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言の葉のいずるよりも前にきみが好きだった

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稽古場・番外編

私が「稽古場」と言うプロジェクトを立ち上げた理由は、以前にも書きましたように、「きちんと稽古をする場所が欲しい」こと。その稽古を公開して「アピールの場所にしたい」こと、そして「リンクさせること」です。今までに3回やりましたが、アピールする場所と言うところまではなんとなく果たせているものの、この稽古場をリンクさせるということが実現しないでいました。そうは言っても積極的に行うべきことでもないと思っていましたので、働きかけなどもせずに、勝手にだれかがこの「稽古場」に参加してくるか、同じ形態で稽古をするか、そう言う声があがるのを待っているだけでしたし、そうでないと意味の無いことだと思ってましたので、いつも「稽古場」は終わってしまえば、来年、また始まるまでお雛様のように影をひそめていたのですが、なんと、今年は初めて「リンクさせること」が実現しそうです。
今日その若者達が我が家に相談にやってきました。メンバーは今年の「稽古場ドン・ジョバンニ」に参加してくれた女性二人と、見学にきてくれてて「すごくオペラ歌手になりたい」男性の3人。「稽古場」を観て、あるいは参加して感化されたらしく、自分達でも「稽古場」を立ち上げる旨、話してくれました。これは非常に喜ばしい!私がやりたかったのは、こう言うことです。私の起こす「場」に関して、参加してくれるのはもちろん、誰かが影響を受けて、また「場」を創る。そうすると、そこに新しい参加者が現れて、またもやその「稽古場」を観てくれた人達が影響を受けてくれて・・・・・。この「リンク」が本当に大切なことだと思っています。
もちろん、今度は主催者としては今日相談に来た彼らですから、彼らにとっての価値観がある「稽古場」を作る必要があります。私はどういう形でも参加をし、できるだけ彼らのやりたいことをやらせてあげようと思います。しかし、こう言うことに繋がったのも、これまで「稽古場」に参加してくれた人達のおかげです。彼らの稽古をする姿が真摯であるから、やっている稽古の内容のレベルが高いから、こう言う結果がでてきたのだと思っています。本当に、一人ではオペラはやれません。感謝、感謝。
そう言う意味ではレッスンも、様変わりをしています。「レチターレ」や「稽古場」を観たと言ってき始めた人達が、そう言う稽古を自分達もやってみたいと、練習場所を借りて、相手役をお願いして自分のための立ち稽古をしたりしています。これも、今までとは全然違った展開です。面白いことに、それまで勉強していた人達は、「レチターレ」が終わって2ヶ月たった今も戻ってきていません。あの公演を境に、私の方向も、また変わっていくのでしょうか?こればかりはそれぞれの価値観の問題。戻ってこないことを責められませんし、逆に引き戻すことも意味が無いことだと思います。
それにしても、改めて「場」を創ることの大切さを感じます。今日、相談しに来てくれた若者達には、是非彼らの「稽古場」を実現して欲しいです。こうやって、死ぬまでオペラの稽古をしていたい・・・・。老後の楽しみも増えてきた今日この頃です(笑)。
by kuniko_maekawa | 2005-08-10 16:03 | 稽古場 | Comments(0)

トレーナー・クライアント

さて、私のところにレッスンを依頼される方が様々だと言うお話は、再三していますが、どの方も、それなりに目標を持っていたり、足りないものを認識した上で、私のところに来てくださっています。私は基本的に来るもの拒まずの体制をとっていますので、どのレベルの方でも、どんな性格の方でも、一応は受け入れるつもりでいますが、やはり、対処しようが無く、困ってしまうこともあります。どういう方が困るかと言いますと・・・。
