音楽用語

近々オーディションがあるために、今週はレッスンウィークでした。ありがたいことです。通常、レッスンは5段階くらいに分けますが、オーディションみたいに、はっきりした範囲と、その仕様がわかっている場合、必要に応じて2回くらいでオーディションのための準備をします。
今回は演技つきだということで、楽譜を一通り読んだ後に、実際にピアニストをお願いしてレッスンをしました。しかし、演技付きと言っても、相手がいるわけでもなく、特別な役以外は任意のアリアを歌うことになっており、みな、一生懸命考えてきていたのですが、どうにも形になりません。それもそのはず。まず、音楽の構築がなされていないからです。つまり、歌い手の中で、テンポであったり、感じ方であったり、いわゆる音楽観がないと、どんなに形をつくっても、あて振りのようになってしまいます。理由が無いからです。
では、どうすればいいのか。そこを助けてくれるのが、音楽表記記号です。音楽をあまり知らない人でも、ピアノやフォルテはわかりますよね。少しピアノとか習っている方は、アッレグロやアンダンテなど、お聞きになったこともあるかもしれません。これらがイタリア語だってことはご存知でしたか?と、言う事は、この表記もただの記号ではありません。ちゃんとしたイタリア語の意味を持っています。
例えば、アンダンテ(andante)。音楽用語では「歩く速さで」とか「適度にゆるやかに」などといわれていますが、イタリア語の辞書を引きますと、「平凡な、並みの、やや劣った、出来の悪い」などの意味が乗っています。レント(lento)は?音楽用語としては「遅く、ゆっくりと」ではイタリア語では?「遅い、ゆっくりした、のろい、かんまんな、ゆるんだ、しまりのない」こんなに色んな意味があります。どういうことを言っているかといいますと、これも、れっきとした作曲家の言葉だという事です。しかも、これらは当然オーケストラの部分にも、歌の部分にも書いてあり、その音や、リブレットにこう言った表記を加えて、そのときのシチュエーションや感情を作っているわけです。皆、これを随分見落としているのです。
こう言った作曲家のサインは、楽譜の中の随所に散らばっています。例えば、プッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」に「私の愛しいお父さん」と言う有名なアリアがあります。恋人との中を裂かれそうな娘が父親を説得する歌ですが、この曲の最後の方で「もし、彼を愛することが無駄だと言うなら、ヴェッキオ橋から身を投げる、この悲しみに苦しめられるくらいなら神様、死を望みます」と言う歌詞があります。楽譜ではその「o Dio!vorrei morir!(神様、死を望みます)」を歌い終わったらオーケストラにメロディが渡されるのですが、そこにリンフォルツァンド(rinforzand)と言う表記がされています。これはリンフォルツァーレと言う単語の現在進行形で、「補足するとか、建物を強固にする、元気にする」と言う意味があります。つまり、その娘(ラウレッタといいますが、)の気持ちをさらにオーケストラが「強固」にしていくのですね。そう言う風に、解釈していきます。プッチーニなどは、本当に、良く、記号を書いていますから、これを見落とすと案外、気持ちだけで作ってしまって、結局テンポが崩れたり、うまく構築できなかったりするのです。
今日、レッスンをした人達も動くことではなく、音楽を創る事から、方向性を決めていきました。実際に楽譜の中にあるサインを見つけて、それを具体化させていきながら、歌っていくと、何もしなくても、場面が成立されていきます。後は、歌っていけばいいんです。
感情的なことを作るのは大切。でも、何よりも作曲家の言葉は、神様の啓示。それを使いこなせることが、どれだけ自分を助けるか。少しずつでもいいから、楽譜の中の情報を読み取っていけるといいのですが。
今日レッスンした人達は、みな、ある程度の声を持っています。それを膨らませて行くのはどれだけ、音楽を作れるようになるかということにかかっています。頑張って欲しいです。皆、良いオペラ歌手になる資質を持っていますから。
そうだ、もし、これを読んでいる歌い手の方がいらっしゃったら、クレッシェンド、ディクレッシェンドを上手に扱えるようにしてください。クレッシェンドはただ声を大きくすることではなく、音楽を拡げることだと思います。ですから、一番大きいところが問題ではなくて、そこに行くまでの息の流れが大切ですよ。ディクレッシェンドも同じ。ただ小さくして行くのではなく、やはり息の流れを小さくして行く。そう思ってください。そうすれば、音楽観が、ぐんと広がりを持ちます。お試しあれ!
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-23 01:28 | オペラ・レッスン | Comments(0)

