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言の葉のいずるよりも前にきみが好きだった

セッコの扱い方

毎日暑い日が続いていますが、皆様いかがお過ごしですか?

さて、8月6日の「オルフェオとエウリディーチェ」の公演のために、毎土日をかけて稽古を進めています。

先週から本読みを終えて、音楽稽古に入りました。

今回は指揮者を入れずに、私とピアニストと歌い手たちで、音楽も作って行きます。

「音楽を作って行く」

こう書くと、音楽家でない私にはおこがましい感じではありますが、「音演出」と言うのは、楽譜を台本に変えていく作業が主だと思っているので、出来るだけ自分で楽譜を扱いたく、無理は承知で頑張っています。

さて、グルックは1700年代の作曲家。
モーツアルトやロッシーニとかと同じ年代の作曲家です。

なので、楽曲の構成は、セッコとアンサンブルとアリア。

今回特に丁寧に作業を進めているのは、このセッコの部分。

セッコと言うのは、アンサンブルやアリアの間に入るもので、ミュージカルで言えば、台詞の部分をあらわしています。

ですから、単音で言葉のアクセントや文章の流れにそってメロディがつけられています。

メロディがあるのですから、当然、そこには音符が存在しています。

そして、音符があると言うことは、リズムもあるということ。
つまり、音符の長さが存在していると言うことです。

言葉で書くと中々説明しにくいのですが、普通の楽譜のようになっていると言うことですね。

なので、もちろん歌い手さんたちは、この部分も音を取り、メロディを歌います。

しかし、この扱い方が問題なのです。

通常このセッコの部分と言うのは、元々ある音架を反映しないことが常でした。

どういうことかというと、音符の並びや休符を無視して、言葉のニュアンスで歌うということです。

例えば、「おはよう」と言う言葉が「八分音符、四分音符、四分音符、十六分音符、八分休符」などで表されているとします。

そうすると音符どおりだと「おはーよーうっ」みたいな感じの言葉のリズムになります。

ところが、これだと通常私たちが話す話方と変わっちゃいますから、自然に「おはよう」と言えるようにリズムを変えて歌うのですね。

フレーズの速さもそうで、その時、歌い手がやりたい感情で歌われますから、一定じゃありません。

アリアの前にあるレチタティーヴォセッコみたいに、オケが途中で入ってくる場合は指揮者がテンポを合わせていきますが、それ以外は上記みたいなことが起こってきます。

しかし、私はこの状況で歌われることがあまり好きではありません。

音符が書いてある限り、作曲家の意図がそこには存在しているわけで、こちらで変なことを考えて曲解するより、そのまま歌ったほうが、よっぽど状況を表すことが出来るからです。

例えば、「愛の妙薬」の1幕でのネモリーノとアディーナの会話などそうです。

ベルコーレの求愛を受けた後、ネモリーノがアディーナに「一言良い?」って声をかけます。

アディーナは「いつものため息をついているよりは、おじさんのところに行ったら?」と進めます。
おじさんが重病で、もし死んだら、遺産をネモリーノに残すと噂を聞いたからです。

それに対するネモリーノの返事はこうです
「Il suo male non e' niente(4分休符)appresso al mio(彼の病気はたいしたことないよ・・・・僕の次だ)」

この4分休符は反映されるとされないとでは、全然違います。

このままストレートに歌い替えても、もちろんこの二つの文章は語れますが、この逆説の文章に一拍を入れることによって、彼の気後れが表現されやすいです。

つまり、おじさんのところへ行けって言い放った彼女に、思わず「そんなのかんけいねえ!」って言った後、一瞬、彼女の顔やリアクションを受けた可能性もあり、気持ちがちょっと引いちゃって「僕の悩みの後で良い」って言う。

これは本来なら「僕の悩みの次なんだから、おじさんの病は大したことないよ」って言える文章なんですが、わざわざ休符を入れて、逆説で強調している。

もちろん、気が引けると言うことだけでなく、アディーナをちょっと観て彼女を伺ったとか、ひょっとして彼女が気色ばんで、それに言い訳したとか、いくらでも考えられますね。