その前に、私が「依頼者」のことを敢えて「クライアント」と呼ぶのは、私と彼らの間に、契約を介しているからです。もちろん、実際に契約書を交わすわけではありませんが、彼らが欲しいものを私と一緒に学んで行くあいだ、私は私の能力と場所と時間を提供するわけです。彼らはそれに対して、見合った報酬を支払う。その関係が成り立って初めて共同作業もできるわけですから、私は相手をビジネスパートナーだと思っているわけです。これを間違えると、意識的にも「偉い先生」になってしまいます。特に相手が未熟でこちらの経験を頼りにしている時などまさに。
学校でも、研究生機関でも、勘違いしてはいけないのは、基本的にそこに務めている先生や講師はそこに学ぶ学生の学費で生活しています。つまり彼らに雇われているのです。しかも、音大の場合は少なくとも年間100万、200万と学費を納めているはず。そこを見誤ると、その巨額のお金は捨て金になります。これを勘違いしている「先生」と呼ばれている人達の、なんと多い事か。生徒らが学校を捨てて、学費を払うことを拒否したらどうなるんでしょう?生徒が居るから先生と言う形は成り立っているのです。第一「先生」と言う言葉は、「先に生まれる」と言う意味以外、何もありませんよ。つまり、私達は「経験者」であり、彼らより「先達」であるわけです。ですから、彼らはお金を払って、その知識や技を習得する。私達は、それを提供し見合った報酬を受ける。「偉い」必要は何もありません。しかし、多くの「先生」は「偉い」ですし「暴利」に走っています。たった30分の個人レッスンで2万も、3万もレッスン代を取る先生も少なくありませんよね。
ただ、こう言うことは生徒側にも、問題はあります。そのお金を払ってまで、欲しい知識なら払えば良い。しかし、先生の知名度や、先の受験やコネと言うものに魅せられて、その暴利を許す人も多いはず。結局は世の中、何でもそうですが、価値観の問題となってきます。
そう言う事情も含め、私はレッスン生と常に対等であるのが望ましいと思っていますが、このクライアントの中で、たまにですが、何も考えをもたずに来る人がいます。初めてオペラをやる人であれ、「初めてだから、言葉の読み方からやりたい」とか、「音符が読めるようになりたい」とか、そう言うことを言ってきます。その上で、「そんな状態でもレッスンをしてくださいますか」と。もちろん、やります。その方が望むものがある限り。しかし、一番困るのは「私は素人なので、何から手をつけていいのかわからない。」と言うタイプの人。だったら、カウンセラーのところに行けばいいのですが、基本的な問題がご本人にわかってないので、私のような家庭教師的な人の所に来れば、何か教えてもらえると思ってらっしゃる。実は「勉強」をするには、ご本人の問題意識が必要です。出来ないもの、足りないものがわからないと具体的な勉強なんて出来ません。しかも、そう言う方は、今挙げたようなことをお話しても、最後には「素人ですから、よくわかりません」と看板を大きく掲げてこちらをシャットアウトしてしまいます。「私、日本語わかりませ~ん!」と言うのと同じです。これは、本当に頭にきますし、困ります。だったら、私のようなものは必要ありません。素人なら、プロになるつもりはないのですから、舞台に立つのを趣味にして、楽しく歌っていれば良い。しかし、こう言う方に限って、本当はご自分のことを「素人」とは思っていない。この勘違いが「お金を払えば、与えてくれる」と言う誤解を生み、無駄金を発生させます。
もちろん、こう言う場合でも一回はレッスンをします。問題意識を覚えていただくためです。たとえ、それがカウンセリングだけになっても、その方が意識を変えるきっかけになることは必ずします。しかし、それでも、変われなければ、お断りすることにしています。私ところでは「自分で考える」と言うことが必須ですから。与えるだけのレッスンはしませんし、出来ません。自分がどうなりたくて、何を勉強したいのか、そこがわからないのは、如何に自分から目をそむけているか、です。皆さんも、ご自分を見つめると言うことを、ちゃんとできる歌い手さんになっていただきたい。器を拡げていくには、そう言うことが大切だと思います。
by kuniko_maekawa | 2005-08-09 12:28 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)