メンタル・ケア

オペラレッスンをする際に一番重要なのは、実は精神面でのサポートです。いわゆるカウンセリング。特別に、時間をつくってやるわけではありませんが、なるべく話を聞く時間を多く取っています。
人間は何時の時代も悩みを持っています。それは、若くても、私の年になっても同じで、不安がいつも付きまとい、クリアできたと思っても、また新たな不安が出てくる。きっと一生こう言うことを繰り返していくんだと思いますが、芸術と言うものは、基本的に心が「豊か」であることが絶対条件です。綺麗な絵も、美しい音楽も、バレエも、己の精神が豊かでなければ良いものが出来ません。どこか心がすさんでいたら、そう言う音楽や絵になってしまいます。しかし、所詮は人間。そうありたいと願っても、無理と言うもの。それで、できるだけその不安を吐き出せるようにしているのです。
だからと言って、「話せ、話せ」と言っているわけではなく、レッスンの始まりにその日の調子や、演奏会の感想などからはじめて、終わったらまた話していく。たまには食事をしたりすることもありますが、私のところには、色んなタイプの人とレベルの人がくるので、その人の様子を見て、どう対処するかを決めていきます。でも、解決はさせません。つまり、答えは出さないのです。話を聞くだけ。
例えば、若い子達は大抵、今の自分が、どんなに駄目かを語っていきます。反省大大会(笑)。いつもいつも、わからないことだらけで、答えも出なくて、でも、結果が欲しくて苛々します。周りが自分を認めてくれてない感じもしてる。それは、すべて、「自分が出来ないからだ」ってことで話は終わります。これだけ読んでると、ただの愚痴みたいに思えるでしょうが、この大反省は彼らにとっては非常に必要なことです。彼らは「駄目だ」ということで、安心しているのだと私は思っています。多分、本当はもっと駄目じゃない自分をわかっているのではないかしら?だけど、思ったように出来ない。先生の言うようにはならない。だったら、変な自信を持つより、駄目だと言っていた方が楽ですよね。「なんで、出来ないの?」「あたし、駄目なんです」みたいな・・・(笑)。だから、答えを出さずに、ただ聞いているだけで良いんです。そのうち「駄目だ」と言い続けて満足したら、「でも・・・・」って。「でも、考えてもしょうがないんですよね、出来ないから勉強するんですもんね」って、今の自分で大丈夫だったと、気づいていきます。そして「やっぱりオペラを続けたい!歌うのが楽しい!10年頑張ります!」と意気揚揚と帰って行く(笑)。
どんな世界でもそうでしょうが、極めようと思ったら、強くあらねばなりません。それも、ものすごく。そうでなければ、何十年も死ぬまで自分を高めようなんて思い続けられません。しかも、何度もお伝えしているように、すぐに結果が出る世界ではない。生涯、認められないかもしれない。自分の志のために、一生、勉強して行くこの世界で、不安をもたないはずがありません。
この自分と戦って「豊かさ」を保つために、精神的なケアは絶対に必要となってきます。私の友人の中には、そこまでするのは甘いと言う人もいるのですが、私は、甘えるのも豊かさの一つだと思っています。人に対して心を開くことができるなら、そこから感情は広がっていくはずだと思っているからです。それに、本当に「甘える」ことと、「心を開く」ことは全然違います。いわゆる「甘い奴ら」はまず、オペラレッスンなんか受けずに、もっと近道していきますよ。にこにこと甘えながら・・・。
そう言う意味で、私は「甘やかす」のは嫌いですが、「甘えられるの」は好きです。その時、私を信用して、心が全開になるからです。そして、こちらの言うことを素直に受け取っていき、元気になっていくのが嬉しいです。私のレッスンの時間が終われば、彼らはまた一人でこの不安に立ち向かっていく。でも、ここにくれば、少なくとも片意地は張らなくてもいいし、心を開いた状態で、オペラと向き合える。そのことが大切です。
私のところに最初に来た時に、今までの経緯を聴くのですが、良く厳しい歌の先生の話を聞きます。口の中に手を突っ込まれて血が出たとか、喉が切れたとか、怒鳴られるとか、叩かれるとか。でも、音楽を勉強するのに、どうしてそんなことをしなければいけないのでしょうか?私には理解できません。叩いて出来る様になるなら、みんな歌い手になってる(笑)。怖がって歌ってて、いい歌が歌えるとは思えません。
基本的にトレーナーは、依頼者と常に向きあうことが大切です。依頼者の精神状態に沿って、良い状態を作り出してあげて、役を創る作業に集中させてあげる。こちらも、相当人間の器を大きくしてないといけないですね。もちろんそうできるように、私も日々、己を豊かにするために引き出しを一杯溜め込んでいます。何にせよ、楽しいのが一番ですからね!
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-21 18:32 | オペラ・レッスン | Comments(0)

助演と言うお仕事

「稽古場」に参加してくれた押川君と、稽古中に色々話していたときに、助演と言う立場になると、積極性が出ない、と言うことを言っていました。「助演」と言うのは、研究生機関や大学院などで、声部が足らないときに、外部や卒業生にお願いして、足らない声部の役をやってもらう人のことをいいます。大抵は男声です。これはバレエなんかもそうですが、音楽人口の中で声楽における男声の数は、女声に比べると圧倒的に少ないです。3倍くらい違う。それで、だいたい研究生などのクラスを見ると、男がいないか、居ても一人とか、後は実力が無いとか、そんな感じです。それに比べて女性は倍近くもクラスに居るわけですから、少数でまかなえるわけも無く、そこに登場してくるのが「助演」です。演奏を助ける人達。
さて、この「助演」探しは中々難しいです。声部は単純に、足らないところを探せばいいのですが、誰でもいいわけじゃない。まず、きちんと歌えることが大切です。研究生のサポートに回るのですから、研究生以下の実力では話になりません。それなりの声と、経験が要ります。それから、人間的なことも大きな条件の一つ。出番があってもなくても、授業にいるのが必須ですから、出席ができる人でないといけません。相手が何も知らない研究生達ですから、その子たちを受け入れる器も必要。いちいち苛々してたら話になりませんから、我関せずでいて、尚且つ自主稽古等、研究生達の悩みや演技指導も時には必要。なるほど、こんな状態では消極的にならざる終えませんよね。しかも、助演は出来て当たり前、講師陣はほとんど研究生しか見ていませんから、ある程度、音楽や役も自分で作ってこなければ仕事になりません。それについては誰も手を貸さない代わりに、ちょっとでも出来てないと、白い目で見られる・・・・感じがする(笑)。
最近は色んな都合上、研究生を修了して、すぐに下の学年の助演に入るというパターンがほとんどです。ですから、今まで受ける側だったのがいきなり与える側になり、彼らはストレスの塊になります(笑)。気持ちはわかりますねえ・・・。大変だろうと思います。演目も多く持たされるし。
他の講師の方々がどうかはわかりませんが、私は、助演と稽古をすることを信条にしています。何故なら、助演は「安心材料」であるべきだからです。
どう言うことかといいますと、もちろん研究生より実力が上と言う事は絶対条件としても、だからと言って、教えることなんて、この世界ではありません。経験上、知ってることが多くあるだけで、それは個人的な知識だからです。それに、助演自身もこれから世に出る若い歌い手がほとんどです。研究生達と経験やレベルにそんなに差があると言うわけでもありません。でも、彼らがやらなければいけないのは、「稽古が出来る」と言うことを研究生に感じさせることです。
何故、彼は演出家の要求をこなせるのか、指揮者の音楽を理解できるのか、何より、楽譜が良くわかっているのか。助演だから、当たり前と思っているようでは、そのクラスに発展性はありません。講師陣と対等に稽古をして、稽古場を成立させられることが、なぜ、自分達には出来ないのか、何が彼らと違って、足らないのか、それに気づかなければ、研究生たちは育ちません。そう言う意味で、私は助演と一生懸命稽古をします。そして、ある期間内で確実に変わっていく助演たちを研究生に見せたいといつも思っています。
中々これをわかってもらえるのには難儀します。先の押川君のように、助演さん達は研究生の学費を無駄にしちゃいけないと、授業の邪魔にならないようにしようとしてくれるからです。でも、本当に大切なのは、助演が稽古場に自分をさらけ出して、「煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」とまな板の上の鯉になってくれることなのです。
と、言うことで、世の助演さんたち、これをお読みになられましたら、次回の授業から、暴れてください(笑)。もっとも、やりすぎたときの責任は一切負いません。こんなこと言ってるから嫌われちゃうんですよね~・・・・。
でも、そうやって経験値を上げていくのが助演をやっているメリットです。そうは言っても、望んでもこう言う機会を与えられない人がほとんどなんですから、是非、良い稽古をして欲しいと思います。
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-21 00:34 | 歌手 | Comments(0)

