2012年 10月 17日
「ボクの四谷怪談」シアター・コクーン
実は、飲み会の席での棚からぼた餅だったので、ぼた餅の内容をあんまり良く知らずに、「蜷川演出」ってことだけ小耳にはさんで手を挙げた次第。
若いスタッフさん同士で盛り上がっていたところを、美味しいとこだけキャッチアップであります(笑)。
観に行ったのは、「ボクの四谷怪談」
読んで字のごとく、あの有名な「四谷怪談」をベースに、私たちの世代には非常に懐かしいと言うか、共感出来る作家、橋本治が脚本を書いています。
出演者等々、HP観て頂くと良いかと思いますが(お~、最近面倒くさいこと一切やらない主義^^; すんません)、なかなかのラインナップ。
特に、準主役の小出圭介は以前も舞台を観たことあり、映画やTVよりは圧倒的に舞台で演じている方が良い役者さん、栗山千明ちゃんもそう、この二人は特筆ですね~。
しかし、目当ては蜷川幸雄。
この作品は、橋本治氏がデビューする前に書かれたものだそうで、基本ロックミュージカル。
しかも、今回は70年代を代表する鈴木慶一氏が手掛け、舞台の衣装もセットも、どこか「寺内貫太郎一家」的懐かしさ。
あ~、もう若もんにはわからんだろな~。
70年代はドラマも音楽もなんか刺激的であったかかったのよ~!
シアターコクーンは大好きな劇場。
何と言うか、客席と舞台とのバランスがひどく良い。
これがオーチャードホールなどと同じ建物の中にあるとは思えない、奥行きも感じるし、何より客席の高さが好き。
今回は初めて3階席でみましたが、この高さからみてもステージの奥行きがちゃんと感じられるし、全体の絵が人物も合わせて綺麗に見える。セリフの音響も良いのだな~。
騒音歌舞伎と銘打っただけあって、全編レーザー光線や舞台の額縁にもなっている細いプロセミも電光が走っていましたが、蜷川さんのうまいところ(と言うか、好きなところ)は、これだけの色を使っていても綺麗だと思えるところ。
色遣いのセンス抜群です。
これってゼッフィレリの舞台を観た時も思うことだけど、いろんな色が混ざっていても、どこかに集約点があって、そこが芯になって放物線状に色が配色される感じがする。
もう才能ですわね~(@@)
今回の集約点は、恐らくセット。
実は、電光プロセミの中側には、70年代の日本家屋や公衆トイレがあり、そこの景色に派手な色は無いです。
役者が着ている衣装も70年代の洋服だし。
でも、その時々に現代の色がある。
例えば売春宿で栗山千明ちゃんの着ているベビードレスの朱色だったり、街頭で女の子をたぶらかしている男のスーツの紫だったり、バッグやハンカチや、ちょっとした小物の色が今の色だったりする。
2012年の現代で手に入るもので作っているのだからそうだと言われればそうかもしれないけど、意図していたのならうまかった。
更にその混在した中にレーザー光線やら、電飾やらが混ざってくると、サーカスの色みたいになる。
とても好きだった。
蜷川さんの舞台はいつも、色を感じる舞台でもあるな。
もう一つ好きだったのは台本。
本編、休憩入れて3時間の長い芝居だったけど、台詞が良かった。
私は鶴屋南北の原作をしらないけれど、橋本治って、「桃尻娘」だけじゃないのね~、綺麗な言葉がふいに聴こえる。
それが大した場面じゃなかったりして、心の琴線にふれた。
私の生きて来た時代だから感じたり、共感出来たりすることもあるのかもしれないけど、言葉のセンスに唸ったな~。
とはいえ、時間が経つと忘れるのが最近の私・・・・(^^;)
一つ、すごく好きな台詞があったのに・・・・。TV放映しないかしら(笑)
それにしても偶然とはいえ、幸せな時間でした。
今年は仕事がないので、お金を出して芝居や美術館に行くのが中々・・・・(><)
そんな時に、神様からのご褒美!
ヒョウタンから駒でした~(^^)
さて、そろそろ涼しくなってきましたね。
季節の変わり目に、体調を崩されているかたもいるのでは?
ご自愛くださいませ~!
毎日楽しく過ごしてくださいね~(^0^)
2012年 07月 22日
「ライムント・ホーゲ レクチャーパフォーマンス」
梅雨が空けた途端に、尚更梅雨らしい天気。
久しぶりの20度台に、やっぱ身体がおかしくなりそう・・・。
その寒くなる直前の17日に面白いパフォーマンスを観てきました。
最近、自分の名前のアカウントで呟いているツイッターは、芸術情報を主にフォローしています。
最初はオペラも取り合えず、知り合いや有名団体などをフォローしていたのですが、やっぱり知った顔ばかりに呟くのはつまらない。
フォローされないのも悔しいしさ~(笑)。
ってことで、またまたマニアックなツイートが満載になってますが、そこにお知らせで上がって来たのが、先のパフォーマンス。
ライムント・フォーゲさんは、ビナ・ヴァウシュ舞踊団のドラマトゥルグを勤めていた人で(ドラマトゥルグと言うのは、恐らく構成作家みたいなものかと・・・勉強不足すみません^^;)、今は振り付け家として活躍し、自身もダンサーとして参加しています。
そして、開催されたのは早稲田大学小野記念講堂。
うちは弟が早稲田だったので、確か一回くらい大学祭に行った様な覚えが・・・・。
早稲田大学には演劇科があり、この主催も早稲田大学文学学術院演劇映像コースとある。
ビナ・ヴァウシュはすごく好きなダンサーでしたから、そこにも惹かれましたし、何より無料!
こういうものは、面白いかどうかは行って見ないとわからないので、取り合えず予約して行ってきました。
まず、驚いたのは、小野記念講堂と言うホールが、演劇や映像を見るには、すごく良い空間だということ。
ちょっと想像もしませんでした。
映像コースが何をする所なのかはわからないけれど、最初に挨拶に出てらした先生も、ダンサーだといっていたし、どんなクリエイティブなものが生まれているんでしょうね~。
それも面白かった。
さて、その先生のご説明によると、本日は、まずホーゲさんのパフォーマンスと映像を1時間半ほど観たらば、後は質疑応答で2時間の休憩なしのプログラムだそう。
質疑応答は良いかな、と思いつつ、最初のパフォーマンスが始まりました。
四角い舞台の空間に、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れ始めると、下手億から黒いシャツとズボンを着た小男が出てきて、四角い舞台をただひたすら同じポーズで歩きます。
こういうパフォーマンスを私は結構好んでいます。
一件無意味な動作だけれど、演じ手には意味があり、それを押し付けるでもなく、説明するでもなく、ただ無になって同じ動作を繰り返す。
「別に興味なかったら出て行って良いよ」とお客をほったらかしにする感はありますが、つっけんどんじゃない。
それに、ビナもそうですが、ホーゲ氏の選択する音楽が非常に美しいクラシックなもので、彼の繊細さや頭の良さ、品などがセンスとして見える。
好き嫌いはあると思いますが、私は好きでした。
そして、やはり驚くべきことは、彼の背中に大きなこぶがあったこと。
つまり「せむし」であったことです。
最初手にしたチラシには、若い白人の男性の写真が載っていましたから、この人がホーゲ氏かと思っていました。
いかにもダンサーと言う感じの美しい顔と肢体。
しかし、下手の隅から出てきたのは、せむしの小男。
大きなこぶのために腰が曲がっており、まっすぐには立てていません。
歩く時も足を引きずる。
喋る時も、息苦しそうに喋る。
恐らく背中のこぶのために、肺が悪いのかもしれません。
その彼が舞台にあわられ、パフォーマンスを始めると、最初はどう対応して良いのかわからない空気が流れました。
実は彼が話している内容も、英語ではありましたが通訳がおらずに、ほとんど何を話しているのかわからなかった。
それで、呆然と彼の動き、話をただ観ているしかないと言うパフォーマンスとなりました。
これはですね、かなり面白かったです。
なんと言うか、私の中に存在している「物見だか」と言う感覚を残したまま、彼のセンスの良い選曲や、最小限に切り取られた動き、か細い息苦しい声を感じると言う、正に感性を摺り寄せるような時間となったからです。
彼の書いた紹介文のようなものがあります。
今回のテーマは「言葉と身体で書くこと」。
この方はドラマツゥルグだったわけですから、最初は文字を使っていたわけです。
けれど、その時はその後ろにある身体が見えてなかった。
なので、今は身体で書いている。
テキストはテキストで、それを動きで表現しても、そこに競合はない。
「見えないものに目を向けよ 聴こえないものに耳を傾けよ」が座右の銘らしい・・・・。
恐らく、言葉の多様性は空間を動かすことによってある・・・みたいな感じかな~(^^;)
良くわらかなかったけど、一つだけ興味深かったのは、彼の使う音楽です。
「私はしばしばテキストが重要だという理由で、ある歌を選びます。そして音楽と一緒になると、テキストは別のレベルに到達します。するとあなたはそれを自分の耳で聞くだけでなく、突然、自分の知らない言葉と言語の意味を理解できるようになるのです」
とは彼の言葉ですが、これは納得しました。
例えば、彼ともう一人のダンサーが先のパフォーマンスと同じように、二人で向き合いながら同じ動きをやるという場面。
流れているのは「ラプソディー・イン・ブルー」。
動きはなんと言うことはありません。
かたっぽがかたっぽの肘をつまむと、手を持ち上げるような形になる。
しかし、そこに「ラプソディー・・」の有名な箇所が流れると、(恐らく聴けば、皆さん知っている音楽です^^;)その手をつまんであげたという行為が、やたら神々しく感じる。
それは、私が感じる感覚なので、違う人にはそこに違う言葉が存在しているでしょうね。
この結果は、動きに添ってくる音楽によります。
そうすると、言葉が見えてくる。
なるほどね!