打ち合わせ

今年下半期、私は演出助手として3本。演出家として一本、公演に携わります。レチターレとこれからやるであろう、朗読会をあわせれば、年内に5本。年明けに一本と言う計算です。これは1年を分けて、結構働いていますし、2本は稽古と本番が重なっていますので、中々行動的な1年と言えます。あまり忙しいことを好まない私としては、不測の出来事ですが、まあ経済的にも潤うし、去年1年を休んだ分のギャップを埋めるためにはちょうどいいかもしれません。
さて、オペラ公演を起こすには、さまざまなプロセスを踏んでいかなければなりません。そのために、「打ち合わせ」と言うものが何十回と繰り返されます。本番までの流れは、だいたい次の通りです。まず、制作が立ち上がり、あるいは既存の歌劇団などで企画が興され、演目が決まります。そうしますと、その作品や団体の要する、指揮者、演出家を選出。ここらで、まず一回目の打ち合わせ。つまり、どれくらいの予算があって、どれくらいの規模を団体が望んでいて、ダブルキャストなのか、シングルキャストなのか、オーケストラは使えるのか等々、大まかな概要が話し合われます。それから演出家、指揮者がそれぞれのスタッフクルーをそろえていきます。指揮者でしたら、副指揮者、ピアニスト、場合によってはオーケストラの人達。演出家の場合は、舞台監督、演出助手、舞台美術、照明、衣装。ここが決まると、次に、オーディション等がある場合は、それをやってキャストを選出します。それから、実際に音楽スタッフは音楽稽古に入ります。さて、演出家のほうは、オーディションが終わり、役が決まると、それぞれのスタッフと個別の打ち合わせを始めます。ここからが、長い道のりです。
まず、最初に演出家とそれぞれのプランナーとのコンセプトの投げ合いをやります。演出家のイメージを伝える作業ですね。それが終わると、最初の段階の絵をそれぞれ描いてきて、演出家と、舞台監督のもとで打ち合わせをします。この個別の打ち合わせを2回くらいやった後に、今度は全員そろったところでの打ち合わせになります。ここにはすべてのプランナーが居ることが望ましいです。ここで、疑問ですよね。舞台美術、衣装、メイクまではなんとなく想像できても、照明とかも参加するの?って。ここが、舞台って総合芸術だなと思うところですが、舞台セット、照明の機材は、すべて舞台上にある空間で仕込まれていきます。もちろん、この段階でプラン自体は舞台美術家のものですが、このセットとそこに立つ歌手に明かりを当てるのは、照明家の仕事。と、言うわけで、舞台セットが実際に立たされる位置。形、これによって照明のラインを創っていくわけですから、当然一緒に打ち合わせをします。特に重要なのは、「吊り物」と呼ばれる、パネルや、幕類。これは舞台の天井に設置されています、可動式のバトンに仕込んで、そのバトンを上下させて舞台上に降りてきたり、上がったりするもの全般をいいますが、そのバトンには照明機材も仕込むわけです。それで、どのバトンを照明さんが使って、どのバトンは舞台美術の方で使うと言った取り決めが重要です。どちらも、ちょうど良い位置というものがあるのですね。それから、ここに衣装さんが居るのは、ひとえに「色」です。舞台美術のセットの色がどういう色が貴重になっているか、照明のコンセプトがどういう色を中心に出してくるか、それによって、衣装デザインを変えなければいけないこともあります。このすべてをまとめているのが舞台監督。私がやっている演出助手はこう言ったプランナーの打ち合わせの場合、話を総合的に聞いておいて、基本的に人の動きについてチェックしていきます。演出家の稽古の様子と、打ち合わせのプランの方向性が違うこともありますから。でも、これはあくまで人の動きに限ります。道具の事や等になると、舞台監督の仕事ですから。こんなわけで、それぞれのセクションで、プランや必要な情報を提供して行くのが打ち合わせです。