稽古場最終日

本日(7月19日)は「稽古場Vol3。Don・Giovanni」の最終稽古日でした。前回の、党主税、押川浩士両氏に加え、エルヴィラに関口晶子さんが参加。彼女は今年日本オペラ振興会の研究生を出たばかりの歌い手さんで、藤原歌劇団の準団員です。実は、今回、エルヴィラは参加予定者が急遽降板し、まあ、男二人でも相当やるところがあるので、稽古をしないつもりだったのですが、ちょうど彼女が他の日の「稽古場」を見学に来ており、やりたそうだったので、「やる?」と振ってみたら、「やる!」と。それで、今日に至ると言う感じになりました。今年の「稽古場」は、こう言うことも違います。よっぽど、私の頭が柔らかくなってるのか、今までは、こう言った棚からぼた餅的なことは絶対にせず、「稽古場に乗る条件は、ある程度のレベルと、すごくいい状態であること」と言うことをものすごく押していました。例えば、この「稽古場」は仕事ではありませんから、参加者は他に仕事をやっています。「稽古場」をやることによって、本来の仕事に支障がきたすことは言うも及ばす、「稽古場」自体でも、集中力の無い稽古は絶対に嫌で、それが出来ないなら、乗らないで欲しいと思っていましたし、事実、そう言うことが原因で起こした「稽古場」をキャンセルしたこともありました。せっかくお金を出すのだから、クオリティを下げたくないって思っていましたから。今年は、いろんなことが真逆です。
私自身も歌い手達もピアニストもとにかく忙しく、たった4日間しか稽古日が取れなかったし、稽古の前後でみんな他の稽古をやって、稽古場に参加してたし、関口さんみたいに、ふっと冗談からコマみたいにして、歌い手に参加を募ったりと・・・、今までの2回では考えられませんでした。私自身も、今回の稽古に関して、すごく力が抜けており、良い意味でいい加減(笑)。今までは参加してくれた人達に対して何かを返さなきゃいけないとか、自分にとっても何かを得なきゃと、一生懸命でしたが、3年目の今年は、また新しい方向性が見えたような気もします。
稽古自体は、前回と変わらず、面白い稽古でした。関口さんも、初めてこう言う稽古に参加すると言うプレッシャーを持ちながら、頑張って何かを生み出す努力をしてくれたし、何より、男声二人が、良い。今日の場面は読み方によっては如何様にもなる、という部分が多く、何かに引っかかると、ちゃんと立ち止まって場面を構築し、また方向性を膨らませていく。16日にやって、お互いの息がわかってきたのか、刺激の受け方が全然違って面白かった。さすがに、こう言う作品になると、時として私の頭も真っ白になるので、そこを逆に彼らによって心地よくつつかれました。そして、何より良かったのは、この3人のレベルが各々違っていたと言うこと。そう言う意味では、関口さんとの稽古は、まだ彼女が党君や押川君に比べれば、経験値が少なく、未完成な部分が多いので、観た感じでは明らかに、レベルの差はあります。党君と、押川君の間にも、経験値の差は歴然とある。それでも、なんだかこの3人は苛々することも無く稽古してるのですね。私自身は、正直苛々してました(笑)。やはり、こう言う稽古をしているとキャッチボールができるが出来ないかが非常に大きいので、こちらの投げたことで空間が動かないと、なすすべがありません。本人は一生懸命でも、受ける器が無ければ、どんなに投げても帰ってくることがありませんから。でも、稽古は続いていく。後で、党君にその話をちょこっとしたら、彼は稽古場代を出した分だけ、自分が得たいものが得れれば良いんだと言ってくれました。つまり、彼はDon・Giovanniと対話できれば良いんですって。多分みんなそうなんでしょうね。だから、どんなレベルの人が相手でも、それで、稽古のクオリティが下がると言うわけではないと。うーん、納得。私は私で、こう言う稽古をどう回せるかを見極める目と耳と判断力を養うべきだと思いました。
こうやって、また新しく「稽古場」も発展していきます。出来ればもっと回数を増やして、場を増やして、色んな歌い手さんと、ピアニストと稽古をしたいと切に思います。今年もまた、色々考えさせられる「稽古場」となりました。見学に来てくれた人達も、何を感じて行ったのか・・・・。少しでも、今の自分と照らし合わせて、どこかが刺激されてればいいなと思います。参加してくださった皆さん、ありがとうございました。
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-20 01:58 | 稽古場 | Comments(0)

