2009年 05月 07日
声の記憶
一つ公演が終わって、今や毎日が日曜日になった私に取っては、あんまり関係ないことではありますが(働いている皆さん、すみません~^^)、それでもちょっとお祭りっぽい雰囲気だったのが、普通の平日な感じはしてきました。
さて、オペラ公演に入っていると、毎日、毎時間、耳に聞こえてくるのは歌手たちの声。
歌って初めて台詞を喋るということになるこの声の威力には、これまでもしばしば魅了されてきました。
ソリストとして舞台に上がってくる歌手は、当たり前のことですが「声」を持っています。
それが無ければ歌い手にならないわけで、当然、皆さん良い声です。
それがどう扱われていくか、あるいは、どう使っていくかを吟味していくのが稽古場でありますが、こうやって色んな歌い手の方と御一緒していると、やっぱりとても好きな声や好きな歌い方に出会うわけで、それが私の中の「声」の記憶として残ります。
でも、それってただ好きな声と言うわけではなくて、すごくマニアックに残るんですね。
例えば、「ボエーム」の4幕のマルチェッロとロドルフォとのデュエットで、マルチェッロが歌う「e il mio vile la chiama」の一フレーズはMさんの声。絶品(^0^=)
この方の声は高いFの辺りが大好きで、「蝶々夫人」の三幕でスズキとピンカートン、シャープレスが歌う三重唱でも大好きなFがある。
もちろん公演を御一緒してますから、「ボエーム」の時など、その場面になると必ず舞台袖に行き、私が聴き入ってると、共演してたイタリア人歌手が「久仁子は仕事熱心だね、いつも僕らを心配してて舞台袖に来てくれるね」って勘違いしてました。おめ~の声を聴いてんじゃね~!(笑)
「ドン・ジョヴァンニ」のカンツォネッタが残っているのはT君。
ふっふっふ~、これはね~、実は二人で歩いている時に(まあ、デートではありません)、元々もこの歌が好きだった彼が鼻歌で歌ったんですね。
でも、この時の声がすごく心地良く耳に残り、この曲ってきっとこんな風にドン・ジョヴァンニが窓辺で歌ったんだってなんかなっとくした。
それ以来、D・Gを演出する時は、必ず「カンツォネッタは鼻歌で」と注文を出し、「殺す気かっ!」と言われています(^^;)
同じくD・Gの「カタログの歌」と言うレポレッロのアリアはU君。
これはね~、何がどう好きというのはあまりなく(基本、声は好き)、なんだかこのアリアは彼が歌うのがしっくりくる。きっと言葉の扱いや音楽の持っている質に彼の声が合ったのかも。こういう記憶もあります。
愛妙のベルコーレの1幕フィナーレは断然O君。
これは本当に綺麗なパッセージで、誰が歌ったのを聴いても好きでは在るのですが、今だ、O君の響きにまさったものは無し。
これも聴いた時のシチュエーションは笑えたんですが、分かっちゃうので内緒。
でも、初めてすべてのパッセージが音階として成り立っていて不思議に感動しました。
ここまででお気づきになった方も多いと思いますが、はい、すべてバリトンですね(笑)。
実は、私はバリトン好き。(^^)
声の記憶も、多く残っているのはバリトンの声。
こればっかりは好みなので、御了承ください。
もちろん、ソプラノもメゾもテノールも好きな声は沢山。
目が覚めるように綺麗な声にもであったことはあります。
でも音符を伴って記憶に残るものは引っかかるところが多分違うんですね。
こういう記憶は、やっぱりそこから想像力をもたらしてくれるので大切にしています。
おかげで、どの歌い手にもこれを要求しちゃうので、煙たがられることしばし(笑)。
さて、しばらくは「オペラなブログ」もゆっくり更新に戻りますかね~。
次の発信の準備はそろそろと・・・・・。
また告知しま~す!
2007年 09月 06日
追悼 ルチアーノ・パヴァロッティ
癌の手術をNYで受けて自宅療養していたようですが、神さまは彼をお召しになりました。
大好きな歌手でした。彼を含む3大テノール、ドミンゴ、カレーラスは私がちょうど歌い手を目指していた頃に全盛期でありました。
彼らのコンサートやオペラの舞台を観るにつけ、心に歌い手としての夢を植えつけて、憧れを募らせたものでした。
まだ出始めたVHSビデオで、パヴァロッティが初めて来日コンサートをした映像を録画して何度も見ました。カラスが最後のコンサートで日本に来たときも同じくらいだったのじゃないかしら?