それにしても、打ち合わせと言うのは、本当に根気のいる時間です。やはりタイムリミットのあることですから、皆、妥協せずに何度も話を蒸し返していきます。真剣であれば、あるほど、重箱の隅をつつくような話し合いになります。それに、日本のオペラ公演のほとんどは「予算」と言うものがたっぷりあるとは限りませんから(ほとんど無いです)、演出家の方もプランナーの方も、限りある予算内で、ぎりぎりまで頑張ろうとする。どうしても解決のつかないことだと思っても、長い時間をかけて、皆で解決策を練ります。しかし、それも、良い作品を創りたいという思いが強ければ強いほど、こう言った打ち合わせは何度も行われます。そうやって創った舞台は、やはりいいものが出来上がります。しないわけには行きませんね。先月から、隙あらば打ち合わせと言う感じで、下半期の公演の準備をしています。この打ち合わせが終われば、たち稽古に入り、あとは本番に向けて仕上げていくだけ。公演自体は2時間か、3時間で終わってしまうものですが、そこに半年を掛けるのが、醍醐味かもしれません。
by kuniko_maekawa | 2005-08-09 02:11 | オペラなお仕事 | Comments(0)

「蝶々夫人」in ピアノデュオ

昨日、三鷹の芸術文化センター風のホールで「蝶々夫人」を観てきました。
これは平野洋子さん、今野菊子さんと言うピアニスト達が、自分達で立ち上げたオペラ公演で、コンサートホールでしたが、演出、照明ときちんとした公演の形態でした。
舞台上には二台のピアノがを中心に形と高さのちがう段が組まれており、歌い手達は下手(舞台を正面から見た左手)の方に据え置かれた、ちょうど畳2枚か3枚くらいの台の上を中心に演技をします。指揮はステージ下。公演名どおり、ピアニストをメインに考えた舞台構成です。
「蝶々夫人」は「ある晴れた日に」など有名なアリアもありますから、皆さんご存知かと思います。明治初期の長崎。アメリカ人海軍の軍人ピンカートンが芸者の蝶々さんを「花嫁」として迎えます。しかし、彼は任期が切れてアメリカに。ずっと彼を待ち続けて3年。その間に、仕送りはなくなり、生活にも窮していますが密かに産んだ彼の子供とともに、蝶々さんは頑固に生活を変えません。求愛を続けているヤマドリと言う金持ちにもなびきません。そこへ、ピンカートンが戻ってくるとの知らせが。喜ぶ蝶々さんは結婚式の時に来た婚礼衣装に着替えて夜明けまで彼が来るのを待ちます。しかし、彼が来た時には母国で結婚した妻を伴い、しかも、蝶々さんの最愛の子供も引き取りたいと言う始末。結局子供は引渡し、蝶々さんは自害して果てます。なんと言うことでしょうね。「嫁」として迎えるなんてありえないことで、結局は芸者を買っただけなのですが、それを信じて捨てられて、尚待ち続け、挙句の果てに子供まで奪われて自害。
作曲はプッチーニです。彼は直接日本を知らず、日本領事館夫人と実際に日本にくらしたイギリス外交官夫人の書いた小説をもとにこのオペラを書き上げました(と、記憶しています)。ですから1幕の結婚式の場面など、日本のしきたりもある程度かきこまれており、しかし、外人の見る日本という、変な世界がそこにあります。ですが、私達日本人にはなじみの風景。そして、何より犠牲的精神を大いに感じさせるものがありますので、人気のあるオペラです。加えて、蝶々さんが日本人だと言うことで、海外でもこの役は日本人歌手が多く歌います。色んな意味で私達には大切なオペラかもしれません。そして、音楽が素晴らしい!ある意味ドラマチックな内容に加えて、プッチーニの音楽が本当に綺麗で、壮大です。中に日本民謡やどどいつのような音形もちゃんと加えられて日本情緒もかもし出していますが、やはりイタリアオペラです。音楽観がとても広い。
さて、今回は本当にこのピアニスト達と指揮の福森湘氏が素晴らしい音楽を創っていました。福森先生は、藤原の研究生でもお世話になっていますが、ずっと藤原の夏の文化庁主催の公演で「バタフライ」を指揮なさっていました。私もそれに演出助手として参加していましたが、その時もこの日も、本当にきっちりと音楽が作られており、ほぼ楽譜どおりです。つまり、作曲家の要求どおりの音楽がそこに現れているのです。オーソドックスと言う言葉を馬鹿にすること無かれ、これが非常に難しいことです。音符一つ、休符一つ、その意図を汲んで演奏して御覧なさい。ちょっとやそっとじゃ出来ません。やる方の力量と才能と、実技が必要です。