彼の身体的な特徴が、こういうパフォーマンスに影響を与えないとは言えないと思います。
やはり目を惹く。
しかし、これを「言葉」と感じさせないくらい、感性が秀でている。
彼を見ていると
「せむし」とか「障害」と言う物は、ただの名前になっていきます。
恐らく、チラシに乗っているようなハンサムなヨーロッパ男性であったとしても、同じことを感じたのじゃないかしら。
これを無料で見れたのだから、内容のちんぷんかんぷんは全然問題ない。
この間のWSと言い、行かず嫌いは損ですね~(^^)
さて、二週間の長きにわたったウサギ保育は今日で終了。
夕方飼い主さんの所に返しに行きます。
明日からはまた、なっちゃんとの二人暮らし。
今週末の仙台ゴスペルコンサートのための字幕作業も追い込み~(@@)
実質金になる仕事は何一つないけど、なんだかやたらに忙しかった半月でありました。
急な気温差に体調を崩されませんように!
楽しい日曜日を~(^0^)
2012年 03月 21日
a la carte ! Vol.3「私たちの好きな歌」
このコンサートは、大田区在住のクラシックファンの方が出資して、普段は大きなホールでしか聴けないようなオペラ歌手たちの音楽を身近に感じたいと言う主旨のものだそうで、私はVol1を聴かせて頂いています。
場所は大田区民ホールアプリコの小ホール。
どれくらい入るのでしょうか、200席くらいなのかな?
いわゆるコンサートホールですが、蒲田駅から徒歩3分と言う立地条件と、音響が良くこじんまりとしているのが魅力です。
大田区は西側からは東京の東側と言う感じで、ちょっと遠い感がある場所ですが、このホールは私の周りでも使用率が高いです。
コンサートのみならず、小オペラなども良くされており、なじみのホール。
いわゆるサロン形式で、平場に椅子を並べてステージとなる部分が高くなっていると言う形なので、オペラ公演などではあまり使いやすいホールではないと思いますが、なんでしょうね、雰囲気が良いのかな、入って聴いていると落ち着いて音楽空間を楽しめると言う良いホールだと思います。
今回ご出演は、藤原歌劇団準団員の女声お二人、ソプラノ歌手の宮本彩音さんとメゾソプラノ歌手の諸静子さん。
そのお二人とコラボしたのは、若きコレぺティスト、吉田貴至君です。
吉田君はこのシリーズの要で、Vol4までピアノを担当するのだそうです。
そういえば、女声も彼も大田区在住。
余談ですが、大田区って合唱団や児童合唱なども盛んで、音楽家が育つ街かもと勝手に思っていますが、人材がなんだか揃っているイメージがありますね。
去年の7月にやった公演の時に、吉田君に練習会場を大田区で取っていただいたのですが、古いけどかなり良い感じの稽古場や小スペースがありました。
地域差って色々とあるのだと思った次第。
さて、今回は女声お二人がメインの演目でした。
1部は滝廉太郎の「花」のデュエットから始まり、色んな国の歌曲。
2部はオペラからアリアとデュエット。
気付いたら二時間経っていたという、楽しい音楽会でした(^^)
彩音さんは、実は武蔵野音大の院生の頃からのお付き合い。
まだまだ若いと思っていたらば、しっかり30代の女性に変身。
先のMMC7月公演で上演した「ポッペアの戴冠」で、タイトルロールの「ポッペア」歌ってくださいました。
その時も思ったのですが、年齢とともに声の響きが豊かになっており、その豊かさをきちんと表現に用いて、音楽を作れる余裕も出来ていて、素晴らしい歌唱だったと思います。
今回は日本歌曲やフランス歌曲、オペラアリア等々、彼女の声に非常に合っていた選曲だったことも成長を感じましたが、どの曲も、彼女の声の魅力を堪能できる、素晴らしい出来上がりでした(^0^)。
教え子が成長する喜びは、ずっと後ろをついてきていたと思っていた人が、ちゃんと目の前に向き合って立っていてくれることに尽きますが、彼女の場合、その先に進み始めていることを確信させてくれる大きな大きな喜びまで与えてくれて、心から感謝しています。嬉しかったな~(><)
ここから先は、彼女の年齢とともに訪れてくる、身体の変化や気持ちの変化と上手に向き合って、その素晴らしく美しい声を保って、更に更に先にすすんで行って欲しいと、本当に思います。
また一人の歌い手と、演出家として向き合える日が来ると嬉しいですよね~(^0^)
もう一人の出演者、常々MMC公演でも主役を張っていただいて大活躍の諸静子さんは、相変わらずの豊かな声は健在で、この声を聴くだけでも来たかいがあったと思わせてくださる歌い手さんです。
今回は、吉田君と宮本さんは30代。
諸さんは私と同い年の40代と言うことで、やはりお二人と比べると、まず人生経験値が勝っているのがはっきりわかります(^^)
これね~、ただ単に年を重ねると言うことではなくて、本当に良い人生を歩まれていると、いつも思うんですよね~。
そして、それが音楽に正直に現れている。
例えば、吉田君は30代で、諸さんとコラボレーションをする際に、本人の才能は別として、経験値の時計軸の差が感じられる。
それは、体内時計の速さだったり、言葉に関して感じている内容だったり、単に楽曲の解釈の違いだったりと、色々でしょうが、それぞれが感じている温度差が見えました。
でも、これは決して悪い結果になっているのではなく、二人の信頼関係で構築された、透明感のある距離感に感じました。
この距離感は、今どうしようもなくあるものだから、むしろ正直で好ましい空間だと思います。
これを埋めるには、きっと吉田君がこれから経験していく音楽生活の中で、何に気づいていくかと言うことかなと思いますし、諸さんの方も彼から発信してくる若い時計軸を自分の時計軸と、どう重ね合わせて一つの時間を創るかを、受け止める度量を重ねると言うことだと思います。
お互いに、同世代ではなく、色んな世代の音楽家たちとのコラボレーションが、これから先も待っているでしょうから。
諸さんの音楽には、ご自身もそうなのでしょうが、こう言った距離感をすべて受け止めて、表現に変えていく度量の大きさを感じます。
そして、それはいつも愛情深く豊か。
母なる大地とはこんなものかなと思う。
有名な「母の教え給いし歌」をロシア語で歌唱なさっていましたが、正にこの歌のように、この人の声にはいつも憧れと郷愁を感じます。
本当に、本当に素晴らしい歌い手さんです。
さて、この年代の違う二人を支えて、コンサートを道案内していたのが、吉田貴至君。
まだ30代の前半ですが、そろそろ売れっ子さんになりつつあるのではないでしょうか?