白いハンカチをいつも手にして、歌い終わるたびに客席にキスしながらそのハンカチを振っていたのを覚えています。
黄金のハイ・ツェー(三点ドです)と言われ、まさに輝くばかりの歌声で魅了されました。
彼が発声の事を話しているときに、「声を守るために母音をつぶすのは間違いで、どんな高い音でも、どんなPでも、言葉を変えずに歌えるのが正しいことだ」と言っていたことがずっと私の礎になっています。
歳を取っていけば、自然に神さまに召されるのが当たり前ですが、やはり偉大な輝石を失った感じがして寂しいです。素敵なオペラ歌手でもありました。ネモリーノなんか最高でした・・・・。
こうやって時代は変わっていくのですね。
後に続くテノール歌手の中にも、本当に逸材はいますが、こんなに観客に愛された人はいないのではないでしょうか。
心からの尊敬を込めて。
ルチアーノ・パヴァロッティ氏のご冥福をお祈りいたします。
2007年 06月 19日
二人よれば・・・・
さすがにトレーナー業も4年目に入ると、案外ネタも切れてくるような・・・・。
そこへ、ちょっと面白体験。
先日、若者が二人、どちらもバリトンですが、楽譜を読みに来ました。
時間を設定したのが遅い時間だったので、谷保から都会へ帰るにはちょっとお腹がすくだろうな~となんとなく思い、その日私が食べようと思っていたご飯をおすそ分け。3人で粗食を食して、ちょっとお喋りしてました。
3人で話しているときも、オペラの話や歌い手の話に終始するのですが、私が流しに立ったりして彼らだけになると、その話がもっと現実味を帯びてきます。
例えば、発声の話とか、歌い手としてどうかとか、好きな歌手は誰だとか・・・・。
いわゆる歌い手同士の話になるわけですが、これが中々新鮮。
それで「歌い手二人集まると、声自慢、歌い手自慢になるんだね~」なんて思わず茶々を入れてみたらば、これでテノールが入ると、こう言う会話にはならずに、ず~っとテノールがしゃべってばっかりなんですって。
バリトン同士だから、まだお互いの会話が成立しているのだと彼らは言っていましたが、その会話には、もはや私は入れず。ふ~ん、ふ~んと相槌を打つのみです。
でも、ちょっと面白かった。
私の戦友や、仲の良い歌い手達は、こう言う風に誰かに発声の話とかをしている感じがありません。自分で勝手に解決してるように思える。結局は孤独に頑張るしかない職業だからだろうけれど、この若者達は両方とも20代の真ん中くらいの年齢で、まだ足元がはっきりしないからかもしれませんが、自分がどう思っているのか、どう歌っているのか、真剣に話し合っています。
本来、こうなんでしょうね。
こういう仲間が居なければ、また自分も不安の中にいるしかないんでしょう。そんな感じがしました。
なんにせよ、頑張る若者は良いものです。
ちょっと私の知らない世界を垣間見たような、新鮮な経験でした。(^^)
2006年 10月 18日
ザルツブルグ音楽祭ガラコンサート
「音楽の友」も10月号はその情報が満載でしたから、お読みになったり、TVをご覧になった方もいらっしゃいますね、きっと。
今年はモーツアルト・イヤーですから、すべての演目がモーツアルト。劇場も改築して、ザルツの街がモーツアルト一色だったそうです。当然、オペラも話題のものが沢山。
その中で、アーノンクールが振った「フィガロの結婚」が興味をそそりました。
原作には無い一人の天使を出演させ、この天使が、感情がアグレッシブになると活気を持ち始めるのだそうです。つまり、嫉妬、情欲、偽り、怒り、こう言う感情に反応する。逆に、本来天使のイメージである、愛や優しさの場面になると、活気をなくしてしょぼくれてしまうのだそうです。これが、アーノンクールの音楽とぴったり合っていて、最高の出来だったようです。
TVでは、ほんの少しの紹介ですから良くわかりませんが、これはちょっと観て見たい気もしました。最近は、本当に演劇的要素を沢山含んだオペラ演出が多いです。本来、オーソドックス派の私ではありますが、センスがよければ、OK。元々ある楽譜を改ざんしてまで作りたいものがあるなら、ちゃんと魅せてみろって感じです(笑)。
さて、歌い手も、そう言う意味では、本当に色んな要素を必要とされていきます。
これは、その情報コーナーが終わった後に放送された、ガラコンサートに如実に現れていました。
このコンサートも、演目はオール・モーツアルト。
