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言の葉のいずるよりも前にきみが好きだった

2005年 11月 06日 ( 2 )

台詞

ただいまは朗読会のお稽古真っ最中です。11月に入ってから、毎日のように台本を読む作業を続けていますが、10月から稽古をしている人たちが、段々読みなれてきて、言葉が口についてくるようになりました。しかし、それだけでは朗読は成立しません。しかも、私達が今回読んでいる台本は、芝居のためにかかれたもので、朗読用ではありません。つまり、舞台で役者が実際に動きながら口にする言葉です。ですから、生きているのですね。
この「生きている」言葉を、動かずに読むというのは結構難しいことです。説明的なことがないということもありますが、なんと言うか、動きの動機になるような感情的な言葉が多いと言うのでしょうか・・・。もちろん、これを読むのは私の意図することであります。つまり、場面を構築することが出来る台詞を、読み手がどう扱えるのか。立ってようが、座っていようが、多分関係ないことで、自分の感情が動くきっかけが、読んでいる台詞だと、読み手がわかっていればいいのです。
まあ、でもそんなに簡単にはいきません。弊害は台詞を覚えないこと。去年もそうでしたが、台本は手に持ったまま読みます。台詞を覚えると言うことは、私には結果だけの問題にしか感じず、これも、言葉を理由に出来れば、どちらでもよい。しかし、覚えるということは台詞が自然な言葉になりやすく、案外そうした方が楽だったりします。動かずに国語の時間のように読むのでは、感情も湧きにくいというわけですね。しかし、何度も言いますが、動こうが、覚えようが、台本を見て喋ろうが、とにかく同じなのです。しかし、今読んでいる人たちには、この「言葉を理由にする」と言うのが、まだ良くわからないみたい。それは「読んでいる」ことにとらわれているからなのです。
これをはずすのは案外簡単です。台本を持ったまま、立ってみるのです。適当にぶらぶらと歩きながら、台本を読んでみる。そうすると、簡単に台詞は本を離れ、いもしない相手のところに飛んでいきます。しかし、席について、落ち着いて読み始めると、また「読む」ことに真面目になる。これはどういった現象なのですかね?科学的な立証は私にも出来ません。しかし、考えられることは、台本に向かっていると、目の情報が勝ってしまい、台詞に具体性を感じないのではないかということです。もちろん、立っていても目は台本を追っています。しかし、体が動いている分だけ、空間が感じられて、そちらの方に脳が反応して、自然に場面を創造することが出来るのではないでしょうか?そのときは、台詞が身体を動かす理由になっているのがわかるのです。
私は、それが目の情報から起きることを望んでいます。その想像力が読み手にあって初めて、朗読は成立します。そして、聞いているお客様が、耳に入ってくる台詞によって、物語を想像していく。後、10日くらいですが、なんとかこの域に達する努力をしつづけたいです。そして、聴きに来てくださった方々を、絶対に2時間立たせない!と思っているのです。
今年は集まったメンバーも、去年とは違い、知らない人同士が集まり、常に稽古場が新鮮で良いです。集まった人たちは、レッスン生もいれば、経験として参加する人もいますし、これから先の方向性として「朗読」を選んでいる人もいます。そして、何かしらオペラを歌うときのために役立てようというエネルギーが強い。毎回楽しんでいます。ですからきっと、良い本番になると思っているのですね。明日も頑張ります。それにしても、本当に面白い台本ですよ。是非、いらしてください!
by kuniko_maekawa | 2005-11-06 20:23 | 稽古場 | Comments(0)

日本オペラ団体連盟人材育成オペラ公演

日付は変わりましたが、本日は文化庁による人材育成事業の一環である、日本オペラ団体連盟人材育成オペラ公演「修道女アンジェリカ・ジャンニ・スキッキ」に行ってきました。今年何本目かのこの演目ですが、この公演は、二期会オペラ振興会、藤原歌劇団、室内歌劇場などが母体となり、若手の育成のために、毎年オーディションをして、公演を行っています。今年は三回目。
歌い手達はオーディションで選ばれた各団体の精鋭たちで、条件として35歳までで、まだ本格的にオペラデビューを飾ってない人と言うことです。しかし、若いためか、残念ながら、音楽的な満足感はありませんでした。「アンジェリカ」の方は特に。作品自体が難しい題材を扱っているにもかかわらず、今回の演出が抽象的で、精神病院的ありかたの修道院を描いていましたから、その狂気ばかりが目立って。楽譜の中の背景が、まったく浮かんでこなかったせいもあるかと思います。しかし、本人達にも、音楽を創ると言う意識はどこまであったのか。そして、18世紀の女子修道院をどこまでリサーチしたのか、誰一人として自分の足で立っておらず、またそのことに気づいても無いような不安定さを感じました。
ジャンニは確かに面白く、この演出家の面白い感性が一杯出ていました。創られている絵も綺麗。しかし、やはり楽譜の背景が何も浮かんできません。衣装もセットも、明かりもすごく良いのに・・・・・。一つは喜劇に煽られて、あるいは演出家のテンションに煽られて(?)、わかりませんが、とにかく無駄な動きが多すぎて、肝心なことが、消されてしまっています。これも個人個人の音楽が構築されていない。誰が何の役か、衣装を着てなければ、キャラクターがわからなかったでしょう。それくらい音楽が無視されていました。これも、若さ故なのでしょうか?それとも、公演スタッフの誰もが、それに気づかなかったのでしょうか?
今回、こういったことを気づかされた要因に、助演の人たちの素晴らしさがありました。ジャンニのほうですが、藤原歌劇団の重鎮が4人。まず医者スピネッロッチョの中村靖さん。公証人の久保田真澄さん。靴屋の松山いくおさん。染物屋の牧野正人さん。もうね、名前が並ぶだけでも恐れ多い人たちです(笑)。藤原の本公演でも、新国立劇場、琵琶湖ホール、ありとあらゆるところで重要な役を歌っている人たちですが、この贅沢な助演の人たちは、やはり出た途端に場をさらっていきました。なにより、ちゃんと音楽してるのです。キャラクターを音楽からちゃんと創ることが出来る。松山さん、牧野さんに至っては、三言しかソロが無いのにも関わらず、傍らにいる間、作品のキャラクターとして、きちんと舞台にいる。その瞬間に、舞台が締まるのですね。久保田君はかなりハイソな公証人を演じていましたが、ばっちり楽譜どおりで、ト書きまで見えるよう。でも、ちゃんと会場の笑いを誘っています。この4人が出てくると、他のキャストは例え、主役のジャンニであっても、存在がなくなっていました。これはなんなんでしょうね~・・・・(^^;)。
私は、やはり経験もあるかと思いますが、彼らの中の音楽観の問題だと思っています。そして、出てきた瞬間から、作品のコマとして、潔く舞台に才能を放り投げる、快感。そういうことをちゃんとわかっているのだと思います。
この4人の域に達するには、本日の歌い手達は、10年だってかかるでしょう。それぞれの才能もあります。しかし、頑張って欲しいと思います。何より、音楽を自分で作ること、そして、それが作品を伝えるために必要なんだと、早く気づいて欲しいです。なんだか、聴き疲れした2時間でした。
by kuniko_maekawa | 2005-11-06 00:42 | 観劇日誌 | Comments(2)

オペラ・レッスンのこと、演出のこと、舞台や絵画や色んなことを書きまくっています。