プロフィールにもありましたが、クラシックにとどまらず、色んなジャンルのアーティストとも活動し、経験を積んでいる最中。
私もMMCの公演で二回ほどお世話になっています。
彼のピアノを聴いて、いつも感じるのは、とにかく紡ぎだされる音が綺麗だと言うこと。
今回も、様々な楽曲を一人で弾いていましたが、どの曲も、一音一音、全部聴こえるテクニックを持っています。
更に、ただ聴こえるだけではなくて、ちゃんと言葉を感じるところも特筆すべき部分。
私は彼の音が大好きで、聴ける機会があるときには、出来るだけ伺うようにしていますが、期待を裏切られたことはないです。すごいですよね(^-^)
先にも書きましたが、彼は今30代の前半で、経験を積んでいる最中。
今の彼の等身大の音楽は、まだまだファジーな部分が沢山あるように思います。
これから先、彼がどんな経験を積んで、音に変えていくのかは、まったく未知数。
だからこそ、将来を感じますし、期待します。
彼の持っている音が、何によって、どう変わっていくのか、年齢を重ねるごとに、紡ぎだされている音は、どんなふうに語るんだろうか。
出来ればずっと成長を聴いていたい音楽家です。
今回、彼はソロの曲を一曲弾きましたが、これがものすごく良かったです!
音の綺麗さもさることながら、彼が自分で編曲したこともあるのでしょうが、音楽空間が見事!
オーラを感じたくらいでした。
きっとこの人の中には、沢山の宝石が磨かれるのをまっているのでしょうね。
多分、それを信じて、あるいは知っていて、研鑽を積むことに貪欲なところも関心します。
その内また一緒に音楽を作れる機会を祈るばかりです(^^)
自分の公演に出演してもらって、一緒に舞台を作っているときは、彼らは家族のようなものなので、こうやって客観的に音楽家としては付き合いません。
でも、観客として彼らと客席で向き合っていると、この才能ある人たちが自分と舞台を創ってくれるのだと、改めて感謝したりします(笑)。
神様から与えられた彼らの賜物がどんどん磨かれて、彼ら以外の人たちを楽しませたり、癒ししたり、感動させたりするんですよね。
本当に楽しみです。
彼らといつ音楽を創れるんだろうな~・・・・。
私の心の泉がちょっと潤ったような、そんな一時でありました(^^=)
2012年 03月 17日
洗足音楽大学大学院オペラ公演「愛の妙薬」
一月もブログを放置してました(@@)
腕の調子が悪い時を除いては、ちょっと久しぶりの長期放置だったかも(笑)。
3月8,9日と勤めている洗足音楽大学の院オペが終了しました。
演目はメジャー中のメジャー、ドニゼッティ作曲オペラ「愛の妙薬」
農夫のネモリーノが、農園主(農園主の娘とか色々と解釈がある)であるアディーナに惚れているのですが、内気で中々告白できない。
しかしある日、アディーナが農夫たちのお昼休みに朗読していた、イゾルデとトリスタンの愛の妙薬の話を聞いて、たまたまその日に村を訪れた、詐欺師のドゥルカマーラにその薬を求めて手に入れます。
本当はワインであるその液体を妙薬とすっかり信じきったネモリーノは、薬を飲んで酔っ払ってしまいます。
その勢いで、アディーナに恋の鞘当を始めますが・・・。
本当に日本でどれだけ上演されるかわからないくらいの人気演目ですが、ドニゼッティ自身がすごく売れっ子の時期で、二週間で仕上げたとか色々と逸話もある作品。
しかし、正にこれベルカント!と言うべき美しい楽曲と楽しい内容で、名作とはこういうものを言うんだろうなと納得。楽しく作品を作りました。
出演したキャストは大学院生で、オーディションで選ばれました。
合唱団は男子は1年生から、女子は3年生からそれぞれ大学院の2年までの総勢46人ほど。
試験期間を挟み、ほとんど時間の無い中で、彼らは本当に良く頑張り、先の記事にも書いたとおり、ただただ彼らが作品の中に生きると言う事を、一生懸命やってくれました。
結果、公演は大成功です!
特に合唱団の声の良さにびっくり!
加えて、まだオペラ実習も取っていない、1,2年生も含めて、彼らなりのヴィジョンをきちんと捉えてくれて、内容を創ってくれました。
そういう意味では、洗足音楽大学の声楽科は良い声を持っている学生が多いと認識。
先生方の指導も良いのでしょうが、元々校風として大らかでもあり、気持ちを開くということに関して自然体かもしれません。
楽しいと乗ってくる(笑)。
いずれにしても、彼らが自分たちでお客様に何を提供するかを一生懸命考え、そして表現してくれた公演でした。
感謝、感謝!
指揮はアレッサンドロ・ベニーニというイタリア人で、毎回大学院のガラコンサートを振ってくれています。
一本を一緒にやったのは初めてですが、いつものように自分の仕事を黙々と、そしてきちんとやっていました。
しかしながら、彼のドニゼッティは何故かロッシーニよりも早い!
良く学生たちが付いていったと思うくらいに、テンポが速くびっくり!(@@)
こうなると、やっぱりそれぞれ人間が関わり、パーソナリティによって音楽空間が変わってくるとまざまざと感じましたね。
舞台は工藤明夫君という舞台美術家が創ってくれました。



公演をした前田ホールという学内にあるホールは、元々コンサートホールで、ごらんの様にパイプオルガンが鎮座ましましています。
ミュージカル科等ある大学なので、そういう公演ではホリゾントを降ろして、オルガンを隠して使ったりもします。
しかし、オルガンがあることで奥行きがほとんど無く、おまけに高さだけはあると言うこのホールを、少々ホリゾントで隠しても、結局平べったい空間になると思い、いっそオルガンの部分も含めて客席まで舞台セットと考えて創ったらどうかと工藤君と御相談。
結果、イントレを使って、高さを出し、客席からも出演者が登場するという形を取りました。
大成功だったと思います。
工藤君はこういう無機質なものを空間に添えるのが非常に上手だと認識しています。
実は以前、彼がやはりイントレ(鉄骨の屋台です)を使って舞台セットを組んだものに、アシスタントで参加したのですが、この時も、組み方の導線が面白かった。それで今回もお願いしてみました。
これに加えてドゥルカマーラの薬を売るための垂れ幕のデザインなど秀逸。
剛と柔を組み合わせるとかなり面白いデザイナーなのではないでしょうか。
これに明かりを加えてくれたのは、ASGの大平智己君。



この人は最近御一緒するようになった照明家ですが、とにかく毎回思うのは、非常に「頭が良い」ということ。
いつものガラコンでもそうですが、与えられた時間内で「いつの間にここまで?!」という明かりを必ず創ってくれます。
しかもそれは、私の思っているような明かりとは全然違うものであることが多々。
実はこの人の明かり自体は、私の感性と必ずしも合致するかどうかはわかりません。
お稽古を見ていただいて、お話ししていても「それわかります」と言う様な話にはならない。
なので、大抵、思っていることと、必要なことを話させていただいて、後は彼にすべてお任せです。
そして実際に出た明かりを観て、「こんなのいつの間に創ってたの???」と驚かされる(笑)。
しかも、それがいつも「うわ~、頭良い~!」と何故か唸ってしまうんですね。
なんと言うか、理由がわかるというか・・・・。
今回も、1幕のフィナーレで、いきなり自分を無視し始めたネモリーノに業を煮やしたアディーナが、自分に求婚している軍曹のベルコーレの求愛を受けて、薬の効目が現れると言われていた翌日の朝に結婚すると約束してしまうという場面の明かりで、脱帽事件(笑)。
何が起こったかというと、その場面でネモリーノがアディーナに「俺を信じて、結婚を一日待ってくれ」と歌う有名な曲があるのですが、その曲は短調で始まって、いきないネモリーノが「アディーナ信じてくれ」とお願いすることから、日本人が歌うと、どうも泣きが入る。
私はそれが常々嫌いで、今回もそのことを学生たちに懇々と諭し、絶対に泣くな!と厳命してました。
なぜかというと、途中「俺にはわかっているんだ」という歌詞があり、そこから音楽が綺麗な長調に変わって言って、ネモリーノが愛を訴えるという幸せを感じるからです。
この時、幸せが待っているのだということをベースに、この歌を歌わないと意味が無い。
ネモリーノが始めて、自分の気持ちを自分の言葉で訴えるという成長の時でもあります。
それは、空間も同じでした。
そのことを大平君にお話して、GPで明かりを観ているときに、その場面の音楽が始まった時、先の写真の三番目にあるように、オルガン部分がいきなり三色に変わったんですね。
いきなりだったんで違和感を覚えて「?」と思っていたら、音楽が長調に変わった途端に、すべてが成立しちゃったんです!