私は好きなので楽しめましたが、演目は有名なものよりも、あまり歌われないものの方が多かったかもしれません。
しかし、どの歌い手も、まず表情が恐ろしくあります。「過多」気味、と思うくらい。
最近は、あまりスター歌手もいなくなりましたから、名前も、あまり聴いたことが無いような人ばかり。ヨーロッパでは有名なのかもしれませんが、特に食指をそそられる歌手の名前はありません。
声を聴いても、おお!と思う感じもない。どの歌い手も一律に見えます。
だからこそ、歌手達のアピールがすごくエネルギッシュで、刺激があります。
表情もさることながら、場面の中のアリアとしても成立しています。まるで朗読をしているよう。
顔中、体中使って、楽曲を表現しようとしているのが、すごくわかりました。
なんていうのでしょうかね。
例えば、パヴァロッティなら、彼が歌うだけで良いや、ってお客が納得していることを、本人もわかっていて、「パヴァロッティが歌っている」と言う感じに楽曲を歌って見せるのですが、このガラコンサートに出演した人たちは、皆、楽曲を表現することに集中しているように観えたのです。
声は、TVですからわかりませんが、言葉の扱い方はダイレクトに聴こえてきますから、歌い手達の中で役として言葉を発しているのがわかりました。ふ~ん、すごい!
今は、歌い手そのものの力にも増して、演出の醍醐味を要求されます。
昔のように、声だけあればよかった、と言うことにはなりません。奇抜な演出もありますし、特に、ドイツやフランスではその要素は必須条件です。歌い手達の身体能力も、ぎりぎりの可能性を表現しているのでしょうね。
ルネ・ペーパと言う人が「Don・giovanni」のレポレッロのアリア「カタログの歌」を歌っていましたが、この人、すごく好きでした。声は全くバスでしたが、見事に唇がかぶらない。一つ一つの単語の形になっています。だから、表情が自然。TVはアップ仕様ですから、こう言うとき良いですよね(^^)。ちょっと強面のレポレッロでしたが、フィガロなど歌わせたら、いいだろうな~と感激。
こう言うはっきりした発語と表情が、ほとんどの歌手の方にありました。こう言う時代なんだと認識。一人、トマス・ハンプソンだけが、往年の名残のように、ほっぺたを膨らませて、口をパクパクさせて歌っていましたが、逆に、目立ってましたね。私が嫌いなだけだろうとも思いますが、はははは・・・(^^;)
ガラ・コンサートは美味しいとこ取りという感じで、楽しくて好きです。
一応プロが歌うなら、何を評価しても、こちらの勝手でしょっなんて、好き勝手に話しています。それにしても、時代は変わり始めてますね。日本の歌い手さんにも、これから大いに期待、大、です!
2006年 07月 28日
表情をつけること
さて、昨日まで扱っていた「リゴレット」と言う作品は、そう言う意味ではリゴレットを歌う人によって、かなり様変わりするオペラだろうなと、感じざる終えないものです。何でも、そうかもしれませんが、例えば、フィガロとかだと、案外誰が歌っても、「こう言う感じかも」ってことで、あまり、歌い手が突出する感じはしませんが、例えば、「ジャンニ・スキッキ」のジャンニとか、「外套」のミケーレとか、役柄に「毒」を感じるものは、歌い手によって、相当変わるだろうなと思います。
今回「リゴレット」を歌ってくれたバリトン君は、また30代になったばかり。年齢のことを言ってはフェアではありませんが、やはり若いと思います。もちろん、それを踏まえたうえでの「稽古場」でもあったので、そこは問いませんし、彼は非常に言葉を大切に歌える人で、今回も、かなり毒のある言葉を、頑張って吐き出してくれていました。その感覚自体は面白い。如何様にも発展しそうな気がする。ところが、それに伴った表情が出てきません。自分でも、もっと泣いたり笑ったりしたいのですが、思ったよりも、顔の筋肉が動かないと言う感じ(笑)。
こう言うことは誰しもあることで、やはり歌っていると言うことに集中してしまうと言うのが理由だと思います。しかし、元もとの表情をすごく持っている歌い手さんもいます。特に、「リゴレット」みたいな毒を吐くことに、快感を素直に感じられる人など、歌うより前に、顔つきが変わってきます。先のバリトン君は多分、この快感がダイレクトに自分のモチベーションを上げないのでしょうね。歌うと言うこと自体のモチベーションの方が高いのだと思います。
これをどうするかは、そうですね~・・・どうしましょうか(笑)?