演出助手

私はトレーナーや演出家に至るまでに、「演出助手」と言うセクションでずっと仕事をしていました。今も、多くはありませんが、特定の演出家のお仕事だけはやっています。
簡単に言えば、映画における助監督のようなもので、演出家のアシスタント作業なのですが、こう言う仕事もあまりお聞き及びでないでしょうから、ちょこっと紹介。
公演団体から依頼がきて仕事が決まると、まず、やらなければいけないのは、出演者の出欠表を元にした、スケジュールつくりです。これによって、稽古内容が決まり、実際の稽古日も捻出できるのですが、これが手がかかる面倒くさい仕事です。なぜかというと、日本の歌い手さんは必ず他の仕事(歌以外です。学校の先生とか)を持っているか、公演を何個も重ねてお仕事してるので、全日出席なんてことは、ほぼ不可能です。これは女声も男声も、レベルの高い歌い手さんであればあるほど、そうなります。男声は100%そうだと言っても過言ではありません。絶対量が少ないので。それで、とにかくルービックキューブの色合わせのように、出欠席を照らし合わせて、日程を出していきます。
しかし、この状態は、あるい程度しようがありません。なぜかというと、日本ではオペラ公演だけやっていても、食べていけないと言う現状があるからです。今は新国立劇場などもあり、ある程度の場所と報酬を得ることはできるかもしれませんが、年間の公演数と出演者の数を考えると、すべての歌い手にいい条件ではありません。何らかの食べる方法をもっていなければ生活できませんから、そのことについてはこちらも譲歩しています。スタッフも同じですからね。しかし、引き受けているのですから、何とかしてもらわなければいけないし、こちらも稽古を組まなければいけません。それで、「交渉」と言うものが必要になります。「こう言う条件を出すので、譲歩して欲しい」と。例えば、「2回お休みを上げますので、是非、その後の3回をください」とか。
これも、若いときは大変でした。こちらも、駆け引きがわからないし、歌い手さんはみんな自分より年上で経験がありますから、まさに、海千山千。言い過ぎても生意気だと怒られますし、言わなきゃ稽古が出来ないし。良く悩んでましたね~。最近は、すっかり経験値だけは上がって、少々のことは怖くなくなりましたから、歌い手さんに苦手がられていますが(笑)。
さて、そんなことをやりながら、演出家と他のプランナーの打ち合わせが始まります。この打ち合わせの前に、しなければいけないこともあります。
まず香盤表。これは、演出家が出すことも多いですが、大抵は先のアシスタントの方で、楽譜に添ったものを出します。簡単に言えば、「出ハケ表」です。つまり、誰がその時舞台上に居るかと言うことを表にしていきます。オペラの場合は、裏歌と言って、舞台袖で声を出すと言うものや、コーラス、バレエと登場人物と場面も多いので、知らない作品だとやっぱりあたふたします。それを元に打ち合わせが進んじゃったりしますから、特に衣装関係などはそうです。ですから、稽古が進んでいくと、改めて「衣装香盤表」と言うものも作ったりします。打ち合わせ以外でも、資料を探す、衣装を観る、こう言うことをやりつつ、やっと本稽古に入ります。稽古における演助の仕事は多種多様。基本的に、演出家の言ったこと、動き、そういったことを記録していき、休んでいた歌い手さんとか、演出家が居ない時の稽古を代行したりします。それから、稽古の進行を見ながら、先のスケジュールを決めていき、またもや交渉。音楽スタッフとも、稽古をしながら、音楽が弱い人に関しての相談や、コーラスが居る場合は、合唱指揮者が居ますから、動きを見てコーラスの声や、位置に問題があった場合は、これまた交渉。それから、稽古には、舞台監督という人が全体の大道具的なことや、稽古場の仕切りをしてくれるのですが、彼らと、稽古の内容や、舞監助手達とのきっかけの合わせ等。とにかく、やることは一杯あります。しかも、文句は言われ放題(笑)。言ってしまえば、乳母やのようなものです。いつもにこにことして、物言いも穏やかで甘えやすく、けれどきちんと叱ってくれて、しかもお料理、お洗濯、お掃除、すべてが完璧。そんな乳母やにあったことありませんが、とにかく、そう言うセクションなのです。
私は演出助手をやり始めて、早17年目に突入。最初は、鼻っ柱だけで、何にも出来ませんでした。それでも、自分の目で見て判断すると言う能力と、変な度胸だけはあったらしく、わけがわからなくても、走り回っていました。ほとんどが勘で・・・。こう言った仕事は職人と一緒で、見て覚えていきます。ですから、良く失敗もしましたし、何が失敗かわからず、他のスタッフから全然口を利いてもらえなくなったり、歌い手を怒らせたり、色んなことをやりました。そうやって、自分の方法を覚えていきます。おかげで、今では、どんな大きさの公演でも、どういった形態でも、仕事をすることが出来るようになりました。
最近はスタッフを志望する若者も私の周りに出てきました。希望に燃えて、何でもやってみたくて、なんだか話を聞いてると、まぶしい感じもします。今は、まったく仕事として演助を捕らえることしか出来なくなっている私には、夢を持ってこの仕事をやり始めたことは遠い昔ですもんね。
もともと演出助手になる人は演出家希望で、ある程度の経験を積んだら、演出家として先を進んでいました。ですから、いわゆる書生さんのような立場で見られていたと思います。報酬も、修行中ということで、きちんとした額ではありませんでした。私が仕事を始めたときでも、「やらせてあげている」と言う風潮は十分残っていました。それを今のようにある程度の仕事にしてくださったのは、私達の先輩達です。そして、それを私達の代が、「演出家」になりたいから「演出助手」をやるのではなくて、「演出助手」を仕事にすると言って、そのまま続けていくようになり、セクションとして認められるようになりました。今では、どこの団体に行っても演出助手の報酬はある程度約束されています。ありがたいことです。
10年経ってやっと一人前になる世界。そこから、自分のやり方を見つけていかなければ成らない仕事です。どこも職人は同じで、今は後継者不足。私もそろそろ、歳だし(笑)、ホールを走り回れなくなる前に、早く若者が育って欲しいものです。
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-18 21:30 | オペラなお仕事 | Comments(0)
本日は「稽古場Vol3 Don・Giovanni」の3回目の稽古でした。先の稽古場の紹介記事でかきましたが、これは、演目を選んで、スタッフ、歌い手関係無しに、心置きなく稽古をすると言うプロジェクトです。「場」を共有すると言うことで稽古場代だけ皆で割りますが、そのお金を払った分、何かを得ていって欲しいと、立ち上げたものですが、この稽古は本当に面白いです。毎年、何かを感じて、私自身の考え方や、経験値がぐんと上がるのですが、今年はひょっとして今までで一番面白いかもしれません。