つまり、彼の明かりは最初から、どっしりとした幸せを創っており、音楽が変わった瞬間に、まるで「これがすべての答えだ」といわんばかりの正当性で空間を決めてしまったというわけです。
これが、音楽の変化とともに、ものすごく気持ちを納得させてくれたので、大感動でした!
こんな明かり、観たこと無い!
しかも、この事によって新しい事実にも気付いた。
それは、明かりが全てを幸せにしてくれたのに、奏でられているオーケストラの音楽の変化が場面を動かさなかったために、空間が同じように変化しなかったこと。
しかし、オケが下手だったとか、演奏がまずかったということではありません。
今回オケは学生に+先生方のトラが入った学内オケでした。
彼らは物凄く頑張って、素晴らしいレベルでありましたが、内容をどこまでわかって弾いていたかというと、そこは恐らく+-だと思います。
何故かというと、ここには経験が必要だからです。
東フィルなどの様に、何回も色んな指揮者とオペラをやっているのならば、こういう内容の変化は感情と一緒に変化して行きます。
彼らに場面の内容を伝えることがあったかどうかはわかりませんが、それを自分の音として解釈するのには経験が要ります。
なので、この時のオケの音は、短調の部分から暗く重く始まって、非常に演歌的な長調の変化に聴こえたのですね。
そうすると、残念ながら照明とのバランスが崩れてしまい、音楽空間としては難しい所でした。
ひょっとしたら、この明かりに違和感を覚えた人は居たかもしれません。
本当に音楽空間というのは繊細で微妙なものです。
そのことに気付けた今回の経験は、大きな収穫でした。
しかし、こういう明かりを創れることは大平君の才能の賜物です。
いや、凄い人ですよ(^^)
こんな人たちに支えられて、なんとか演出家としての仕事をこなすことが出来ました。
1月の「カルメン」に続き、私はやっとオペラ演出家としての立ち方を理解したかもしれないと思っています。
「しれない」と言うのは、次の現場がないと、それが本当かどうかが自分でもわからないからですが、恐らく、ここから先は、揺らがない核が出来たと思っています。
この大学は講師陣の結託も強く、衣装やメイク等々、裏方のことまでも講師の先生方の御尽力に多く支えられました。
本当は客席で聴いていただくのが正しいのですが、本当に感謝しています。
さて、やっと2011年が終わった感があります。
ここまでの激務に晒されて、ちょっと身体が壊れちゃいました(^^;)
今は少しずつ心と身体を癒している最中。
ここからまた9月までは、ただの人となります(笑)。
すっかり枯れてしまった音楽の泉がまた心に沸き起こってくれるのをひたすら待つばかり。
関係者の方々、そして学生たち、本当にお疲れ様。
そして、ありがとうございました!
2011年 03月 25日
「時々自動」公演 「うたのエリア-3」
地震が起こって三週間。
実は暗い場所とか、狭い空間にいるのが精神的に怖い日々が続き、夜も電気をつけてないと寝れなかったりしてました。
御案内いただいた時に、一瞬劇場に入ることに恐怖を覚えたのですが、それではこの先どうすんだっってことで、行ってきました。
「時々自動」と言う団体は初めてで、演出家の朝比奈尚行さんという方が代表のようです。
芝居と言うよりはパフォーマンス。
「うたのエリア」と言う題名の通り、一つのテーマを色んな形の絵と音楽で見せているような感じ。
例えば、バレエのバーが二つあり、そこにブルー系の衣装を着た6人くらいの女性が様々なポーズをとっていて、そこで「お墓がみたい」「私は古墳を観にいく」と言ったような、意味があるような無いような会話が続いていきます。
面白かったのは、さまざまな音が使われていたこと。
それは音楽だったり、ぜんまい仕掛けの人形のモーターの音だったり、役者が奏でる楽器だったり。
そして場面転換の時に、客席が真っ暗になり、言葉の洪水が色んな方向から聞こえてくる。
とにかく耳を刺激するのは「音」と「言葉」と言うパフォーマンスでした。
そして目を刺激するのはトゥシューズ(笑)。
すごくレベルの高い団体だと思ったのは、まず役者さんがみんな身体をちゃんと使えること。
驚いたのは、女性が全員トゥシューズをはくということです。
いつもそうなのか、今回だけそうしたのかわかりませんが、これは楽器のように練習すればなんとかなるってものでもないと思います。
バレエは身体の技術ですから、訓練もいるでしょうし、何よりバランス感覚が相応に良くないと、トゥシューズははけないと思う。
それを全員がはいて踊ってました。
どのパフォーマンスも音楽と言葉はあるといわれそうですが、この団体は音楽のパーツと言葉のパーツが分かれているのが面白い。
客席の明かりが落ちて、開演になった時、ステージ上にぜんまい仕掛けの人形が二体置いてあって、それが動き出し、どれくらいでしょうか、2分くらいかな、ずっとその音と扇風機みたいな動きだけが会場を支配しています。
そうかと思ったら暗転になって言葉の洪水が聞こえてき、明かりがつくと、赤い衣装の女性が二人マイクを持って歌いだす。
この人たちも一人はトゥシューズをはいていました。すごい(@@)
そして、また言葉の洪水の暗転になって次の場面になると先のバレエバー・パフォーマンスになる。
こんな感じの繰り返しです。
後半は主催者の朝比奈さんと今井さんという役者さんが「ゴドーを待ちながら」さながらに「死」を待っているという設定で、さまざまなパフォーマンスを観ながらただ待っている。
この団体には固定客が着いていて、みんな役者さんの動きでも笑う。
実は、このマニアが良くわからなかった(笑)。
このパフォーマンス、1時間20分くらいだったと思うのですが、やっぱり飽きました。
こういうパフォーマンスの宿命かもしれないと思いますが、以前に見たチェルフィッシュのパフォーマンスでも同じことを感じました。
やっていること自体は面白いけれど、この不条理な世界も慣れてくるんですよね。
そうすると新鮮味が無くなって飽きてくる。
ビナ・ヴァウシュを観ていても、やっぱり飽きてくる時がある。
彼女のすごいのは、色んな要素を排除して、繰り返しがほとんど無いというところにあると思いますが、これはそこまではやはり行かなかった。
そして後半になって来た時に、段々マニアックになってくる客席にちょっと引く(^^;)
どの芝居でも、オペラ公演でさえ、こういうことは起きると思いますが、それが逆に面白かったりもしました。
しかし、震災を背景にこういう公演が行われたのは大きな功績になったと思います。
公演は31日まで。
神楽坂のシアターイワトで上演されています。
震災を忘れて、こういうマニアックなパフォーマンスに我を忘れる時間を作ってみるのも良いと思いますよ。
是非御来場を!