多分、すごく単純なことだと思います。その汚い言葉や、人を罵るという、人間が持っている、後ろめたい感情に、快感を感じることです。やっぱり負の力は強い。普段、私達はいけないと思っても、悪口を言っている時の方が、楽しく感じるものなのです。そのネガティブ・ハイテンションが、言葉のモチベーションを上げてくると、表情は考えなくても付きます。多分・・・(笑)。
もう一人のソプラノさんは、そういうモチベーションが、非常に高い人で、どんな場面に関しても、感情的な表情が、先に付いてきます。だからといって、言葉が消えると言うことはありません。しかし、それが、もう一つ外側に出てこない。中々、うまく行きませんね。この先のことは、役を創っていくと言うことでしょうが。
このお二人は、この先も、かかわりの多い二人です。ゆっくり時間をかけて、付き合って行きたいと思います。こう言うことまでも、経験になる、楽しい「稽古場」でした。(^^)
2006年 06月 28日
声の種類と演目
この境は、私にも良くわかりませんが、テクニックやニュアンスなどが使えれば、声が出る限り、どの役でも出来るという広さを持っているのだと思います。しかし、歌い手さんの方は、自分で楽曲を選ぶ場合に、どこまで自分の声の幅を認識しているのでしょうか?時々あららと思うことがあるのです。
今、研究生の授業では、色んなオペラのアンサンブルをやっています。ある一場面選んで、それを演じて試験とするわけですが、女声の数が圧倒的に多いこの世界では、こういった授業にも助演として男声が入ってきます。彼らは、出来る限りのご奉仕として、役を二役か三役振り分けられるわけですが、その中にも必ずしも、自分の声部にあってないものもあります。何せ、いないんですから、しょうがない。例えば、本来はロッシーニバリトンであるはずの人が、「椿姫」のジェルモンもやるといった感じ。今も、一人のバリトン君が、この憂き目に会っています(笑)。
こういった場合、歌う方は必ず役に自分の声をあわそうとします。つまり、ジェルモンと言う父親の役に必要な威厳を声で現そうとしています。だから、必要以上に重く歌い、声をつぶしてしまいそうです。
私は実は、これは違うと思っているのですね。基本的に持ち声が変わるわけはないのだから、声質だけの問題ならば、わざわざ声をそれっぽくしなくても、音楽感やリブレットの読み方さえ、しっかりしていれば、ちゃんと威厳のある父親は出来るのです。
先の助演君も、最初えらく気張って威厳を出そうと、頑張って歌っていましたが、一曲終わったら、は~は~言ってます。これでは持ちませんね(^^;)
ジェルモンは、父親役ということで、かなり皆さんも重々しい声を想像なさるでしょうが、実は楽譜上はテノール?と見まごうほどの高い音の羅列です。バリトンにしては、かなりきつい音の並び。ほとんど五線を越えています。その中に書いてあることは、しかし、重厚で、しかも、誠実さがある(解釈の仕方は色々ですよ)。この高い音のラインを、きちんとした発声で歌っていないと、あっという間に、つぶれてしまいます。
そこで、そのバリトン君に、色々お話をして、私の解釈と楽譜上のことと、そして、何より彼の持ち味である、高い音の響きを戻してもらいました。このバリトン君は、高音のE、F、Gくらいの音がすごく綺麗でつややかです。しかし、きちんとバリトンの響きを持っており、決してテノールのような明るさではないのです。確かに、若く聴こえますが、それに伴ってばたばた動かずに、音楽だけを感じていれば、十分、ジェルモンに見えます。もとい、聴こえてくるのです。
どの楽曲を扱うときも、自分の持ち声を変えずに内容で役を創る。そこは、絶対だと思うのです。後は、きっとテクニックをしっかりつけると言うことなのでしょうね。マリア・カラスなどは、元々はリリコの声でありながら、「ルチア」の狂乱のアリアや、ロッシーニなどを沢山歌っていました。声はあまり良くないといわれながらも、アジリタ(早いパッセージです)のテクニックが抜群だったために、役の幅が広かったのですね。もちろん、感性も表現力もあったわけです。
やはり、ここにも歌い手自身が、己と言う歌い手を客観的に見つめる能力を求められると思います。その上で、テクニックを磨いて、役の幅を広げる。でも、それは決して、役に自分の声を合わすことじゃないのだと思うのです。
2006年 04月 18日
所属団体