それをきちんとわかってご自分の「バタフライ」を演奏なさっていました。そして、ピアニスト達がそれに添って、自分達の実力を遺憾なく発揮して、しかもオーケストラのパートをピアノ2台で弾くわけですから、当然いろんな楽器の音を2台で分けて足していきます。そのバランスも音も素晴らしかったです。二人の実技のレベルの高さも感じますし、尚且つ、音楽観の広さと感性の良さを感じました。たとえピアノ2台でも、こんなに厚い音楽が創れるのだと、改めて感動しました。しかし、残念ながら演出がこの音楽を殺してしまっていました。これに関しては、好みと主観がありますので、必ずしもお客さんがみんな私と同じことを感じたと言うわけではないと思います。そこをお間違えないように。
合唱団、ソリストを最初から舞台に配置し、彼らが舞台背景になったり、親族になったり、色んな形をかえていきます。照明が落ちると子供らしき人が出てきて網で蝶々を取ると演奏が始まります。その子供らしき人はずっと上手に位置して何かやっていました。こう言った合唱団の動きや子供の居方がすべて邪魔です。目が奪われてしまう。バタフライ、スズキ、ゴローも現代服でドレスやスーツでした。しかし、動きは着物を着ているような裁きだし、ト書きどおりのところもあれば、まったく勝手に作ってしまってるところもあり、演出家が何をしたいのか一貫性もなくわかりません。全体にイマジネーションの世界で、音楽とは関係なく無理やりそれを観させられている感じ。1幕の途中で舞台を見ていられなくなり、目を瞑って音楽を聴いていました。その方が、よっぽど場面を感じることが出来ました。これがどういう事か、皆さんにわかると嬉しいですが。いずれにしろ、こう言う舞台を観ると、反面教師で私がやる時は絶対に音楽の邪魔になることはしないと決意が新たに成ります。オペラですもん、音楽を楽しみに来てるのに。イマジネーションを見せるなら映画でいいじゃないですか
私の持論は耳に入ってくる無意識の物にこそ、神経を注ぎレベルを上げるということにあります。舞台で起こって来ること、つまり目で見えるものは誰だって故意的に見ることが出来ます。でも、耳に入ってくるものは無意識です。いつのまにか聴いている。だからこそ、心地よいもの、素晴らしいものでなくてはいけません。加えて、それが頭を刺激し、想像力を刺激する。目の前でいくら花火が上がっても、耳に入ってくる音が美しければ、花火が邪魔になりませんか?そう言う意味で、観ている方の耳や目や頭を塞いだ演出でした。
しかし、そう言う舞台でも、出演なさった歌い手達によってある程度のレベルまで引き上げられていました。特筆すべきはバタフライの山本真由美さん、シャープレスの柴山昌宣君、そしてスズキの細見涼子さん。非常に細かいことまできちんと芝居をし、歌唱もすばらしくこちらの耳を満足させてくださいました。だからこそ、もっと彼らの能力を最大限引き出すことが出来たはずです。真由美さんは容姿も美しく、1幕から一貫して可愛らしい蝶々さんでしたが、少し線が細く感じました。儚げでしたが、台詞に近い歌唱の仕方が時々あり、単純に言葉が消えてしまったのが残念。しかし、最後のアリアは圧巻でした。やはり素晴らしい歌い手さんです。
柴山君は何回か記事でも書かせて頂いてますが、本当に身体能力の高い方で、今回も彼の創ったシャープレスをきちんと演じきって、尚且つ美しい響きの声で歌唱の説得力も十分に持っていましたから、圧倒されました。しかし、この役にしては少し動きすぎの感があり。やはりできる人だけに、つい・・・という一歩がもう一つ収まれば、もっと素晴らしかったと思います。
細見さんは非常にお芝居の感が良い方でブッファもセリア(シリアス物ですね)すべてこなせる幅の広さをもっています。そして、声が本当に良い。メゾの深さと息の軽さがありますから、一貫して音楽が崩れません。3幕など秀逸でした。和服でオーソドックスなスズキを是非観たいです。日本人の体系として、メゾとかアルトと言う女性の低いパーツは中々優秀な人が出てこないのですが、これからもどんどん舞台で聴かせていただきたいと素直に思える歌い手さんです。
しかし、三人とも私が言うまでも無くかなりハイレベルな人達なので、是非、皆さんも一度はその歌唱をご堪能ください。きっと納得されることと思います。