もちろん、これまでの2回も相当面白かったのですが、今年は何かもっと余裕があるんですね。一つは、私の状態が今までで一番いいこと。もう一つは、作品が「Don・Giovanni」であること。これは相当大きいです。何せ、私の「心のオペラ」ですから。
作曲は天才モーツァルト先生。台本はダ・ポンテ。モーツアルト3部作の一つといわれています。部類の女好きである騎士ドン・ジョヴァンニが、さる邸に忍び込み、その邸の娘に狼藉を働こうとし、それを助けるために出てきた娘の父親を、思わず刺し殺してしまいます。そんな彼を追いかけてくる元妻や、結婚式をぶち壊して手に入れようとした農民の娘、色んな女を絡ませながら、最後には殺した男に地獄に連れて行かれるという、なんだか奇妙奇天烈。話だけを追いかけると、対して面白くもありませんが、これにモーツアルト先生の音楽がつくと、もう・・・もう・・・・最高です!ほんとうに素晴らしい!出来れば死ぬまでに全幕好きなように演出したい!
まあ、こう言うことは文章では中々お伝えできないので、興味のある方は、是非、CDなりVDなりごらん下さい。今年は国立音楽大学の大学院オペラでも取り上げてます。
今日の稽古は1幕のN03(エルヴィラのアリア)までをドン・ジョヴァンニと従者レポレッロの絡みだけをやりました。ジョヴァンニは党 主税(とう ちから)君。先の記事でも書きましたが、藤原歌劇団準団員のバリトンです。レポレッロは押川 浩士(おしかわ ひろし)君。彼も藤原歌劇団準団員のバリトンで先述した国音の大学院オペラでもレポレッロをやります。
この二人がね~・・・、良いんですよ~(笑)。非常に身体能力の高い人達で、それぞれ声もちゃんと持っているので、まず、音として心地よいのもそうですが、一番良いのは、稽古場に自分を投げ出してくれることです。これが出来そうで、中々出来ない。
「稽古場」での稽古は、まず心の扉を開け放ってくれないと、ついて来れないような稽古のしかたをしています。誰しも個人的なヴィジョン以外、何も作ってこずに、白紙のままで稽古をしてみて、そこで何が生まれるかを試しているのですが、そこには「知識」や「考えること」はむしろ関係なく、ただ「感じる」ことが必要なことです。身体中のアンテナを過敏すぎるくらい過敏にしてそれを受け取っていかないと、「生まれる」稽古は出来ません。しかし、どうしてもみんな言われたことをちゃんとこなすと言うことに捕らわれてしまい、ある一定のところから踏み出してきません。私の方は、私のやりたい欲求がどんどん出てくるのを抑える気はありませんから、結局は、稽古日数の半数はその扉を開けることに費やして、残り1日くらいで風通しがよくなり、やっと「生まれる」稽古が出来る。それでも、今までの2回とも、付き合ってくれた歌い手さんはほんとに才能があり、面白い稽古になったのですが、今回のこの二人は、それを完全に上回る風通しの良さを持っています。これは前半の稽古場に参加してくれた雄谷さんもそうで、稽古の最初は、緊張して頭で一生懸命考えてても、そうじゃないとわかった瞬間に、考えることを止めてくれる。
党君は、もともとオープンマインドな人で、考え方もおおらかだし、人間的に器が広いところがあります。彼はドン・ジョヴァンニをライフワークとしてるので、それを演じてるだけでもテンションが上がるのでしょうが、この人のすごいところは「考えること」も「感じること」も同レベルであるってことです。例えば、こちらの情報に対して、受け取っているのは頭です。私の「この言葉はこう言う意味だから、こう扱いたい」と言うことに関して、納得するのは頭です。でも、それを実際に動いてみると、返って来るものは感性です。変でしょう~(笑)。でもね、頭だけで考える人って、動き方に計算が見える。それも功を奏す時はありますが、大抵、計算以外の枠を出ません。彼の場合は、頭でキャッチしたものを、隅っこに置いたら、後は感性で勝負してくる。だから、やっている間にどんどん膨らみます。動きが特別綺麗とか、器用ではありません。でも、感覚がどんどん鋭くなるので、みるみる変わっていきます。それもベースに頭があるので、非常に理由が見える。「なんか、そう言う気持ちにならなかった」とか言いながら、十分考えてるみたいに見える(笑)。
押川君は、党君ほどオープンマインドではありませんが、非常に欲求が強いと言うことを、今日やってみて、初めて感じました。普段そんなことをあらわにすることは無いのでわからなかったのですが。
実は押川君は、今まで研究生の助演などでご一緒したことはあったのですが、こう言った稽古をするのは初めてです。今回、党君がドン・ジョヴァンニをやるに当たって、以前、他の団体で同じ役をやって、組が違ったために、押川君とやれなかったと言うことで、ラブコールをしたのですがこの組み合わせも正解でした。党君との息の掛け合いが、彼を刺激するのでしょうが、楽しくなってきた時の「もっと、やりたい、もっと動きたい」と言う欲求を、押川君も止めないし、党君も受け止めてる。「出来る。出来ない」と言うことは、その瞬間にゼロですね。そうなると、押川君は非常に体が軽くなる。正直言えば、発想の展開や、感覚などは、まだまだ磨かれて無い部分がほとんどです。でも、体が軽くなると言うのは、歌っている人間には、そうそう出来る事じゃないんです。そう言う意味でも、彼の身体能力は相当高いです。多分、気づいてない能力もあるだろうし、使ってないところもまだまだ一杯あると思います。これから、本当に楽しみな人です。
この二人を相手にしていて、楽しくないわけがありませんが、それに輪をかけて、ピアニストの藤原藍子ちゃんが、またいいんですよ~(笑)。私も含めてテンション上がりっぱなしの3人を、ずっと楽譜を観ながら、れいせ~いに投げかけをしてきます(笑)。そのポイントが、また案外面白いのです。そうするとそこからゼロにして、また新しく作ったり、膨らませたり。音楽が要のオペラには、必要不可欠です。
私は、毎回この「稽古場」から、かなりの経験と知識をもらっています。勉強になるなんて、生易しいものじゃないくらい。そして、おおいに楽しんでます。ここで得たものは、誰しもが色んな現場で試して来れば良い。そして、またこの「稽古場」に戻ってきて、己をさらけ出してみる。本当は、毎日でも、こうやって稽古していたいのですが、それは今のところ無理です。でも、いつかは、そう言う場をもっといっぱい作って、今日の二人のように、個人技をちゃんと持った歌い手が、そこから巣立っていくように、頑張りたいと思っています。
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-17 01:01 | 稽古場 | Comments(1)