もちろん、彼は所属団体があります。研究生から機関を経て、本公演にも乗っています。ある程度の実力があるのですね。しかし、団体の公演回数は年間決まっていますし、必ずしも自分が乗れると言うわけではない。まだまだ若いですから、今まで乗っていて実力派が主役級は取っていきます。それも、オーディションと言うわけではありませんから、結局、仕事はありません。ほかにもある団体で、彼のようなタイプの歌い手は、案外使われるかもしれないと言う、話を依然したことがあり、それを考えてもいるようでした。しかし、結果、所属団体を変わったからと言って、彼のような若い歌い手に場があるかどうかは別で、だからこそ、彼は自分で場を見つけて、色んな団体に参加しているわけですね。彼の所属団体はマネージメントも、あまり熱心ではありませんから。
しかし、私はこの「場が欲しいだけなんだ」と言う、彼の素直な願望を、ちょっと違うように捕らえました。つまり、芸能人がよく、独立プロを作りますが、それと同じような感覚で捕らえたのです。それで「じゃあ、○○音楽事務所とかに入れば?」って言ってみたところ、「錦織健みたいに?」って。これもどうかと思いますが、当たっています(笑)。つまり大衆歌手と言うわけです。でも、これは団体に所属して順番を待っているよりも、はるかに可能性があります。良く、TVに出ると、クオリティが下がると言われていますし、確かに下がっている人たちは多いのですが、それは個人的な問題で、1年くらい頑張って売れてきたら、やはり歌手のほうが仕事がなくなることを恐れずに、自分の声の調整のために、一月でも、二月でも仕事をキャンセルしてイタリアに言ってレッスンしてくるとか、身体を休めるとかのケアをするべきです。そうしなければ歌い手なんて、持ちません。自分の身体が楽器なのですから。こういうことを踏まえて、そして、声と感性のクオリティをあげる努力をしていれば、個人的な活動をしていくことは可能です。そうやって活動している人たちも実際いますから。
いずれにしても、日本ではオペラ歌手が歌っていくことだけで、生活を成り立たせるには、非常に難しい国です。と、言うより、直接お金に還元して考えることを、日本の習慣は嫌いますし、実際に、金額のつけられないものではあります。しかし、職人と言う考え方を歌手たちもしっかりと持って、自分の技と身体一本で、勝負すると言う、気概も必要なのも確かです。
こういった問題は常に付きまとっていて、相変わらず答えの無いものですが、先の彼のように、はっきりと、ああ言った信念を持っているなら、成し遂げるかもしれません。楽しみですね。この先、どれだけ、彼のような「職人歌手」が出てくるのか、その道をつけるのも、私たちの仕事かもしれません。
2006年 04月 05日
歌い手の魅力
私ははっきりと、「声」です。特に、バリトン。テノールも、稀に好きな音質の声を見つけますが、元々好きな音が低い方なのでしょうね、メゾ、アルトも時として、ひどく好きな「声」を見つけます。しかし、それは曲全部とかそういうことではなく、ちょっとした言葉の発音についてくる響きだったりします。つまりは「語感」。うまくいえないのですが、人は誰でも言葉のイメージを持っています。そのセンスが良い人は、何を喋っても、耳に心地よい音を出します。それと同じ言葉、歌声にもあります。しかも、言葉のセンスの良い人は耳が良いですから、オケや、ピアノとのコラポレーションも、完璧。そのセンスの良い言葉が創る動きは、声の良さと離れるものではなく、全てが一体になって完璧。例えば、一昔前のプライとか、ヌッチとか好きでした。そして、「色気」でございます。はい、先だってのブログの筆者も書いていましたが、色気。しかし、これにも、もって生まれたセンスが物を言います。残念ながら、彼女が大好きなその歌い手さんは非常に頭もよく、声の質も良いのに、この「センス」を感じません。それが、私がその歌い手さんに何も感じない理由です。しかし、その筆者には感じるのですからそれこそ、センスがちがうのでしょうね(笑)。
私の感じる「色気」には上品さが不可欠です。どんなに、生活が荒れていても、下層階級に育っても、元々品を持っている人がいます。そういう人は、自分のセンスを認識した途端にものすごい色気が発されます。これはですね~、たまりませんよ、目の前にそういう色気で立たれたら・・・・、もちろん、私は経験済みです。残念ながらそういう瞬間を横で見ていただけですが・・・・。ああ、ライモンディ様!ジノ・キリコ様!(しかし、キリコは一緒に仕事してちょっと頭が軽くて品がないということがわかって幻滅。しかし、彼女の奥様は非常に綺麗で品が合って色っぽかった。)
目下、これと言った魅力を感じる歌い手さんは、どうもいないのですが、それでもプリン・ターフェルなどは好きです。耳を刺激される。楽曲の音楽の好きな部分とその歌い手の語感がぴったり合った時に、私は身をよじってしまうほど、感動してしまうのですね。これこそ「歌い手の色気」と思うのだけど、違いますかね~????