さて、今回若い歌い手さんも、公演に参加していました。ボンゾの山本竜介君、神官の折河宏治君、そしてケートの馬場美由紀さん。みな、藤原歌劇団の準団員で、これからを期待したい人達です。一人一人の課題がそれぞれ違いますが、研究生機関を出て、3年から4年経った彼らの共通する課題は、音楽観を拡げることです。一生勉強は続けなければいけません。しかし、ずっと頭の中に「勉強中」を置いていては、まずプロではありません。自分達のレベルを認識し、それに自信をもったうえで、さらにレベルを上げるために勉強する。そろそろ、その「自信」みたいなものが見えてきてもいいかなと思います。山本君は地道に努力をし、今現在声を創つつも、その声が段々磨かれてきて、音楽が作れるようになっています。感性も悪くなく、立ち方や芝居にセンスが見られるので、頑張ってこのまま声を作り続けていて欲しい。今回もボンゾの一声がすごく良い響きで伸びていました。折河君は藤原の本公演にもすでにデビューしており、来年の藤原公演「蝶々夫人」で同じ神官をやります。名実ともにこれからの藤原歌劇団を担うバリトンですが、それにおごることなく、こう言う小さな公演や研究生の助演などで経験と勉強を続けています。素晴らしい声の持ち主で、今回も最初の一声に正直耳を刺激されましたが、テクニックと言うことに関してはまだ訓練が必要です。ちょっと不器用ですが、頭もよく、環境にも恵まれているので焦らず今の勉強を続けて大きな歌い手になって欲しいですし、なると思っています。そして馬場美由紀さん。役付きで舞台に乗るのは久しぶりです。オペラをずっとやりたくて頑張っていますが、女性は本当に厳しく、先の二人に比べれば、全然場がありません。しかし、地元でのコンサート活動や、レッスンなど、自分を磨く勉強は頭が下がるくらい続けています。元々持っている美しい声と、それに見合った美しい容姿があり、これにメンタル面での強さが加われば、もっと伸びるでしょうし、これからが期待できます。今回が本当に良い経験になっているのを感じました。
彼らに共通して言えることは、もっと自分達の音楽をアピールすること。そして大きな音楽を創っていく人間と実力を育てていくこと。是非頑張って欲しいです。それにしても、先のピアニスト二人に本当にどれだけ拍手を送っても、足りません。こう言った「場」を起こすことは、ちょっとやそっとではいかないのです。エネルギーや、経済的なことや、そして、何より、ご本人たちの実力だって、落とすわけにはいきません。普段は表に出ている人達が、こう言った裏方の事までやること自体も、大変なことです。本当に、おめでとうございます。色んな意味で、行って良かったと思った公演でした。
by kuniko_maekawa | 2005-08-06 13:47 | 観劇日誌 | Comments(0)

オペラレッスン・音楽編

本日は暑かったですね~!!日中外を歩いていて頭がぼーっとしてくるのがわかるくらい、蒸して蒸して。こんな中でもレッスンはもちろん、行われます。
今日は出張レッスンです。通常楽譜やリブレットを読む時は狭い我が家でやっていますが、音を入れて、実際に歌ってみるとなった時に、残念ながら音だしが出来る部屋ではありません。それで、ご自宅に伺ったり、スタジオを取ったりして、声が出せる稽古場所に出張します。そう言う形で今日もレッスン生のご自宅に伺いました。
ある程度楽譜を読み進めたら、時として実際に歌って見ることを勧めます。オペラの楽譜の情報を探し、リブレットを読んでイメージや単語の知識を増やしても、知識は知識。頭が膨らむだけです。それが悪いことではありません。もちろん、大切なことです。しかし、実際に楽譜を声にした時に、それらの知識が表現の道具として使われなければ、せっかくの机上の勉強も意味の無いものになります。
今日レッスンをした方は現在研究生機関に在籍し勉強をしています。そこでの試験のための演目をずっと勉強しているのですが、今日は相手役の方もいらして聴かせていただきました。レッスンの内容は、以前も書きましたから割愛しますが、研究生の授業でも、こう言うレッスンでも、台詞としてリブレットを読む時や、楽譜の情報を探している時には新しい感動や新鮮さがあって、読み方や色が変わるのに、音が入って歌うとなると急に何もなくなってしまいます。