身体能力

先の記事でも歌舞伎役者の技の話を書きましたが、人間は誰しも身体能力を持っていると思います。からだを持っている限り、必ず頭から信号が送られて、体が動き、それを使って生きているわけですから、個人的な差はあれ、能力は持っています。
しかし、それは鍛えなければ磨かれないわけで、ただ、持っているだけでは宝の持ち腐れです。では、どうやってそれを鍛えていけば良いのか・・・。
私は「身体能力」と言うのを、わりと広い意味で捕らえています。平たく言えば、「身体のもつ能力」ですから、運動選手なら、「運動能力」、絵を描く人なら「観察力」、本を書く人なら「文章力」敢えて「力」と言う字をあてればこうですが、知性、感性、想像力、実技。なんでも「身体的能力」だと思っています。それだけ可能性のある言葉に感じるんですね。
先月新国立劇場の中劇場で「アルトゥーロ・ウィの興隆」を観ました。ブレヒトの芝居でドイツの劇団がやっていましたが、その主役のウィをやった「マルティン・ヴィトケ」と言う俳優が、恐ろしく身体能力が高くて、感嘆しました。こう言うのを、一言で言うと「うまい!」ってことになるのでしょうが・・・(笑)。体の動きもさることながら、台詞回し、存在感、自分の身体のありとあらゆるところを使って、役を演じていました。いや、もはや、演じると言うのではなく、自然に体が動いている感じ。前に同じ新国の海外招聘作品でロシアの劇団が「ハムレット」をやりましたが、そのハムレット役者も素晴らしい、身体能力を持っていました。名前は忘れてしまったのですが、彼の動きが忘れられません。まるで水の上を歩いているような足裁きで、いつのまにか身体の位置や、体制が変わってる。台詞を聞いているのか、彼の動きに魅せられているのか、わからなくなる。そんな不思議な感覚に襲われたのを覚えています。
オペラ歌手にも、もちろんそう言う身体能力の高い人がいます。門下発表会を聴きにいった柴山君なども、恐ろしく「うまい」歌い手です。彼も、何かを頭で考えて動いていると言うよりは、自然に手や、足が動いている感じ。誰が相手でも、変わりはありません。時々予期せぬ表情や、動きがふと出てくるので、びっくりします。
つまり、すべて「感性」と言ってしまえばそれまでなんですが、その「感性」を育てていくのが、大変。元々あるに越したことはありませんが、先述したような人達は、やはり生まれもったものがあると思います。けれど、こう言う「身体能力」の高い人は、もって生まれた「感性」を、またさらに磨いていく。その努力が普通の人達よりすごいと思います。何故か・・・・。宝の持ち腐れになることが許せないからでしょうか?
裏を返せば、「感性がない」と言っているひとや、言われている人達は、その時点で、自分の中の能力を捨てています。「ない」と思っているから。だけど、あると気づいている人達は、それをそのままにしておくことが出来ないのだと思います。もちろん、歌舞伎役者や狂言役者、能役者、こう言う人達みたいに、世襲制があり、必要に迫られている人達は、否が応でも「感性」を磨かなければ、家が廃れます。「ない」なんて言ってられません。ですから、皆、どんなに下手だと言われている役者でも、ある程度のレベルを持ち続けないと不幸です。大部屋役者で一生終わるなんて、したくてもさせてもらえないでしょう?なんせ「家」と「芸」を継ぐ運命ですから。自分の能力がないとわかってもその「芸」で勝負するしかない。凄みさえ感じます。
俳優に至っては、まったく個人の問題ですから、まさに自分のレベルを挙げていくしか、道はありません。もちろん売れる売れないは運もあるでしょうが、何故、売れるのか?やはり人の目に付く「身体能力」があるからですよね。オーラや、カリスマ性は作って出来るものじゃない。でも、自分を磨くことによって、自分を変えていくことはできますよね。
オペラ歌手は、ある意味「声」を使う商売ですから、まず必ず一つは「技」を持っています。それに関しては、芝居の役者さんたちより努力が必要でしょう。しかし、その声が良いか悪いかの査定でしか、評価が無いので、それ以上「身体能力」や「感性」を磨く努力をしません。これがよくない。そして、ちょっと動けなかったりすると「歌っていると動けない」などと言ったりする。ちょっと芝居の人がオペラに参加すると、「やっぱり役者さんは違う」などと言ったりする。しつこいようですが、身体能力は同じです。羨ましいと思うのなら、動きながら歌えるようになればいい。しかも、先述した「身体能力の高い歌い手はちゃんと両方出来る。そう言うと、また、ああ言う人達は特別だと、もって生まれた感性がある、と、平気で言います。
自分の身体能力を磨くには、まず、「自分には感性がある」とはっきりと認識することです。その上で、今まで使ってなかった場所を探していく。喜怒哀楽がある限り、人間に感性が無いはずが無いんですから。
何でも良いから、毎日刺激を受けてください。食べることでも、観ることでも、体験することでも、何でも良いです。歌の練習をする時も、ただ、音を歌っているのじゃなくて、たまには音をはずして大きな声で、台詞みたいに読んでみたらどうでしょう?アリアでも、動きながら歌ってみたらどうですか?そうしたら、もっと出来ないことに気づくかもしれない。そうなったらしめたものです。その「出来ないこと」を、出来るようにしていけばいいんですから。毎日半で押したような生活をしてないで、自分の身体の使ってないところを、とにかく刺激して行くことです。そうして、身体能力を高める努力を怠らないこと。それが技を磨くことだと思います。
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-15 22:52 | トレーナーのつぶやき | Comments(0)
「うさぎ屋日記」の「情熱大陸」の記事でもちょこっと触れましたが、今日、7月歌舞伎を観にいきました。お題は「十二夜」あのシェークスピアの戯曲を歌舞伎に直したもので、蜷川幸雄が演出しています。今月は尾上菊五郎を要に息子の菊之助、市川左團次等など。
いやあ、面白かった。ほんっとに面白かった!久しぶりに歌舞伎座に行ってテンションも上がりましたが、とにかく、あっぱれ菊五郎。さすが人間国宝です。それぞれに芸達者が集まって、ほんとに愉快でした。
お話は、船で難破した男女の双子が、偶然同じ土地に別々に流れ着いて、妹ヴァイオラの方は男の服に身を包み、その土地の領主オーシーノー公爵の小姓として仕えるようになります。そうしている間に、公爵に恋してしまうのですが、公爵はオリヴィエ姫に求愛中。思いを伝える使者として、使いに出された折、今度はオリヴィエが小姓に身を隠しているヴァイオラに一目ぼれ。ここから話がこんがらがってきて、面白いのですが、偶然から、兄のセバスチャンとオリヴィエが結婚。それを知ったオーシーノーの怒りは大爆発!哀れヴァイオラの運命やいかに・・・。ってな具合で(わかんないですねははは・・・)、結局はオーシーノーとヴァイオラ、オリヴィエとセバスチャンとちゃんとさやに収まって、ハッピーエンドです。オリヴィエの叔父であるサー・トービー、侍女のマライア、オリヴィエの求婚者サー・アンドルー・エーギュチーク。そして執事のマルヴォーリオ。こういた狂言回しが一杯出てきて、話をもっと盛り上げます。
私はシェークスピアが大好きで、オペラ・レッスンでも、コンスタントにくる人達は、オペラのリブレットを読むのと一緒に、必ずシェークスピアの台本を読んでいます。これの理由は、またレッスンの記事でかくことにして、昨年、この「十二夜」を朗読会で読みました。それで、話の内容も、台詞も耳になじんでいて、余計楽しめました。
当然、歌舞伎ですから、出てくる登場人物はみんな日本人で、しかも時代劇です。名前もそれなりに変わってて笑えます。「ヴァイオラ」は「琵琶姫」。オーシーノーは「大篠左大臣おおしのさだいじん」。「オリヴィエ」は「織笛」等々。主役の琵琶姫ことヴァイオラと双子の兄であるセバスチャンこと主膳之助は尾上菊之助の二役です。この人は非常に美しい顔立ちをしてて、まさにうってつけですが、役者としてはそんなにインパクトを感じませんでした。でも、可愛い(笑)。元々の声も、高くてなんか本当に女の子みたいで、後半になると思わず邪な気分になるくらい可愛かったです。私は左團次ファンでもあったので、彼を観に来たのですが、とにかく尾上菊五郎がダントツにうまくて、やんややんやでした。彼は執事であるマルヴォーリオ(丸尾坊太郎)と道化の役を兼ねていたのですが、どちらも素晴らしかったです。台詞回しもさることながら、間合いがほんとにうまい。それに、型。当たり前の事ですが、こんなにきっちりと型がはまると、気持ちいいくらい、身体のキレが違います。二役まったく違った身体の動きで秀逸でした。ほんと、人間国宝って、こんな人のことを言うんだと関心しきり・・・。もちろん左團次も最高に良かったです。のらりくらりの昼行灯がぴったり。こう言ううまい役者はほんとに、何もしかけてきません。あるのは、自分の技と才能のみ。最小限の声と動きで舞台の空間をさっと自分のものにしてしまう。
話の内容や台詞は、いくら歌舞伎ように書き直していても、やっぱりシェークスピア。でも、決めるところは決めやポーズがちゃんとあるし、歌舞伎特有の立てや、パロディーなんかもあり、大笑い。蜷川さんはきっと演出をしたというより、この俳優達を自由に泳がせたといった感じがしました。それぞれがあれだけの才能を持っていると、勝手に役は作られていくでしょうし。
それにしても、舞台美術や衣装、照明はほんとに綺麗でした。歌舞伎の醍醐味である、きらびやかな世界もしっかり堪能。舞台は全面マジックミラーで囲われており、廻り舞台を使って、場面を変えていく手法です。舞台の色目は黒が貴重ですから、衣装が映えること映えること。歌舞伎の衣装で特に美しい赤い色が目にも鮮やかでした。照明の原田さんは一度お仕事ご一緒したことがあり、いつも綺麗な色を作るので、今回もと思っていたら、想像以上。目でも楽しみ、役者でも楽しむ。私は一番安い席で行きましたから、2500円で十分すぎるくらい楽しみました。千秋楽は31日ですから、皆さん、是非行ってください。うまい!ってこう言うことかって、ほんとに認識しますから。歌舞伎座のHPはリンクしときます。
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-14 00:15 | 観劇日誌 | Comments(0)