2010年 05月 08日
チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』
戯曲作家であり、演出家であり、小説家であり、振り付け家?である岡田利規氏の自作上演団体「チェルフィッシュ」。
団体の詳細はHPで観て頂くとして、この「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」はある会社の派遣社員のエリカさんが派遣契約が切れて退社することになり、それにまつわるお話が三篇。その構成舞台であります。
実はチェルフィッシュという団体、名前だけは知っていました。
最近ツイッターをやっているのですが、何故かフォローしていただいているのが芝居関係者と美術関係者ばっかり。
その辺の情報が薄い私としては、羅列される団体の名前や演出家の名前が知らないことばかりで新鮮。
その中にチェルフィッシュと岡田さんの名前が入っており、折りしも、友人が3年かけて日本人作家の戯曲をNYで上演するために奔走していたのがある人の目に留まり、実験的にリーディングされることになった際、同じ日本人作家として岡田氏の名前が向こうに住んでいる人から出てきたばかり。
頑張っているんだ~日本人は~と思っていたらば、公演の照明をやっている方が偶然今度御一緒する方で、観させていただいたというわけです。
さて、何が不思議だったかと言うと、この作品は役者さん達が、喋っている台詞にあわせて身体を動かしていくという形で構成されています。
例えば、退職するエリカさんの仲間が三人集まって、お別れ会の話をします。
一人の男性が立ち上がって、ホットペッパーを持ちながら「エリカさんのお別れ会の幹事をうちらがやることになったじゃないですか。それってみんなで話して決めた方が良いと思うんですよね。ほんとぐーぜんなんですけど、俺今日ホットペッパー持って着てるんです。」などと喋りながら、身体をくねらせたり、手を動かしたり、足をさすったりするわけです。
これが芝居じゃないのは、台詞は会話ではありません。
対話じゃないのです。
二人で話すという部分もありましたが、二人の話は会話でありながら物語の言葉ではありません。
結果がない。メビウスの輪のようにただ言葉を流すだけです。
会話は一人が話せば、誰かが答えますよね。この答えがない。
一人のあるいは二人の人間が、持ち時間をずっと喋りながら身体を動かしています。
台詞はパターン化していて、順番は違えど、三つか四つの文章を繰り返し喋る。
わかりますか?
三つの文章があるとすると、その三つの文章をずっと繰り返し喋る。
その代わり順番は違える。
1,2,3と喋ったら、次は2,1,3と喋るとか。
動きも同じ。
ずっと現代音楽のようなBGMが入ってきますが、それの特徴的な音を使って、手をひらひらさせたり、うちわをひっくり返したりを、やはりパターンを変えてやっていきます。
台詞も、そういう意味ではただの音のように感じているようでした。
いや、それよりも薄い感じかな。
喋りながら言葉と音楽に身体を反応させていく。
よほど感性が鋭くないとこの三つの作業がどこか寄りに流れていく。
観させていただいてて申し訳ないですが、これは成功では無いと感じました。
つまり、感性は鋭いとは感じなかった。
そう思ったのは、役者がみんなマイクを付けてたからです。
と、言うことは、まず「喋る」と言う事に意識を持っていくことは放棄されたというわけです。
きちんと喋ろうとすると、感情が動いて、そこに集中することになる。
そうすると音楽が耳に入らないかもしれない。
彼らは「今日も朝起きたときに、化粧はしたんですけど・・・」とか「クーラーが有り得ないほど寒くて、23度に設定でしかも強になってて、それってどうよって言う感じで・・・」と、多分マイクが無かったら、ぶつぶつと口でただ呟いているだろう的な喋り方で、(申し訳ないけど)言葉を垂れ流し、恐らく内面から作っていったからだの動きを寝癖の髪を直すようなしぐさで、言葉にも音楽にも身体にも神経を入れないようにゆる~くゆらゆらと舞台にいました。
この作品は再演で、ドイツなどでも好評だったと言うことですが、それは恐らく日本語が理解できない彼らには、喋っている言葉がただの「音」にしか聴こえないからかも。
私も現代音楽やパフォーマンスを観る時に、そう感じることが多々あるからですが、この緩さは正直残念でした。
言葉を音と捉えて、身体の刺激を感じることは私も常にやってみたいことで、これがマイクを使わないで、きちっと台詞を喋り、そのリフレインが聴いている私達の耳を刺激し、尚且つ役者の身体を刺激した上で出来上がった空間だったらば、絶賛だったと思います。
でも、こればかりは趣味の範疇でスモンね。
世界は広い。私が感じないことを感じる人がこの団体を望んでいるということです。
観て良かった。
照明はASGの大平智巳さん。
昨年度のS音楽大学で一度御一緒したのですが、その時は作品がモーツアルトのものだったのもあり、トラディショナルなきちっとした明かりを作っていただいたのですが、今回また違った面をみせていただいて新鮮。
舞台は会社と言う設定みたいで、白い一面の壁に普通の長テーブルが下手にあるだけ。
役者が出てくると上手に四角いエリアが出来るのですが、この空間のバランスが素晴らしく、尚且つその四角のグラデーションが綺麗でびっくり。明かりの変化や切り込みに数式を感じるような感じでした。
きっと知的なんですね。
面白いのは、そう見えているのに厚みを感じること。
この作品のゆるさは、彼の明かりの厚みで持ちこたえているんだと思いました。しっかりしてる。
私はどちらかと言うと、右脳全開で物を創る人間ですが、彼とやる時はきっと彼の理性が上手い具合に重石になってもらえそうで、これから楽しみです。
いずれにしても、こういう作品が世界に出て行くのは意味のあることだと思います。
アートと言う枠組み。
本当はオペラでもアートの枠組みに入れたい作品は沢山あります。
特に現代物とバロックなどは、どちらがどちらか解らないくらい自由。
そこをまたいじってみたくなりました。
公演は19日まで。
ラフォーレミュージアム原宿でやっています。
御興味があれば是非!

2010年 05月 06日
メトロポリタン歌劇場公演オペラ「椿姫」
このパフォーマンスは名匠ゼッフィレリのプロダクション。
メトのレパートリーの一つです。
やっぱメトでゼッフィレリとくれば、かなりの期待感ではある。
しかしですね、私は残念ながら「Traviata」と言うオペラが嫌いなんですね~(^^;)。
多分、自分で買うなら絶対に選ばない。
今回は、友人Fさんが日にちを間違えて買ってしまっていたチケットで、偶然日程が合い、行くこととなりましたが、そういう意味で物語を観たくて行ったというよりは、やはりゼッフィレリの舞台をホームで観たかったという感じであります。
折りしも、その日の昼間は私の受け入れを承諾してくださった演出家に伴われて、彼女の勤めている音楽院のリハーサルを見せて貰い、自分のスタンスや、日本でのヴィジョンの問題を目の当たりにしてからの観劇。
朝からNY在住の教え子とも、そのことについて語りつくしたところへ、最後の締めみたいに現れた舞台は、ま~何というか、何というか、ほんっとにすんばらしく美しい~!!!と声に出してしまいそうでした(@@)
ゼッフィレリという人は、皆さん御存知でしょうが、まず有名なのは「ロメオとジュリエット」映画版です。
私が小学生くらいの時だったかしらん?オリヴィア・ハッセーが本当に美しかった~。
日本では「アイーダ」が有名ですよね。
新国立劇場のオープニングがそうでした。
実際に彼が来日してのプロダクションは、やはり独特の美しさと演出の緻密さに圧倒されて、再演も観にいきました。
彼はすべてを自分でやる人。
天才はみんなそうですが、演出、舞台、衣装、照明、何もかも自分でやって、初めて自分の世界を創れるというタイプです。
私が憧れる世界でもありますが、そうしなければ、やっぱり一つの世界は確立されませんよね。
しかし、その確立された世界観が本当に美しいかどうかは、やはりその人の美観。
そこが天才と凡人との違いですわ(;;)。
さて、映画の「椿姫」をご覧になった方にはおなじみのセット。
家具や衣装はこの舞台が元になってるんだと発見。
圧巻は2幕2場。
アルフレードに別れの手紙を書いたヴィオレッタがフローラの館にやってくるのですが、そこで繰り広げられる仮面舞踏会風のシーンが素晴らしい。
何が素晴らしいって、場面の変化です。
幕が上がって、最初に現れるのは、幾重にも重なったレースのような幕。
その後ろに大階段があって、中国風のちょうちんが天井からシャボン玉のようにぶら下がっていきます。
ジプシーや闘牛士の歌をうたって、仮装している連中に混じって、中国の大きなマスクをかぶっている人たちや、フローラ、マルケーゼなど、そこに集ってくるセレブリティな人達の乱痴気騒ぎが下品と上品の間をせめぎあってます。何というか・・・これが映画とかだったら、ヴェルディの音楽が流れてなかったら、本当にいやらしかっただろうと思います。
そのレースの幕が、場面が切り替わるたびに、一枚一枚上がっていって、最終的に大階段だけになりますが、その大階段が現れた瞬間がぞっとするほどすっきりしてて、冷たくて、綺麗でした。
例えば、二幕1場の別荘の部屋の色調は、アンティークな緑の感じですが、ここではエキゾチックな朱であったり、紫であったり、おおよそ混じって綺麗なのかどうかわからない色が使われています。
ゼッフィレリの感性はここがすごい。
「アイーダ」の時もそうですが、1幕の有名な凱旋の場面で、様々な民衆たちが凱旋を見守るのですが、その多くがベージュやカーキ、いわゆるヨルダン周辺の人たちが着るような砂漠色なのにも関わらず、その中に、本当に一握りの紫や黄色やサーモンピンクの衣装を着ている人がいて、それがグラデーションをはっきりとさせて尚更、色調を統一させていました。
これとまったく同じ現象。
うなる~・・・・・。
ヴィオレッタはアンジェラ・ゲオルギューが歌いました。
この人は、確か東欧の出身だったと思うのですが、歌唱や演技、ましてや美しさなどはやはり絶品。立ってるだけで涙を誘いそうなはかなさですが、残念ながらイタリア語が下手(^^;)。
「椿姫」は3幕の手紙のアリアや死ぬ間際など、台詞まがいのものが沢山あって、発音記号が違うだろう~とか、アクセントが違うだろう~とか、思わずチェックしそうになる台詞の言い方は、残念賞です。
もちろん、それを補うほかのものが120%なんですがね・・・・。
ジェルモンはメトではお馴染み、トマス・ハンプソン。
若いときに歌った「ドン・カルロ」とか、「ドン・ジョヴァンニ」なんかは結構好きでしたが、本来ドイツリートを歌う人だからなのか、いつもほっぺたを膨らませて、声を篭らすような感じがあったので、あんまり好んでは聴きませんでした。
ただ、非常に頭の良い演技の仕方をするな~と思っていて、そういう知的な役柄は好きでした。
ところが、このジェルモンは、ハンプソンの魅力全開で、しかも、一番良かったのは歌唱でした。
前日のプリン・ターフェル同様、メトの響きにあっているのか、メトがそういう響きを持っている歌劇場なのか、本当に綺麗に歌います。
かといって、のっぺらな歌唱ではジェルモンなど出来ませんから、そこは彼特有の知的な言葉が満載で、なんだかイメージを払拭されました。
しかしながら、この日はNY三日目。
しかも昼間の緊張が、観劇している頃になって出てきたらしく、2幕は眠気との闘いで(^^;)。
アルフレードは特筆することはありませんが、なんだか若いひ弱な感じで、雰囲気はあっても特に好きな箇所はなし(笑)。声は綺麗でしたけど、これもメトのおかげかな?