それを気づかせるのにどうしても時間をかけざる終えません。何故って、歌っている本人達にはわからないのです。ちゃんと歌っていないと言うことが。
以前、私の師匠がある研究生機関のクラスを持っていたときに、目から鱗が落ちることがありました。そのクラスでは「チェッキーナ」と言うコメディ(オペラではブッファと言います)をやったのですが、その作品の中にサンドリーナと言う狂言回しの役があって、それをやっている女の子が何故か師匠の気に入らず、しょっちゅう怒られていました。師匠曰く「ちゃんと歌え」。しかし、その子は本当に良くやっていて、芝居もうまいし、声もあるし、私も含めて皆がどうして師匠が気に入らないのかわかりませんでした。その女の子も一生懸命色んな手を変えて頑張りますが、どうしても、師匠は良いといいませんし、「ちゃんと歌え」以外の駄目だしをしません。そこへ今は亡き中村邦子先生がいらっしゃって、その子の歌を聴いた途端、授業から彼女を連れ出してレッスン室へ拉致していきました。びっくりしつつも、授業を滞りなく進めているうちに、その子と中村先生が戻ってきました。それで彼女の場面を稽古し始めたわけですが、恐ろしく良くなっているのです。それと同時に余計な動きが無くなっている。なのに、ちゃんと彼女は役になっている。
余談ですが、私が神様からもらった能力があるとすれば、「気づく能力」です。これは結構自分でもすごいと思ってて、例えば、師匠の稽古を始めて見たときも、どんなに楽譜通りに舞台を作ることが大切か、そして、自分がそれまで良しとしていたものがどんなに意味の無いことだったのか、瞬時に気づきました。この「瞬時」が私にはあるのです。目から鱗とはまさにこのこと。そして、このときも、「気づいた」のです。
その子は「ちゃんと歌って」いました。これがどういう事かわかりますか?皆さんは歌を歌うと言うことをどう捕らえてらっしゃるでしょうか。綺麗な声を出すこと、音符通りに歌うこと、歌詞を間違えないこと。こう言ったことでしょうか?もちろん、どれも不可欠ですよね。しかし、本当に大切なことは、楽譜に書いてることを「ちゃんと歌う」ことなんです。オペラの楽譜には当然歌詞が入っています。その他の楽譜の情報は以前記事にもしましたが、音楽記号、音楽表記、ダイナミックス。それらをすべて台本のト書きのように読む必要があります。そして、それらを「歌う」ことが歌手の仕事です。その彼女はずっと「形」を作っていました。表情や、身体の動きや立ち位置など、そういったことを一生懸命作っていました。しかし、ただ、楽譜にあることをきちんと歌えばよかったのです。例えば、私達が日常使っている言葉も、感情的なことに左右されます。機嫌が良いか悪いか、好きな人か嫌いな人か。そういったことで「おはようございます」でさえ、言い方が変わりますよね。大切なことは、故意的にそういった感情を作るのではなく、リブレットや楽譜の情報からそういったことを読み取り、そのイメージを持った言葉を発語するために声を使うと言うことです。そうなると、声はその言葉を伝える道具になりますから、当然磨く必要があります。そして、舞台から少なくとも10メートル先にある客席に届かせるために、あますところなく身体を使って声を出す。サンドリーナをやった彼女は中村先生とのレッスンでそれを体現させられたようです。稽古場に帰ってきて、その場面をやった後、初めて師匠が「ちゃんと歌う」以外の駄目だしをしました。彼女は終わってから師匠に「歌うって、こんなに疲れるんですね」といって、失笑をかいました。「形」を作ることにこだわって、音楽をつることを忘れてた彼女はそれまで汗をかいて歌うことなんてなかったんだそうです。それが出来て、初めて音楽が客席に伝わると言うことが、その時わかったんですね。