2005年 11月 28日
ライモンディ賛歌
私は彼とは二回ほど一緒に仕事をしたことがあります。一回目は藤原歌劇団の「ファウスト」。二回目は新国立劇場の「ドン・キショット」。どちらも演出助手でいましたから、間近で彼と接する機会がありました。いや~、とにかくかっこいい人です。超ハンサムと言う面立ちでもないのですが、なんと言うのですかね、とにかく彼には「品格」があるのです。背が高く、常に優雅にゆっくりと歩き、周りにあまり左右されない感じがあります。しかし、全然気にしていないのではなく、一緒に仕事をする人間達、すべてに気を配っています。スターなんですよね。決しても声を荒げずに、演出家の言うことや、スタッフの言うことを黙って聞いて、納得すれば、何も言わずに完璧にこなしますし、納得いかなければ、正論をきちんとはなすことが出来る。頭の非常に良い人です。ですから、世界中の演出家に愛されていますよね。「ドン・キショット」を演出したファッジョーニも、恐ろしくわがままで才能のある人ですが、ライモンディが来たとたん、わがままが無くなり、彼と役を作ることに没頭してました。彼としかこの作品を創りたくないと言う話も聞きました。さもありなんです。前の記事で書いた「トスカ」でも、やはり彼の中で創られたスカルピアがかなり堪能できました。正直言って、声は好きではありません。元々持っている声がそんなに良い感じがしないのです。私自身も、艶のある声が好きですから、彼の声はちょっと響きがこもる感じがする。しかし、それを補う語感と芝居の感覚の良さがあります。それが群を抜いていると思うのです。しかも、スタンドプレイじゃない。そこにはちゃんと演出家や指揮者が介在している。つまり、自分の作ったものをベースに、演出家のコンセプトや指揮者のコンセプトをちゃんと加味して「役」を演じることが出来る。特筆です。自分勝手に役を作ってそれをただ歌う人は一杯いますが、彼にはそのプロダクションのコンセプトがある。それをこなすのが自分の役目だとわかっているみたいです。まさに職人ですね。ここも大好きなところです。「トスカ」の有名なアリアで、彼が見せた表情などまさにそう。カヴァラドッシの浮気を疑ったトスカが、本当はアンジェロッティをかくまっている別荘に乗り込んでいくのを部下に付けさせます。彼女が走れば走るほど、自分の手の中に入ってくると歌うのですが、このとき、同時に教会内でミサが始まります。そのお祈りの声を聴きながら、彼と彼の周りがぐるぐると回り始め、その中でずっとコーラスの聖句が聴こえてきて、スカルピアがめまいを覚えているのがわかります。それが止まったとき、「トスカ、お前は神を忘れさせる」と彼は歌い上げるのですが、ここには二つのスカルピアが介在していました。一つは映画監督の望む好色で残忍なスカルピア。しかし、ただカメラをぐるぐる回してもスカルピアの人となりは表せませんし、絵としてはそうそう面白いものでもありません。そこにライモンディの作ったスカルピアがあるから、この初老の警視総監が残忍さや情欲の内に、まるで初恋に胸を焦がすような胸の震えを感じさせます。本当に「最後の夢」と言う感じなのです。ぞくっとしました。
そうは言っても、本当は監督がこうしろと言ったかもしれません。しかし、彼と一緒に仕事をしたときに、同じことを感じましたから、多分すべてを要素として取り込んで彼が表現しているのだと思います。なぜなら、この映画はレコーディング風景とスライドするように作ってあって、その役が登場するとき、レコーディングをしている歌い手の姿が映るのです。スカルピアが登場するときも、まさに立ち上がって歌おうとするライモンディの表情が映りました。ぞくっとしましたよ。そこにスカルピアに変わる瞬間が映っていましたから。やはり、こういう風にして自分を作品の中に存在させることが出来るのが、彼の頭のよさだと思っています。ドン・ジョヴァンニやフィガロの伯爵なども気品があって、スノッブでちょっとエッチで本当に美しいです~(惚)