ところで、この日、歌劇場に入ろうとしたらば、チケットに問題が。
アメリカでは劇場内に入る時に、チケットにあるバーコードを係りの人が識別させて入るシステム。
バーコードをピッとやってもらって、入ろうとしたらば、ダブっているとのこと。
友人が取ってくれたチケットだったので、チケットブースに行ってもらったら、一度キャンセルしたことになってるらしい。こういうことも起こるのね~。
交渉の結果、1階のオーケストラ席に入れてもらえることに。
これもラッキーでした。
一番後ろの席でしたが、舞台が全部見えて大満足。
前日のトスカはそれよりも高い席で、上手半分全然見えないままだったけど、観なくて良いってことだったのかしら。「椿姫」はとにかく舞台を観ろって、神様が計らってくださったのかも(^^)。
こうやって終わってみると、やっぱり夢の時間だったと思います。
DVDやTVで観るのも良いけれど、その劇場で創ったものは、ホームで見ないと良さがわからないと実感。
そう考えると、世界中の公演を観たくなりました。
来年の春、今回色々と世話をしてくれた森谷真理さんというソプラノ歌手がシアトルで「魔笛」を歌います。
彼女は、私が武蔵野音大のオペラコースで2年ほど講師をした時にクラスにいた方で、今も「先生」と読んでくれる嬉しい「教え子」さん。
28の時にメトで「魔笛」の夜の女王でデビューして以来、世界中を歌って仕事をしています。
彼女と話していると、ホームがどこであるかは問題でなく、どこでも自分で在ることが大切だと改めて感じます。
私もいつも自分で在ることを目指して、世界を観て見たい。
来年は是非、シアトルへ、彼女の「夜の女王」を聴きに行こうと思っています。

2010年 05月 02日
メトロポリタン歌劇場公演オペラ「Tosca」
お昼間はメトロポリタン美術館へ。この詳細は姉妹ブログの「うさぎ屋日記」にアップしてありますので、そちらもお楽しみいただくとして・・・、行ってきました、リンカーンセンター。

はい、メトロポリタン歌劇場です。
この日はプッチーニの超有名なオペラ「トスカ」。
多分、一番好きなオペラだと言う人が五萬といる作品なんじゃないでしょうか?
御他聞にもれずに私もプッチーニの中では一番好きです。
内容よりも音楽が、とにかく好き。
実は自己プロデュースを最初にした作品も「トスカ」でした。
なので、楽譜の内容もリブレットも、かなりの確立で覚えているもの。
メトロポリタン歌劇場も私の中では世界一です。
ちなみに次がクライドボーンで、その次はロイヤルオペラとかリヨンとかかな?
でも、これは劇場内のことではなくて、この劇場が上演する作品とか演出とかでの基準です。
メトが良いのは、オリジナル作品があること。
有名なのは「ベルサイユの幽霊」ですが、この作品を観た時に、ほんとにガツンとやられました。
オペラ作品もあらゆる原語のものをやるし、何よりレバインの肉質なエネルギーが好き。
クラシックな劇場でありながら、ポップな部分も忘れないというオリジナルな感覚が良いのですね。
やっぱり劇場を目の前にすると、期待感満載。
有名な噴水とかみながら、ここでシェールがニコラス・ケイジと踊ったのよ~などと映画の一場面を思い出しながらテンション上がり気味です。

しかし・・・・しかしですよ・・・・
残念ながら、この日の「トスカ」は史上最悪のプロダクションでした(^^;)。
まず、座った席が残念賞。
上手側のボックス席だったのですが、客席や天井は素晴らしく見渡せても、舞台は中央より下手しか見えず、1幕などは、カヴァラドッシの書いている絵が上手側だったために、何も見えず。
日本円で8千円の席でしたが、立ち見となりました。
ただ、当然オーケストラ席などにいけばチケット代はもっと高かったのでしょうから、こんなものなのか~とがっかり。
それでも、例のシャンデリアが上がって開幕となると、やっぱり感動。
それで大人しく舞台を観たわけですが・・・・・・。
この演出が、ほんっとに最悪。
舞台設定を19世紀末に設定しており、服装もそれに見合った少しだけ現代風と言う奴。
そこまではまだ許すとして、二幕になった時に、いきなりスカルピアが二人の女と絡んで飲んだくれている。
しかも、その二人はモダンガールでアールデコ調の模様が壁にちょこっと書いてあり、いわゆる衣装もあの時代のおかっぱにノーウエストの短いもの。
最初にトスカのことをモノローグで歌うのに、一々女が下品に反応して最悪。
女のケツ触りながら、あのモノローグをスカルピアが歌うなんて信じられない。
あまりにも内容を知らな過ぎ。
歌い手は最高でした。
特にスカルピアを歌ったプリン・ターフェルは圧巻。
DGやフィガロ、サロメのヨハナーンなど、彼の音楽も歌も大好きな人でしたが、ここでのスカルピアは正に美声としか言いようの無い、綺麗な軽めの声。
実は、いつもの癖で、誰が歌うとか演出家とか調べていかなかったので、これは嬉しいサプライズ。
1幕の第一声で「誰だ~これ~!」と大興奮。休憩中に情報を捜し求め、びっくりしたと言う訳ですが、この綺麗な響きは二晩目の「椿姫」でジェルモンを歌った、トマス・ハンプソンにも感じましたから、もしかしたら、メトの劇場の響きがそうなのかもしれません。
つまり、歌い手の声との共鳴がすごく良いのかも。
どこで響いてくるのか解らない、まっすぐな飛び方を感じましたし、何というか、そこで歌っている人たちがすごく楽に一番良い響きで歌えるというか、そんな感じでした。
カヴァラドッシも今話題のカウフマンで、かなり良い歌唱でした。
ルックスも演技もよくて、この演出でなければ本当に良かったのに~!