今日レッスンをしたお二人も、歌いだした最初は、まったく身体を使わずに、こちらの投げかけに対して、ただ、おたおたしているだけでしたが、段々「歌う」ことの大変さと、大切さがわかってくると、急に体が動き出し、表情が着いてくる。そこに至らないと「歌ってない」と言うことに気づかないのです。これは、この先、私にとっても、ずっと課題になっていくことだと思いますが、とにかく歌うことが何よりも歌手の大切な仕事。今、オペラ歌手を目指して頑張っている人達に、一番理解して欲しいことです。
by kuniko_maekawa | 2005-08-05 00:05 | オペラ・レッスン | Comments(0)

オペラ歌手の仕事

このところ、オペラ公演を観る機会が何回かあり、そのたびに色々考えることがあります。
今日も、新国立劇場の中劇場で「こどものためのオペラ劇場-ジークフリートの冒険」を観てきました。偶然中劇場のスタッフ部屋で打ち合わせをしており、そこに演出家のマティアス・フォン・シュテークマン氏にばったり。彼とは以前新国立劇場の「サロメ」で一緒に演出助手をやったことがあり、「絶対に観てって欲しい」と半ば、強引にチケットをくれて、ありがたく観せていただくことに。この公演は去年もやりましたが、子供を対象に、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」をわかりやすく、かつ時間を1時間ちょっとに縮めて公演しているものです。各音楽雑誌などの評はいつも良く、今日も、それぞれのスタッフが「是非、見ていって欲しい」と熱を入れて誘ってくださるほど。公演は、あの長い内容を頑張って短くし、歌い手達もテンション高く、子供達を楽しませようと動き回っていました。衣装や、しかけなどサプライズも一杯でしたが、正直、それだけの感じで、私はあまり好きではありませんでした。脅かしばかりで、内容が薄く感じましたので。それはともかく、今日は内容ではなく、歌手の話です。
いつも、こう言った舞台を観るにつけ、オペラ歌手ってほんとに大変な仕事だと思います。良い声を作り、芝居の感性ももち、尚且つどんな指揮者や演出家の要求にも答えなければならない。ここがまたすごいですよね。もちろん、歌い手達に意志が無いと言うことではありません。私も、何回か「おいおい、ほんとにそうか~」とぶっ殺したくなる演出家と仕事をしましたが(特にイタリア人なんかに多いです)、それでも相手は演出家です。逆らうわけには行きません。それは、その演出家を選んだ団体の責任で、それを追求しない限り、こちらには権限はありません。それでも、私達はまだ表に出ませんから、やることだけやって舞台を創ってしまったら、手を離してしまうことが出来ます。しかし、歌い手はそうはいきません。その変な演出を演じて、変な音楽をお客の前で歌わなければなりません。それが、どんなにぶざまに見えても、降りることはできません。ここが歌い手達の辛いところだし、逆にすごいところだと思います。もちろん、私達も最善を尽くして、彼らが少しでも居心地良く歌ってくれるように努力します。しかし、所詮は気持ちの問題だけ。どうにも変な衣装を着てたり、変なところに立っていたり、そう言うことを回避してあげる権限は持ちません。では、彼らはどうやってこの状態を打開して行くのか。
やはりベースをきちんと持つことです。つまりオーソドックスな役を自分で作っていると言うこと。これがあるとないとでは全然居かたが違います。オペラの場合、最大の演出家は作曲家です。ですから、どんな演出をしようと、どんな音楽で歌おうと、結局は曲を変えることが出来ません。それをわかっている人は、けっしてそこから逸脱しません。歌い手さんもレパートリーとして役を持っている場合、どんなにひどい演出でも、かなり頑張れるのです。
それでも、ひどいものはひどいですが、こう言う歌い手さんが居るからこそ、オペラが成立すると私はいつも思います。ですから、アシスタントで仕事をする場合、一番歌い手さんに気を使います。だって、すべてを背負って舞台に立ってくれるんですもんね。
何があっても、絶対に負けない自信は歌い手さん自身の中にあるのだと、その強さに、いつも感服しています。
by kuniko_maekawa | 2005-08-02 00:55 | 歌手 | Comments(0)

オペラ・レッスンのこと、演出のこと、舞台や絵画や色んなことを書きまくっています。