そういう様々な可能性が、リズム通りに扱うことで浮かび上がってきます。

つまり、何も無いことから感情やシチュエーションを起こしていくより、こうやって音楽の力を借りた方が結局、簡単だと思うのです。

このリズムのパターンは次のネモリーノの台詞にも使われています。
「Partirmi non possio (一拍半休符)Mille volte tentai・・・(離れることは出来ないんだ。・・・何度も行こうとしたのに)」

こんな感じ。
このときも、同じパターンで逆説的なことが休符によって強調されています。しかも先ほどとはもう少し長い休符。と言う事は、さっきの事柄よりも、尚更言いにくいことなのか、強く言いたいことなのか、と言うことが考えられますよね。

これに対してアディーナはいきなり一拍半と言う長い休符のあとに「M'asegli more,e lascia erede un altro?(だけど、もしおじさんが死んだとして、他の人に遺産をあげたら?)」

この台詞の前の一拍半は、例えば、ネモリーノがこういう答えを自分に対して言わないと思っていたから、ちょっと驚いたとか、あまりにネモリーノが自分と違う考え方をしていて、呆れたとか、如何様でも表現することが出来る。

でも、これらの休符を使わなければ、ただただ言い合いしてる人たちで終わっちゃいます。
これが私は嫌いです。

文章では伝わりにくいと思いますので、是非、楽譜をお持ちの方はごらんになってみてください。中々面白いですから。

オルフェオでもこういう現象は起きます。

物語は「愛妙」よりも現実離れしていて、しかも激しています。

ですから、感情だけでセッコを扱っていくと、逆に感動が薄れてきます。

最初に音楽稽古をしたときには、歌い手の方々は、やはり通常のセッコの扱い方をなさっていました。

さすがにキャリアがありますから、ちゃんと最初に音を出した時から、本読みの内容を反映させるべく、会話は成立しています。

このままでも大丈夫ではあるのですが、今回はとにかく丁寧に楽譜と向き合いたいので、お願いして、今はかっちりとテンポどおりにリズムを歌っていただいています。

その中にある休符、音符の長さ、音程の幅、そういうことから台詞を創ろうと思っているので。

ありがたいのは、今回のキャストの方々は本当にキャッチボールがスムーズで、表現と言うものにすごく興味を持っていてくださるということ。

当然、そういう方々に声をかけさせていただいたからではありますが、たった一言、それをお願いしただけで、即座にやりたいことを分かっていただき、苦労しながらも楽譜に取り組んでくださいます。

偶然、平行してS大学のオペラ実習でも、同じことを話してトライしています。
彼らにも楽譜のことに興味を持って欲しいから。

特に大学院の学生たちは、この先現場に出て行く可能性もありますから、出来るだけ音楽を創れるようになって欲しい。

しかし、勘違いが無いようにお願いしたいのは、必ずしも、私のやり方が正しいとは限らないと言うこと。

基本的には、おそらくイタリア人の指揮者であっても、セッコはリズムどおりでない表現を要求するのではないかと思います。

彼らは言葉がわかるだけに、ニュアンスを大切にする。

それは間違いでもなければ、ある意味自由な部分であると関わる人たちが認識があれば問題はありません。

この世界、マルもバツも無い世界ですから。

私はあくまで、作曲家が演出家だと思っているので、彼らのやりたいことを立体化してみたい欲求に囚われているだけなんですね。

でも、ヨーロッパとは違い、下地の無い東洋人の私たちが、こういうやり方で楽譜と取り組むのもありだと思うんです。

そういう演出家でありたいし、トレーナーでありたい。

とにかく、これがどんな形になっていくのか、私もまだわかりませんが、毎回良い稽古をさせていただいています。

どうか皆様、会場に足をお運びください。
損は絶対にさせません。
素晴らしい歌い手たちですから。

私のこの「音演出」を聴いてみていただきたいんです。
私のこれからのためにも。

さて、今日もこれからまたじっくりと楽譜と向き合う時間です。

これが私の最高に至福の時。

神様に感謝して(^^)
by kuniko_maekawa | 2008-07-14 13:29 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

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