柴山門下発表会

今日は、発表会に一つ行ってきました。(と、言っても、日付はとっくに変わってますから正確には昨日です。)柴山昌宣門下会です。
彼は、藤原歌劇団団員のバリトンで、私とは大学の同期。日本オペラ振興会オペラ歌手育成部(しかし、何回書いても、この名称には驚きを隠せません)のディクション(原語指導ですね)の先生でもあるので、同僚と言うことにもなります。彼自身も、もちろんバリバリの現役で、新国立劇場や藤原の本公演などでも活躍中。艶のある明るい声と、何より感性が素晴らしく、頭のよさも手伝って、役作りにも定評があります。ロッシーニなんか秀逸です!8月5日に三鷹の風のホールで「蝶々夫人」のシャープレスを歌われるので、興味のある方は、是非聴きにいってください。
さて、今日は彼の教えている生徒達の発表会でした。彼が、研究生のクラスを持っている関係上、共通の教え子達ばかりで、去年も聴かせていただき、勉強させて頂いてます。
それにしても、このクラスの生徒さんたちは、みんな良い息をしています。これは、どういうことかといいますと、歌を歌うにあたって、発声と言うことを訓練しなければいけませんが、声を出すためには、息を吸わなければいけませんよね、そうやって身体をポンプにして、吸った空気を循環させていくわけですが、それが自然に行われないと、やはり良い声が出ません。こう言ったからだにして行くには時間がかかります。それで、みんな何年もレッスンに通って、からだをポンプにして行くわけです。この門下では、どの歌い手さんたちも、その息を循環させることが出来てる。もちろん、その人のレベルでの話ですが、それでも、そういう門下会のステージと言うのは、そうはお目にかかれないので、いつも感心しています。
歌の先生を探すのは大変なことで、だいたいはみんな演奏会や、人の紹介などで、レッスンを受けて、良ければ通いはじめると言うことらしいですが、本人がすごく歌えても、教えるのが下手とか、逆に、演奏家としては問題があっても、教えるのが上手であるとか、これも、中々難しいところがあります。私が思うに、どの生徒さんを聴いても、同じ声に聴こえる、あるいは、同じ歌いまわしになる。こう言う門下はあまり発展性があるようには思えません。特別本人が才能を持っていない限り、教えている先生のクローンを作っているに過ぎないからです。だから、自分にわからないことは教えられない。逆に、わかっていることを生徒が出来ないと、「何故、出来ないのか」怒る。無理ですよね。人間が違うんですから(笑)。例えば、今日の柴山氏や、他にも私が尊敬する先生の門下会は、それぞれの生徒さんのもち声や音楽観みたいなものがちゃんと聴こえてくる。その人が本来持っている声を育てていると言う感じがします。どういうレッスンをしているか、生徒さんに聞いて見ると「君の今の声は、僕は良いと思うんだけど、君はどう思う?」といったような、キャッチボール形式だとか・・・。すごいですね。教えたりするとどうしても、優秀な生徒を育てたいと言う欲求に負けて、「こうやってればいい」式に、教え込んでしまったりしますが、あくまで歌い手本人に歌う意識をもたせてる。大切なことだと思います。
どんな先生が自分にいいのか、どういう勉強を自分はしたいのか、歌い手には「選ぶ」と言う能力も、大いに必要ですね。その判断如何では、まったく歌えなくなることだってあるんですから、そうなったら、今までの倍以上かけて、もどさないといけない。一流の歌い手になるには、本当に大変ですよね。
でも、こうやって同級生が頑張ってる姿はほんとうに勇気付けられます。私達の学年は結構優秀な人材が多く。柴山君同様、第一線で活躍している歌い手さんばかり。いつかは彼らと、舞台を創りたいものです。お疲れ様!
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-13 02:03 | 観劇日誌 | Comments(0)

