとわかり、無限の広さを逆に感じます。

生まれ変わったら、そこら変の草になりたい・・・・。

礼儀も、常識も、人のことを考えれば自然に身につくことです。

ふと見上げたらそこには誰かが自分を見ている。

その学生にも早く気付いて欲しいです。
[PR]
by kuniko_maekawa | 2010-10-02 12:19 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)