ご本人も、気さくでエレガントで素敵な人でした。なんど、その眼差しと優しい言葉に殺されたか・・・(笑)。もう一度、是非お仕事したい夢の歌い手さんです。
2005年 11月 23日
モチベーション
さて、こう言った現象の場合、皆さんは何が原因だと考えますか?単純に、その歌い手のもともとの声量が小さいとか、緊張しているのかとか、そういった本人にもどうにもならない状況を想像するかもしれませんね。確かにそれも要因としてはあるでしょう。しかし、これはテクニックと感情的なことだと、私的には思います。
私も音大の声楽科を出ていますから、歌い手になろうと思ったときに、何を考えるか、何を望んでいるかくらいは想像がつきます。しかし「何が足らなくて、何が必要か」は余り考えなかった気がします。レッスンでは「駄目」と言うことはよく言われていました。それは出来ないことだとインプットされてしまい、「足らないから得たい」と言う発想にならなったのですね。例えば、「あなたは持ち声はきれいなんだけど・・・・」とか「声は大きいんだけど・・・」とか言うこと。これが声楽をやっていたときの看板でした。私の歌の先生はラッキーなことに、その先の音楽的な要素も「感覚」として目覚めさせてくれた人でしたから、「歌うってことは気持ちを伝えること」くらいは、学部の間になんとなく身についていました。しかし、それを具体的にお客様に伝えるということは、実は裏方の世界に行くまで良くわかりませんでした。こちらの世界に来て初めて、歌い手も含め私たちは「芸術伝達人」なんだと気づきました。つまり、自分を良くすることに一生懸命で、人の前に出る職業だとわからなかったのです。
先の女声陣たちは、多分これと同じ轍を踏んでます。自分だけに意識が行っていて、客と言うものを意識できてないのです。客はわかります。目の前に座っていますから、その人たちがお金を払って席を買っていると意識できてないわけです。多分、あまり売ってないのかもしれません。「私の歌なんて、下手だからタダで良い」って、チケットをあげているかもしれません。それくらい、客に興味がなさそうでした。ですから、伝えると言うエネルギーが恐ろしく足りません。身体も全然使われていないし、息を吸っていないみたいです。しかし、出てくる声は小さく何を言っているかもわかりません。これでは聴きようがありません。もちろん、将来性を感じる人も居ました。しかし、それは声のよさとその人が自然に身につけた感性です。モチベーションが低いのです。
それでは、どうすればこう言った人たちのモチベーションがあがるのでしょうか。これは個人的な問題ですから、「やる気を起こせ」と言うしかないのですが、その理由ですよね。少なくとも、「自分のため」に歌を歌っているのでは、駄目です。歌い手は芸人です。芸を売らなければいけません。自分の磨いている声や、テクニックがどれだけ人を楽しませるか、常にそう考えていられなければ、やめるべきです。自分が歌いたいだけなら、金を取ってはいけません。金を出して歌うべきです。客にお菓子や、飲み物を配って、自分の声を聴いてもらわなければいけません。だって、声では金が取れないんですもんね。
オペラやクラシックを高尚なものだとやってる方が感じているのは、論外です。自分の声は自分のためにあらず。そうやって、日々自分を高めていく。良い声を持って生まれたのなら、それはもう「使命」です。私には宝物のように感じます。それはひとえに、お客様のためなのです。
テクニックに関しては、諸説色々でしょうが、うまくなるのも、お客のため。よりクオリティの高い歌を聴かせるため。そのための努力と投資をどれだけ出来るでしょうか。その意識をもってこそ、プロです。歌がうまいからプロだと思ったら大間違いです。
そうは言っても、その意識をもてない人が大半です。私のところで勉強している人たちは、その意識だけは持てるように、何をやってもエネルギーだけは無くさないように、日々訓練されています(笑)。志を高く持つ。現実とのギャップと戦うのは大変だけど、そうあってほしいと切に望んでいます。