主役の「トスカ」を歌った人は、本来のプリマと代わって歌ったソプラノでしたが、彼女も歌唱は素晴らしかったです。
ただ、もしかして初役なのか、まだ経験が少ないのか、あまり大きなものを感じなかった。
特筆はありません。
実は音楽も、淡白であまり好きではなかった。
イタリア人の指揮者でしたが、別にイタリア人だからと言って、オペラが素晴らしく良いと感じるかどうかは最近疑問。
誰であっても、音楽性は感性相性ですから、自分の好みにもよりますが。
それにしても、こんな一流の舞台でも、ひどい演出や音楽はあるもんで、この日は改めてそれを実感した夜でした。
この劇場で見てよかったな。と言う感じ。
私が演出したものの方がはるかに良かったと自負したくらいでしたが、そう考えると、自分たち、あるいは私以外の日本の演出家や音楽家のレベルの何が劣るのかと改めて思います。
私の教え子がメトでデビューして、ずっと世界を歌って回ってますが、仕事をすると言うことは、国籍の問題ではなく、ヴィジョンの問題だと言っていました。
つまり、才能はどの国の人でも同じ。
後は、自分が仕事をする場所をどこにするかの問題。
その教え子は日本に帰ると「日本で仕事をするには」とか言う、おせっかいな助言を必ず受けるそうです。
そんなこと、何で必要なんでしょう。
彼女にとっては日本以外が仕事場になったってことだけなのに。
私がNYを選んだ理由はそこにあります。
仕事が出来る可能性がある。
大きなことを言ってると思うのは、もうすでに自分を狭めています。
何処でも、どの国でも、どの歌劇場でも、仕事はあります。
自分がどこで何をするかを選択するだけです。
NYに行って思ったことはこのことだけでした。
日本という小さな国でも、まだ自分の場所を確立できない私がこんなことを思うのは、周りから見れば変みたいですが、言語や環境が違うだけで、同じ人間ですから。
それにしても、客席に座っている人たちのオペラの楽しみ方が色々で面白かったです。
これは、多分、アメリカだからかも。
この日も、次の日も、お隣のおばあさんがニコニコと対応してくれて、色々と感想なども話してくれました。
感動すれば、素直に声を上げて、スタンディングオベーションをする。
つまらなければ、ぶ~!と激しく声を上げて抗議する。
カヴァラドッシが2幕で「Vittoria!」と高い声を張り上げれば、お約束の拍手です。楽しすぎた(笑)。
とにかく、メトは遠くて近かったというお話でした!

2010年 04月 29日
NY・アンバサダー劇場公演「シカゴ」
こう書くとかなりカッコいいですが(^^;)、もちろん理由あってのことで、たった3泊の旅でしたが、かなりエキサイティングな経験をしてきました。
道中のことは「うさぎや日記」に書くとして、ここではやっぱりエンターテーメント。
この旅でのメインは取り合えずメトロポリタン・オペラと思ってましたが、期せずして一番アメリカの底力を見ちゃったのが、やっぱりミュージカルでした。
観てきたのはアンバサダー劇場でロングランしている「シカゴ」。

日本でも何回も上演され、今も米倉涼子や河村隆一などで上演されていますよね。
もしかしてご覧になった方もいらっしゃるかも。
古くは草笛光子さんや鳳蘭さんなんかも出演してらっしゃって、映画にもなったから、結構馴染みのある話。
しかし、やっぱりすごい!
何がすごいって、出演者の実力と層の厚さ、それにバンドのうまさ、演出云々とかよりも、そこに圧倒されました。
「上手い」なんて、今更どうかと言う感想ですけど、それ以外に言いようが無いんですよ。本当に。
皆さんも御存知だと思いますが、ブロードウエイで年間上演される舞台は、オフも含めて、50弱。
今手元にあるPlayBillという情報誌でも47公演あります。
それぞれに20人出演者がいたとしても、たったの100人しか舞台に乗れない。
50人いても、250人。100人いても5000人。
5000人なら凄いって思います?
いや~、一回公演を観たら、それこそぞっとします。
その5000人は、相当なレベルを持った5000人だからです。
つまり、もし、それだけの人数が毎回乗れているとしたら、それだけのレベルか、それ以上のレベルの人間が、どれだけNYに集まってきているかと言うことなんですよ。
この公演数は、オン・オフ両方合わせた数ですから、当然、載れる人数はもっと少ないわけで、その針の穴を目指して、すごい数の人が日夜レッスンに明け暮れて、オーディションに明け暮れているわけです。
舞台に乗ったからといって、安心は出来ません。
怪我や不評、いろんな問題は起きてきます。
その都度、自分以上のレベルを持った人間が、まるでくもの糸の囚人たちみたいに、足元にぶら下がっていると思ったら、恐ろしい以外に何ものでもない。
そういうことを現実として思わせられた公演だったんですね。
物語は単純です。
ロキシーというしがないコーラスガールが、浮気した恋人を射殺して刑務所に入れられる。
このままだと縛り首になるところを、マスコミに強い敏腕弁護士ビリーに頼んで、一躍スターにしてもらう。
実はロキシーが入る前に、ヴェルマと言うコーラスガールが、やはりビリーの手腕でマスコミの同情を買ってスタートして扱われていた。ロキシーはビリーの手はずでスターになっていくが、結局は裏切られ、出所したヴェルマと自分たちのショーを作るという話し。
アンバサダー劇場は古く、有名な劇場で、トニー賞を取った作品の常連宿です。
あんまり撮影できませんでしたが、どこかビクトリア時代の名残のような内装。シートも古くて暗い。
歌舞伎座のような雰囲気があります。



座ったのは二階席でしたが、客席と舞台が本当に近い感じ。
マイクを使ってはいますが、息遣いが聴こえてきそうな感じでした。
舞台はシンプルなスクエアが一つ。
そこにバンドと指揮者が入っていて、役者はその四角い建物の外側に椅子を置いて座っています。
それぞれが黒いドレスやズボンで、役としての衣装などはつけません。
小道具も最低限。
NYですから、当然字幕も出るはずも無く当然台詞も英語でしたが、役者の発する言葉の感覚が本当に耳によく、充分理解できたし楽しめました。
圧巻はロキシーを演じたBianca Marroquinという人。
ラテン系のコケティッシュで明るい表情もさることながら、芝居の感が本当に鋭く、相手や状況がどんなに動いても、余すことなくキャッチして自分の台詞にかませていくと言う、コメディエンヌの才能120%です。もちろん、踊りも歌も最高レベル。
この振り付けと演出は、映画「オール・ザット・ジャズ」でおなじみの、ボブ・フォッシーです。
もう亡くなっていますが、トレードマークの山高帽と白い手袋はここでも健在。
一度振り付け家は変わっているようですが、それでも彼の振り付けは残したままです。
この人の特徴は、身体を背中の方に句の字に曲げたり、指先を泳がすように手首から左右に振ったりと、およそ人間の身体の流れとは別の方向に、柔らかく、しかも自然に動かしながら作られています。
私は大ファンで、ライザ・ミネリのパフォーマンスをTVなんかでやると、この振り付けが観たくてかぶりつき(笑)。
この振り付けを、ものすごく柔らかい身体で踊って見せてくれたのが、Biancaです。
驚きました。
本当に身体が柔らかく、かといって緩いのではなく、ダイナミックです。
誰よりも上手かった。
ああ~、ここでも「上手い」と言ってしまいますが、本当にそうなんですもん(^^;)
でも、日本では全く無名ですよね?
ジュリー・アンドリュースやライザ・ミネリみたいに名前が無い。
世界には映画と言うメディアで出て行かないとキャリアはまた別のもの。
そういえば、一時期、バーナデット・ピーターズという私の大好きな素晴らしいミュージカル女優が変なアメリカ映画に頻繁に出たりしてました。この人、ソンドハイムのパートナーですよ(^^;)
そう考えると、Biancaばりのレベルはいくらでもいるわけで、それでもたった一つのミュージカルに、何年かしか出られない。他の作品でまた当たるとは限らない。その層の厚さ、底の深さにぞっとしたって訳です。
「シカゴ」は到着した日に連れてってもらったのですが、月曜日で選択肢が限られていました。
劇場が休みなんです。
最初は「メリーポピンズ」に行こうと腰を上げたのですが、高いチケットしかなくて、貧乏旅行だった私にはしんどい。じゃあ、と言うことで有名なチケット格安販売所「tkts」で友人が見つけてくれたのが「シカゴ」。
しかも半額で6千円くらいで見れました。

観てよかった~!