歌い手たち

「オペラなブログ」といいながら、お約束の作曲家紹介とか、作品紹介とか、全然なく、ただだらだらと思ったことを書くようになってきました。まあ、でも、これが私です。
本日もオペラレッスンがあり、若い歌い手の卵がやってきました。
レッスンの内容はともかく、終わってから少し話をしていたのですが、彼らの不安は決まって「将来が漠然としている」。ごもっとも。
特に、研究生機関を出たばかりの人達には必ずある不安です。それまでは、授業と言う枠があり、毎週2回は歌う機会があって、しかもその時必ず誰かに文句を言われる。あるいは、正しいと思われる方向に引っ張っていってもらえる。つまり、自分で考えることよりも、与えられることの方が多いというわけです。研究生で居る間、もちろん講師側は、修了しても、何に於いても、自分で判断できるように、色んなことを投げているわけですが、結果、それをこなしていくことに2年間は費やされてしまいます。そんな卵たちが修了した途端、親鳥の暖かい足元から投げ出されるわけです。これは、文字通り「投げ出される」。刷り込みする暇も無しです(笑)。どんなに、研究生の間、あるいは大学の間、誉めそやされて「1番」の称号をもらっても、所詮は井の中の蛙。出てみれば、自分より実力のある人や、恵まれている人、運を持っている人たちは一杯居るわけで、意味もなく焦る。焦る。焦る・・・・・・(笑)。そして、案外わらをも掴む思いでレッスンを受けに来たりします。こう言う人は「勉強したい病」。目的は無いけれど、レッスンや、語学学校に行くと言う、まだ研究生に近い環境を保つことで、テンションを落とさないのですね。もちろん、先を見据えて、これからじっくり腰をすえて、勉強するつもりで来る人も居ます。半々ですか・・・。
いずれにしても、こう言う実技を商売にする限り、職人と一緒で腕を(声を)磨いていくしかないわけですが、それには時間がかかります。石の上にも3年。鶴は千年、亀は萬年。とにかく、10年は先を見てないと、歌い手として結果は出ないと思います。これを読んでいる若い歌い手さんたちは、心していただきたい。もちろん、男も女も同じです。
理由はさまざまですが、研究生機関を出ると、だいたい25,6歳。10年経てば30代真ん中。30代になってくると、大体からだが成長しきってきます。(本当は大学時代が一番からだが変化する時だと思うんですが、)なので、発声や声が収まってくる。それから経験値や知識が増えてくる。人間が出来てくるってことですね。色んな引き出しが増えてきて、まさに黄金期。そこからさらに10年くらいが男も女も良いと、私は思っています。事実、私の友人達は、40代になってさらに飛躍。声もますます磨きがかかって良い。女声などは色気もそこはかとなく・・・・・。(そこはかとなくだからね)でも、そこまで来るには、当然、我慢しています。経済的にも、非常に苦しいだろうし、毎回毎回良い仕事に出会えるわけではなく、嫌なこともしなくてはいけないし。留学できればいいけど、タイミングが悪かったり、経済的に余裕が無かったりすれば、それも叶わず。でも、続けることが大切です。ほんとうに歌い手になりたいと思ったら、「心を育てていくこと」これがとても大切だと思っています。どんなにお金が無くても、仕事が無くて、バイトばっかりやってても
10年先を見て、必ず一流の歌い手になると心に決めたら、今始めたことを貫くことです。本番があろうが無かろうが、レッスンに通って、延々と声を作る。舞台や映画や絵をみて感性を磨く。
私の周りには、この作業をずーっと続けている歌い手達が沢山居ます。理由は「うまくなりたい」それだけです。本当に頭が下がります。先日、そういった中の一人である友人が日伊コンクールで優勝しました。もう、ご存知のかたも一杯いらっしゃいますが、彼は藤原歌劇団の準団員で、研究生の助演や合唱団などでも活躍しています。本当に艶のある、良いバリトンですが、研究生が終わってから、ずーっとひたすら声を作ることをやっていました。そばで見てても、感心するくらいこつこつと。私がそれを見始めてから7年目の快挙。もっとも本人の中ではもっと長い年月だったと思いますよ。彼にメールを入れたら、「まだまだこれからです。また頑張ります」って。涙が出そうでした。でも、彼の言ったとおり、一つ階段を上がったら、新しい段をまた上がらなければいけない。この世界は、その繰り返しです。
才能のある若い歌い手は一杯居ます。彼らの歩く道を少しでも作っていくのが、私達先人の勤めだと思っています。みんな、頑張れ~!
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# by kuniko_maekawa | 2005-07-11 20:49 | 歌手 | Comments(0)

オペラ・レッスンのこと、演出のこと、舞台や絵画や色んなことを書きまくっています。


by kuniko_maekawa