いきなりのショックではありましたが、こればかりは日本では体験できない感動でした。
さすがBroadway!
それにしても、売れないチケットをあっさりと半額にして、それでも客を入れる努力をすると言うこの商売根性。
それだけ映画やTVと同じ感覚で、ミュージカルや芝居を観に来る土壌があるとしても、基本は席を空けないというところに終始してる。はっきりしてるんです。「商業」に対してのモチベーションが。

このお姉さんは「シカゴ」の呼び込み。
「シカゴ」はすでにピークを過ぎており、客足が落ちているそう。
だからこそ、半額で変えたんだけど、このお姉さんのパフォーマンスも面白かった。貢献してます。
今は日本のオペラ界も演劇界もかなり厳しいですが、基本的にアメリカは国の資本で劇場を運営していません。
寄付とかパトロンと言う制度が充実してますから成り立つことでもあるかもしれませんが、「商業」であり、「利益」を求めるということが、どれだけレベルを上げるかを目の当たりにしました。
メトロポリタン歌劇場であっても、「商業」として成り立たせるためにはかなりの努力をしてるんですよね。
実は、NYへの短期留学を考えていて、今回は下見と人に会うのが目的でした。
留学の目的はもちろんあったのですが漠然とそうありたいと思っているだけでした。
それが、たった一夜を体験しただけで、叶えたいと強く願えるエネルギーをもらってきました。
恐るべし・・・・・。
まだまだ観て着ましたよ!
次回はメトロポリタン歌劇場のレポートです!
お楽しみに~(^^)

2010年 02月 19日
二期会オペラ公演ヴェルディ作曲「オテッロ」
二期会オペラ振興会公演「オテッロ」です。
演出は白井晃氏。
俳優であり、演出家。顔写真を見れば、きっと皆さんも見覚えのある方だと思います。
私は高泉敦子さんが少年を演じたり、おばあさんを演じたりして変化自在な空間を創る「遊◎機械・全自動シアター」と言う劇団の演出兼俳優さんと言うイメージが強いのですが、一昨年偶然に演出なさるお芝居を観ていて、その時の舞台の色がすごく好きだったので、期待大での観劇でした。
「オテッロ」はヴェルディの晩年の作品で、ムーア人であるベネチアの貴族オテッロが野心をもった旗手のイヤーゴに騙され、最愛の妻を殺してしまうというシェークスピアの悲劇。
オペラでこれを表すのに、音楽的な要素ももちろんですが、何よりも演劇と言う要素を絶対に外すことの出来ない作品です。
今回は、このバランスがすごく良い舞台を観ることができました。
いつもならば、オペラを観るということは「音楽を観る」と言う感覚なのですが、今回はしっかりとシェークスピア劇を見た感じがありました。
耳にはヴェルディの音楽が流れていて、それぞれの歌手の方々の声が聴こえているにも関わらず、そこにはきちんと言葉があり、その言葉と音楽に包まれた舞台空間がある。
舞台は上手奥から舞台前に向かって一本の道のような大きなカイチョウ場(斜めに舞台が上がっていることです)があり、場面を変えていくのは、大きなパネルや四角いキューブをくりぬいたもの。
まるで「2001年宇宙の旅」のモノリスのような柱。
こういった抽象的ではあるけれど、シンプルな舞台を創ったのは松井るみさん。
宮本亜門さんの「太平洋序曲」でトニー賞にノミネートもされた方です。
彼女らしいどこか空間を割ったような、すっきりしたラインと、それぞれの壁面に書いてある雲や霞を連想させる模様が照明の変化によって不気味に、あるいは美しく変わって行きます。
照明は斉藤茂男さん。
白井さんとのお芝居を観たことありますが、その時も、今回も、すごく好きな「グレー」な色を出す照明さんです。
以前に一度御一緒したことあるのですが、その時もページをめくるような色の変わり方が好きでしたが、今回も、はっきりと変わっていく照明の色が、実に多彩で、しかしうるさくなく、何より効果的な「影」を創ることが最高に素晴らしかった。
すべてが白井さんの求めている「色」と「形」だとすれば、恐ろしく相性の良いスタッフが集まったのだと思いました。
そして、何よりも素晴らしかったのはキャストの歌手の方々です。
タイトルロールを歌った成田さんをはじめ、白井さんと丁寧に舞台を創ったのだと想像しました。
もっとも特筆すべき才能は、イヤーゴをうたった大沼徹君。
まだ30代になったばかりの若きバリトンは、この難役を本当にきちんと、そして堂々と歌い、演じきりました
芝居や歌唱もさることながら、好きだったのは居方でした。
普通、イアーゴをやると、音楽のテンションの高さと、悪役と言う特殊な役を歌うために、気負ってしまったり、音楽に押されて本来の声よりも無理をしてしまったりと、難しいのですが、彼が良かったのは、恐らく彼が本来持っている柔らかい声を、そのままに使ったことです。
もちろん、居方も演技も、言葉の扱いも若い。
さすが30代。
けれど、だからこそ「旗手」と言う、おそらくよっぽどの幸運がなければ出世しないであろう立場の弱さが見えるような気がしました。
単純に物言いが柔らかく、真面目そうに聴こえることの方が、悪役らしい太い声よりも怖い。
もっとも、そこまで計算して歌っていたかどうかはわかりませんが、その柔らかい声の響きが繰り出す色んな音は、十分に耳を刺激し、想像力をかきたてました。
長身で身のこなしも良く、本当にこれからが期待できます。
このところ、二期会オペラ振興会は、こういった意欲的な舞台を創り続けています。
元々はオペラはオペラ演出家、芝居は芝居の演出家と、どうしてもジャンルを分けて仕事を依頼されるスタッフも、この団体は垣根を越えて、新しい風を吹かせています。
今までも、宮本亜門さん、鵜山仁さん等、話題作を作ってきました。
こういう風にジャンルが違う演出家がオペラをやると、大抵は「やっぱり楽譜がわかってない」だの「ヴェルディじゃない」だの「モーツアルト」じゃないだのと外野がうるさいのが常です。
背景にはいろんなことがあります。
頑張ってオペラ演出のみを続けている、オペラ演出家も沢山いる中で、どうして芝居の演出家を使うのか。
当然知名度がチケットの売り上げに関係してくることもあるでしょうし、話題を創ると言うことも商業には欠かせないことでしょう。
しかし、それでもお客様にチケットを買っていただき、会場に足を運ばせるという、単純なサイクルを活性化させるために、何が必要かを考えると、結果的には正しいのかもしれないと思います。
弊害もあるだろうと思います。
やはりオペラは作曲家と言うたった一人の演出家がおり、彼の書いた楽譜がすべての源で、それをどう読むかと言う事が真価を問われる世界。
それに、歌い手という、身体を楽器にする人たちに対して、その楽器を余すところ無く、尚且つケアしながら、最高の状態で舞台に乗せることも必須。
芝居のように演出家が第一ではなくて、作曲家の言葉を実際に棒に託す指揮者が第一。
この独特な世界を、感性だけで創っていくには無理があります。
稽古場はやはりカオスになるだろうと想像しますし、実際にそうなった稽古場も経験したことがあります。
どちらの場合も、やはり大切なのは歌い手さんです。
歌い手が歌えなくなるような舞台では、オペラは成立しない。
そこを間に立って、橋渡しをするのが制作。
二期会は、こういったリスクやメリットをきちんと負って、制作作業が進んでいるからこそ、今日のような舞台が作られるのだと思います。
そこが素晴らしい。
ずっとオール日本人キャストで、和洋、国を問わずに、色んなジャンルのオペラをやり続けている二期会の志、そして改めて所属する歌手の層の厚さを感じた公演でもありました。
先に観た藤原歌劇団の「カルメル会修道女の対話」でも感じましたが、今、日本のオペラは新しい段階を踏み始めているのかもしれません。
イタリアやドイツや、海外からの指揮者、演出家、歌手の影響を受けるという段階を終えて、今度は日本人が日本人に影響を与える公演を創る。
今だから意味深い。
そう実感できた公演でもありました。